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いのちの食べかた

2008-08-27 07:01:26 | Peace Cafe
原題「Our Daily Bread」私たちの日々の糧ということらしい。ニコラス・ゲイハルター監督作品。(1972年オーストリア・ウィーン生まれ。)とても冷たい感触の映画だった。養鶏業で生きてきた人間として、見ておかないとならないと思い、二宮まで見に行った。体調が悪かったと言う事もあったのだが、吐き気がしばらく止まらなかった。ショッキングなシーンの連続と言う事もあるが、見たこともある場面も多いし。鶏については何せやっていることだ。私が気持ち悪かったのは、こうした屠場の場面の扱い方だ。いかにも表現者の客観性を装う、意図の放棄だ。自己満足だけの絵を見せられ続けていることが、耐え難かったのだ。これが、オーストリア人の冷血なのか。こういう映画を見ると、人種と言うものの壁があるような気に成る。

いくつもの賞を受賞している。アチコチで評価もされているようだ。日本でも相当の評価がされ、上映が続いている。何でこんな俗悪な映画が評価されるのだろうか。君子厨房に入らず、と言うのではない。いのちを食べるという、切実さを直視する。この点は大切。しかし、「いのちを問う」と言う事はその先の問題に対して、考えを持つから出なくてはならない。それが表現と言うものの責任だと思っている。興味本位に、センセーショナルな場面をドキュメントしたから、それで表現者の責任が完了した、とはとても言えない。例えば、世界中の人間の死刑の場面を撮影できたとして、それをただただ、垂れ流して、済むだろうか。それは、アチコチで評判を取り、評価を受けるのだろうか。ドキュメンタリーだから、それで制作者の責任はないのだろうか。

それでもその映画が、死刑廃止論者の主張のための、手法と言うのであれば、納まる所がある。ドキュメンタリーの客観性という名のもとに、表現者の責任が回避されている。ここが気持ち悪いのだ。フェルメールの絵画のように美しい映像。こういう評論があった。フェルメールの絵をまったく理解していない。親密な人間的な視線が、フェルメールの時代を越えた魅力だ。むしろ、フランシス・ベイコンの絵を思い出した。不気味さとしては思い出したが、その哲学は丸で違う。いかがわしい映画ヤコペッティの「世界残酷物語」ニューギニアの豚に人間の乳を与える人。台北の犬肉レストラン。フランスの鵝鳥の肝臓を大きくする特別食。日本の松坂のビールを飲む牛。こんなものが延々と興味本位に続く。それでもせめてもB級映画らしい視線がある。

原題「私たちの日々の糧」に続く言葉として、監督は「主よ、私たちの罪をお許し下さい。」と語っている。そんなニュアンスは画面には全くない。監督は唯一の意図の表現とした、映画の題名に唯一見える仕掛けたものは、実に遠まわしではあるが、やはり、人間に対する告発なのだろう。いきものを食べ続けていいのですか。これを実に分かりにくく、責任を逃れながら、主張しようと言うのが意図だろう。お前だって食べているだろう。とか言われることに、対して、前もって逃げ腰であり。ドキュメンタリーの客観と言う隠れ蓑に逃れようと言う、姿勢だ。実に実状に対して、悪い映画だ。これを見て、現実の一端を知るなどと言う事はない。これは外部者が、想像している通りの、畜産の現場だ。あくまで外部者のあってほしい、畜産の現場だ断面だ。誤解を広める悪い映画であった。
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3 コメント

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同感です (ムーチョ)
2008-09-09 08:24:33
今頃になって読ませていただきましたが、
似たようなようなことを私も感じていたので、
遅ればせながらコメントさせていただきます。

私も、あの、観客の前に素材だけ放り出して「ほれ、
見てみろ。これが現実だ」みたいな映像に傲慢さを感じてしまい、素直に見ることができず、退屈さも手伝って眠ってしまいました。

せめて、解説の字幕くらい入れてくれればまだ見れたでしょうが、素人には解釈に困る場面も多数ありました。「思いは一人ひとりの観客に委ねる」という意味なのかもしれませんが、情報を十分に与えられてもいないのに委ねられてもねえ、という感じです。

意図的に演出を拝す、というのもやはり演出の一つにすぎないし、監督が大真面目に神の視点に立っているつもりになっている気がしてなりません。

マイケル・ムーアのほうがよっぽど面白いし、自分の表現に責任を負っているという意味でかっこいいと思います。
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Unknown (ムーチョ)
2008-09-09 08:29:11
さっきのコメント、漢字間違えちゃいました。
「演出を拝す」は「演出を排す」です。
返信する
人が食べていた場面 (笹村 出)
2008-09-10 10:36:01
あの食肉加工場の殺風景な部屋で、
黙々と食べる人を写した場面は
意味無く否でした。
今も思い出します。
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