徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

父が生きた時代

2024-05-08 20:35:26 | ファミリー
 来る5月19日はわが父の祥月命日である。今年は没後24年になり、コロナで23回忌を見送ったかわりに、今年25回忌を行なうことを菩提寺のご住職と相談して決めた。
 これまで父の祥月命日には父が書き残した備忘録の中から選んで記事を投稿してきたが、今回は戦前の3題をあらためて再掲することにした。

【1】昭和11年3月、天草上村で・・・(2011.5.19)
 今日は父の11回目の祥月命日。先日、母を連れて、かつて父が赴任していた上天草市の上小学校を訪問したが、その後、父の古いアルバムの中に、その当時の写真があるのを発見した。当時の上村尋常高等小学校の教職員の集合写真だった。昭和11年3月撮影と記されていた。ということは父が24歳、教員になってから既に5年ほど経った頃のようだが、真ん中で腕組みをしているところを見ると、結構生意気な若手教師だったのかもしれない。すぐそこに戦争の影が忍び寄っている頃だが、皆さん、その後どんな人生を送られたのだろうか。父の手記の中に、この写真について下記のようなメモが書かれていた。

――これは本校の裏庭です。当校には他に野釜(離島)、賤之女分校がありました。この写真にはそれらの職員(3名)も加わっています。本県では昭和8年教職員の標準服が制定されました。そしてそれは当時、学習院型とか海軍将校型とか言われたものです。これを一着持っていれば、常時はもちろん当時の三大節(四方拝・紀元節・天長節)の儀式もこれで済まされたので経済的ではありました。この写真に見るように、この頃までは男職員が多かったのですが、昭和14年頃から兵役に召集される者が多くなったために次第に男女の比率が逆転していきました。――



【2】父と天草(2021.5.19)
 今日は21回目の父の祥月命日。父は生前、自分史のようなものを書き残している。これまで何度もこのブログのネタにさせてもらったのだが、いろんなエピソードの中でも最も印象深い一つがこの話。
 戦前の昭和11年、天草・大矢野島の上村小学校に勤務していた頃、貧しい家の少女たちが、「からゆきさん」として中国や東南アジアなどに売られて行った悲しい思い出である。そんなこともあってか父は天草をことのほか愛した。まだ元気だった頃はよく家族で天草旅行に行ったものだ。
 命日に当たって今一度読み直してみた。



2012.4.7 熊本城本丸御殿中庭~桜の宴~ 少女舞踊団ザ・わらべ「愛の南十字星」
「からゆきさん」として異国に売られて行った天草の少女たちの悲しい運命を描いたラジオドラマ
「ぬれわらじ」(木村祐章 作)をモチーフとして、長唄三味線の今藤珠美さんが作曲した舞踊曲。

【3】親父の生きた時代(2009.5.19)
 今日は親父の祥月命日(しょうつきめいにち)。もう9年が過ぎた。午前中に母と家内と一緒に墓参りを済ませ、午後からは、亡くなってからは一度も見たことがなかった親父のアルバムを引っ張り出してみた。なにしろ生まれたのが明治44年(1911)なので、古写真のデータベースで見たような写真ばかりだ。親父はずっと教員をやっていたが、下の写真は島崎尋常高等小学校の訓導をやっていた昭和13年頃と思われる。野外教練でもやったのだろうか、橋の欄干に座って得意げなのが親父だが、まだ20代の後半なので生徒たちにちょっと危ないことでもやって見せていたのだろう。場所はさだかではないが、下を流れているのが井芹川と思われるので、今の横手町から城西小学校に向かう道にかかった橋の上だと思われる。日中戦争が既に始まっている頃なので、軍靴の音高い社会情勢の中で親父や生徒たちは何を考えながら、この写真に写ったのだろう。