切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

日本の民主主義は崩壊の一途をたどり、もはや修復不可能ではないのか・・・⑦

2019-08-31 21:54:06 | 社会

《日本、敗戦から74年・・・今や日本の民主主義が崩壊の危機に》 (3)


 日本の周辺諸国で民主主義に関わる大きな動きが起こっている。
 1つは日本と大韓民国との関係。もともとは徴用工問題に発する韓国の最高裁判所の判決から生じたものだ。1965年の協定において日本政府としては全て解決済みとの立場だが、韓国の裁判所は徴用工など個々人の問題についての解決には至っていないとの判断を下した。
 当時の協定ではその辺の問題が指摘されていたが、結局協定を結ぶことを優先したために曖昧な形で、どちらも課題を抱えたままの調印となったのが、1つの大きな矛盾として今になってぶり返したものだ。日韓両国の言い分の詳細については、十分に理解しているわけではないので、なかなか意見を言う事は難しいところだが、少なくとも韓国の中での激しいデモの様子は日本にも伝えられ、大きなうねりとなって日本への批判が渦巻いていることが伝わってくる。


 韓国の民主主義は、パクチョンヒ政権が倒れた後にようやく国民の中に、民主主義と言うものがもたらされ、その点では日本よりも民主主義の歴史は浅い。それだけに韓国民にとってみれば、「民主主義を勝ち取った」と言う認識と自負があり、それだけに対外関係であれ内政問題であれ、納得できないことには国民たちは、大きな抗議活動を起こすことによって自分たちの明確な意思を示してきた。
 今回の日韓関係においても、政権同士は互いに相手を避難し合っている。どちらの言い分に歩があるのかは難しいところだ。しかし国民たち市民達の大規模なデモによる日本への抗議は、自分たちの民主主義の権利を行使すると言う形で重要視しているのだろう。
 日本での報道を見ていると、当初は韓国でのデモが日本と言う国そのものに向けられたものだと言う雰囲気のものだったが、最近は少しずつ変わってきて、デモ参加者たちも一般の日本人には恨みはなく、あくまでも「反安倍」であって、問題なのは日本の政権であると言うことを主張している。そのことが報道されるようになってきて、日韓のお互いの旅行者数も、少なくとも日本側からは増加傾向にあると言う。
 いずれにしろ民主主義の理念の1つである、表現や集会結社の自由などをしっかり実現していると言う事は事実だ。

 もう一つは香港での大規模デモの状況。香港においてはイギリスからの変換後50年間は、香港の自治独立を認めると言う形で、一国ニ制度と呼ばれる政権運営がなされてきた。その下では民主主義と言うものは、基本的に保障されたもので様々な場面で、中国の口出しや香港内の政権不正等に対して、大規模抗議デモと言う形で市民たちの意思を強く示してきた。
 ところがこちらは韓国と違って、決定的な違いがある。もちろん「中国」との関係だ。今現在連日のように100万人単位の大規模デモが行われており、日本でも大きく報道されている。
 今回のデモのきっかけは、いわゆる「逃亡犯条例」香港に逃げ込んだ何らかの犯罪者や要注意人物などが、香港で捕らえられた場合に無条件で中国に送り返すと言うものだ。周知の通り中国と言う国はれっきとした「独裁体制の国」だ。かつては社会主義経済の理想を追い求めていたものの、世界の大半が資本主義経済であり、貿易取引その他で社会主義体制が経済面で行き詰まり、その結果資本主義的要素を取り入れて経済改革を始める形になった。
 その結果、世界一の人口を抱えていた中国の経済は飛躍的な発展を示し、今や国民総生産においては日本を抜いて世界第二位となっている。当然のことながら国の政治体制は社会主義であっても、経済が資本主義であると言う事は、そのまま資本主義経済の負の問題点が顕在化すると言う形になる。貧富の差、様々な格差の問題、そして共和国と言われる通り、様々な民族が一応名前だけの自治日共和国体制をとっている。ところが共和国の自治を一見認めているように思われるが、実際には中国の政権は一党独裁の全国支配体制を明らかにしており、各共和国の自治は実質、無いに等しい状態だ。
 ウィグル自治区などで抗議活動が起こると、即武力弾圧。中国の一体化志向は全土に及んでおり、それは資本主義経済の恩恵に預かっている大都会に限らない。かつての天安門事件のような市民達の大規模な抗議デモなどは、結局警察だけではなく軍隊も出動して、大多数の市民の犠牲者を出して完全に弾圧されて終わった。今やそのことを口にすることすらできない。そしてその中国は年を経るごとに、香港への介入を強化しつつある。

 この香港の中でも、親中派と反中派があり、かなり鋭い対立が起こっている。もはや香港の政権は親中派の選挙人が投票して選ばれた、親中派の政権になってしまっている。連日のデモに対して警察の圧力は徐々に高まり、ついには拳銃の使用も現れた。中国政府も香港との国境近くに、大規模な軍隊を派遣し、デモ弾圧訓練を大々的に行って圧力をかけている。
 他にも様々あるが、確実に香港の民主主義は抑圧されつつあり、早ければ今年、遅くとも数年内には完全に形骸化されたものになるだろう。仮にそうなったとしても、香港の特に若い人々の間には、民主主義と言うものに関する権利への意識が極めて高く、納得できないものに対しての行動は、当然の権利として行使しているのだと言うことになる。
 8月30日の段階で、デモを先導したと言う理由で、若いリーダー2人が警察に逮捕起訴された。このような動きは中国による香港独裁支配体制の確実な歩みの1つに過ぎない。


 彼らの勇気ある行動をこのブログからではあるものの、最大限の応援をしたいと思う。

 周辺国で起こっている現実を、デモと言う集会結社や表現の自由と言う側面から、民主主義の国民市民への広がりと言うものを見てみたが、もちろん民主主義と言うのは極めて幅広い要素を持っており、上記のような例だけでは済まないものだ。それだけに民主主義といっても、そこに保障された権利を使って、逆に民主主義と言うものを潰していく方向性だってあり得る、と言うことも考えておかなければならない。


 さて、ここで日本のここ直近の民主主義の実態について、一部の例を見ながら考えてみたいと思う。

 特に安倍晋太郎による自民党公明党の長期独裁政権による歪みが、極めて顕著に現れている。安倍自身が右翼思想の持ち主であり、日本会議にも重要な影響を持ち、総理大臣と言う公的な立場を利用して、およそ真の民主主義とは程遠い政権運営を行ってきたのは誰の目にも明らかだ。
 安保法制の問題、秘密保護法、個人ナンバー等など国民生活に関わる重要な問題を、自民公明の連中は数の力で強硬に採決してきた。そこにはただ単に数が多いと言うだけで、民主主義的にやってきただけだと言う思い上がりがある。数さえ多ければそれによって権利執行ができるというのが民主主義だと言われると、とてもじゃないけど納得できるはずもない。
 民主主義と言うのはあくまでも、国民が主人公であり、政治に携わる連中と言うのは、あくまでも国民から政治を託された立場に過ぎない。国民1億2000万人に対して、国会にしろ地方議会にしろ、間接民主制においては少人数で政治運営がなされていく。



 当然そこには、数だけで処理しきれない、たとえ少数ではあっても極めて大事な意見や論点視点などが数多くある。しかし政権運営の場においては、各法案審議において少数派に与えられる質問や意見の時間は極めて短いものだし、はっきり言って論議にもならない。独裁的与党は言いたいことだけを言って、後は少数派の主張も無視して採決をして決めるだけ。このような方法で少しずつ、しかも確実に、民主主義は歪められ、形骸化されてきている。
 独裁政権は、それが長期になるとほとんどのケースで、腐敗堕落すると言われている。戦後最長を記録している安倍政権は、全くその通りの腐敗堕落を全国民に晒している。任命権者の安倍総理によって指名された大臣たちの中にも、単に失言では済まないようなことも含めて、国民を裏切るような行為をして辞任に至るケースもしばしば見られる。

 そして数年前から安倍独裁政権は単に数の力で押し切るだけでは済まなくなってきており、自分たちの気に入らないものに対して、政治的な圧力、そして恫喝まで行うようになってきている。
 数年前、NHKの経営委員会に極右の人物が2人入った。1人は作家の百田尚樹。もう1人は埼玉大学の女性教授。ともに知られた極右の人物だ。しかも、経営委員会長自身が、政府の考え方に反するような放送はできない旨の発言をしている。人選も含めてNHKへの圧力があったのは確実だと思うべきだ。
 更に森本問題、加計問題へと続く。マスメディアは自民公明の独裁政権の汚職問題として取り上げようとしたところ、総務大臣だったか誰だったか忘れたが、国会の場で何と、「各放送局に割り当てられている電波を停止する場合もある」と言う、誰の目にも明らかな脅迫・恫喝を行った。また新聞記者たちの前で行われる記者会見においても、鋭い質問をする記者に個人攻撃を加える。しかもれっきとした政府の要人が民間人に対して、このような悪質な行為を行うわけだ。このような形で、東京新聞あるいは朝日新聞が攻撃の対象として使われ、具体的な名前も出されて、マスコミに圧力をかけてくる。
 このようなことが続いて、大手のマスメディア、つまりテレビにおいては東京キー局、そして全国紙の大新聞は一気にトーンダウンし、独裁政権にものが言えなくなってきている。それどころか一部マスメディアは、自民公明の独裁政権に、いわゆる忖度をして下手に出ると言う無様な姿まで成り下がっている。こんな事態になっている事は、テレビも新聞も自ら報道することさえみっともなくてできないようだ。
 なんとか地方のローカル紙やテレビ局でもローカル局が頑張って、視聴者に伝えているケースもある。そういったものを通して国民たちの中にも、この独裁政権の実態はいやがおうにも見えてきているはずだ。にもかかわらず、なぜ日本国民はこんなにもおとなしいのか。ごく一部を除いて誰も何もしようとしない。抗議の声を上げ、デモに行ったのはごくごく少数の人々だけだ。


 このような政権運営が、日本の民主主義を形骸化しようとしている事は明らかなのに、日本国民はそれに気がついていないなのか。それとも無関心なのか。あるいは逆に独裁政権のすることを応援して、天皇中心の「国体」体制を待っているのか。あまりにも歯がゆくて、私こと癌爺いはこのような日本の状況がある意味信じがたいように見える。
 もはや事態は緊急性を帯びた課題になっているように思われる。
 国民が全体的にひ弱になって、上層部に何も言えないような雰囲気が日本国中を被っているようだ。私は爺いの身だから好きなこと言っているが、現実に仕事を持ち、家族を養っている人々の立場から言えば、中年層でも若年層でも、なかなか言いたい事は言えないんだろう。たとえ労働組合員でなくても、「ものを言う」人と言うのは、日本の上層部の連中や、あるいは民間企業の経営者たちにとっても邪魔な存在でしかない。労働基準法の隙間をついて、排除しようとする。仮に言ったとしても、同調して助けてくれる者はないに等しい状態だ。

 ネット上のある記事を読んでいると、若い労働者が、「自分が多数派の中にいることがわかってほっとした」と言うようなことを言っていたとあった。この発言は先日の参議院選挙において、自分が誰に投票していいのかわからず、とりあえず自民党候補に投票して、結果的にその候補が当選したことを知った上で、出た言葉だ。
 自分は多数派の中にいたい、と言うこの自主性のなさ、自立性のなさ。なぜこんな無様なことになってしまったんだろうか。保守派の戦後数十年をかけて、地方議会から中央議会に至るまで、民主主義を歪めてきた結果が、このようなものの言えない弱者を育ててきたと言うことになる。

 こうして日本の資本主義経済は、物言わぬただ単に、一生懸命働くロボットのような人間を育てあげて、上層部は金儲けに走ると言う図式が作られてきた。こうした若者たちは、将来的に年金すらもらえないような立場に追い詰められていくというのがはっきりし始めている。それでもなおかつ、多数派の中にいて安心しておきたい、と言う心情の虚しさが、あまりにも情けないし、悲しいとしか言いようがない。

 次回は、日本国憲法に記された民主主義の基本原則が歪められている状況を、自分なりの視点で見ておきたいと思う。

 (以下、次回に続く)
 (画像はHPより)
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天道神社・稲荷社~中堂寺 京都市下京区・・・市街地中心部

2019-08-27 23:13:09 | 撮影

天道神社





『天道神社
本社御祭神
 天照皇大神
 八幡大神
 春日大神
境内社
 約束稲荷神社
 天道天満宮社
 厳島社(弁財天)
 八坂社
明治天皇 皇后(昭憲皇太后)
    御胞衣埋納所
由緒
延暦十三年(七九四)桓武天皇が平安遷都されたとき国家安寧子孫長久万民豊饒を祈願して長岡京より当寺の三条坊門東洞院(現在の東洞院西御池上がる付近に勧請された
その後たびたびの兵火にあうが天正二年(一五七四)織田信長公より五条坊猪熊の此地を授かり遷座して今日に至る
 (説明板より)

『天道神社

 伊勢神宮の天照大神を主神とし、八幡大神と春日大神を左右に三柱の神々を祀る。
 天道宮と呼ばれ、山城の国の長岡の地(現在の京都府長岡京市)に鎮座したが、延暦十三年(七九四)の平安遷都とともに、三条坊門東洞院(現在の東洞院御池上る付近)に勧請された。
 平安京に勧請された当時は、皇族をはじめ京の人々が常々集まり、荘厳な宮であったが、度々の兵火により焼失した。
 天正二年(一五七四)に、織田信長により現在の地を授けられ再興したが、天明八年(一七八八)の大火で再び焼失し、その後は数度修繕されて現在に至る。
 境内には、天照大神の姫君 市杵島比売命を祀る、厳島社、洛陽二十五社天満宮、約束稲荷神社、八坂社を祀る。また明治天皇の皇后昭憲皇太后の御胞衣(胎盤)塚があり、これは一条家に誕生した皇后の栄華祈願のため、父君がこの地に御胞衣を埋納したところ、十九歳のとき皇后宣下を受けられたと伝えられる。
 毎年十一月三日には例祭(神幸祭)が行われるほか、五月十七日には、長い竿の先に季節の花を三方向に結び高く揚げる、天道花神事(てんどうばなしんじ)が行われる。
 京都市 (駒札より)



 天道神社は京都市街地のほぼ中心部にある。
 昔からの古い道路が交錯する住宅街の中にあって、少し分かりにくい場所だ。天道神社の由緒については、上記の境内に掲げられていた説明の通り。神社そのものは決して広い敷地ではないが、鳥居をくぐりすぐ正面に拝殿・本殿が控えている。上記駒札のとおり、皇室との関わりが強く、菊の御紋章が垂れ幕に描かれていた。かなり有名な神社のようで、訪れる人は結構多いようだ。境内には社務所もありまた大木もあって、いかにも神社らしい。本殿も少なくとも正面から見る限り、立派な構えをしており、その全容は見るのはちょっと難しかったが、長い歴史と風格を感じさせる。
 平安遷都と共に勧請されたとあるが、その頃から天道という名前があったんだろうか。祭人を見てみると、天照大神もあり、いわば古代の太陽信仰から、太陽の動きを天の道として崇めたものが、この名前になったと考えてもいいのかもしれない。
 ずっと後世になって、戦国時代に天道信仰というものが神道と結びついて、仏教なども含めた統一信仰のような形で武士や人々の間に広まったことがあるが、この場合の天道とは関係があるのかないのかはわからない。
 しかし古い歴史を持つ神社の名前については、神話や自然の摂理等の関係や影響がかなり強い形で見られる。それらはただ単に神社の名前だけではなく、それぞれの土地の名前においても同様なことが言えると思う。
 天道神社の前に小さな稲荷社があって、これがおそらく境内社の約束稲荷社ではないかと思うが、そこまで確認はしなかったと言うか、予備知識なしで行ったので全くわからなかった。このような場所は車で行くのはなかなか難しく、どこかのコインパークにおいて後は歩いて回るのがいいだろうと思う。付近には多くの神社や有名な寺院もあってそれだけの価値がある。
       


中堂寺



 天道神社から西へ移動し、中堂寺へ。
 山門は閉まっていたが横の車の通用門から入る。全体的に細長い敷地。境内はなかなか見事な庭園を構成していて、様々な植物が配置され、樹木もを適度な大きさのものが並んでいる。その中に石造多宝塔や石造物などが少し置かれいいポイントになっている。幅の狭い境内の背後に、本堂が目の前に迫っている。敷地の割には大きな建物で、枠には所々彫刻が施されていて、いろんな工夫が見られる。残念ながらお寺の人に会うことは全くなかったが、全体的に静かな雰囲気のお寺らしいお寺と言える。
 このお寺に関する情報は手持ちの書物にもネット上にもほとんど無いに等しい。わずかな情報をもとにすると、創建等の由来は不明とのこと。明確にこのお寺が登場するのは室町時代ではないかと考えられている。というのもここの地名に「中堂寺」という名称が入っており、室町時代の文献に登場するようだ。おそらく中堂寺ができて地名になった、と思われるが、そうであるならばもっと古い時期に建立されたとも言える。もともとあった地名に、後になってからお寺が出来たということで、あえて地名を変えるということはあるんだろうか。そのあたりよくわからないが、一説によれば平安時代の創建であるというのも出されている。
 どちらにせよよく分からないというのが結論。
        


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流れ橋と石田神社 京都府八幡市・・・名所だ

2019-08-25 23:35:19 | 撮影

石田神社と流れ橋



『石田神社 (京都府八幡市上津屋里垣内77)

 上津屋里垣内にある当社は、里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で牛頭天王社と称し、明治になって石田神社と改称した。
 祭神は素蓋烏神で牛頭天王と同体で、当地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰された。
 当社に伝わる「天王神社記」によると、起源は大宝一一年(七〇二)隣村内里の山中に現れた素戔鳥神を上津屋」の地に祀ったことに始まるという。治承四年(一一八〇)源三位頼政の兵乱で社殿は焼失、復興のために文治四年(一一八八)源頼朝により神事料を寄進された。そ
の後元弘の乱で笠置山参陣の際に楠正成が当社に立ち寄り願文を奉納したと記されている。
 鳥居東の神興蔵横に立つ十三重の石塔は、その形状から南北朝時代のものという。
 近年社殿から発見された棟札によると、永禄元年(一五五八)社殿造営の後定期的に檜皮の葺替え修理が行われていた。現在の本殿は嘉永四年(一八五一)の造営になり、神社に残る古文書や浜上津屋の伊佐家文書からも社殿普請や遷宮等の様子子がうかがえる。
 他には庄屋伊佐政徽が明和二年(一七六五)奉納した算額(和算問題を図入りで示す)があり、京都府で八坂神社に次ぐ古さをもつ。
 氏子中の努力で古文書や棟札等の貴重な資料を豊富に伝える神社である。
 一九九五年三月
 八幡市教育委員会 (駒札より)



『石田神社

 「山城綴喜郡誌」によれば、大宝二年(七〇二)当地に鏡座し、文治四年(一一バ八)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけたとある。以前は牛頭天王社と称され、明治になり石田神社と改称された。現在、祭神は建速須佐之男令である。境内は堀状の水路が周囲をかこ
み、木々が茂る鎮守の森の様子をよくとどめている。
 本殿は、嘉永四年(一八五一)の造営で比較的大きな一間社の流造である。木津川の水害を意識してであろうか、一段高い石垣の上に建っている。現在の拝殿は平成七年に建てられたものであるが、享保二十年(一七三五)再建時に葺いた刻名入リの鬼瓦が拝殿に納められている。また、明和二年(一七六五)に書かれた算額がある。
 同村庄屋の一人である伊佐政徽によるもので五問の和算問題が示されている。京都では八坂神社のものに次いで、全国で九番目の古さといわれている。
 江戸中期の八幡地域で文化教養に関心が強かったことを示すよい証拠といえる。また、島居と向い合って社の東側に高サ三メートルはどの十三重石塔がある。南北朝のもので重要美術品級である。
  平成二十年 秋
  八幡市郷土史会 (駒札より)



  木津川の流れ橋へ行く。
 もう何度も来ている。10年ほど前から気候変動が激しくなり、毎年大雨が降り木津川の流れが激しくなって、毎年のように流れ橋は流れた。その都度、修復するものの毎年のことで、府の予算も厳しいものがあって、ついに簡単には流れないように、橋脚の部分を一部コンクリートで補強するという形になってしまった。また橋の渡りも簡単に外れないような仕組みになったらしい。そういった意味では趣がかなり弱くなってしまった。
 周知の如く、流れ橋と両岸の茶畑は映画やドラマの時代劇撮影で頻繁に使われていた。その場面に遭遇したことはないが、今後どんな風になっていくんだろう。流れ橋だけではなく木津川両岸の堤防には、サイクリングロードが整備されていて、ここも以前よりきれいに整備されてしまった。悪いことではないんだろうが、綺麗すぎて何か変な違和感を感じる。相変わらずサイクリングの人は多い。しかしこの日は、流れ橋を渡っている人は一人も見なかった。以前だったら観光客らしき人たちが結構な数来ていて、皆さん喋りながら渡っている風景を見たものだ。
 この橋の正式な名前は、 「府道八幡城陽線上津屋橋」ということで、府道となる。しかし渡れるのは歩行者と自転車、バイク。もちろん自転車とバイクは降りて押していかなければならない。
 歴史的には新しく、戦後にかけられたものだ。両岸を結ぶ橋はすぐ北側に国道1号線があるので、行き来するにはそちらを使えば良いのだが、少し距離があるので、川の両岸の村が話し合って、定額予算で作ろうとしてできた結果がこの橋だ。通称「流れ橋」というのは今後も続くんだろうか。

   

 この流れ橋に行くには、向かい側の久御山町から行くのは少々不便で、1号線を渡って八幡市側から行くのが便利だ。流れ橋を観光の拠点とするために、「四季彩館」と言う食事や宿泊ができる施設が設けられている。その横に石田神社がある。
 八幡市には石田神社という同名神社がいくつかあって、区別するために住所をつけて呼ばないとどこかわからない。この石田神社については、上記のように二つの駒札があって由緒そのものはそこに書かれている通り。改めて付け加えることはない。
 社伝に書かれた記録では、奈良時代前の飛鳥時代の創建?ということになる。大変長い歴史を持つすごい神社だ。
 正面の鳥居をくぐるとまっすぐ拝殿。そして本殿が控えるが、右側に石造十三重塔が立っている。南北朝時代と言うからこれもなかなか古いものだ。重要文化財とは言わずとも、京都府か、あるいは八幡市の指定文化財にぐらいになってもよさそうなものだ。本殿などの建物は江戸時代の再建で、さほど年月は経っていない。しかし長い歴史を誇る由緒ある神社だけに、相応に立派な本殿で、参拝に来る人たちを迎えてくれる。境内の木々を見てると秋には真っ赤な紅葉で染まるような雰囲気だ。是非ともその時期に来てみたいとも思う。
 上記駒札の説明の中に「伊佐」という名前が出てくるが、その伊佐家の住宅がこのすぐ近くにある。江戸時代中期に建てられた貴重な建物で、住居そのものが国の重要文化財に指定されている。中に入って見るには予約が必要なのでまだ行ったことはない。いずれ機会があれば 行ってみたいと思っている。


         
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日赤病院へ診察を受けに行ってきた。・・・でも

2019-08-24 23:28:09 | 日記



 8月23日、癌の手術をした京都第一日赤病院へ定期の受診。
 この日は朝からすごい雨で、車のワイパーも高速に動いていた。防水靴を持ってないので、撥水靴で行ったがずぶ濡れになった。
 診察の前に血液検査があるので、予約時間よりもかなり早めに行く。昼前の11時40分ごろに病院へ到着。受付ロビーへ行くと、いつもよりも明らかに患者の数が多い。嫌な予感がする。受付済まして採血室へ行く。ここはすぐに済んだ。予約の時間まで約1時間。診察が終わってから昼食にしようと思っていた。(結局この日は昼食は摂れなかった。)受診カードを診察室のボックスに入れる。その前がこのコーナーの待合室になっているが、明らかにいつもより多い。
 このコーナーにいる人々は、半分位が自分と同じ癌の治療中の患者のはずだ。椅子に座って待っていると、後ろに座ったおばさん方が話していた。「私、もう好きなものがなかなか食べられない。とにかく胃が小さくなって食べようとしても食べられない・・・」と言うふうなことを言っていた。私こと癌爺いさんと同じ状況だ。やはり大小にかかわらず、胃を切り取ると確実に食事には様々な制限がかかる。そのために食べる、と言う楽しみがほとんどなくなってしまう。抗がん剤飲んでいると、場合によっては副作用で、味覚がなくなるケースもあると言う。癌爺いさんは幸い味覚は大丈夫だった。
 以前、主治医の先生に聞いたことがあるが、手術の後、定期的に受診に来る人の中には、私よりもはるかに厳しい状態の人が非常に大勢いると言う。そういう人たちは受診ごとに長い時間がかかるとの事。私の場合は、受診そのものは毎回どちらかと言えば、好調なので10分もあれば済む。その意味ではありがたいと言っていいのかもしれない。
 さてこの日はとにかく、待ち時間が長引きだし、一向に順番が回ってこない。予約時間などとっくに過ぎている。担当医の部屋に呼ばれる患者は、次々にではなく、1人呼ばれて延々と診察室から出てこない。20分30分は当たり前。やっと出てきてまたしばらく置いて、次の人が呼ばれると言うわけで、私が呼ばれたのは、予約時間の午後1時に対して3時を大きく回っていた。まぁこれでも2時間半ほどで呼ばれたのだから、マシかもしれない。

 京都第一日赤病院と言うのは、高度医療指定の巨大病院だ。基本は他の病院からの紹介でやってくる人たちばかり。逆に言えばそれだけ症状の重い人たちばかりと言うことになる。したがって診察も一人一人が長い傾向になる。

 ちなみに過去に通っていた病院で最長の待ち時間は、宇治の徳洲会病院。腰痛で訪れたときに、なんと5時間待ちだった。診察を終えたのは真夜中の午前0時ごろ。まぁ患者以上に、担当のお医者さんのほうも大変だろうと思う。日赤の私の担当医もかなりな実力を持った医師で、府立医大の講師も務めている。診察は週一回金曜日だけ。後は講師を除いて、全部手術にかかっているとの事。あの状況から見ていて、昼食はとてもじゃないけど摂れていないだろう。医者と言う仕事もある意味ブラックと言えるのかもしれない。また診療科によって仕事の軽重が明らかにある。外科はその意味ではとても大変な部署だろう。
 ようやく名前が呼ばれて診察室へ入る。開口一番お医者さんの方が、長く待たせて申し訳ない、と述べられていた。血液検査の結果は非常に良好で、腫瘍マーカーも出ていないと言うことで、今回でとりあえず「抗がん剤」を一旦停止とするということになった。もちろん今後の検査次第によっては復活の可能性もあるが、このところ順調に来ているので、処方される薬は消化系の薬と胃酸を抑制する薬と言う2種類になった。まぁこれだけでも随分楽になると思う。楽になると言うのはもちろん、体調のことであって、食べること自体は相変わらず苦痛が続く。
 次回の診察は11月。支払いを終えて病院の向かい側にある調剤薬局で薬を受け取る。3ヶ月分で6800円。相変わらず薬と言うのはほんとに高いもんだ。薬局を出た頃には雨と言うこともあって、かなり薄暗くなっていた。帰り少し食材を買うために食品スーパーに寄って、家に着いたのは午後6時ごろだった。
 病院での受診と言うのも言ってみれば、1日仕事といった感じだ。それにしても病院内では先程のおばさん方の会話以外にも、これから入院する手続きをしている人や、あるいは看護師さんから今後の手続きについて説明を受けている人などなど。様々な困難な状況に置かれている人々がいる。私など今のところ順調に行っていると言うことで、ましな方だと思わないといけないんだろう。術後5年の最終判断まであと3年2ヶ月。ここを無事に乗り切れば、一応完治宣言がなされる。後は少ないながらも、栄養のある食事をとり、健康状態を維持することが大切と言うことになる。

 とここまでは良かった。しかしこのブログでも以前にアップしたように、家の近くの病院で泌尿器科受診の結果、前立腺肥大症の診断が下り、しかも腫瘍マーカーが基準値を超えていた。この件を日赤病院で伝えたところ、主治医の先生の姿勢がちょっと変わった。もし癌に移行したら日赤にもその専門の先生がいるし、ダヴィンチでの手術ができると言われていた。この言い方を聞いて、やはりこれはちょっとまずいんではないかと言う思いが頭をよぎる。
 ちなみにダヴィンチと言うのは知っている人も多いと思うが、完全遠隔操作の手術ロボットだ。以前に家の近くの宇治徳洲会病院が移転建て替えで、近代的な巨大病院に生まれ変わった。その時の内覧会でダヴィンチを見た。一般市民に混じって多くの医学生らしき若者が来ていたが、ダヴィンチを見て感嘆の声を上げていたのを覚えている。まぁいずれにしろ、次の泌尿器の受診時に腫瘍マーカーがどちらの方へ動いているかが問題となる。普段は考えないでおくようにしている。


 さて話は変わるが、この京都第一日赤病院と言うのは、あの極めて卑劣な大量殺人事件となった、京都アニメーション株式会社の建物が放火された事件で、自身も大やけどをして意識不明の重体となった犯人が、最初に運ばれた病院だ。おそらく被害者の方々も、かなり多くこの日赤病院に運ばれていると思う。

 しかし何故か、この犯人だけはより高度な治療が可能だと言う、大阪の近畿大学医学部附属病院へ運ばれた。京アニの被害者の人たちはどうだったんだろうか。全員が京都の各病院で治療が進んでるんだろうか。犯人の方がより高度な治療のできる病院へわざわざ運ばれて、どんなことがあっても救命すると言うのは、どうにも釈然としない。仮に助かってコミニケーションが取れるようになって、逮捕と言う事態になっても、裁判では100%、死刑しかないだろう。警察としては動機解明のために、なんとしても助けなければならないと言う論理なんだと思うが、京アニの重体の方々も同じように、どんなことがあっても救命していただきたいものだと思う。ぜひお医者様方には、最大限の努力を期待しています。



 (画像は他HPより)
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子守勝手神社・粟生山観音寺 京都府長岡京市・・・神仏一体?

2019-08-22 22:35:42 | 撮影


『子守勝手神社

 粟生村の産土神。この神社の由来は定かでないが「延喜式」によると、子守社は農業に大切な用水をつかさどる水分神を、勝手社は国土を開き国家を守り悪魔を降伏せしめる天忍穂耳尊・大山祇命などを祀る。
 神社の縁起によると女人安産、子孫繁栄の守護神と書かれている。また、地元では、水の神様として親しまれている。

観音寺

 天台宗。洛西観音霊場第八番札所。本尊、十一面千手観音菩薩。
 寺の創建は奈良時代と言われる。文献で初めて見られるのは室町時代初の暦応三年(一三四〇)で、江戸時代末の『都名所図会』にも同寺の絵が描かれている。

  長岡京市観光協会
  (社)京都府観光連盟 (説明書きより)



 長岡京市の紅葉で有名な光明寺の南側にある。
 周囲は田畑が広がり、山裾を少し上ったところとなる。入り口の階段のところに駒札があり、上記のような比較的簡単な説明書きがあった。子守勝手神社と粟生山観音寺が一緒に記されている通り、両者は敷地を共有するかのように隣り合っている。
 子守勝手神社については、上記の説明書き以上のことはよくわからない。「延喜式」と出てくるが、これは平安時代に編纂されたもので、仮にこの神社のことを記しているとすれば、平安時代以前には創建されていたことになる。しかし延喜式神名帳の記述はこの神社のことを直接指しているものではないとも言われている。「子守」という由来と「勝手」という由来について、延喜式に述べられているということで、この解説があるんだろう。

 石段を登ると鳥居があってすぐ目の前に本殿がある。境内全体は隣の観音寺と同様、敷地全体が苔むした状態になっている。あえてそうしているのか、あるいはなかなか手入れがされていないのかはわからないが、おそらく前者のように感じられた。
 神社そのものも隣の観音寺も、建物としては比較的きれいに整備されており、境内だけが放っておかれているとは思えない。そういった点ではこの苔むした境内に、多くの草花や樹木があるというのもなかなか趣があっていいと思う。
 子守や勝手については、そのいわれについてネット上に想定された説明があったが、どこまで本当なのかどうかは分からない。どちらにしろこの両者の名前は、奈良の吉野の方にある神社から来たものと考えられているようだ。
        




 観音寺についても上記の数行の説明書き以上のことはよくわからない。僧行基の創建だとか、本尊の製作者とかいろんな説があって、非常に不明確。奈良時代の創建という説は何を根拠にしてるのかも全くわからない。このお寺が正式に歴史上の文献に登場するのが、室町時代なので、奈良時代とはかなりな差がある。もちろん今現在の観音堂は比較的最近に再建されたものだろうが、寺伝とか何か残っていないんだろうか。
 境内は上にも述べたように、神社と続いているので同様に苔むしている。多くの草木が育っており、この時期は緑に囲まれて所々に花もあって、雰囲気としては決して悪くはない。その昔、江戸時代には神社と共に多くの参詣者で賑わったと伝えられているようだ。

   
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