リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

ニッポンイデオロギー整理(その2)

2023-11-04 15:56:23 | 上部構造論
 こんにちは。暖かい(暑い)日が続きます。ちゃんと季節通りでないと、献立のほかに、掛布団でも困ります、そんなバリエーションないし。タオルケットか毛布の2択、タオルケット明け方寒いし。。
 しかし、昼間はだいたい暑からず寒からず、都会へ出ればなにかしら(安い)催し物をやってるし、大変いい季節ではあります。東京の人は仕事帰りにちょこっと無料の個人発表展に寄るだけでもそこそこ文化に浸れるでしょう、なかには買う奴しか客じゃないという画廊もあるけどね。
 ただ神奈川県民の施設は散らばってる上に電車が遠くて。近代美術館なんて良さそうなのだけど、バス(葉山)。ボルし(1200円)。

 さて、いい季節でも悪いニュースは絶えず。
「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」(共同通信)
「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は1日、国会内で民間団体と合同集会を開き、明治天皇の誕生日に当たる11月3日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。、、、立憲民主党の大島敦企業・団体交流委員長、日本維新の会の馬場伸幸代表や国民民主党の前原誠司代表代行らが参加した。」
 だと。なんだ、大島って。けんぽうしんさかいいいん、とか、履歴にある。
 自公や前原はしょうがないとして、ばかやろう。
 若人は知りはしないことだけど、11月3日はもともと「明治節」だよ。明治天皇を崇める日だ。そうやって外堀を埋めてくわけさ。その証拠に法律で外堀を埋め尽くされた自衛隊は、もう誰も違憲だなんてしりゃあしねえ。何が立憲だ。明治憲法と間違えてやがる。
 
「トヨタ世界生産が過去最高を更新 23年度上半期、505万台」(共同通信)
おなじみの輸出業界ニュース。こんなもんの金儲けのために円安物価高に毎日顔をしかめているだけの庶民ときたら。ほんとに羊。

 さて、以下はちょっと反省情報。
 新聞に論を張った「三木 那由他」というトランスジェンダーな人。おっしゃるに
カミングアウトした人は「きっと怖い思いをしながらそこにい」るんだから、あなたの助けを必要としてるんだから、って。
 私も古い人間で「関係ねえや」という基本姿勢であったところ、怖い思いをして立ちすくんでいるといわれちゃあそうそう無視もできない。
 だいたい人の感情反応パターンは、自分にない事態については了解を超える。しかして、「いわれなければわからない」。べつにどっちだっていいじゃん、と思っても、そう思えないんだ、といわれたら素直にそうかと思わないといけない。
 ほんと、どっちだっていいと思うんだけど、最近の子は華奢にできてるのはなんなんだろう。わたしのほうが華奢なはずなのに、、うちの子も華奢なんだよねえ、最近の子じゃないけど。 

 というわけで、普通の方はまた来週。
 今日の本題は長いの。
 ニッポンイデオロギー(その2)
 わざわざニッポンというのは、たとえば他国の戦争国家では全然状況が違うからです。
 で、こんなにも長々書くのは、単に本業にやる気が出ないからです。長期服薬の副作用でウツになるのだ、知らんけど。
 で、今回は、前回の整理です。整理なのでちょっとくどい。
 まず注意書きから。

 (注意の1)

 ここで扱うのは、発現・発出された言辞としてのイデオロギーです。
 全ての制度からは、いわば「イデオロギーを抽象・抽出する」ことが可能ですが、それはここでいうイデオロギーではありません。それは当該社会の権力の発揮方向の事実認知として、とりわけ支配イデオロギーの重要な源泉となるが、それ自体がイデオロギーではありません。
 ここでのテーマは、現在のイデオロギー、「つまり」、「変化する/変化させるイデオロギー」を扱うためです。

 (注意の2)
 イデオロギーとは、もちろん個人意識に密着している感情ではありません。さらにもちろん、行為者が「心に秘めている」信条でもありません。個人意識のうちの、人間相手に表明せられた、「他人に自分の意識として理解されたい」言語内容です。
 その言語内容に必須なものは、それが対手に伝わるべく表明されることから、
 第1に、共通の言語体系であり、
 第2に、相手に受け入れられたい正当性です。それが本当に自分にとって正当でなくともよい、相手に「自分の意識」の表明として納得されればよいのです。。
 個人行為者の正当性使用は、当該行為者の現在とされている表明目的によって変わる。
 個人なら同じイデオロギーを「持っている」わけではありません。個人行為者の環境は常に変わっている、しかして、そこで必要とされる外界の賞賛と優越も常に変化しているのです。

 (注意の3)
 さてところで、この手の話で面倒なのは、人間個人の千差万別性であり、個人の環境対応の臨機応変性です。個人はそれまでの自己の思い込み通りにしゃべり、あるいはそのときどきに意見を変える。まことにあてにならず、これをイデオロギーとかでくくるわけには、いきづらい。
 この事態をいったん消しておかなければ社会の理論を作ることはできません。  
 この状況を、一般に社会と具体的個人と捉えることは当然にもできますが、それはやってみればわかるように、とても煩瑣な問題であり、人間が日常、次の行為に適用するには実用性がないのです。心理学ならぬ社会科学においては意味がありません。このため、ここでは注意書きをしておきます。

 すなわち、支配権力イデオロギーあるいは対抗権力イデオロギーは、個人による差異を無にするのです、あるいは無視できなければ権力イデオロギーにはならありません。 
 ついで、下位集団の権力に依拠するイデオロギーは、より大きな権力イデオロギーに服する。これも同様に、より大きな権力イデオロギーは、下位集団が持つ権力を無にするからであり、あるいは無にできなければその権力イデオロギーは逆につぶれるからです。
 
 以下のイデオロギー現象の整理は、その発出されたイデオロギーの形態によります。すなわち、あるイデオロギーの裏に密着しているはずの人間行為者の存在形態について述べています。
 それは「ある人間行為者がこういう状況にあればそう行為するであろう」という設定ではないのです。ある(複数の)イデオロギーがその社会構成員によって発出された理由は、こうした人間行為者の選択によっている、という「説明」です。それはいってみればある社会現象の理由を知りたいという動機に応じた言説であるに過ぎません。
 たしかに「過ぎない」。過ぎないのですが、残念ながら科学の性質たる因果連関の立言は、説明とセットでなければ存在しえないのです。
 ポイントは、その説明によって成形された因果連関の立言が、次の将来の予見に、誰がなしても使用することができるか、ということです。その予見が将来の現実によって裏付けられた時、その説明は初めて、因果連関とセットにされる。と同時に、因果連関も一人前の立言として不動のものとなるのです。
 

 さて本題です。

(1) 権力を制度にする方途を持っている行為者におけるその環境対応

 まず、支配社会においては、行為主体の生理性も賞賛と優越も、行為の原則は基本的に制度によって左右される。そしてその制度は権力によって左右される。
 わかりやすくいえば「政治イデオロギー」集団関連の人間の対応時。これには政治投票行為を発現させる議会制国家内の選挙権所持人民の選挙行為場面を含みます。

 先に述べたように、今問題になっているのは選挙民の持っている具体的な思想ではありません。選挙行為を発現させるイデオロギーです。個人行為者は社会のいろいろな場面でいろいろなイデオロギーを保持する。今の問題は行為者が現に直面している状況なのであり、それゆえに、その状況は武力によって枉げられ、あるいは事実認知によって揺るがされる。

 元に戻って、この限りでの人間のイデオロギー発出の理由は、といえば生理的条件の確保であり、賞賛と優越です。
 ここで、資本主義時代においては、武力関連以外の状況においては、消費的生理性の確保に限定される。
 何度も言うようですが、行為者個人の生活すべてが消費的生理性確保にとらわれているのではありません。人は次から次へと通るいろいろな環境を生き抜いている。

(2)下位システムの賞賛と優越

 ついで、生理性が確保されている集合性、つまり若人や学者やイデオロギー闘争当事者らのような集合性内行為者については、ある程度の「自由」が利く。
 「真理」に価値が置かれる集合性では、タテマエとして、真理として遠くまで行っているイデオロギーが優越を得ます。
 タテマエといったのは、既に集合性において、その建前を基礎として、具体的な人間関係が編まれているので、具体的人間関係上の対応とも取れるからです。

(2)ー2 権力者的少数賞賛

 似た事情により、同じ集合体内賞賛と優越としても、権力を行使しうる集団にあっては、当該集団内行為者の自意識を形成した「時代」と、それを保持することがエリートのしるしです所属集団・準拠集団の様相で雑音が入ります。ただし、この類の雑音は、時代の中で消し飛ぶのは、前の注記に書いた通りです。
 
(3)権力上の被排除者による賞賛と優越

 もともと「正当性」とは、社会の賞賛と優越がなんらかの権力に維持されている状態を指します。
 権力行為から排除された人たちにとって、各行為者が取り結ぶ社会的交渉で発出するイデオロギーは、まず第1に、当時の公認道徳や民衆道徳(仲間内の道徳)を根拠として持たれます。
 ついで第2に、権力に対抗することが許可されている社会にあっては、そうした道徳に対抗する地点で、個別に紡がれます。
 いずれも理解不能なごく少数の意見が交じるのは、発言が個人に由来するからで、社会科学上の意味はその理解不能な意志が無視されるところにしかありません。
 
(4) 変革性イデオロギー

 さて最後に、人間には拒否の自由というものがある。たとえば権力者から「こうせい」と言われた時の信条。これを拒否するときに、賞賛や優越を超えて自己の意思を発現したいし、これをすることができます。
「いやです。」そういって去っていく個人行為者。本来は黙っていればいいものを、そこで相対的権力者に対してこう発したい。
 それは偶然の行為ではなく、対抗権力の雲をどんどん重くし、雷鳴にまでもっていく行為です。
 その行為論的根拠を個人の「超自我」と書いておけば世の中はの言論などは済むのですが、ここではあえて、普遍的公益道徳によると述べておきます。
 社会の庶民道徳は、その普遍性において、社会秩序の道徳となる。これが公益として公認された道徳ですが、これは抽象的に、反公益行為への対抗として、人間社会に埋め込まれるのです。簡単に言えば、教育で詰め込まれるわけですが。
 超自我が、いわば、行為に枠をはめさせられるのに対して、こちらは、自己の自由を根拠に、その下支えとしての抽象的公認公益道徳の下に、自己の自由を発現するのです。しかしてこれは、一部エリート的超自我形成に対して人民一般に存する機制なのです。

 と、誰かに読んでもらおうとは思ってなくて。
 ただ、ポイントは(4),です。



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