青い鳥の世界へ

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無縁社会の根源 (上)

2011年02月13日 | 人生設計
この世に存在するもの、し得るものすべては、「主体性」を持って存在し得るものは無い。
「主体性」を持って存在できるどころか、他に寄りかかって頼らなければならない「従体的」な存在ばかりである。
「主体性」を持たず「従体的」であるが故に、「因果、縁起、因果律」が引き起こされる。

では「無縁社会」の根源は、どういう事が原因になっているのだろうか。

実は、この事を2500年も前に予想しておられたように思えるお方がおらけれる。
そのお方とは、誰あろう「釈尊、お釈迦様」である。

尤も、この事は全く知られていないし、釈尊に関する故事にも述べられていない。
だが仏教経典の中でも原始経典と言われる「経集、阿合経」など、また「法句経などをを参照してみると、そこに述べられている釈尊の生の言葉というべき語集の中から、人類の将来がどのようになっていくかを予測されていたのかが伺い知らされる。

しかし釈尊は、人類の将来がこのようになるのを予測しながら、何らの手をうとうとは為されなかった。
何故か  ?

それは「縁生縁滅」の理を、如何に釈尊であっても、自然の摂理に逆らってどうのこうのとしてはならない事を知っておられたからである。
源に釈尊は在命時に、生国であり母国である「シャカ族」の国が、隣国に攻め滅ぼされるのを見捨てられている。
尤も鯉国が攻めようとして進軍して来た一度目と二度目は、その進路において座禅を組んでおられて遮ろうとなされていられ、この様子を見られた隣国の王は尊敬する釈尊に尊敬の礼を持ってして軍を返している。しかし三度目の侵攻に対しては、釈尊は何もなされず、「これも世の習い」として受け止められ見捨てられている。

それと同様に、釈尊は人類の行く末に気付きながら、古い経典に遠回しな言葉を残すのみで見捨てられている。
その事に気が付かず、「宇宙開発の、ノーベル賞の、五輪メダルの、代理受精で出産だの」などと言っている場合の、いい気になっていて「無縁社会」に目を向けないでいてよいものではないのである。
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1 コメント

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こんばんは (ぼちぼちむら2)
2011-02-13 21:14:06
 貴重なことを教えていただきありがとうございました。
 これからもよろしくお願いします。
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