ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIKその9

2016-01-27 08:29:08 | 日記
甲斐さんがライブ中に突然、予定外の曲をやろうと言い出され
甲斐バンドのメンバーの皆さんを慌てさせることがあったらしいとご紹介しましたけど

この機関紙によると…1977~78年頃は
セトリ自体が一定してなかったようで(笑)
それはもちろん、ツアーでライブを重ねられる内に
演奏上の手順や観客の反応によって
調整なさっていた部分もあったと思われますが

オープニングの2曲が、月ごとに変わっていたり
アンコールも含めたトータルの演奏曲数が17~24曲とマチマチだったりと
気分なのか(笑)ノリなのか(笑)
それとも、年間100本超えのツアーを乗り切るための試行錯誤の跡なのか?
なかなか興味深いです

亀和田さんもオープニング曲に注目なさっているんだけど
77年5~6月は、1曲目が魔女の季節、2曲目に黒い夏
8月は、黒い夏とNo.1のバラード
9月になると、黒い夏と8日目の朝

10月に入ってすぐは、きんぽうげと8日目の朝
でもその後、きんぽうげとらせん階段に変わり
12月のサンプラもこのワンツーですが

11月に、きんぽうげと恋時雨になってたり
同じ12月でも、らせん階段が1曲目で
きんぽうげは2曲目というパターンもあります
音響や照明チームの皆さんも大変だったでしょうね?(笑)

78年になると、3~4月は、らせん階段ときんぽうげ
8~9月は、グッドナイト・ベイビー&えんじ
12月は、きんぽうげ、えんじ…と組み合わせ自由(笑)

奧さんは、グッドナイト…から
この夜にさよならってバージョンを観たことがあるらしく
ライブ開始早々、気持ちの上げ下げに戸惑ったんだとか…(笑)

ちなみに、グッドナイト…で幕を開けたライブは
アンコールでもう一度グッドナイト…を演奏されてたようです

77年以前の演奏曲数に関しては
イベントや学園祭などのジョイントが多かったためか
5~6曲から、共演者の方と一緒に演奏された曲も含めて15曲くらい
(74年の出発コンサートは17曲
浜田省吾さんとの神田共立は19曲になってます)

76年の大阪サンケイホールから、甲斐バンドを担当されていた
スターライトの長田登美男さんは
「これが今も伝説になっているコンサート」と…(笑)

「前の8列分くらいをオケピットにしたら、そこの床が落ちたんです
アンコールの時だったと思うんですけどね
まだ客席は半分も埋まってなかったのと違いますか。激しかったですね」

「その後にチャンと紹介されて話した時に
甲斐は私に謝るんですね、オケピット落としたこと…あんまりいませんわ
会場の作りが悪いと文句を言ったり
知らんぷりする人は多いでしょうけど、印象的でしたね」

…と話されてるんですが、新聞沙汰にもなり、その後は出入り禁止…(汗)
押尾コータローさんのクリスマス・ライブに
ゲストとして(笑)出演なさった際にも
「イイのかな?(笑)」とおっしゃってたそうだ

神戸文化ホールも「後部の客席が壊れた」とかで「使用拒否(笑)」になり
ずっと使えなかったみたいだけど
奧さんは、この機関紙を読むまで全く知らなかったらしく
「そういえば、やらなくなったな」という程度にしか気にしておらず(苦笑)

当時はスターライトの他、夢番地やキョードーといった複数のイベンターが
ツアーごとに?甲斐バンドを担当していたので
そちらの都合なんだろうと思ったんだとか…(笑)

でも、甲斐さんがこのホールの正面玄関から楽屋入りなさった時に
エスカレーターに乗られた甲斐さんを
隣の階段を上りながら撮った写真は
今も持ち歩いてます(笑)

それはさておき…78年12月5日の名古屋で「HERO」が初演奏され
「翌年2月~3月4日の宮城までは
ハッピーフォークの公録のゲストとして回っていた
地方大会予選というヤツ、30分のステージ
春からのツアーへの腕ならしだった」と記されていて、以下…

「3月15日の東芝EMIは、ザ・ベストテンの生放送
例の水割り事件の日である
この前、2月24日に福岡でレコーディング中に1位の連絡があった
その日の福岡電気ホールが1位初のステージ」

「79年の春ツアーはHEROの嵐の中でのツアー
甲斐よしひろは、セックス・ピストルズのTシャツを着て
ステージに立つことが多かった」

「3月29~31日新宿厚年で、初の3日間コンサート」
「4月7日山梨県民会館で、甲斐よしひろが客席に飛び込んで行った」

「6月30日銚子市民会館は、体調が悪く、ツアーがきついと訴えていた
長岡和弘の最後のステージとなった」

「9月2日NHKホール、テレビ収録のステージ
本来なら、長岡和弘がいるはずですが…とコメント
正式メンバー3人での初めてのステージだった」

「10月15日函館市民会館、朝、出がけに喉が裂けて血を吐いた
疲労から来るものと診断され、そのまま病院へ直行
ステージはいつもより激しかった」

「12月21~22日、初の武道館
100万$ナイトでミラーボールを使用
武道館が翌年のステージの予告となるパターンが生まれた」等々
皆さまよくご存知のエピソードが並んでます

ただ、前出の長田さんもおっしゃってるんだけど
10月24日の姫路文化センターで
「コンサート終了後、甲斐よしひろを見かけた…と錯覚した少女が
会館の大ガラスに頭から突入(汗)
ガラスが粉々に砕けた」というのは

奧さんによると、足でガラスを蹴飛ばして割った後に
中に入ろうとしたんじゃないかと…(笑)

この機関紙を読んだ当時は、甲斐バンドの歴史とも言える
そうそうたるエピソードと一緒に
こんなイチ地方の話が載るんだと驚いたらしい(笑)















コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 機関紙BEATNIKその8 | トップ | 機関紙BEATNIKその10 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
目撃 (テツ)
2016-01-27 21:38:05
大学の時の話です。夏季セミナーが終わり「万歳!」我れ先にと玄関から飛び出した中に一人、ドアじゃない大ガラスから飛び出した者がいました。無傷でした。ガラスを破ったという女性も相当な勢いで体当たりしたのでしょうね。無事で良かった。しかし漫画の世界ですね。
返信する
テツさんへ (ボク)
2016-01-27 22:39:21
コメントありがとうございます♪
奧さんによると、小柄で華奢な感じの女の子だったそうです(笑)
きっと甲斐さんしか目に入らないくらい大好きだったんでしょうね?

ガラスを破って無傷という方も
セミナーから解放された喜びが溢れ過ぎたのかな?(笑)ご無事で何よりでした
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。