切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2023年 京都の桜 法金剛院  京都市右京区    2023.3.28 訪問

2023-03-31 23:00:59 | 撮影
    

『法金剛院
 五位山と号する、京都では数少ない律宗寺院である。極楽浄土に見立てた浄土式庭園は有名で、平安末期の姿をとどめている。花の寺としでも知られ、とりわけ蓮の名所として名高い。
 平安時代の初めに右大臣清原夏野がこの地で営んだ山荘を、没後、寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起こりで、大治五年(一一三〇)に鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と改めた。四季折々の美しい景観は、待賢門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠まれている。その後、弘安二年(一二七九)に円覚により再興され、律宗に改められた。
 本堂は元和四年( 一六一八)に再建されたもので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像、四本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊坐像(いずれも重要文化財)などを安置している。また、寺宝として、蓮華式香炉(重要文化財)などの工芸品や書画など多数を蔵している。
 庭園は、昭和四十五年( 一九七〇)に発掘、復元されたもので、池の北側にある巨石を並べて造られた「青女の滝」は、五位山と呼ばれる背後の山とともに国の特別名勝に指定されている。
 京都市』  (駒札より)

        

 『法金剛院は律宗、唐招提寺に属している。この寺は平安時代の初め、天長の頃(八三〇)右大臣清原夏野が山荘を建て、死後、寺として双丘寺と称した。その頃、珍花奇花を植え、嵯峨、淳和、仁明の諸帝の行幸を仰いだ。殊に仁明天皇は内山に登られ、その景勝を愛で、五位の位を授けられたので、内山を五位山という。
 次いで文徳天皇が天安二年(八五八)大きな伽藍を建て、定額寺に列し天安寺とされた。
 平安時代の末、大治五年(一一三〇)鳥羽天皇の中宮待賢門院が天安寺を復興し、法金剛院とされた。寺は五位山を背に中央に池を堀り、池の西に西御堂(現本尊丈六阿弥陀如来)南に南御堂(九体阿弥陀堂)東に女院の寝殿が建てられ、庭には瀧(青女の瀧)を造り、極楽浄土を模した庭園とした。その後、三重塔・東御堂・水閣が軒をならべ、桜・菊・紅葉の四季おりおりの美観は見事なもので、西行はじめ多くの歌人が歌を残している。又、西行は美貌の待賢門院を深く思慕していたと言う。
 なんとなく芹と聞くこそあはれなれ
   摘みけん人の心知られて
(「芹摘む人」と言うのは后ど高貴な女性にかなわぬ恋をすることを意味する)と歌い、又待賢門院が亡くなられて、次の歌を残している。
 紅葉みて君が袂やしぐるらむ
   昔の秋の色をしたひて
 鎌倉時代になって円覚十万上人が融通念仏(壬生狂言・嵯峨念仏)を広め、寺門を復興したが、応仁の乱・天正・慶長の震災で、堂宇を失い、元和三年(一六一七)照珍和尚が本堂・経蔵等を建立されたが旧に復することが出来なかった。』
 (パンフレットより)

         

 JR山陰本線花園駅の向かい側にある。山門は比較的小さく、外から見ると樹木に覆われてさほど大きなお寺であるようには見えない。しかし内部に入るとかなり広い境内・庭園を有しており、さらに絵地図によると背後の小山の方も含めて、相当大きな敷地を有する寺院であることがわかる。そのうち実際に入れるのは手前の方の一部となる。
 元々は平安時代の貴族が建てた山荘であり、後にそれがお寺となったもので、名称も後年改められて法金剛院という名称になった。無論長い年月の間に建物が荒廃したりして再建されたものも多いが、一部のものは江戸初期に再建されたものが、今現在も残っている。本来ならば文化財指定になっていてもおかしくはないが、建物は本堂をはじめとして何も無指定だ。
 このお寺の大きな特徴は、平安時代の山荘であった頃の庭園が再現されており、中央に少し広めの池と周回路が設けられ、それに沿ってさまざまな樹木が植えられ、四季折々の花で賑わうということころ。もう一点は、国宝に指定された阿弥陀如来坐像を有しており、それ以外に多数の重要文化財指定の仏像を安置しているという点で、これらは公開日にはごく普通のように拝見することができる。中でも国宝の阿弥陀如来坐像は、偉大な仏師、定朝の様式の特徴を持っており、おそらく平等院の国宝である阿弥陀如来坐像、そして伏見区の法界寺に安置されるやはり国宝指定の、阿弥陀如来坐像を合わせた3躰の阿弥陀如来坐像が、ともに少し大きさに違いはあるものの、おそらく同一人物の仏師による制作だと思われる相互によく似た阿弥陀如来であるというところだ。私はこの3躰とも実際に目の前で拝観しているが、何も顔の造形や表情が非常によく似ており、なるほどなと納得させられるところが多い。大きさから言えば平等院の阿弥陀如来坐像が最も大きいもので、法界寺及び法金剛院の阿弥陀如来坐像はほぼ大きさが同じくらいだと思われる。いずれにしろこの3躰の国宝の阿弥陀如来坐像はじかに見ておく価値が十二分にある。
 この日はもちろん桜撮影に訪れたが、池の周囲に沿って枝垂れ桜やソメイヨシノなど、様々な桜の花が満開だった。池を手前に、そして建物を奥に撮影することによって、撮影写真に深みのようなものが出てくる。そういった意味では周回路のどの場所から撮影しても自己満足にせよ、我ながらいい写真が撮れたなと思わせるものがある。平日ではあったが、けっこう人が来ており、庭園全体の景色に感嘆の声も聞かれ、すぐ目の前の桜の花に思わず綺麗だという声も聞こえてくる。
 法金剛院はこの桜だけではなく、季節によってはすの花や秋の紅葉なども名所の一つとなっている。そのようなシーズン以外は閉門されていて非公開となる。従って訪れる場合には、公開されているかどうか確認しておく必要がある。お寺全体も仏像なども、十分満足させてもらえるものが、このお寺にはあると言える。



   (パンフレットより)
         
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2023年 京都の桜 阿弥陀寺・本満寺  京都市上京区    2023.3.27 訪問

2023-03-30 23:36:46 | 撮影
阿弥陀寺

   

『阿弥陀寺
 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(一五三二~一五五四)、清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭十一ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正十年(一五八二)六月二日の本能寺変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもある当寺は、天正十五年(一五八七)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。
 京都市』 (駒札より)

      

 阿弥陀寺は出町柳の二つの川が合流する地点から、賀茂川沿い少し北上したところにある。この辺りはお寺が連なっており、桜が咲いているお寺も結構多い。山門は閉じられていたが、横の車の出入り口から境内に入ることができる。かなり広い敷地を有しており、本堂前の境内もかなり余裕がある。その中に桜の花があちこちで満開になっていた。本堂の建物そのものがかなり大きく、渡り廊下などもあって、桜を撮影する上では非常に絵になりやすいところだと言える。
 天文年間の海藻開創というから、室町時代の末期だ。この頃は戦国武将たちが天下統一を目指して、争いが絶えなかった戦国時代にも連なる。駒札にもある通り、寺の墓地には織田信長の墓と言われるものがあって、参拝することができる。ちょうど撮影中にも何人もの女性が、順番にお参りしていた。浄土宗のお寺ということで、本尊は阿弥陀如来。こちらの御本尊は丈六と言うから、かなり大きなものだ。実物を見たことはないが、本堂に安置されているようだ。
 決して桜の名所というわけではないが、近くに本満寺と言う桜の名所のお寺があるので、是非ここにも立ち寄りたいところだ。余裕のある境内の中で、ゆっくり桜を眺めるのも、あるいはまた撮影するのも落ち着いてできる。名所ということではないので、訪問者は少ない方だが、桜というよりは、織田信長のお墓といわれるものを参拝しに来る人の方が多いように感じられた。

         


本満寺

   

 本満寺は出町柳に二本の川が合流しているが、賀茂川の上流へ少し遡ったところにある。日蓮宗本山のお寺で、創建は室町時代初期となる。本尊は十界曼荼羅。元々本来のお寺の名前は、「広宣流布山 本願満足寺」と言う。長いので今現在では省略されて、本満寺と呼ばれている。一時、宗派間の争いにより大阪堺に移転したが、数年後、現在地に戻る。江戸時代に入って、将軍徳川吉宗の病気平癒をお寺の僧が祈願したことにより、将軍家の篤い信頼を得て、徳川家の祈願所となった。十界曼荼羅をはじめとして寺宝はかなり多い。
 お寺の入り口が数台分のコインパーキングになっており、そこに駐められる。満車の場合には、近辺に同じようなコインパークが何箇所もあるので、車で行ってもおそらく困らないだろう。

         

 本満寺は桜の名所として知られており、今年は開花初期に地元の京都新聞にも、写真と共に記事が掲載されていた。山門を入ってすぐに大きなしだれ桜があり、これがかなり有名で多くの人が花見に訪れる。とはいっても桜の木の周りにベンチがあるわけではないので、立ったまま眺めたり写真を撮ったりしている。やはり人が多いシーズンとあって、社務所に窓口が設けられ、御朱印の受付をしていた。お寺の敷地はかなり広く、たいがいの人は入り口のしだれ桜を見てそのまま出ていくケースが多いが、実は寺の奥の方にも桜などの木があって、そこそこ見応えがある。鐘楼を経て少し奥へ入ると本堂の建物があり、その周りに桜の大きな木々が並んでいる。さらに奥に進んで北側に墓地が広がる。この辺りにも桃色の花が咲いていた。このように多くの桜の木が花を咲かせるが、本堂などの建物も、あるいは境内の石造物も、一部苔むした場所に配置されていて、非常に落ち着いた雰囲気を醸し出している。こういったところをじっくりと拝見するのもいいだろう。また写真を撮る上でもなかなか絵になるような構図が期待できる。


        
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2023年 京都の桜 本願寺山科別院  京都市山科区    2023.3.25 訪問

2023-03-28 23:08:03 | 撮影
  

『本願寺 山科別院
 文明一二年(一四八〇年)、本願寺第八代宗主蓮如上人の創建による。こ の別院は、城郭寺院としての形式を整え、実如上人、証如上人と三代にわたり本山であったが、天文元年 (一五三二年)兵火にかかったため、証如上人は、御真影のお供をして大坂に移った。
 享保一七年(一七三〇年)住如上人が山科講の懇請により、北山別院の旧堂を移して、山科の坊舎を復興した。その後、境内地の整備が進み、安永三年(一七七四年)三月には現在の本堂が完成、天明元年(一七八一年)蓮如上人の三百回忌に先立ち、鐘楼、鼓楼、接待所などが建てられ、現在の配置が整った。さらに文政六年(一八二三年)本如上人は講員の要請を受け、中宗堂を本堂の南に新築した。
 中宗堂に安置される蓮如上人御木像は、上人自作の御木像として伝わる。また、本堂正面の上部に「松林山」という額が掲げられている。これは山科本願寺の山号であるが、現在では本院の山号にもなっていることを示しており、この寺院が、歴史ある山科本願寺を受け継いでいることが窺える。
 京都市』
 (駒札より)

        

 本願寺山科別院は、地下鉄東西線東野駅から北西の方向に少し行ったところにある。やはり本願寺を名乗るだけあって、広大な敷地を持ち本堂もかなり堂々たるものとして、大きな寺院を表している。元この地には山科本願寺というお寺があって、親鸞聖人の教えに基づく浄土真宗のお寺として、地域の信仰を集めていたが、室町時代に入って少し勢力を弱める。そんな中蓮如上人が、新たな堂宇などを建設し復活させ、本願寺山科別院となった。浄土真宗本願寺派のお寺で、西本願寺派に属する。本尊は阿弥陀如来。住職は親鸞の弟子からずっと直系として続く僧であり、蓮如以降も同じ系列で今現在に至っている。広大な敷地が境内として広がっており、その周辺に本堂をはじめとする建物が並ぶ。境内はいつも地域の人たちに開放されていて、山門から自由に出入りができる。普段は近所のお年寄り達が集まって輪になって談笑したり、ゆっくり落ち着いた環境の中で、気持ちを休めたりして静かな空気が漂っている。
 境内には桜の木が何本もあって、しかもその多くが比較的大きな木。訪れた時にはほぼ満開で、境内の中央部は開いているものの、その周辺を取り囲むように大きな木の枝が四方八方に伸び、白い桜の花がかたまりになって咲いている。桃色の桜は一本だけ見られ、あとは全て白色だった。誰でも自由に入ることができるので、近所の人たちが小さな子を連れて桜見物に来たり、あるいはお年寄りが輪になって談笑しながら、大きな声で楽しんでいた。そういった点では地域に開かれた心安らぐ場だと言える。


          
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2023年 京都の櫻 神泉苑  京都市中京区       2023.3.24 訪問

2023-03-26 23:20:44 | 撮影
  

『神泉苑
 延暦一三年(七九四)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名づけられた。
 その境域は、南北四町東西二町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や責族が舟遊、観花、賦詩、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。
 天長元年(八二四)春の日旱にこの池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祝って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。また、貞観五年(八六三)には、初めて当苑で御霊会が執行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。
 現在は、東寺真言宗に属し、毎年五月一日から四日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)が執り行われる。
  京都市』  (駒札より)

     

 神泉苑へ行く。桜の有名スポットというわけではないが、いわば穴場のスポットということになるだろう。しかしもはや桜シーズンの神泉苑全体の様子を見ると、十分に名所の一つとして数えられると言っていると思う。

 二条城の南側に位置し、その名前からお寺なのか、神社なのか、よくわからないような感じがするが、れっきとした真言宗のお寺だ。本尊は聖観音。創建は平安京遷都の年、つまり794年となる。元々は平安京造営に際して、天皇がゆっくりできる大きな庭園を造営して、中に大きな池も作り、いつでも楽しめるようにとのことで設けられたものだ。完成して天皇や上級貴族たちがこの周辺に居住するようになると、連日のように宴が開かれ、酒や踊り、あるいは花見などをして楽しんだと言われる。そういった意味では、天皇や上級貴族たちは周辺の農民たちから集めた年貢などで、悠々自適の暮らしをしており、下級貴族が政務担当の重役をになっていたということになる。そうしたことが長年続く中で、天皇や貴族たちの堕落が明確になり、政治が疎かになり農民たちの不満が高まっていく。その中から宮中に運ばれるお米や様々な産物を襲撃して奪う野武士にあたるものが現れ、やがて武士の集団が形成され、平安後期には貴族たちは堕落の末、衰退していくことになる。

 現在の神泉苑は天皇が楽しむ庭園としては、いささか狭いということになるが、造営された頃には今現在の何倍もの広さを誇っていたと言われる。それでも広い境内に大きな池が中心にあって、巨大な鯉が悠々と泳いでいる。さらに何箇所にも鎮守社にあたるかのような大小の祠があり、鳥居も真っ赤に塗られて建てられている。この祠がいくつもあるので、外から見た目には神社と勘違いしやすいのだろう。そういう目で見れば、確かにお寺としての本堂は非常に小さく、社務所も同じく小さいと言える。境内にある祠には様々な種類があって、稲荷社がこのお寺の鎮守社となっているようだ。他にも天満宮や恵方社があるが、この恵方社というのは日本で唯一、ここにあるものだけらしい。非常に珍しいものだと言う。また重要文化財の木造不動明王坐像がある。神泉苑全体は国の史跡に指定されている。

     

 前回訪れた時までは、境内の一角に高級料亭があって、一般庶民には敷居の高いような料亭だったが、今回訪れた時にはなんとすっかりなくなっていて更地になっていた。理由は分からないが、経営不振だったのか、あるいはお寺側の都合なのか。今後その場所には何かが建てられるのか、今の段階では全くわからない。

 桜は池を取り囲むようにいくつかの種類の花が咲き誇っており、当日はあいにくの曇り空だったが、様々な祠や鳥居、池などを背景に撮影すると、桜も結構良く目立って、改めてわざわざ天皇のために造営された平安時代の時期の雰囲気を味わうことができる。桜の季節とあって結構大勢の人が訪れていた。以前来た時には外国人というのはほぼ見なかったが、今回は西洋人の姿をずいぶん見た。やはりガイドブックなどに紹介されて、訪れる外国人も増えているんだろうとつくづく思った。


       
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2023年 京都の桜 大石神社・岩屋寺  京都市山科区     2023.3.22 訪問

2023-03-25 23:14:35 | 撮影


大石神社

『大石神社
 この神社は、昭和十年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年四月十四日の春季大祭と十二月十四日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄十四年(一七〇一)六月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利であったからであろう。この地でしばしば同志の会合を開いた。はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。しかし、翌、元禄十五年(一七〇二)夏、結局、再興は許されず、吉良義央邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集うた。大石は、同年五月、妻子を離縁し、八月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、十月江戸に向かった。
 京都市』(駒札より)

     

 今年もまた大石神社の桜を拝見し、撮影しに行った。こちらには春の桜及び秋の紅葉の二度は必ず訪れている。毎年来ていても飽きないほどのものがある。大石神社そのものはその名前から連想されるように、忠臣蔵の大石内蔵助ゆかりの神社となる。そのこともあって桜や紅葉のシーズンに限らず、訪れる人は比較的多い。
 こちらの桜は何と言っても、本殿前の境内にある巨大なしだれ桜だ。しかも四方八方に枝が張り出し、咲く花の量も非常に多い。隙間だらけというものではないのだ。それだけに十分な迫力と見応えがあると同時に、そのことは撮影のしがいもあるということだ。もちろん境内全体を見回すと、このしだれ桜以外にも何本かの桜の木があり、それぞれに綺麗な花を咲かせている。枝の伸び方が様々な形があり、ただ単に花々の綺麗さだけではなく、そういった木の幹や枝の形状から、独特の美的感覚が頭の中に湧き出してくる。
 今回は天気にも恵まれ、予想通りかなり大勢の人々が訪問していた。境内では子馬のポニーが飼育されており、何年も前から囲いの中で飼育されている。とても大人しく小さな子たちが手で頭を撫でたりしている。このポニーと一緒に写真を撮るのはお母さんの役割となっている。
 境内の一角に忠臣蔵の資料館があって、無料で誰でも入れる。資料館とはいっても、歴史的な価値があるものが展示されているというわけではなく、主に映画化された忠臣蔵の様々なポスターなどが貼り出されていて、いわゆる忠臣蔵ファンにとってみれば楽しい資料館となるだろう。
 大勢訪れている人の中には、外国人も含まれており、地下鉄の駅からは少し離れているこのような場所にまで来ているというのも、いわゆる名所スポットばかりが紹介されているガイドブックというものが、いわば穴場的なところも紹介するようになってきた表れだろう。そういうわけで今年も見事なしだれ桜を見て充分満足できた。
 続いて短い山道を2~3分歩いて隣接する岩屋寺へ向かう。

       


岩屋寺

   

『岩屋寺
 創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金地院と号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助)の隠棲地として有名で、大石寺とも呼ばれる。
 本堂に安置する本尊大聖不動明王は智証大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、この立礼の右手奥には大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。赤穗城明渡しの後、彼はここに隠れてひそかに討ち入りの謀を巡らしたが、事成って後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、 一時は荒廃したが、嘉永年間(一八四八~一八五四)に京都町奉行浅野長祚らの寄付を受けて再興した。
 境内には本堂と明治三十四年(一九〇一)に建立された木像堂があり、浅野内匠頭長矩公の位牌をはじめ、四十七士の木像や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。十二月十四日には義士忌が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が訪れる。
  京都市』(駒札より)

     

 大石神社から南へ約2~3分歩くと岩屋寺に至る。こちらも大石神社に来た際には、必ずといってもいいほど同時に訪れる。やはり春の桜、そして秋の紅葉ともに名所だと言える。岩屋寺も忠臣蔵で有名な大石良雄との由縁が深いお寺で、別名大石寺とも呼ばれる。お寺そのものは石段を上ったところに山門があり、比較的小さめの境内と本堂や書院などが建ち並び辨財天もある。この部分には桜そのものはごくわずかだが、石段前の広い境内の部分は桜の木が比較的多い。そしてこちらの桜も比較的巨木で、しだれ桜となる。広い境内には石のベンチなども置かれ、そこに座って談笑している地域のご老人たちもおられた。遠くから来た人たちは、大石神社と岩屋寺がすぐ隣同士ということを知らずに来ている人もいるようで、いずれか一方に訪れると、その後もう一方には行かずに帰ってしまうというパターンが多いように見える。ちょっともったいない。
 岩屋寺のしだれ桜もほぼ満開状態であり、しかも木の本数ももう少し多めで、十分な見応えがあった。撮影する上では上方の岩屋寺を背景に撮影する。あるいは境内そのものが少し小高いところにあるので、山科盆地、あるいは逢坂山方面をバックに撮影するパターンが楽しめる。そういった意味では、こちらも毎年訪れていても撮影する上での興味は尽きない。桜は白色が中心だが、一部桃色のものが見られ、この辺りもう少し桃色の部分が多くても良いのではないかと思える。境内には石造十三重塔や、何らかの石仏なども並べられ、また境内の端には大石良雄の遺髪塚がある。


    
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