柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

卑怯

2011-03-27 09:25:25 | Weblog
今日は震災以外の話を。3月23日の中国新聞にあの京都大学のカンニング事件について金沢大学の教授が寄稿してます。この学者(というか大学側の意見です)は、試験中の監督体制の問題を指摘する人々を批判し、大学の社会的責任なるものへの非難に文科省が応えるようだと「大学など教育機関の「監視社会化」を促進することになりかねない」と括ります。見出しにはカンニングとは出ません、入試投稿です。もうすでにここで問題のすり替えが行なわれてます。入試投稿?悪いことじゃないみたいです。つまり言い訳です。大学には責任はないと言ってます。ううむ。誰が悪いかと言えばやった本人です。間違いありません。でも、カチャカチャ(と音がしたのかどうかは知りませんが)携帯電話のキーを打つ、不自然な動作を監督官は見えなかったのかい?というのも至極真っ当な疑問であり批判でしょう。寄稿文には、ネット時代に対応した試験監督体制がとれなかった大学の責任を追及する声、と表現されます。そんなこと言われても実際の場面ではできないんだ、とこの教授は言います。どんな高尚な大局的な論なのかと読めば(そうであれば往々にしてカラカラの空論、大総論に終わるもので、これもつまらぬことなのです、きっとそうならそうで「ったく、学者ってのは・・」と皮肉ってたでしょうが)、えらく具体的です。こうです。TVでは携帯電話を持ち込ませないようにすればいいと批判するが、的外れだと。何故かと言えば、まだ学生ではない受験生にそこまで指示してもよいものか法的・倫理的に疑問があるし、仮に持ち込むなと指示しても、黙って持ち込まれたらどうしようもない、と。ん?完全に防ぐには身体検査か金属探知機かしかないが、それはさらに問題である上、時間と金がとてつもなくかかる、と。ふむふむ。カンニングする方のあれこれの工夫、今回は「股の下に隠して送信(ママ)」していたが、怪しいと思っても、体が接触しそうな距離まで接近してのぞき込まねば現認できない。それもプライバシー侵害の疑いがあるし、受験生が異性の場合、あらぬ疑いを招く恐れさえある、と。あらら。それでも防ごうとすると、服装や試験時の姿勢や態度に対して微に入り細を穿つような警告指示が必要になろう。妨害電波を出して通信を遮断せよという意見に対しては、リベラル派の人達から、人間性を無視しているという慎重論があったはずだ、と。ああ、そうなの。これはこれでびっくりする言い訳です。とっても子供じみて幼稚に聞こえます。厳しくやったらこうこう文句言われるじゃないか、そんなことはできない!と拗ねてる論です。それを権利で隠し言い替えているだけです。この寄稿教授はあるいは人権派の法学者なのかなと思うくらい、見事な人権阿り論です。入学試験という大学行事をどう捉えるのかという一歩目の問題です。ここから違うからこの人の論には腹が立ってきます。こんなのが教授?あるいは入試担当委員長とか?・・というがっかりさです。すぐに警察に調査を依頼した京大の処理に対して、あの京大が学内問題を権力に委ねるのか?という表現で、大学自治権はどこに行った?という批判がなされました。こちらにはこの教授は全く触れません。そういう意識すらないのでしょうね。その大学に入りたくて試験を受ける連中に、まだ当大学生ではないからあれこれ強制はできないという論です。何~に言ってる?京大に入りたいなら京大の指示決まり慣習に従いなさい、が当然のことですわ。携帯持ち込むな、が法的倫理的に問題ありますか?こうやってわざと言葉を大きくして大袈裟に叫んで火を大きくする、そしてそんなことできないじゃないかとその火を消そうとするマッチポンプ。この手の人たちの常套です。倫理的に許されないんですカンニングは。倫理的に許されるんです、入試での不正を謗ることは。で、金属探知機まで話を進めます、こんな非現実的な極端を持ち出しても何の説得力もありませんが、悪いことは全て人の所為にしたい連中の思考はこう繋がっていきます。この傾向は人権至上主義に基づいてますから、監督官の行為がプライバシー侵害につながるなんて考え方もこの手の人々の常です。もっとも、今時の大学人達は何をするかわかりませんから、監督行為と称しての痴漢行為や脅迫事件に進展することはありましょう、そっちの危険は十分に高いのです。そしてこの手の人々のおかげで、権利意識が異常に昂じている連中も多いでしょうから、ちょっとしたことで大声出されることも確かにあり得ることです。ですから怪しい動作している女子受験生に対してあれこれ手を出せないというのもわからぬ論ではありません。が、それにしてもです。その場でいちいちチェックできないのなら、その前にもっとやることがあるでしょうという話なんです。試験の始まる前に諄々と説く、カンニング行為を愧じよ、卑怯な真似はするなと。現認という言葉遣いがこの人の考え方を如実に物語りましょう。現行犯という意味でしょう、やはりこの教授は法学関係ですかね。確かにTVでは試験会場で携帯が使えなくすればいい、そういう装置はあるという話になってました。でも、そんなことこそ非現実的なのであって、本質のすり替え論なのです。でもこの教授はそうは言わずに、こいう環境操作は人間性の無視だというリベラル派の意見を引用して非難します。違いましょう?人間性の無視なんかじゃないんです、どこまで幼稚なんだ?という問題です。カンニングを愧じろ。そこなんです。そこですべてが解決するんです。天下の京大に入ろうかという者が卑怯なマネをするな。これで十分でしょう。人権至上を言い立てて、自らをその安全地帯に置き、職責を平気で放棄する。職責(これは意地や誇りや肚といった気概と言い替えられましょう)より卑怯な奴の人権を優先して見せるわけです。自分達が作り上げた虚構の中で自作自演するわけです。やってはいけないことをいけないと言わずにあれこれよそ事で(多くは人権がらみの言説で)ごまかしすり替える、この手の人々のいつもの手です。がっかりです。日教組の悪弊は日本中に蔓延している、のでしょう。ご一読を勧めます。
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