切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大宮神社・若宮神社・天王神社 京都府相楽郡精華町・・・無名神社だが、格式を感じさせる

2019-05-31 23:25:06 | 撮影

 精華町にも多くの神社があるが、この日は3社を回った。相互に比較的近くに建っている神社だ。しかし予想はしていたものの、やはり3社ともに駒札や説明書き等も何もなく、また帰宅してから手持ちの資料やネット情報などもかなり広範囲に当たってみたが、名前だけは出てくるものの神社の由緒などは全く情報なし。大宮神社と天王神社については祭神だけがネット上の記録にあった。若宮神社についてはそれすらない。ということで、ここでは簡単なエピソード的な話と、あとは写真だけで構成することにした。
 

大宮神社



祭神 崇道天皇 (早良親王さわらしんのう)
   誉田別尊 (応神天皇(おうじんてんのう)


 近鉄京都線 の木津川台駅が近く、また幹線道路に面しており、わかりやすい場所にある。境内に入ると予想以上に広く、 拝殿も立派な建物だ。全体的によく整備されており地域で大切にされていることがよく分かる。
 祭神の崇道天皇は死後に付けられた呼称で、生前は早良親王と言った。彼は謀反に関わったと言うことで捕らわれ、無実を訴えたものの淡路へ流される途中、亡くなる。 もともと平城京の中では東大寺などの大寺院の力が強くなり、藤原種継らが命じられ京都の長岡京へ遷都する事業に携わっていた。
 これに対して反対派が種継を暗殺したという事件があった。早良親王がこの事件に関わったということで捕らえられたということだ。そして上記のように淡路へ流される途中に亡くなる。
 その後、長岡の都では疫病や皇族関係者の死亡などの不吉な出来事が次々に起こり、暗殺された種継の怨念だと言う噂や、挙句の果てに夜になると、無念の死を遂げた早良親王の亡霊が現れるという噂が広がり、人々は恐れた。その結果、長岡京はわずか10年の短命に終わり、次の平安京造営に繋がる。これらのことが早良親王の祟り話になって、鎭魂の儀式が行われ、親王から天皇へ格上げされた。
 これは有名なエピソードで教科書などにも載っている話だ。ただしこれもどこまでが歴史的事実に基づいているのかはよく分かっていない。後に盛られる形で話が大きくなったものかもしれない。
 この神社がどういう関わりの中で早良親王を祭神としたのかはわからないが、地理的に見ると、平城京から長岡京への経路の途上にある地になる。当時は平城京と京都を結ぶ経路は木津川東側がメインだった。 しかし長岡へは川の西側が便利だったのだろう。そのような事情から、この神社との関わりがあったのかも知れない。
            


若宮神社



 大宮神社から北へ約100m余り。ちょっとした丘陵地の上に若宮神社がある。
 境内に入るとすぐに拝殿が目の前に現れる。これが先ほどの大宮神社の拝殿の建物とそっくり。横に回って本殿を見るが、規模は小さく屋根の方しか見えない。しかし全体的にはなかなか立派な構えの建物だ。
 ここもよく整備されていて地元の氏子さんから大事にされていることが伝わってくる。鳥居のすぐ前を近鉄の電車がひっきりなしに走っており、結構騒々しい。残念ながらこれ以上書くことはないので写真をご覧ください。
       


天王神社



御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
    阿智之岐高彦根命(アヂスキタカヒコネ)


 2箇所の神社を訪れた後、幹線道路を少し北上し天王神社に寄る。
 境内に入るとすぐに拝殿が見えるが、先程とは随分建物の形状は異なる。ここの本殿は比較的小さい方となる。やはりよく整備されていて綺麗に保たれている。
 祭神のスサノオノミコトは一般的にもかなり有名だ。もちろん「古事記」「日本書紀」の比較的初期に登場する神であり、「出雲国風土記」にもその名前が見られる。あくまでも 神話とした上での話であり、史実との関係は全く何も分からない。
 日本書紀でも日本という国の成り立ちを、恰も神に依るものを出発点とする。その系列が後の天皇という存在につなげられていく。その流れに都合のいいように考えられて、書かれた日本最初の歴史書ということになる。古代史研究の中では数多くの研究者がいるが、また素人の方でも様々な文献を読み込んで研究が進められている。
 そんな中で、スサノオノミコトはどのように位置付けられているのか。様々な文献に登場する逸話についても、都合のいいような作り話ではあろうが、神という存在の権威付けに作られているのは確かだろう。ただひょっとしたらそれらの作り話というのは、まだ大和王権が誕生する前に、各地に小さな力を持つ小豪族の大王たちの、小さなエピソードがあちこちで取り入れられ、さらにそれが脚色されて、このような神話物語が書かれたのではないかと思う。
 ヤマタノオロチの退治の話にしても、そのまま読んでみれば全くあり得ない話だし、著者がこれを完全に創作したとすれば、なかなかの想像力を持った作家のようにも思える。ひょっとしたら出雲かどこかは分からないものの、ある小豪族の大王がたまたま少し大きめの蛇を捕まえたことが誇張されて各地に広がり、このような話になっていたのかもしれないとも考えられる。
 そんな状況下で各地の風土記などの文献が出てくる中で、古事記や日本書紀の記述内容に歴史的事実がある程度、反映されるようになってきたのではないか。ただそうなるのかということも含めた研究が、専門家によってなされ、今ではいくつもの項目についても様々な説が出されている。スサノオノミコトの名前でさえ、斯く斯く然々このような意味を持つというような諸説がいくつもある。
 そういうところを見てみると、真相がよくわからない弥生から古墳時代、そして大和王権にいたる古代史というのは非常に興味深い。しかし古事記や日本書紀の、明らかに神話であり作り話であるような記述に対して、何故細かいところにこだわった研究がなされているのか、その意味合いについて私なりに思う所はあるが、もうひとつしっくりこないところでもある。

           

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恋塚寺~念仏寺~妙教寺 京都市伏見区・・・有名無名あるが、どこもいいお寺

2019-05-29 23:48:51 | 撮影

恋塚寺



『戀塚寺
 利剣山と号する浄土宗の寺院である。
 寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤武者盛遠が、渡辺佐衛門尉源渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。
 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して、文覚と名乗り、彼女の菩提を弔うため、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。
 本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。
 境内には、宝筺印塔があり戀塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝えられている。本寺の縁起物語は、古来より人倫の大道を教えるものとして、物語、詩歌、謡曲などで知られている。
 京都市 (駒札より)

 
 恋塚寺は下鳥羽地域の国道1号線の西側にある。
 門前の通りは細いが抜け道のような形になっていて、結構車が多い。
 寺の名前の由来は上記の駒札の内容の通りだ。源渡の妻である袈裟御前が自分の身を呈して夫を守ろうとした、悲劇の物語からこの名前が付いていると言われる。境内にある宝篋印塔がその袈裟御前の墓ではないかと考えられている。
 寺の規模自体は非常に小さいもので、街道沿いの住宅が建ち並ぶ中にあるが、数台分の駐車場もあって、参拝者にとってはありがたい施設配置となっている。
 境内もよく整備されており、樹木が立ち並び過去の悲恋の話を知った上で訪れると、お寺に漂う落ち着いた雰囲気が、何か悲しさをもたらしてくれるような思いになる。
 平安時代の終わりにこの土地に、袈裟御前が住んでいたと言う。そこで起こった悲劇の事件は、直接彼女の夫を殺害する目的で、結果的には袈裟御前を殺めてしまった真言宗の僧侶である文覚が、1182年、お堂を建てたのがこの寺の創建に繋がると言う。
 文覚という人は元々は、遠藤盛遠と言う源氏側の武士であり、源渡の妻であった袈裟御前に惚れてしまったために起った悲劇であったわけだ。出家して文覚となった彼はその後、波乱に満ちた人生を送り、最終的には後鳥羽上皇により佐渡送りの刑に処せられるが、その道中に亡くなった。そのような物語が背景にあるということで、恋塚寺はその名前もあってか、結構人気のあるお寺のようだ。
      


念仏寺



 淀競馬場の近くにあり、すぐ近くを桂川が流れる。念仏寺という名前から浄土宗の寺であることは明白にわかる。
 しかし、この寺に関する情報が全くない。手持ち資料やネット上の情報も調べてみたが、どこにもなかった。唯一わかったのが、浄土宗捨世派という宗派の寺であるということだけ。
 門をくぐって境内に入ると、多くの樹木やツツジの花が綺麗に配置され、狭いながらも非常に良い雰囲気のお寺だ。本堂なども小ぶりではあるものの、全体として非常によくまとまった雰囲気に満ちている。
 名前から、何らかのいわれのあるお寺ではないかと想像しながら行ったものの、説明書きも何もなく、残念ながら無名と言っていいほどのお寺だった。しかし全体としてよく整備された良いお寺だと言える。なお、すぐ隣が次の妙教寺となる。
         


妙教寺



『妙教寺
 当山は寛永三年(一六二六)、大坂の富豪商人、法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室淀殿が住んでいたと伝わる淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺である。宝泉院日孝を開山上人に仰ぎ、寺地は新しい淀の初代城主、松平定綱公から寄進を受けた。
 十八世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保十一年(一八四〇)に再建されたものである。
 慶應四年(一八六八)、戊辰戦争鳥羽伏見淀の戦いでは周辺が戦場となり、一月四日、本堂の壁、柱を砲弾が貫通し、その跡と砲弾を保存している。平成二十五年(二〇一三)、京都市により、「京都市民が残しいと思う建物」に選定された。
 境内には淀古城跡の碑や榎本武揚揮毫の戊辰之役柬軍戦死者招魂碑、戦没学徒木村久夫の碑、当山鎮守きつね「小満・小女郎」の塚がある。
 京都市 (駒札より)

    
 最後に妙教寺へ行く。
 由緒については上記駒札の内容の通りだ。鳥羽伏見淀の戦いで大砲の弾が誤って着弾し、その跡が今も保存されており、またその時の砲弾がお寺に保存されている。もちろん堂内に入らないと見ることはできないが、この日は公開日でも何でもないので、後に写真で見ただけだ。その砲弾も思いのほか綺麗な形で残っていた。
 駒札の最後にある鎮守狐「小満・小女郎」の件について簡単に書いておく。
 その昔、妙教寺に狐の夫婦が住み着いていた。住職は小満・小女郎という名前をつけてかわいがっていたが、ある時狐夫婦が住職には内緒で、勝手に買い物をしたりして子狐に与えたりしていたことが発覚し、住職から寺を追い出されてしまった。
 狐夫婦親子は都の方へと歩いて行ったが、食べるものもなく小満が行き倒れとなってしまった。そこを貧しい老夫婦によって救われ、狐夫婦は感謝して老夫婦に、せんべいを作って売るように話した。そのせんべいが非常に美味しいということで都にその話が広がり、老夫婦は貧しさを脱却し金持ちとなった。こうして小満・小女郎はお稲荷様のお使いとして崇敬されるようになる。その後狐夫婦は妙法寺の住職の夢枕に立って、かつて犯した罪を詫び、お寺の鎮守としてお寺を守っていくと言う約束をしたと言う。この話に基づいた塚が境内にある。

    

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州見山 念仏院 安養寺~幣羅坂神社 京都府木津川市・・・古代の様子は?

2019-05-27 23:07:43 | 撮影

州見山 念仏院 安養寺



 岡田国神社から南へ約2 km。木津川市州見台にある安養寺に行く。
 近くを国道24号線、JR奈良線が走り交通の大動脈となっている。
 州見台について少し調べたが、全く何の資料もなく類推でしかないが、この辺り一帯は少し高台になっていて、特に京都南部の一帯がよく見渡せる。そういった点から「国(州)見」という地名が随分昔から使われていたんだろうと思われる。かつては単なる丘陵地帯だったものが今や、大開発が進められ多くの戸建住宅、マンションが建ち並び木津川市全体の人口は今現在も急増している。
 安養寺は本来ならば、その丘陵地の林に囲まれた中にあったと思われるが、現在は周りは住宅だらけ。背後に小山はあるものの、その意味では静かな風情はやや失われている感じがする。
   
 門から本堂にかけての構えはなかなか立派なもので、本格的な寺院と言える。本堂は少なくとも見た目には比較的新しいように見える。再建されたのか修復されたのか分からないが、かなり綺麗な建物だ。境内全体もよく整備されており、すっきりした眺めとなる。
 創建は奈良時代初めと考えられている。当時、東大寺の大僧正の役にあった行基が大仏造営の勅命を受け、この寺を開き近くを流れる木津川に祈りを捧げたのではないかと思う。
 木津川の名前の由来は、この地に水運の港があり、上流から上質な木材が運搬されここで陸揚げされて、平城の都に陸送されたと考えられている。そういった意味では、平城京の建設や大仏殿建設などに大きな役割を果たした重要な場所ということになる。
 ここ安養寺では僧侶による祈りが捧げられ、木津川の氾濫が無いように願いが込められたんだろうと思われる。
 その当時は州見山阿弥陀寺と呼ばれていたが、後年寺が荒廃し、再建をされた後に、総本山知恩院によって州見山安養寺と改称することになった。そこから念仏院の号も入れられることになったようだ。
   


幣羅坂神社 へらさかじんじゃ



 安養寺から南へ約100m。奈良街道沿いに幣羅坂神社がある。
 幣羅坂という地名に古代からの歴史を感じさせる。「古事記」や「日本書紀」にも出てくる地名だ。
 神社そのものは参道から境内に入ると、思った以上に広く正面に見える拝殿・本殿共に、これまた立派な建物だった。境内全体もよく整理されており、この地域の鎮守社として大切にされているんだろうと思う。
 祭神は、天津少女命(あまつおとめ)・大毘古命/大彦命(おおひこ・おおびこ)。
 古事記を中心とする様々な文献研究の中から、次のような推測がなされている。
 3世紀頃の大王と思われる崇神天皇が、大毘古命天に対して、越の国(現在の北陸地方)へ遣われる際に、幣羅坂である少女に出会い、その少女が繰り返し同じ歌を歌ったと言う。大毘古命は不思議に思って朝廷に戻り、この件を報告。その歌の内容から崇神天皇は側近の皇族による反逆の動きを知り、大毘古命が幣羅坂に戻ってその反逆を抑え込んだ。
 その時に彼は州見山に登って、神の社を築き祀ったと言う。後に朝廷はこの地に宮殿を建立。きっかけになった少女を「天津少女命」として祀り、この社は幣羅坂宮と呼ばれるようになったとのこと。後に「大毘古命」が亡くなった後、この地に一緒に祀られたと言われている。
 これが後に神社となるが、後年様々な変遷を経て春日神社と称することになった。明治時代になって神社側から請願が出され、現在の幣羅坂神社の名前に戻されたと言うのがこの神社の歴史ということになる。
    
 崇神天皇も祭神の少女や武将も、日本書紀や古事記に登場する人物だ。そういった意味では、この神社の創建後の由緒も神話に基づくものではないかとも考えられなくもない。しかし、古事記の記述は途中から事実を元にした記述になっていると言われている。ではどこから歴史的事実を反映しているのかという点については、様々な学説があって決定的なものはないが、ここに登場する崇神天皇は、実在の可能性が高いと言われている人物だ。
 もし実在していたとすれば、3世紀後半から4世紀にかけての天皇ということになる。古墳時代の終わる前だ。実在の根拠としてあげられているのは、それまでの登場人物や大王たちが、現在の奈良周辺の行動に限られているような文章であるのに対し、崇神天皇の話からは、一気に様々な人物の行動範囲や情景描写なども、かなり広い範囲になっていることから、具体的な事実を反映しているのではないかと考えられている。
 もちろんこれも諸説の中の一つに過ぎないことは確かだが、可能性ゼロというわけではない。特に少女の話などはどうにもこうにも、信じがたいような作り話的な感が否めない。そういった意味では、部分的に神話的要素を残しながら、周辺の状況の具体的な事実を入れ込んでいるような謂わば、記述の真偽の境目あたりになるのではないか、とも言えないでもない。
 こういう話についてはただ単に、古事記や日本書紀をを読んでみたというだけでは到底理解はできない。その後に発刊されたさまざまな古文書にも色々な記述があるだろうし、そういったものも全部含めて多角的な検証と推察が必要になってくる。素人の方でも随分詳しい方がおられるようだが、私のような社会科の教員をしていたくらいのレベルではとてもじゃないが、対応するのは非常に難しい。
 しかし様々な情報を読んだりしてみると、ある意味歴史的なロマンというものも感じるの確かだ。もちろんあくまでも科学的な視点で見ていくことが大事であり、神話の内容に真実性を覚えるようなことがあってはならない。最近では書店に行くと、漫画で読む古事記、などと言った何とも言いようのないような書物もたくさん出ている。入門用なのか、それとも古代英雄伝説の誇りを伝えようとしているのか、意図は分からないが、様々な角度から発刊されている書物にも十分気を付ける必要がある。とにかく学校の歴史教科書にも神話の世界が掲載されていると言う現実的な問題もあるし、十分気をつけてそしてことが大事だ。
  


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岡田国神社 京都府木津川市・・・藤棚があった

2019-05-26 23:29:54 | 撮影


『岡田国神社
 木津川市木津大谷
 岡田国神社は、近世まで「天神社」と称し、木津郷五か村の氏神として祀られてきました。
創立については明らかでありませんが、明治十一年(一八七八)に延喜式内岡田国神社に比定されました。
 西面する境内の社殿配置は、石垣の上に透塀を構えた一段高い所を神域として、本殿・摂社・小社などが建ち並び、その下の広場には、舞台を中心にしてそれを囲むように拝殿・南北の氏子詰所を配しています。現在の諸建物は、拝殿が元和六年(一六二〇)に建立、両本殿が安永三年(一七七四)に再建、南北両氏子詰所が明治四十年(一九〇七)に改築、舞台が同四十三年(一九一〇)に改築されたものです。
 本殿は、左右両殿より成り、同一形式の同一規模の一問社春日造の社が並んでいます。このような本殿のあり方は、春日大社の影響を示すもので、奈良県下を中心に見られますが、府下において同時期に同一規模で社殿が建立されているのは希な例となっています。
 拝殿は、切妻造で本瓦葺の桁行五間、梁行二間の大型の建物で、柱太く力強い梁組を見せる、希少な建物です。
 舞台は、方一間の切妻造で棧瓦葺の質素な建物です。
 この舞台を挟んで南北に相対する両氏子詰所は、「仮屋」とも呼ばれる、桁行六間、梁行二間の切妻造で棧瓦葺の建物で、舞台を意識して、床面全体に緩やかな傾斜を付けた造りとなっています。
 当神社にみられる、舞台を中心に拝殿・南北氏子詰所が配された構成は、府南部の相楽郡地域に伝わる配置形態ですが、現在この形式を保存している神社は少なく、山城地方の室町時代の惣の社の姿を伝えるものとして重要な遺構となっています。
 このように、貴重な遺構の多い岡田国神社は、昭和六十三年三月、社殿が府登録文化財、背面の森を含む境内一帯は、文化財環境保全地区に決定されました。
 また、当神社では、毎年十月二十一日に木津の秋祭り「布団太鼓台祭」が盛大に行われます。
 昭和六十三年三月
 木津川市教育委員会 (駒札より)

『創祀概略
 岡田国神社の創祀は遠く飛鳥時代、斉明天皇の白雉五年(六五四)に生国魂尊を祀ったのが始まりと伝えられています。後年、境内敷地を発掘調査したところ、奈良時代前後の土器などはもちろん、はるか一万三千年前の石器までもが多数出土しました。
 奈良・平安時代に編纂された六つの官撰国史のひとつ「三代実録」によれば、清和天皇の貞観元年(八五九)、岡田鴨神社(従五位下)、岡田國神社(従五位上)奉授とあります。また平安時代、醍醐天皇の勅命により編纂された「延喜式」では、月次新嘗大社に列せられています。明治六年五月、郷社に列せられ、同十一年三月には「延喜式」内岡田國神社として確定されました。
 応仁天皇を祀った八幡宮の創祀は天慶元年(九三八)丁酉十一月と伝えられています。平安時代に入り、天神信仰が高まりつつあるのに従って菅原道真公を合祀以後は天神宮と称され、木津郷五ケ村の氏神として信仰を集めながら今日に至っています。また明治九年には稲荷社および恵美須社が字池田二十三番地より、厳島社が字雲村四十一番地よりそれぞれ遷宮され、現在の当神社の姿ができあがりました。このように千三百年以上もの歴史を刻んできた岡田国神社。その名前は、「東院毎日雑記」の応永三十五年(一四二八)正月にも見いだすことができます。(以下略)
 (パンフレットより)

   
 木津川市の岡田国神社へ行く。
 当ブログでは2年前の6月に取り上げている。ちょうどその頃神社のすぐ横を通る新バイパス工事の開始といった頃だった。あれから2年経って、工事は最盛期を迎えている。橋脚が立ち高架橋の一部も出来つつある。景色は大きく変わる。
  
 今回訪れた目的は、小規模ながら「藤の花」があるということで訪れた。前回はたまたまおられた話好きの住職さんと長話をして、色々とお面白い話も聞かせて頂いたが、今回は最後までどなたの姿も見ることはなく、ただ境内を歩き回って写真を撮っただけだ。
 本堂のすぐ近くに藤棚があった。花もいい具合に咲いていて綺麗な紫ではあったが、やはり規模としてはかなり小さい。
 藤の花を撮った後は本殿にお参りして、境内北側にある旧社殿を回る。こちらの方が年季が入っていて、何か見応えも撮影しがいもあるといった感じだ。上記の説明書きの中にある建物名もこちらの方にある。やはりこちらの方が歴史のある神社らしい神社という感じだ。
  創建の詳しいことは分かっていないが、飛鳥時代と言われる。1300年以上も前の話だ。 上記の説明書きによると、明治時代に延喜式神名帳の同名神社に比定されたと記されている。つまり「式内社」ということになる。しかし実際にはその後の様々な研究で、式内社と特定するのが無理だという話になっているようだ。現在ではこの岡田国神社と同じ市内にある勝手神社と共にある春日神社が論社扱いとなっていて、未だに決着がついていない状況ということだ。
 岡田国という名称については、もともと「岡田」という地名については古代からその地名が出てくる極めて由緒がある名前だ。当時の大和朝廷の天皇がこの地に岡田離宮というのを建てたと言う。この岡田という地域は、加茂郷と久仁郷から成り、奈良時代に朝廷とは別にこの久仁郷に「恭仁京」を遷都した。ほどなく滅びてしまうが、この恭仁という名称と合わせて「岡田恭仁」と呼ばれ、それが後の岡田国神社になったものと考えられている。そういった意味では随分長い歴史的な由緒を持っていると言えるが、平安時代の延喜式神名帳との整合性は未だに取れないでいるので、この辺りの詳細については分かってはいない。

       
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妙心寺塔頭 桂春院と退蔵院 京都市右京区・・・藤の花を求めて

2019-05-24 23:35:11 | 撮影

妙心寺

 

 右京区花園にある妙心寺へ行く。
 車で行く場合にはナビでは北側の入り口に案内される。そちらにも駐車場があるからだろう。しかし本当は南側の横に広い駐車場がある。ナビとしては失格だ。公共交通機関では市バスの他、京福電鉄に妙心寺駅があり北側のすぐ前になる。
 妙心寺は広大な敷地を持ち、南北に6~700m位、東西も500m位はあるだろう。臨済宗妙心寺派の総本山で50近くのは塔頭がある。しかし通年で公開しているのはそのうち、僅か3寺院でしかない。
 妙心寺の創建は建武四年、(1337年)花園法皇による。禅のお寺であり、その意味では禅の修行中心として成り立っており、いわゆる観光寺院にはならないんだろう。そういう事情もあってか、塔頭寺院が並ぶ通路では、隣接する高校の部活の生徒たちが男女問わずランニングのコースとして利用していた。
 今回の目的は通年で公開されている退蔵院。しかしせっかく妙心寺に来たのだから、表にあたる南総門へ行く。この門は国の重重要文化財。巨大な三門が現れる。続いて仏殿、法堂と続く。これらも全て 重要文化財に指定されている。圧倒的な迫力で迫ってくる。一部工事中だったのだが、とにかく見事なものだ。この周辺が妙心寺の境内の中心部になる。池があり多くの樹木が立っている。多くの観光客もこの辺りを中心に見学している。この日は本堂が公開される日で随分人が多かった。
                
 この日は北総門(これも重要文化財) から入ったので、いきなり塔頭寺院が建ち並ぶ迷路のような石畳の通路を右へ左へと歩くはめとなった。その途中で公開寺院があったので寄っていく。桂春院だ。但し本来の目的は退蔵院。
      
 *これらの画像の中にはたまたま門が開いていた「大心院」のものも含まれています。


桂春院



『桂春院
 慶長3年(1558)に美濃の豪族石河壹岐守貞政が桂南和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
 庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分かれる。北条南庭は、北側の崖を躑躅の大刈り込みで蔽い、その下に東より、椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に定地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。
 茶室は草庵風の三畳の席で、藤村庸軒の好みと伝えている。
京都市
 (駒札より)

 
 妙心寺の塔頭の中では、今までに退蔵院にしか行ったことがなく、ここ桂春院は初めてとなる。
 多くの重要文化財なども保有しているが、公開されていたのは庭園。境内全体が樹木や植物で密集しており、方丈からは整備された庭園を拝見することができる。シーズンオフということで何かの見頃というものはないが、全体的に緑葉であってもなかなか見栄えがする。ここは通年公開ではあるが、他に特別な公開も何かあったようで、大勢の人が入場していた。きっと秋の紅葉シーズンには見事な風景が見られるだろう。
      


退蔵院

 

『退蔵院
 越前(現在の福井県)の豪族・波多野重通が、妙心寺三世の無因禅師を開祖として、応永二年(一三九五)に創建した妙心寺の塔頭である。
 建物はその後再建され、現在の方丈(重要文化財)は慶長年間(一五九六~一六一五)の建築である。
 方丈西の庭園(国の史跡及び名勝)は、室町時代の有名な画家・狩野元信の作庭と伝えられている。二百平方メートルほどの広さであるが、石組本位の枯山水庭園で、一見無造作に石や橋が配置されているように見えるが、全体として見事に絵画的な調和を保っている名園である。
 寺宝のうち瓢鮎図一幅(国宝)は、瓢箪でなまずを押えるという禅の公案(試験問題)を絵に表したもので、足利義持の命により如拙が心血を注いで描いた最高傑作としてよく知られている。如拙は相国寺の禅僧であったが、宋元画を学び日本の水墨画を開拓した先駆者で、雪舟もわが師と呼んで手本としたといわれている。
 ほかに、花園天皇、後奈良天皇の宸翰(重要文化財)などを蔵する。
 京都市 (駒札より)

         
 最後に退蔵院へ入る。
 ここは桜の名所であり、紅葉の名所でもある。また他のシーズンでも綺麗な緑樹や花々を見ることができる。私にとっては見慣れた境内だ。なぜここを目的に行ってきたかと言うと、京都でも数少ない藤の花の名所ということで撮影に訪れた。やはり特別公開ということで方丈などの建物に入ることもできる。今までは庭園だけしか入っていないので、初めて堂内に入った。
 この寺院が保有する有名な「紙本墨画淡彩瓢鮎図」の模写が掲載されていた。もちろん国宝。現時点では日本最古の 水墨画と言われている。長期にわたる保存はかなり困難なので、本物は京都国立博物館に寄託されている。

 模写であっても、禅問答の一つを絵に表したものとして、なかなか見事なものだった。もちろん問答の内容や意味はさっぱり分からないが。
 方丈を出て境内に入る。歩きなれた通路。ツツジなどの花がきれいな色を放ち、背景の庭園と見事にマッチしている。池の周りをぐるっと回りながら要所要所で撮影して行く。そして最後に藤棚が見えてきた。
 さすがに人が集まっている。規模としてはやはり小さい。それでもあちこちで簡単に見られるものではないので、しかも短い期間なので、この藤棚を求めて多くの人が来ているんだろうと思われる。仮に藤棚がなくても、このポイントからの庭園の眺めは素晴らしいというほかない。退蔵院が妙心寺の中でもずば抜けて人気があるのもわかる。
 こうして貴重な藤棚を撮影することができて大いに満足。次は紅葉シーズンの時に多分来ることになるだろう。でもすでに退蔵院の紅葉は撮影済みだが。

           

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