読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「富士山」

2006年11月25日 | 作家タ行
田口ランディ『富士山』(文芸春秋、2004年)

やはり田口ランディ、ただものではない。この富士山を中心にした連作集を読んで、その感を強くした。

一作一作はたしかにフリーターでしか生きていけないような若者やら、有名進学校で勉強勉強で追いまくられて精神にゆがみをもっているような中学生やら、人間のような妖怪のようなジャミラと名づけられたゴミ屋敷のばあさんと環境課でその担当となった変な若者やらばかりで、これはいったいなんじゃーと思うかもしれないが、それらの連作には人間はなんのために生きているのだ、人間でいることは辛いことではないかという、じつに哲学的な問題にたいする、これまたじつに現代的なアプローチが通底しているのだ。やっぱり、田口ランディ、ただものではない。

第一作の「青い峰」は、あのおうむ真理教の残党をおもわせる岡野という29才の若者と彼につきまとう19歳の森下こずえが主人公。

K大の医学部に入り解剖実習がすんだ頃に、岡野は生きることの意味とはいったいなんだろうと考え始め、新興宗教の世田谷支部に出入りするようになり哲学を勉強している飯田智彦と知り合う。彼とはなんとなくうまがあい、ともに富士山の研鑚所に入ることになるが、そこで次第にこの宗教のあり方に疑問をもつようになり、岡野はそこを脱走する。飯田はいつのまにか修行中に死んでしまうが、リンチされたという噂も聞く。

そしていま岡野はコンビニでバイトをしている。おなじところでバイトしている森下は手首を切って何度も自殺しようとして果たせなかったらしい短大生。

岡野のものの感じ方がおもしろい。コンビニの無機質なイメージが岡野には気に入っている。人間のようなどろどろしたわけのわからないものが彼は苦手なのだ。だから伝えるための言葉なら理解できるが、それ以外の目的の言葉(愛や欲望など感情を吐露する言葉のことだろう)は理解できない、理解を拒否するのだ。YESかNOか、○か×か、そういう答えのはっきり出る問題でないと対応できないのだろう。そういう教育を受けてきたからだ。

第二作の「樹海」は有名進学校の中学を卒業して、まだ高校生になっていない三人のグループの話。彼らはともに幼稚園からお受験をして有名進学校の小学校に入り、小学校と中学校をすごしてきた。これからの進路はそれぞれ違うから、ばらばらになる前に、最後の思い出として樹海に冒険に出かけることになる。語り手のジュンは両親とも共働きで、姉がいるが赤ちゃんの頃から潔癖に育てられいまでは拒食症になっているが学校ではいい子を演じつづけている。サトシはタキザワ脳外科医院の院長の息子で、ゲーム以外はなんでも買い与えられている子。ユウジの母親は子どもは調教の対象としか思っていないような人で、その母親のしたで生きる意味を失っている。同級生の女の子が自殺するのを頼まれて立ち会った経験から、自分が彼女を殺したと思い込んでいる。

樹海に入ってキャンプ中に、薬を大量に飲み首吊りしようとして失敗した男性をみつけ、もともと死にたかったのだからほっとくべきか樹海の外まで運んで救急車を呼ぶべきかで意見がわかれるが、結局運ぶことになる。だがその男性が目を覚まし精神錯乱して逆に彼らに暴れまわり、最後には死んでしまう、というような話自体もけっこう面白い。

だが問題は彼らが抱える悩みだ。人間は何のために生きているのか。どうせ死ぬのなら生きている意味がないじゃないか。あちこちで取りざたされる問題だ。「人間は何のために生きているのか。」私は思うのだが、人生はなんのためにあるのかなんて問いに答なんかあるはずがない。人生に意味はない。でも人間は生まれて人生を生きることでなにかの役に立っている。それがなにか分かればそれにこしたことはないが、わからないから生きる価値がないということはない。

私が思うのは、人間の脳は五歳か六歳で細胞分裂が止まるからその時点でその人の将来は決まってしまうかのように考えて早期教育をした結果、天才どころか社会生活もまともにできない人間を作ってしまうのと同じように、勉強というものをただの記憶力の鍛錬とパターン反応のように思っていることからくる歪んだ受験勉強式勉強のあり方が生きることに楽しさを見出せないで、人生とはなにかとか考え込み、人間をただの物を食って排泄しているにすぎない物質のように見てしまう頭でっかちの子どもにしてしまうということだ。キリスト教が人間はなんのために生きるのかに納得できるように答えているだろうか。イスラム教は、仏教はどうだ?

だれにも同じように与えられた意味なんか人生にはない。それはある意味では作っていくようなものだ。受験勉強だけに明け暮れてきた子どもはそれを作れないから人生はなんのためにあるのかと思ってしまう。

いまの社会はそのような子どもをどんどん大量生産している。しかし多少はそういう生きたとはまったく別の人生を楽しんでいく子どもたちも生まれるだろう。少数派だろうが。問題はそのどちらにもいけない場合の子どもたちだ。


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