切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《自民党の議員によるLG BT差別発言は、完全に差別であり人権否定の問題だ》

2020-10-30 23:06:00 | 社会

 自民党国会議員の水田水脈氏による「LG BTは生産性がない」うんぬんの発言が物議をかもしてから1年になると言うのに、いまだに自民党の地方議員による同じような発言が止まないと言う実態。


 1つは東京の足立区議会議員白石正輝氏が「日本中がLG BTになってしまうと足立区や日本が滅んでしまう。」と言う明確な差別発言を議会の場で行った。さらに「レズやゲイが広まってしまうと足立区民はなくなってしまう。」と言うあまりにも飛躍した言い方で、差別発言の内容をさらに強化した。何を根拠にこんなことを言っているのか全くわからない。

 第一LG BTと言う人々のことをこの議員はどれだけ知っているのか。レズやゲイだけではなく、バイセクシャル、トランスジェンダーといった人々が自分から進んでそうなったと言うのだろうか。これは趣向や趣味の問題では無い。生まれながらも含めて、生まれ育ち生育過程の中で、様々な影響や刺激を受ける環境因子も含めた、周囲からの影響といったものも含めて、備わってしまった性質と言うべきものでは無いだろうか。

 調査機関によると今現在日本の人口のうち約9%LG BTを含む、何らかの性質を持っていると言われている。昔はレズやゲイと言うのはキワモノ扱いで、興味本位の対象でしかなく、そのような人たちを扱った月刊誌などがあり、書店でもカーテンで隠されたコーナーに置かれていたのを覚えている。しかし医学的な研究が進む中で、ただ単に本人が好きで、あるいは趣味でやっているようなものではなく、生まれつき、あるいは上記のように様々な影響を受ける中で、本人の意図せぬ形で備わったものだと言うことが明らかになり、LG BT以外にも新たな概念の性質があると報告されている。つまり理屈で片付くような問題では無いのだ。

 特に日本のような周囲を海で囲まれた島国で閉塞的な環境にある国においては、国民全体が似たような性格を持ちやすく、それは同調圧力のような形で人々の中に根付き、多数派とは異なるような意見や考え方は異質なものとして排除される傾向にある。簡単に言えば国全体が保守的な方向で定着すると言う形になりがちだ。文明の発達によって他国とのつながりが広くなるに従って、多種多様な考え方や理解の仕方と言うものが日本にも入ってくるにつれて、少しずつではあるものの日本の中でも少数派の考え方が認められる場面も出てきた。

 LG BTについても少しずつ理解が進んだと言える。ただし日本だけとは限らないが、テレビなどメディアの世界では女装家と言われる人々や、喋り方や仕草の特徴をとらえてオネエなどといった言い方でそれをお笑いの対象にするようなことが大っぴらに行われている。これらはもちろんLG BTとは全く違う。それはひょっとしてその人の趣向であったり、芸人にとってみれば芸の範囲内であったりするものだ。その辺の区別がないままではLG BTを曖昧にメディアが知らしめていても、人々の理解は全く進まないしむしろ危険な誤解を生むことになる。だからこそ今現在では学校教育の場でもLG BTについて学ぶことになっている。私が中学校で教鞭をとっていた頃はLG BTと言う語句はなかったし、わずかにゲイやレズといった言葉が面白おかしく使われていたものだった。

 こうした性の多様性について幅広いあり方と言うものが世界的に認識されるにつれて、その人たちの「人権」と言うものが大きな課題になってくる。LG BTの人たちは様々な公的な場の利用において、どちらを利用すれば良いのか、どういう立場で行動すればいいのか、等々様々なハードルが立ちはだかる。いち早くこれに対して取り組みを具体化させてきたのはヨーロッパの諸国だ。続いてアメリカ。日本は大幅遅れというのが実態。それでもなんとかかんとか世界の趨勢についていってはいる。

 ある意味本格的なインクルーシブの実現はこれからの大きな課題と言うことになる。それを当事者だけに押し付けてほっとくのは不可能であり、様々な要求に応じて各自治体、あるいは国も含めて公的な立場にあるものが、具体策を出して実現させていかなければならない。

 そういった意味で国会議員や地方自治体の議員の果たすべき役割は極めて大きいのだ。しかしこともあろうにその議員自身が、水田水脈氏にしろ足立区議会議員にしろ、公的な場で「マイノリティー差別」を公然と行う。まぁアメリカでもトランプ大統領が公然どころではないような大声で、人種差別、マイノリティー差別を1365日ほとんど毎日やっているのだが、それの真似をして日本の老人の議員がおんなじことをやっている。この情けなさに、日本の未来は無いなと思わざるを得ない。


 ところがなんとなんと、足立区議会議員が一応謝罪したにもかかわらず、これを無視して、東京の隣の埼玉県春日部市の無所属市会議員である井上英治氏が、やはり市議会と言う公的な場所で「LG BTへの差別など市内に存在しない。」と言いさらに「小学校や中学校でレズビアンやゲイについて教える必要は無い。もっと分数とか英語とか勉強することがある。」との発言。これは市議会に対して、民間団体がパートナーシップ制度導入の陳情を行ったことに対する反論みたいな形でなされた、れっきとした「差別発言」そのものだ。

 何かもう呆れるというか、あまりにもばかばかしくて論じること自体が本当に意味があるのか、なんて疑問も湧いてくる。足立区議会議員もそうだったが、この春日部市議会議員も老人だ。国会議員の水田水脈氏は中年女性だったが、今回の2人はともに男性の老人。これはただ単に勉強不足なのか、あるいはLG BTと言う上部の言葉だけしか知らないのか、それともある程度何か本を読んでちょっとだけ知識はあるけれども、こんなもの許せないと言う頑固な思いがあるのか。まぁはっきり言ってどうでもいいことだが、こういう人たちが日本の国際化を邪魔していることだけは間違いない。

 菅総理が日本学術会議問題で盛んに「多様性」と繰り返しているが、まさしく日本国民も多様性があるのだ。その多様性を認めない。まさしくこれは老害以外の何者でもない。さっさと議員を辞めてくれと言いたい。足立区や春日部市と言ったら人口の多いところだし、そこの議員であれば議員報酬もかなりの金額だろう。つまり議員やってれば相当なお金になる。そういうおいしいところにいる人々だ。その上で平然と差別発言をする。弱者切り捨て、弱者排除。何年前だったか、自民党の老人国会議員が「日本国民は単一民族国家」などと言う無知をさらけ出して批判を浴びたことがあったが、今回の場合も同類と言って良いだろう。

 まぁはっきり言って区民も市民も選ぶ側にも大きな問題がある。どこの議会でもそうだが、老人が多すぎる。彼らはただ単に村議会であれ町議会であれ、当選したら名誉なことだといった具合だろう。ひょっとしてうまくいけば叙勲対象者になるかもしれないなんて思っているんだろう。前にも言ったことあると思うが、このような中には「俺を早く叙勲候補名簿に載せろ。」と要求する者もいると言う話だ。

 ちょっと問題がそれてしまったが、ほんとに情けない国日本。こういう発言がまかり通る背景には、国会のそして政府の、さらに内閣の嘘つき、ごまかし、税金の私物化などなどの犯罪的な、いい加減さがあるんではないかとさえ思う。元安倍総理のやりたい放題、仲良しのトランプ大統領のやりたい放題。これらを真似して少々大口叩いても問題ないとでも思ってるんだろう。区議会や市議会がどのような討議をしたのかは報道内容を知らないのでわからないが、徹底的に叩くべきだ。もちろん外部の市民や区民は怒り心頭だ。私も遠くから怒り心頭に足している。とにかく老害でしかない議員はさっさと辞めてくれ。

   (画像は他HPより) 

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朝日神明宮・猿田彦社 京都市下京区・・・ビルの谷間に

2020-10-28 21:47:26 | 撮影


朝日神明宮・猿田彦社



『朝日神明宮
 社伝によれば、貞観年間(八五八〜八七六)に丹波国桑田郡穴生村(現在の亀岡市)に造営され、 元亀三年(一五七二)に現在地に遷座されたといわれている。
 天照大神を祭神とし、かつては、南北は五条通から松原通、東西は河原町通から富小路通に至る広大な社域を有し、「幸神の森」と呼ばれた。
 末社として、竃神社、稲荷社、 祓川社、恒情神社、人九社、飛梅天神、八幡春日社、猿田彦社の八社があったが、天明の大火(一七八八年)及び元治の兵火(一八六四年)によってその大半が焼失し、現在は猿田彦社(幸神社)ただ一社だけが残り、神石二個を安置するのみである。
 江戶中期以降、明治維新まで増穗氏が代々神主を務め、中でも増穂残口(一六五五〜一七四二)は京の町々での通俗的神道講釈を試みたことで知られている。
 なお、当社の大祭は九月十六日である。
   京都市』  (駒札より)


 
 朝日神明宮は京都市街地のほぼ中央、五条河原町の北西に位置する。
 この辺りは大きなビルやホテル、マンションが建ち並び平安の時代から続く細い縦横の路地は一層狭く感じられる。そんな場所に小さな敷地の中、神名宮は存在している。
 京都市による駒札が立てられているのでそれ相応の歴史的な由緒のある神社であるということが分かる。内容は上記の通り。
 平安時代の中期に創健され、戦国時代に現亀岡市からこの地に移ってきたと言う。由緒書きを見ると当時はかなり大きな神社であり、末社も数多く抱えていた。平安時代から続く京都の多くの、今では文化財としての大きな価値がある数々の建物なども、応仁の乱、及び天明の大火で大半が焼失している。ここも例に漏れず天明の大火で焼失と言うから非常に残念なことだ。末社も わずか一社だけ残り、それが幸神社つまり猿田彦社だ。
 境内そのものはビルの谷間にあって、おそらく陽が当たることはあまりないような状況になっている。周囲を高いビルに囲まれているためにこの場所は晴天の日でも何かじめっとした感じだ。境内には緑も少なく神社の本殿と末社がぽつんと建っているだけという雰囲気。往年のことを想像すればやはり寂しいものだと言える。
 祭神は天照大御神。言うまでもなく古事記に登場する神であり、女神と解釈されている。高天原において日本の神の中でも主神として扱われている。様々なことに対するご利益がある神として崇敬を集めており、特に伊勢神宮内宮の祭神として有名だ。天照大神は科学の発達していない当時の人々の崇める対象として、やはり自然現象というのが大きく広い土地を照らす太陽は、そういった意味では最大の神としての意味を持っており、同時にその太陽の動きによって様々な天変地異、あるいは農耕作などに影響を与えるという意味では巫女的な意味合いも持たされていたと言われている。
 また猿田彦は天孫瓊瓊杵尊を案内し、行き先を照らして天孫降臨を助けた神とされる。猿田彦を祀る神社は日本各地にあり、猿の石像が置かれているケースが多い。その猿もなぜか小猿を抱きかかえてることが多く、その辺のいわれについてはよくわからなかった。
 近くの五条大橋の西端には弁慶像もあり、また五条通の南側には多くの寺もある。交通量の多い場所ではあるが、この神社に限らずお寺も見どころのあるところが多く、この近辺をゆっくり回るのもいいだろう。
    
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白山大明神・慶照寺 京都府京田辺市・・・白山信仰?

2020-10-26 22:12:15 | 撮影
白山大明神

 

 京田辺市の三山木。西の方向へ向かうと京奈和道がある。その下をくぐったところに白山大明神がある。
 山の麓にあって少し上がったところが境内となっている。全体的に素朴な神社で赤い鳥居も本殿も小さめであり、名前の割にはあっさりした感じだ。駒札も何もなく由緒等一切わからない。
 名前の白山大明神を根拠として考えると、ここから南の方へ少し行ったところに、白山神社というのがある。この神社は本殿が国の重要文化財であり、かなり立派なものだ。名前としては同じ「白山」とついている。この名前の神社は今現在では全国各地に広がっており、その背景には「白山信仰」というものがあるようだ。これは今の石川・福井・岐阜県にまたがる白山 という山の威厳のある姿から、古代においては修験の場であることも含め、何らかの山岳信仰の対象になっていたと考えられている。実際に上記3県においては白山と名前のつく神社が集中している。
 南北朝時代に南朝と北朝の争いを通して、北陸地域の僧兵たちが戦いに加わったりして影響を与えた中で、一気に白山信仰というものが知られ各地に広がって行くことになった。こうして白山という山は今の日本アルプスの中にあるが、信仰自体は各地の山々が地域に住む人たちによって崇められ、祠に祀られることによってそれぞれ小さな信仰があったものが、この白山信仰に取って代わり、大きな山や何らかのいわれのある山、あるいは地域にとって大事にされている山、頼りにされている山の周辺に、この白山信仰が定着していたのではないかとも考えられる。
 京都府南部の山城地方は東西を山に挟まれており、様々な生活が営まれまた度々騒乱の場ともなっている。そういった意味では日々の生活の平安を願って、山としての規模は小さいもののこのような白山信仰が根付いたとしても決して不思議ではないような気がする。近くの白山神社も、そしてこの白山大明神も同じような経過から建てられたらものではないかと推測してみた。
  なお付け足しの話だが、私が住んでいる宇治市にも白山神社がある。本殿は鎌倉時代に建てられた国の重要文化財だ。この神社の名前はやはり北陸地方から勧請されて建てられたものだと言うことが分かっている。宇治市も同じく京都府南部の山城地方に該当する。京田辺市の白山大明神も似たような経過で創建されたとしても決して不思議ではないと思う。あくまでも推測ですが。
    


慶照寺

  

 三山木から生駒を結ぶ府道沿いにあって、国宝を有する有名な観音寺を過ぎて少しのところにある。
 慶照寺は浄土宗西山禅林寺派のお寺で、法然の教えに基づいて庶民の人々にもやさしく仏教の教えが理解できるよう尽力し、その結果全国各地に建てられた浄土宗のお寺のひとつだ。したがって周辺地域の人々が檀家さんとしてお寺を支えることになる。それぞれ仏教における祭や行事などで中心になる役割を果たしている。浄土宗のお寺はどこでもそういう役割を持っており、一般的には本尊が阿弥陀如来であり、観光寺院でもないので地域以外では目立たないお寺となる。
 石段を上がって境内に入ると非常によく手入れされており、とても心地いい。石造十三重塔は結構新しそうで、本堂とともにお寺の様式は一般的ではあるものの、元々が静かな地域であり一層このお寺が地域の中心として果たしている役割が分かるような気がした。

    
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三ノ宮神社~松尾神社(天照皇大神宮) 京都市南区・・・松尾大社の縄張りなのか?

2020-10-24 22:48:25 | 撮影
三ノ宮神社

 

 東海道本線京都駅。次いで西大路駅。その西側に東海道本線と新幹線が並走する区間が続く。その真横に三ノ宮神社はある。
 両線の列車本数が非常に多く、かつまたこの場所ではかなりスピードも出ているので相当騒々しい。このあたり一帯は比較的大きな工場が多いが、民家もある。そんな中の神社だ。本来なら境内には巨木があるものだが、やはり巨木の枝が線路上の方へ伸びると危険なことになるので目立った巨木はない。少し離れたところに中程度の樹木があった。
 説明書きも何もないので由緒は全くわからない。境内も本殿も比較的小ぶりといえば小ぶりであり、木々もあまりないので全体がすっきりしすぎている。場所柄もあって見逃してしまいそうな位置にある神社でもある。
 名前の「三ノ宮神社」というのは全国各地にある。京都においてもあるいはまたはこの近辺においても多くの三ノ宮がある。このブログにおいてもいくつもの三宮神社を紹介してきた。本来三宮というのは、古代律令制が成立した頃に日本各地の地理的な行政区分として設けられた、「国」あるいは「県」、場合によってはもっと小さな地域のムラの中で3番目に位置する神社という意味を持っていた。
 ところがここの三ノ宮神社は「春日大社」「石清水八幡宮」「松尾大社」の三社を一緒に祀っているというのが名前の由来のようだ。おそらくこういう例は見られないだろうと思う。この場所にある小さな神社になぜ記紀に登場するような神ではなく、実在する大きな神社が祭神扱いされているのか、その辺りはよくわからない。
 ただ考えられるのは、この吉祥院という場所。言うまでもなく京都の西山に近いところにある。西山と言えば四条通りの西端に位置する 「松尾大社」との関係を考えざるを得ない。ところがこの地域には少なからず松尾大社の境外末社に位置づけられる神社が点在している。それぞれが独自の神を祀り、松尾大社との関連の由緒を持っているようだ。
 昔からこの地域に住んでいた人々が各地域ごとに神社を建てるにあたって、大きな御利益をもたらす松尾大社との関係を望んでいたことは十分理解できる。この三ノ宮神社の線路を挟んだすぐ北側には松尾神社というのがある。名前もそのものズバリ松尾大社の境外末社の位置付けとなるだろう。隣り合うような近くでこのように松尾神社がいくつもあったんでは、何らかの不都合がかつての人々の間にはあったのではないかと考えられる。そうしたところから本命は松尾大社だが、名前をそのまま載せるのではなく、春日大社や石清水八幡宮を祭神として迎えて、三つの宮として三ノ宮神社にしたのではなかろうかという想像も不可能ではないだろう。
 いろいろ資料を調べている中で、上記のような推理をしている人の HP があった。それを参考にしながら自分でも想像力を働かせて書いてみたら、当たらずとも遠からずといった感じがする。その方も大胆な推理を、という言い方をされていたが、ある意味なるほどと思わせるものがあった。
 ではなぜ春日大社や石清水八幡宮を持ってきたのかという疑問も出るが、ついでと言うにはあまりにも由緒あるご利益の大きな神社だ。大体にして神社の祭神というのはその地域ごとに何らかの意味付けさえあれば自由に設定できたんだろうか。
    


松尾神社(天照皇大神宮)

  

 三ノ宮神社から北へ線路をくぐって数100m。有名大企業の工場のすぐ横に松尾神社はある。別名なのかあるいは両表記なのか分からないが、天照皇大神宮の石柱も立っていた。
 神社そのものはかなり境内も狭く本殿も小型だ。ここは少し線路から離れておりやや大きめの木もあるって、比較的静かだ。境内に末社のような形で弁財天・稲荷大明神の小さな祠が建てられていた。
 この神社も説明書きなどなく、今ひとつよくわからない。まずこの名前が何を意味しているのか。松尾神社の方は名前の通り、西方にある松尾大社の境外末社の位置付けではないかと思われる。祭神が大山咋命であり、これは松尾大社の祭神の一つでもある。その共通点から境外末社ではないかと考えてもいいのではないかと思った。なお大山咋神は元々山の神であり農耕の神とされている。
 天照皇大神宮の方だが、これは元来伊勢神宮の内宮を意味する。過去の歴史において伊勢神宮と何らかの関わりがあったんだろうか。内宮の御祭神は天照大御神であり、この神社とは直接関係はないようだ。ひょっとして昔この神社に伊勢神宮への遙拝所か何かがあったのかもしれない。神社正面の鳥居は若干方向が違うが、伊勢神宮の方向に向いているような気がしないでもない。

      
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法雲寺(西念寺)~芝山神社~いぼ観音念仏寺 京都府京田辺市・・・三か所はお互いにご近所さん

2020-10-22 23:06:45 | 撮影
法雲寺(西念寺)



『西念寺

西念寺と十一面観音立像   京田辺市宮津白山五番地

 本寺は江戸時代の普賢寺郷十ヶ村の一つ「宮ノ口村」の 檀家寺で、高野山真言宗に属し、江戸時代の不動明王坐像を本尊とする。明治初年の神仏分離により、村の氏神「白山神社」の神宫寺(法雲寺)の請仏がここに移されたが、この中に等身の木造十一面観音立像があったと言い伝えられてきた。この像は平安時代後期 (十一世紀後半)の優れた作で京都府指定文化財に指定されている。 (現在は京都国立博物館に寄託)
 昭和五十五年(一九八〇)の修理により像の構造も判明 し、台座の蓮弁五枚には六種類の戯画も発見されて注目され、仏師定朝の後を継いだ弟子たちによる師の作風を正統的に受け継いだ量感のある遺作とみなされた。
 なお白洲正子が随筆『十一面観音巡礼 』の中で白山神社の十一面観音について記述しているのは本像にあたると想われ、明治初年の廃仏毀釈の際に普賢寺郷の牛頭天王社(朱智神社) の観音堂から極秘に移されたのではと推考される。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会』  (駒札より)

 

 法雲寺は近鉄京都線宮津駅と狛田駅の間にある。平地より少し高めのところに位置しており、到着すると石段がある。途中に上記の駒札があった。お寺の紹介というよりは十一面観音立像の紹介となっている。京都府の指定文化財で残念ながらここにはなく、京都国立博物館に寄託されているとのこと。お寺そのものは無住であり地域の人々によって支えられている。
 このお寺の資料を探していると、ネット上に禁教令との関係で説明されたものがあってそれを参考にさせていただいた。
 元々は戦国時代、豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出し、徳川幕府成立とともに江戸時代においても禁教令はそのままずっと継続されることになる。そういった意味ではキリスト教の広がりを防ぐ役割を担ってこの地に建てられたのが、この西念寺だという。本堂はあっさりした建物で、どうにも本堂らしさが見られない。境内全体もやはりあっさりしていてこれもまた寂しい感じだ。本堂そのものは数年近く前に建て替えられたと言う。そういった点から見逃されやすいお寺なのかもしれない。門のところにある石柱には法雲寺とあり、別の場所に西念寺とあった。本堂の建て替えと共に改名されたとのことだ。
   


芝山神社



 芝山神社は近鉄京都線の宮津駅東側にある。目印は三山木小学校で比較的わかりやすい。すぐ近くには本殿が国の重要文化財に指定されている式内社の佐牙神社もある。
 神社の由緒は全くわからない。説明書きも何もなくネット上その他を調べてもこれといった情報はなかった。芝山という名前も特に神社の成り立ちには関係ないようだ。
 祭神は「大山津見神」とされている。これは結構有名な神話上の神であり、古事記や日本書紀にも登場する。両書物にはそれぞれ別の漢字表記が当てられているが、大元は同じであり意味としては、「大いなる山の神」であり、多くの山を統治することによって山の神を鎮めるといった話のようだ。
 後年にはその意味が拡大解釈されて行き、庶民の農業や漁業商工業など様々な産業活動に御利益をもたらすものと解釈されるようになり、多くの人々から崇敬を集めた。なおこの神を祭神とする神社は全国各地にあり、比較的一般的な祭神と言える。
 神社そのものは比較的小規模なものだった。
    


いぼ観音念仏寺



 念仏寺は近鉄京都線及びJR学研都市線の三山木駅、南の方にある。
 名称の「いぼ観音念仏寺」というのは通称であり、正式には「浄土宗 西山深草派 踊躍山歓喜院念仏寺」と言う。このお寺も各地に多く存在する浄土宗のお寺で、西山派に属する。由緒などについてはわからないが、少なくとも言えることは画像のとおり、境内・本堂などほとんどが真新しいということだ。ごく一部江戸時代かそこら辺の小さな石仏が置かれたりしているが、古くからあったお寺が全面的に再整備されたのか、それともこの地に何かの理由で全く新たに建てられたのか、その辺りは分からない。
 今の時代にお寺新整備というのはあまり考えられないので、おそらく再整備されたものだと思われる。人がいる気配はなかったので、無住のお寺かどうかは分からない。南山城観音三十三箇所に指定されており、ここには置かれていなかったが、該当するお寺にはその三十三箇所のお寺の数や一覧表が置かれている。そういったところから考えるとやはりずっと以前からあるお寺だったんだろう。本堂の扉に描かれたマークについてはどういう意味があるのかはわからなかった。
 「いぼ観音」というのは全国各地にあり、そのお寺で観音さんに触れたりあるいは流れる水に触れたりすることによって、イボが治ると言うご利益があるそうだ。今ではイボというのは一種の皮膚病であり、あまり心配する必要のないものかもしれないが、昔は顔にできた大小のイボは見た目にも不快感があり、自分の身に何か良くないことが起こるのではないかと恐れられた面もあったのではないかと思う。確かにイボの中には悪性腫瘍に転化していくものもあると言われており、その意味では死に直結する場合もある。したがって当時の人々ができたイボを気味悪がって、何とか治したいとの思いで観音さんにお願いをしたというのはよく理解できる。

    
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