塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

僕が想像するモウリーニョとユナイテッドの論点

2017-08-09 17:23:18 | 日記
 どれくらい前でしょうか、「長男の嫁」というテレビドラマがあったはずです。

 僕は残念ながら長男で、もし結婚すれば相手女性は長男の嫁になってしまいます。

 いつも思いますが、長男はそんな大事なものなんでしょうか。

 長男はあらゆる事柄に万能でなくてはならず、勤務先、家のこと、地域社会のことをひとりで全て背負い、そのたびに

 「ああでもない、こうでもない」

 と指摘されなくてはいけないのでしょうか。

 これでは長男に「妻」などくるわけないのではありませんか?

 僕が未婚なの奈長男ではなく、単純に僕の魅力や人間性が乏しいだけですけどね。

 今日は両親とお盆前で墓参りに出かけ、墓石の掃除や雑草取りを行いましたが、思ったことはユナイテッドとモウリーニョでした。

 モウリーニョにとって赤い悪魔を指揮することは、いつか叶えたい事柄だったのでしょう。

 しかし、ユナイテッドを率いるよりもシティを率いる方が気分は落ち着いたものだったと感じます。

 シティはマンチーニ、ペジェグリーニ時代にFAカップ、リーグ優勝を果たしていますが、クラブ自体にはまだ「これ」という

 明確な戦術的アイディンティティ
 過去2部や3部で暮らしたコンプレックスが、完全に拭われたわけではない

 という点があります。

 モウリーニョがチェルシーであれだけ華やかな活躍ができたのは、チェルシーが上記2点でアーセナルとユナイテッドの劣っていたためで、グリットとヴィアリ、そしてラニエリ政権では乏しかった

 「クラブの方向性」
 「どう勝利し、勝者としての歩みを始めるか」

 とモウリーニョが植え付けられるだけの「隙」がありました。

 インテルも欧州王者からかけ離れ、レアルもグラルディオラのバルセロナに対して分が悪く、モウリーニョが埋める余地がありました。

 しかし、ユナイテッドには明確な論点、せめて勝利する、育成を大事にするという点が存在します。

 言い換えれば、それらはファーガソンが築いてきた道しるべであり、モイーズとファン・ハールはその点からかけ離れていると指摘されました。
 
 「ファーガソンならばそんなことはしない」
 「育成の観点が忘れられている」
 「補強額が桁外れすぎる」

 という批判はモウリーニョも感じ取っているでしょうし、そこには長男に全ての重責を負わせる、日本の家族環境に似たものを感じます。
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