先週、新聞の投書欄に、「人間性喪失こそ戦争の本質である (から、してはいけない)」という話が載っていました。
話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。
別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。
ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
そら、ああた、宗教ですぜ。
人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
人間なんてそんなもんですぜ。
「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。
で、ですね。これは前フリ。
なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
でも日本は関係ないもんね。
さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
これはなんだ?
結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
でしょ。
そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
これはブログ表題の関係で明日。
話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。
別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。
ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
そら、ああた、宗教ですぜ。
人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
人間なんてそんなもんですぜ。
「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。
で、ですね。これは前フリ。
なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
でも日本は関係ないもんね。
さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
これはなんだ?
結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
でしょ。
そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
これはブログ表題の関係で明日。