―(聞き手)昔はルールを過激にするだけで、非常に求心力があったわけですね。もちろん大山倍達にも魅力があったんでしょうけど、梶原先生は極真という過激なルールに惹かれたんでしょうか?
山田 もちろん過激なところに惹かれたんでしょうけども、大山倍達と梶原一騎の二人はもっと頭がよくて、いまの格闘技のルールの過激化によって、その先がないなということを当初から理解していたんです。
―それはどういう見立てなんですか?
山田 簡単に言うにはどうしたらいいのかな? 要するにですね、一番わかりやすい例が宮本武蔵なわけですね。みんな宮本武蔵が一番強いと思ってるじゃないですか。じゃあ宮本武蔵がいまの剣道の大会に出たら、まず遅刻していくわけですよね。
―まあ、そうですね(笑)。
山田 その時点でエントリーできないですよね。で、試合が始まったらいきなり長い木刀を振りかざして反則負けになる。そうすると優勝できない。ということは、武蔵は強くないじゃないですか。
―いわゆる競技としての試合と実戦は違うものだっていうことですよね。
山田 そうです。で、大山倍達がはじめに設定したのは極真ルールじゃないんですよ。対戦相手は牛なんです。
―ああ、競技じゃなくて牛ですね(笑)。
山田 対戦相手が自然石、対戦相手が十円玉、ドラム缶。こんな設定で考えた人はいないでしょう。
―いないですねぇ(笑)。
山田 大山倍達は場に行ってね、牛をどうやれば倒せるのかを考えたわけですよ。それは批判がいっぱいあるにしろ、実際にそれをやってのけたわけですね。もし「牛殺し選手権」があったら、大山倍達は相当強いわけですよ。
―なるほど(笑)。
山田 同じように「自然石割り選手権」「十円玉曲げ選手権」「ドラム缶穴開け選手権」とか競技じゃない設定を作って、その中で神話性を作ってきたんですよね。
―そこには競技性からは感じられない幻想がありますもんね。
山田 でしょ? じつは宮本武蔵の神話性と一番ダブるわけですよ。で、大山倍達はおそらく極真ルールなんかできないと思うんだけども。
―始祖なのに(笑)。
山田 そんなに優勝はできないと思うんですよ。だけど、それはそれでべつにいいじゃんって思うんだよ。
―梶原一騎の膨らませ方も大山先生と同じく「牛殺し選手権」のほうですね。
山田 そう、梶原一騎も設定は劇画ということだけじゃなくて、映画とか興行とかね、いろんな設定をもってくるわけですよ。で、そこにボクシングやプロレス、空手を持ってくるわけですよ。つまり大山倍達も梶原一騎も両者とも立体的に物事を作っていく設定が極真をはじめとする格闘技ルールだとしたら、一つの物事を局面で切っていく。
―ジャンルを横断させることによって、より極真のイメージが膨らんできましたもんね。
山田 だから、ある意味で極真の歴史というのはそういう局面切りが一つずつ消えていくっていうものなんですよ。それは多局面の武道から単一のスポーツルールへの移行の歴史です。極真の幻想性も同時に消えて行くっていう。でも、それを放棄するのはもちろんしょうがないんですよ。
(つづく)
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