リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

よもぎ餅の労働と資本主義

2008-05-05 21:18:43 | 社会学の基礎概念
 子供の日ですね。
 もっとも子供の話は無視して、この時分は柏もち。
 白いのと一緒に、柏の葉の中に緑色のが入ってたりしますが、どうもあれは色彩感覚が悪くないですか?
 ヨモギは別によもぎ餅として食べたい気がします。

 当家辺りでもしばらく前まではヨモギが採れた(摘めた)のですが、いつの間にかそんな空き地もなくなってしまいました。
 まあ新宿まで30分ですので。

 で、今日は、よもぎ餅の話。

 世の中、よもぎ餅を作る仕事と、京名物よもぎ餅 「奥嵯峨」 を作る仕事がありまして。
  って、「奥嵯峨」なんて知らないんですけどね。『京都・和菓子』でyahoo検索したら一番で出てきたもんで。

 今日は、この2つの仕事が、似ているようでぜんぜん違う、というテーマです。労働には3種類あるんですね。

 うちのような田舎の人間がよもぎ餅を作るのは、甘くて美味しい物を食べたいからでしょうね。
 それは食べることで完結する。まあ、できればみんなで楽しく食べられたらもっといいですけどね。仲の良くない義父のたぐいがむっつりして食べても、まあ、仕事としては完結してます。
 
 ところが和菓子屋さんはそうではない。子供が「奥嵯峨」に手をつけたらドヤされるくらいじゃすまないんじゃないですかね。
 こういう仕事は、物を作るから純粋な生産労働に見えるけれど、そうではない。
 それらはまず、売れなければいけない。
 
   (なんだ、また「商品労働」の話か、と思わないでください。今日は、「奢移労働」というものの話です。)

 奢移労働(贅沢品を作る労働)っていうのは、典型的にはサルタンの宮殿の料理人、近世ドイツの陶芸人、どこにでもいるドレス作り人、なんかの仕事のことですね。別に売れなくたって、それは奢移労働なんです。商品でなくてもいい。
 そんな彼らの仕事は、純粋な生産労働に見えてそうではない。本当は、料理一般は「最高級」と呼ばれる必要はないし、陶芸であれドレスであれ別に使えればいいし着られればいい、はず。
 でも、彼らの仕事は、製品の製作で完了するわけではありません。その作品が権力者によって賞賛されなければ完結しない。
 そうした偏頗な(偏った評価を受ける)労働です。
 一見、物質的な労働に見えるけれども、実は精神的な、人間と人間との関係的な、心の中を通してようやく完結できる幻想的な、労働なのです。

 で、それは「よもぎ餅労働」とどこが違う?
 実は、生理性を超えた労働とは、行為の原理からして、賞賛と優越を行為の要因にせざるを得ないのです。

 以前に「疎外」について、疎外の意味は2通りあり、
 その1は、「行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない」ことを指し、これは普遍的に生ずることだ、といいました。(その2は、以前のテーマでしたね)
 が、これは日常的には普遍的に生ずるのですが(たとえばよもぎ摘みから帰ってくるときに、かわいい猫がいたとして、猫に手を振って無視されると疎外的になります。って、ちょっと本質的すぎましたか?)
 労働のなかで普遍的に生ずるのは、「自己疎外論者」のような周辺の思想家ではなく本来のマルクス主義者が述べてきたように、資本主義経済の中において、ということになります。
 ただし、その理由はマルクス主義者が述べてきた理由ではありません。
 
 奢移労働の生産結果が奢移品と同じく扱われることと同時に、その労働結果「奥嵯峨」は、私の作る「田舎よもぎ餅」と違って、カネによって替われなければ捨てるしかない消耗品であり、資本主義的景気変動を受け、同じ奢移品の「奥球磨」や「奥河内」や「奥大和」の生産(そんなのないですが)にたずさわる100人の奢移労働者のうち、奢移の象徴である某1種「奥嵯峨」以外は不要である、と結果認識されることになります。それは結果認識ではありますが、不可避なことでもあります。

 一方、資本主義下での全ての人間と同様に、一流品の生産者もまた「同じ労働者」であることです。
 というよりは奢移労働者がその他の人間の代行と化すためには、つまり時の名手以外が話のタネにするような話題性を持つためには、その生産者が擬似的な労働者であることが必須でもあるわけです。労働者が彼の人生の中の「同じ」部分として投影するための「労働者性」(および憧れとしての資本家性)が不可欠なのです。
 もともと、奢移労働は自体は無駄な労働にあり、なくとも誰も困りません。商品としての「草餅」があれば、一流品などいらないのです。
 しかしこれが経済システムに繰り込まれるとそうではない。
 この前段で、繰り込まれる背景と繰り込まれる結果というものがありまして、資本主義は、人を「全的労働」から引き離す。
 それは本来的に人間にとって全的な労働であった保証はないのですが、とにかく、そこから引き剥がされたとき、人はそれまでの不十分な環境をさえ「全的」と評するものです。もっとも評するのは、たかだかそれまでいい暮らしをしていた地主階級だけですけど。
 ま、それはおいて、資本主義システムの中で、ただの一群の草餅労働者とは別に、奢移労働を代行する一群の小企業者または賃金労働者が発生します。
 このとき発生して成立した奢移労働の代行は、奢移労働者にとって見れば一つも奢移労働ではありません。
 しつこく私が言う、ただの商品労働です。
 ただ、奢移労働は、人間がみるだけの追体験、資本主義的評価の発生という現象の基礎を形作ります。
 もちろん、奢移労働自体も「なす」という幻想を作るものです。
 つまり、奢移労働者が得るものは、脳内イメージによる賞賛とそれが持ち運ぶ記憶の中の優越であること。(トップだけは具体的にカネを手に入れますけどね)
 そしてそれは爛熟した資本主義的第3次産業では普遍的な幻想の労働と同じ経過をたどることになります。
 

 まとめです。
 奢移労働は、人の賞賛を得なければ、行為の完結を、つまり満足を、得られないこと。
 そしてそれは、他の第3次産業でも同様な幻想商品労働であること。 
 こうして爛熟した資本主義の中では、人は幻想の中に住むことで、「何者か」でなくてはならない観念=他人の評価の中での観念に、強迫される。それが、自分の行為の一瞬先の将来の幻想だからです。
 
 
 さてはて、話はまだ続きまして、元に戻しまして、労働には3種類ある、という話でした。
 先のよもぎ餅の意義にちょっと引っかかった人、そう、私はちょっとごまかしましてね。
 今の世の中でよもぎ餅を作るのは、別に美味しいものを食べたいわけじゃない。家族に美味しいものを食べさせたいからなんですね。子供がほっぺたの落ちそうな顔をさせてお餅をかぶりつくのが見たい、それが本来の奢移労働なのです。
 本来ってなんだ?
 くだらない問いかけですね。
 私は単に「そう思いませんか?」といいましょう。
 子供に喜んでもらうのと、偉そうな顔をしてるだけの御簾の先の王様が喜ぶのを見るのが、同じだ、と思うお子ちゃまと話すほど暇じゃござんせんね。ねえ、サラリーマンの皆の衆。
 本質的には、生理性の最低限をクリアした段階では、自分の行為によって生理的に具体的な人間の反応をこの自分の身体で体験する、これが奢移=ぜーたくです。最低限の後には、「好悪」に代表される生理性が残っているわけです。
 
 人間の労働には3通りある。
 生理的に必ず果たさなければならない労働と、
 目の前にある人間や生物とに、身体的な関係を結んでいく労働と、
 幻想の中で、生理性や身体的な関係を追体験するだけの労働と。

 本当の贅沢は、2番目です。



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