リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

対抗イデオロギーが不死の理由

2019-10-26 14:05:18 | 上部構造論
 こんにちは。東京地方、そこそこの晴れ。本来はベストの気候と思うのですが災害に翻弄され、たまに青空を見るとやはりいいですね。
 
 大雨は、いやあ、、、と思うばかり。感想にもなりません。丁寧に復旧して欲しいものです。金ならあります、その分の人や資材も。トランプへの賄賂の陸上イージス、6000億、労働者、資材。全部使ってやったらいい。それともトランプが大事か。
 
 ふと気づけば、それ以外 今週は記事の何のメモもない。
 今週はテレビのどこつけてもつまんないニュース一色で見たくないので、全部見ないフリをしていたのでしょう。不快なニュースは見ないのが一番。見たって世の中何も変わらない。
 とはいえ、ビジュアルは真実を表す。朝日新聞の天皇の写真、見た? 「げっ、日本が習近平に乗っとられた」と思いましたが、そっくりじゃん。祝いの踊りは中国武官の踊りだし、彼等は延々1500年、中国の忍びの草か? どこの国家の象徴なんだ。これに「支那人」だとか言いたがる右翼共がバンザイなんかして、なぜ「俺らは情けない非国民、、、」と自己卑下しないのか? ったく理解不能。ま、どうせ私は縄文人の子孫だから。
 (ああどうでもいいけど、中国人は「支那人」じゃなくて「北狄」なんだって by wikipedia。北狄って遊牧民族。昔驚いて書いたことがあるけど、新天皇の子供の頃って、騎馬民族の土偶そっくりなんだよね。)
 レベルの低いケチづけはやめよう。ところで、あの職は早く弟にやらせるといいね。「弟、危険だな」と思っていたけれど、考えてみれば嫌な奴はみんなが嫌いだからね。嫌いな奴を自分の象徴にしたい若人も居なかろう。仲間同士の国に天皇は要らない。
 これもレベルは高くないか。でもなかなか本質的だと思うのだけど。(朝日で評論家が天皇支持が感情的になって不安、と書いてありました、見出ししか見てませんが。私には何の不安もありませんが、これは珍しくそっちの記事掲載が早かった。)
 
 というわけで、今日はオタクの日。次回作にちょっと使うので。だけど、「ちょっと」なんで、こんなに説明しないし。カテゴリーも「基礎概念」かも。 

 まずは、教養問題。
 世の中、「イデオロギーの終焉」なる用語がありますが、それは運動者以外の言である事実と合わせればある種の同義反復に過ぎません。それは「私のまわりは春だから紅葉は終焉した」と言っているに過ぎない。常にイデオロギーの安定社会における役割は、体制イデオロギーたる役割、つまり対抗イデオロギーへの反感の基礎づけ以外にはない。もちろんバカではない論者は、「今は安定社会だ」と述べているだけなのですが、だからといって愚であることを避けられてはいない。安定社会でのイデオロギーの存在意義は、かの論者の言のような体制保持機能以外にはないのです。
 
 とまあここまでは社会科学徒なら誰でも言える。
 次。
 にもかかわらず、イデオロギーは永遠です。なぜか。支配階級の暴力も、対抗運動者の「価値意識」つまり「賞賛と優越」も、これを人々に伝える役割は、イデオロギーが持つからです。
 さらに、対抗的集合性に変化する行為共同性における事実認知も、イデオロギーが変化させるものなのです。
 
 これは知らなかったでしょう。

(その1)2態のイデオロギー概念

 イデオロギーは虚偽意識ではありますが、それは一つの姿です。イデオロギーは言語的にはただの事実認知と賞賛・優越でできているものであり、これは、主張者と、主張者の言を利害のない宙で聞く神である第三者と、にとっては虚偽意識なのです。それは本人の意識・無意識を問わず、他者を自分の意思に従わせるべく存在しており、それゆえに他人が乗れば気持ちがよくなるように作られており、事実の正否を問わない言であり、それゆえに多くは虚偽であり、それが虚偽であることを主張者も知らない場合もある、二重の虚偽です。
 他方、それはただの事実認知と賞賛・優越なのであり、これを受信する者にとっては、その正否を問わず、遠くの将来の目標と、近くに迫った行動の優越と賞賛をもたらすものです。この点だけから言えば、行為主体にとっては虚偽などではない、貴重な行為の将来の管理情報です。
 
(その2)受信者がすくい取るイデオロギー

 安定しているといって支配者がふんぞりかえった世の中はいつかひっくり返ります。つまりそれは、人民の価値意識が凶を示すときであり、それは人々が反逆行為に仲間の賞賛を感じ、仲間への優越を感じるときです。この賞賛と優越は地から泉のように湧き出るものではありません。細々とした火種が相互行為の中で燃え上がり、「燎原の火のごとく」世界をなめつくすものです。つまり、細々とした正当性とは個人のイデオロギーであり、これが燃え上がるのは個人が集合体になることであり、この各種集合体の利害が統合しようとするとき、世のは対抗「イデオロギーに溢れた世界」になるのです。 

 そして現実には、それに止まりません。この事実認知は、暴力も伝えるのです。

(その3)受信者に向かうイデオロギー

 すなわち、現実の生々しい暴力の認知に次いで、他者に暴力を伝えるものこそイデオロギーなのです。
 人は暴力について、事実上、この2通りの認知方法しか持たない。正確には理論上、噂や報道等の「単なる事実認知」があるのだですが、社会ではこれらの事実認知は肯定か否定の評価と共に、イデオロギーの一部として伝達されるのです。それが個人への働きかけではない、社会システムとしての暴力です。
 そうそう、これも教養次元の話ですが、イデオロギーは信念「体系」などではない。そんな高級なものではない。社会の中では常に断片化して伝播するのです。
 さらに、イデオロギーはただの「信念」でもありません。イデオロギーは、その十全な体としては、規制の観念体系であり、刀剣といった武器と同じものです。守れば許す。守らなければ殺す、これがイデオロギーです。
 行為者本人が心密かに持っている観念はイデオロギーではありません。心密かな観念は個人倫理に過ぎない。イデオロギーとは他人にこれを告げて認めさせ、彼の行為をそれに従わせようというものです。これを承認するならよし。承認しないなら、そこから先は、打ち殺す。もっともイデオローグの武力(動員できるニク体力)しだいですが。
 これを受け取る側にとっては、次の行動の事実認知を揺るがし、その話者の肉体的武力に迫られる、「武器」そのものだ、という点です。
 これが左翼の言う「イデオロギー闘争」というやつです。プロレス用語ではありません。
 イデオローグはバカではないからこの規制を意識的に、あるいはバカもいるから最低無意識に、使用します。たとえば人々が、ブルジョワジーの「自由」という言葉に恐れ入るのは、自由が好きだからではない。それまでの年長者からの従うべき情報である「自由」の権力的注入によるのです。もちろん、他国の「自由」であれば、その国の権力者の進める自由です。これを聞いて誤解するのは、実情を知らない子供と同然です。

(その4)受信者に内在し終えるイデオロギー

 対抗イデオロギーは、受信者の中で、それが伝える事実、それが伝える仲間との賞賛・優越、それに感ずる暴力の3通りの要素により、イデオロギーによる新しい集合性と、その集合性内における仲間意識=行為共同性の観念を生まれさせます。階級の転生です。
 
  
 まとめます。
 イデオロギーの使用は
 1 事実認知において、体制イデオロギーは体制の秩序を強制し
 2 対抗イデオロギーは人々に選択肢を提出し
 2 その選択肢の選択において一致した人々について、イデオロギーが提出した集合性への結集度を高め
 3 その対人間的コミュニケーションにおいて、殴り合いと同じ効果を出し、(ただし、ケンカと同様、負けても悔しいだけで実は負けない)
 4 その賞賛・優越において、イデオロギーが提出した集合性への凝集力を高める。
      これらがあるから、虚偽意識を言いたいエンゲルスも説明に苦労するんだよね。
 
 というわけでお分かりと思いますが、「イデオロギーの終焉」とは、対抗運動が存在しないという宣言の言い換えです。何一つ人間の社会認識を進めるものではありません。それを知って使う奴は人民に「流行らないから止めろや」と対抗させないようにするブルジョワジーの手先であり、それを知らないで使う奴は、ただの馬鹿です。
 
   、、、こんなこととうてい薄い書物で説明してらんない。最後(その4)手抜いたのは「こっから先がホントのお話」というわけです。
 
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