徒然なか話

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熊本城の「正面」は 南?西?

2020-07-22 14:29:11 | 歴史
 昨日の熊日新聞朝刊に興味深い記事が載った。「熊本城の「正面」は 南?西? 特定至らず」というタイトルで、昔から諸説がある、熊本城はどちらが「正面」なのだろうか、という内容。歴史文化では定評のある飛松佐和子記者の記事。
 城彩苑のわくわく座で今月末まで公開されている熊本城本丸の模型を手掛けた模型作家の島充さんは、模型再現する時の構造分析などから「南向き」説を唱える。
 一方、江戸前期に描かれた城内絵図に示された動線は西側の西大手門、頬当御門への線が最も太く描かれており、「西向き」説を補強する。
 また、熊本大学の伊東龍一教授(日本建築史)によると、柱にはその位置を示す番号が振られており、図面には「一番」を正面右隅に書くという専門家の説がある。しかし、西南戦争で天守は焼失し、確認する術がないという。「城下町からの視点などを含め、総合的に検討する必要がある」という伊東教授の言葉でしめくくっている。

 僕がこれまで最も信頼を寄せてきた郷土史家の鈴木喬先生(2010年没)が熊本城について書かれた文書には次のように書かれている。

 茶臼山は東高西低の地形で、東・南・北の三方は断崖をなしている。そこで西南側の崖下には湧水をたたえた深堀をめぐらして、新町との間を区切り、北の京町台地との間の地峡を掘り切って一条の馬背道だけを残し北側の守りを固めた。台地の最西端の古京町、漆畑、段山は防衛の第一線で、次は一段高い宮内の藤崎台、第三線は二の丸、第四線で初めて本丸の一角西出丸に達し、最後に東端の最高地に達する。熊本城が西向きの城と呼ばれるのはこのためである。城の防衛上の配慮は、築城から270年後の西南戦争で実証され、名城の名をさらに高めた。(熊本県大百科事典より)

 つまり、熊本城築城にあたり加藤清正公は城の防衛面を最優先に考えられたであろうから、「西向き」と考えるのが自然であろうということなのだろう。

 ここから先は僕の無責任な意見なのだが、天下に熊本城の威容を見せつけるという意味で、清正公は全方位の見栄えに気を配られたのではないか。北の豊前街道からやって来る人、東の豊後街道・日向往還からやって来る人、南の薩摩街道からやって来る人、そして城下町の人々、誰もが熊本城天守を仰ぎ見てその偉容に圧倒されたことだろう。そういう意味では東西南北全面が正面だともいえそうだ。
 ちなみに文久4年(1864)2月、坂本龍馬らを引き連れて熊本城下を訪れた勝海舟は「海舟日記」の中で次のように記している。
「熊城を路二里程より望む、天守孤立、画築制他城の比にあらす、外周最大なり、武士屋敷其中にあり、郭畳高く、堅牢おもふへし」


西側の二の丸から第一・二・三の天守を望む


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2 コメント

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お城の正面 (志場)
2020-07-22 16:01:14
柴田さんの説が正解だと思います。
熊本城に限らず天守閣は威厳を示すためどこから見ても正面になるよう破風を四方に付ける設計にされている、と聞いたことがあります。
Re:志場様 (FUSA)
2020-07-22 17:20:59
熊本城大天守は南北に唐破風が付けられています。西南戦争で焼け落ちる前の古写真もそうなっているようです。はたして最初からそうだったのか、何らかの理由でいつからか変わったのかわかりません。

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