切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 日本敗戦の日・・・全国戦没者追悼式は何のためか 》   2023.8.15

2023-08-16 00:24:55 | 社会


 8月15日は国民ならば全員が知っているはずの、日本が敗戦した日だ。この日は政府主催による「全国戦没者追悼式」が武道館で行われる。これは政府の閣議により決定され、 1952年から始められたものだ。主な参加者は、天皇ご夫妻、首相、衆院参院両議長、全都道府県の知事及び議長などとなっており、さらに全国から遺族代表が出席するという形だ。今年の場合は台風の影響で交通機関が動かず、参加できなかった都道府県代表もいたという。

 先の戦争において日本人の犠牲者は、空襲や原爆等による人々が約80万人、戦場で亡くなった兵士たちが約230万人と言われる。300万人を超すとてつもない被害者だ。そう言って亡くなった人たちの追悼を国を上げて毎年行うというのは、再び戦火にまみれることのないように平和を祈念して新たな決意で持って、全世界の平和にも貢献できるようにということになるんだろう。

 この戦没者の中にいわゆる「戦争犯罪人」とされた人々は入っているのか入っていないのか。結論から言うと未だに宙に浮いたままの状態になっている。つまり政府も国会においても、正式に戦没者の中に含めるとも含めないとも言う。未だに決められていない。そのために戦争犯罪人として東京裁判において裁かれた人については、靖国神社において合祀されていることになっている。この靖国神社はれっきとした宗教法人であり、戦前においては国家神道の名目において天皇が神であるということを象徴する場として、国民支配の精神的な 拠り所とされてきた。戦後 GHQ によって国家神道は廃止され靖国神社は一般の宗教法人として扱われることになった。ところが与党政治家の中には閣僚たちがこぞってこの靖国参拝を行うということが、政教分離の原則から逸脱しているのではないかと大きな問題になっている。しかしある意味実力行使という形で今や平然と行われ、首相の中にも参拝するもの あるいは参拝はしなくても玉串料を出すという形にしているものなど様々で、いわば問題の本質が不明なまま靖国神社に丸投げされた形となっている。



 もう一つ戦没者の中にいわゆる朝鮮からの人たちが入っているかどうかの問題だ。1910年に日本は朝鮮を植民地化した。それ以降同化政策が進められ、日中戦争に突入しつつあった日本においては人的資源が不足し いわゆる朝鮮人の強制連行やあるいは自らの意思で日本にやってきて働いて稼ごうと言った人々が数多く日本には存在していた。そして彼らは不当な差別などを受けながらも、日本で暮らし定着していくと他の日本国民と同じように戦争が激しくなる中で、空襲などのあるいは原爆の犠牲者として亡くなっていく。あるいは長く日本に住んでいる朝鮮人の中には日本軍の兵隊として招集され、戦地に赴きそこで戦死したものも多い。この人たちが戦没者として扱われているのかどうかは色々と調べてみたが、確たる資料は見出せなかった。

 全国戦没者追悼式においては該当時間だけ部分的な実況中継が、一部のテレビ放送局で流されただけでそれ以上のものではなかった。今日はあくまでも台風報道がほとんど全てと言っていいほどの状態だった。ちなみに本来ならば 8月15日前後には、各テレビ局がドキュメンタリーなどでいわゆる終戦記念特集といったものを放映するケースが多いが、このところは力を入れているのはほとんど NHK のみであり、民放各局はほとんどが無視していると言って良い。ごく申し訳程度に朝や午後のニュース情報番組でも一部のコーナーを設けて少しだけ放送しているだけであり、あまり訴求力のないようなものでしかないと思わざるを得ない。

 そういった意味では様々な異論もあるにはあるが、NHK はそれなりに力を入れているのは確かだと思う。ただ気になったのは NHK だけではなく民放各局も、あるいはネット上の ごくわずかな記事においても、「日本が戦争に追い込まれた・・・」と言った旨の表現が非常に目についた。このような言い方というのは日本はあくまでも他の国からの圧力によって 戦争せざるを得ない、いわば自衛戦争としての日中戦争であり太平戦争であったのだというイメージを抱かせる。このような表現一つとっても戦争の本質というのはどこにあったのかは変わってしまうものなのだ。そういった点からはもっともっと慎重であるべきなのだ。

 逆に言えば日本という国はいわば、戦争責任というものに対する総括というものを未だにしていない国だと言える。そこが同じ敗戦国のドイツとの決定的な違いだ。中には A 級戦犯で死刑になった東条英機を逆に被害者だとするような、とんでもない論調の雰囲気すらある。日本は悪くなかった、あくまでもやむを得ずせざるを得なかった戦争だったのだという根拠のないいい加減な言い方での論調が、平気でまかり通る戦後日本であったと言える。

 そんな中、学校教育現場における小学校中学校あるいは高等学校における平和教育の取り組みは、草の根のように進められているものの大人たちのご都合主義により、それらが変質させられようとしているのも事実だ。広島において全ての公立学校に置かれていた漫画の「はだしのゲン」が撤去されたり、あるいは描写が残酷すぎる、今の時代にそぐわず理解が難しいなどの理由でこの重要な資料を平和教育の材料から外すという有様にまでなっている。つまり大人たちによって平和教育の内容が変質させられようとしているのだ。

 

 全国戦没者追悼式においてもただ追悼するばかりで、首相たちの発言の中にはなぜ日本が戦争を起こしたのか、その原因や責任はどうであったのかなどとは誰も言わない。ただ犠牲者に哀悼の意を示し平和を願うという抽象的な表現で済ますだけ。こんなもので本当に追悼式などをやる意味があるのかとさえ思う。

 日本はいわゆる防衛費用を一気に2倍に上げた。アメリカから武器を買いまくって戦力を増強し、中国と戦う前準備を始めるということだ。場合によっては北朝鮮にもこうしたことは平和の希求からはほど遠い方法でしかないということになる。仮に中国が台湾への武力侵攻を始めてアメリカが台湾を守るために日本の自衛隊と共に戦争を始めるという段階に来るとはっきり言って、日本などひとたまりもない。コアな保守主義者、日本すごい論者たちは日本の最新武器で中国などどうってことないと考えているが、実態はそんなものではない。 日米が中国と交える場合には核兵器の使用は避けられないだろう。そうした場合日本は少なくとも主要都市は廃墟になるのは目に見えている。日本がそこから仮に立ち直るとすれば 100年はかかることになるだろう。あるいは回復不能になるかもしれない。それほどのことなのだ。

 そういった点からは日本は先の戦争に対する「総括」を細かな点までしっかりとやりあげ、そこからは現代世界の潮流を分析しながら何が課題なのかを明らかにして、周辺諸国との安定的な関係をどのように築いていくのか、ということを明らかにしなければならない。日本の政府はその辺を曖昧にしたまま。まさに行き当たりばったりのその場主義で適当にやってきたとしか国民の1人としては見えないのだ。こんなに危ういことはない。防衛費を一気に2倍に増やしたからそれで日本は安全になるとかは、日米安全保障条約があるのでいざという場合にはアメリカがバックについているなんていうのはもはや、幻想だと思うべきだろう。

 毎年毎年8月15日を迎えながら結局は何も変わらない日本という国の愚かしさ。国会議員であれ県議会議員であれ、目の前の利益にばかり目が行ってしまって大きな視点で日本という国あるいは世界というものを見据えていこうという重要な視点がやはり持てないんだろう。私はもうすでに亡くなっているだろうが、いずれ日本は決定的に厳しい立場に立たされることになる可能性は十二分にあると思って、今すべきことをしなければならないのだ。軍備拡張したから中国に勝てるだろうなんて、そんな甘い話はどこにもないと思うべきだ。



   (画像はTVニュース、番組より)
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