切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

独居癌爺さんのつぶやき・・・若宮八幡宮の彼岸花(京都府八幡市野尻) 2021年9月27日

2021-09-27 22:57:39 | つぶやき
若宮八幡宮  彼岸花(曼珠沙華)の名所

 

 数日前の京都新聞に、八幡市の若宮八幡宮の境内に彼岸花が満開との記事が出ていた。お寺や神社、あるいは田舎道の道沿いなどによく咲いたりするが、集中して咲いているようなので撮影しに行くことにした。しかしどんよりとした曇り空だったり雨が降ったりして、本日ということになった。

 八幡市には2箇所の若宮八幡宮がある。何もこのブログにアップしているが、何の根拠もなく国道1号線近くにある方だと思い込んで訪れた。ところが赤い色の花などどこにもない。境内のすべてを回ってみたが、彼岸花の一本もなかった。やや早めの紅葉が一部見られただけだ。一体どういうこと、と思いながらネット検索すると、もう一箇所の方に同名の神社があることが分かり、同時に思い出しすぐに向かう。場所は八幡市民体育館のすぐ隣だ。車で行くにはどうということはないが、公共交通機関の場合には、京阪電車八幡市駅からバスで約20分ほどとなる。

 体育館の広い駐車場に車を置いて歩いて向かう。裏側から回り竹林の中を進んで境内に入る。神社でもお寺でもそうだが、訪れた際には必ず入り口から順番に撮影して行くことにしている。入り口の鳥居前に出るとその少し奥に赤い色が見えた。鳥居のすぐ横にも少しの群生が見られる。ちょうど陽光も差し掛かっていて撮影を始めていく。他にも若い女性の二人連れが写真を撮っていた。ネットで見てみると、今日の午前中にかなり多くの人が訪れていた。同時に今日だけでも何十枚もの写真が Google マップにアップされている。私は午後に行ったので人は少なかったということだ。

       

 鳥居をくぐると、境内の一角に群生している場が所々にあり、その内の一箇所はかなりの本数が見られた。9月も下旬ということで、少ししおれかけている花もあったが、陽光を受けて非常に美しい。しかも密集しているので目にしっかりと焼き付け、カメラとスマホで撮っていく。
 時節柄彼岸花と呼ばれているが、正式には曼珠沙華。神社の境内ということもあり少し遠くに拝殿が見えている。大きな樹木もそびえ立っており、典型的な絵になる場面だと言える。春の桜でも秋の紅葉でも、お寺や神社にこれらはよく映える。彼岸花をこういう形で撮影したのは初めてだ。非常に満足感が高い。

 その後は拝殿から本殿へと向かい、一通り撮影を行う。この神社については2019年の7月頃にブログにアップしているので、そちらも見ていただければと思う。


      
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法雲院 京都市右京区・・・有名寺院だった

2021-09-25 22:46:20 | 撮影
臨済宗永源寺派
 龍臥山 法雲院


 

『法雲院の由緒
 龍臥山と号する臨済宗永源寺派の舊別格寺院である。如雪文巌(妙覺圓光禅師)、烏丸資慶、澤村軍兵衛康明が、資慶の祖父である光廣の法号をとり、寛文元年(一六六一) 光廣と井伊直滋の菩提を弔うため、永源寺の佛頂(一絲)国師を講じて開創したことに始まる。爾来当寺は烏丸家、彦根井伊(直滋)家、勘解由小路家、裏松家、櫻野家、七條家、澤村家などの菩提寺である。関係宝物は国の重要文化財である永源寺開山寂室元光(正燈国師) 消息をはじめ多くの古文書等を蔵する。本尊は細川幽斎公陣中念持佛(千手観音菩薩)。近世は朝廷との取次役をも担う。寺領は往時双ヶ丘から四条に及んだ。古の廣隆寺塔頭惣持院、桂宮院 (一部)および天皇御休息御所碧梧亭跡でもある。境内の森は平安時代より永遠を示す歌枕として親しまれた「常盤の杜」(一部舊境内地)に連なり、その面影を遺す。舊末寺には清幽菴、華厳寺などがある。
 なお現在は一般向けの仏教研修道場を開設。一部拝観事業もおこなっている。』
  (パンフレットより)

  

 法雲院は JR嵯峨野線、太秦駅から東の方へ数百メートル。住宅街の中にある。近くに東映太秦映画村があり、本来観光客で賑わうところだ。山門の前に巨大な切り株があり一部で話題になっていたようだ。現地に着くとなるほど大きい。しかしこの場所に根を張っていたものではなさそうだ。たまたま住まいからご住職が出てこられたのでお話を聞くことにした。
 この切り株は今から50余年ほど前に切られたと言う。しばらくはお寺に保存していたが、後に売却。結構な値で売れたと言う。杉の木で樹齢は約800年、というから平安時代から鎌倉時代にかけてのものだ。門前に置かれると嫌が応にも目立つ。切り株をそのまま置いておいても朽ちてしまうので、当時切り株全体に何かを塗ってコーティングしたと言う。それも50年も経つと効き目はおそらくなくなってきているだろう。
 お寺の境内を撮影させていただきたいとお願いしたが、その前に本堂に上がって少しお話でもしようということになった。後で知ったことだが、このお寺はいわば予約制のようなお寺で一般に訪れた人は入ることができないらしい。
 臨済宗のお寺であり、栄西が中国から持ち帰った禅宗となる。いわゆる鎌倉仏教の一つ。由緒については上記のパンフレットの説明通りだが、何分にも知らない名前も多くてなかなか読みにくい。臨済宗自体は鎌倉時代に入ってきたが、このお寺は江戸時代初期(1661年)の創建となる。お寺には、臨済宗永源寺派の総本山永源寺を開いた永源寺開山寂室元光消息という古文書が、国の重要文化財に指定されている。当時からお寺周辺の烏丸家、彦根井伊家、七条家、澤村家など公家の菩提寺として栄えた。ちなみにこのお寺のご住職は七条氏である。おそらく代々受け継がれてきたものだろうと思われる。
 お寺の規模は外から見るとごく普通と思われたが、実際本堂に入れていただくとかなり大きなお寺であることが分かった。本堂などの建物だけではなく、周りを囲む境内も大きな木に囲まれなかなかの規模だ。昨今の台風により多くの木が倒れたと言うが、それでもまだまだ緑に包まれており、そういったことを感じさせない。かつては今以上に広大な敷地を有し常磐の森の一部にも連なっていたと言う。かなり静かな環境で禅の修行を行うことができるというのは、非常に恵まれた場であると言える。もちろん予約制だ。
 ご住職は文筆活動もなされており、仏像の専門解説書などを出版されておられる。私自身もずっと続けているブログを本という形で出版するならば、執筆のポイントなどを教えて頂きずいぶん参考になった。
 このお寺については訪れる前は、門前の切り株のことしか知識がなかったが、後に様々な書物やネットで調べてみるとかなり多くの情報が得られる。それらをまとめて記しているときりがないのでそれはやめておくが、数年前に東京大学の史料編纂所から当寺が保有する古文書の調査依頼があり、貴重な古文書が相当数調査されたとのこと。おそらくお寺は災禍などには遭っていないのではないかと思われる。そういった意味では貴重な古文書等が多く残されているんだろう。
 ご住職は気さくな方で、10分のつもりが1時間話をしてしまった。その後境内を一回りし、写真を撮らせていただいた。何か有名な五輪塔があるらしいが、どれなのかはわからなかった。また本堂にあるご本尊である千手観音を拝んだが、暗くて全く見えなかった。

   
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独居癌爺さんのつぶやき・・・MINAMATAーミナマター  2021年9月23日

2021-09-23 23:07:35 | つぶやき


 夕方のニュース情報番組を見ていると、一つのコーナーで映画「MINAMATA」が公開されるとの特集を行っていた。映画そのものは世界的なハリウッドスターであるジョニー・デップ氏が水俣に何年にも渡って写真集を出版し、世界に水俣病を紹介したユージンスミス氏の生涯を描くものだ。おそらくジョニー・デップ氏は世界的な写真家であるユージン・スミス氏の生き様に大きな感銘を受け、日本という地で発生した恐るべき公害問題をユージン・スミス氏の立場から描く形で映画化したものだ。

 私は社会科の教員として中学校に赴任した時、2年目に1年生の地理を担当した。そこに九州熊本県の水俣の問題が記されている。とはいっても中学校レベルであるので、記述は1ページにも満たないわずかなものだ。しかし日本地理を勉強していく上で、この先いわゆる4大公害が出てくることになる。そういった意味では公害の問題そのものをきっちり取り上げて、理解をしてもらう必要がある。その最初の具体的な話として水俣公害問題があるのだ。

 もちろん水俣の問題については、私自身が高校生の時に学んでいる。しかしそれでも学校という枠の中での勉強に過ぎない。したがってこんなことがあったんだ、という程度の認識しか持ち合わせていなかった。ただ高校卒業した後、映画マニアだった私は暇な時間があれば家の近くの場末の安い映画館に通いつめて、ありとあらゆるジャンルの映画を観た。そんな中に土本典昭氏のドキュメンタリー映画があったのだ。もちろん実写であり俳優が出ているとかそういうものではない。全編を記録映画として制作されたものだ。ただ映画の視点は新左翼の過激派の方向から編集されており、それには大きな違和感を抱かざるを得なかった。

 また当時、石牟礼道子氏の「苦海浄土」が出版され大きな話題となっていた。いい加減な私は残念ながら、この本を途中までしか読んでいない。しかしいずれにせよ、学校という場で教えなければならず様々な資料は読んでみたりもした。こういう問題になると教室でもついつい熱が入ってしまう。この公害問題は周知のごとく裁判となる。裁判の中でも様々な問題が起こり、資料の捏造なども含めたいわば国も行政も、企業よりの立場を当初は取っていた。しかし最終的には水俣病が公害であると認められ、原告の被害者等が勝訴することになる。

 しかし裁判はそれだけでは終わらず、確か今現在第3次訴訟になっていると思うが、公害の被害者としてどこまでが認定されるのか、を巡って長い戦いが続いているのだ。これらの問題に対して当時アメリカにいた著名な写真家である、ユージン・スミス氏のもとに日系米人のアイリーンさんがたまたま居合わせた彼に水俣の話をした。そして彼はアイリーンさんと一緒に日本にやってくることになる。

 1971年のことだったと思うが、二人は熊本県水俣市に入る。そこでユージン・スミス氏は目の前で起こっている出来事を次々に撮影していく。被害者の主に漁民たちと日本チッソ株式会社の社員たちとの激しい争いだ。怪我人も多くでるし警察も当然出動するものの、官憲は一体どちらの味方なのかという実態も見えるような有様だったと言う。そしてこの間にも熊本大学の医学部が中心になって、原因がチッソの会社から排水として流された中に有機水銀が混じっていることが大きな原因だと断定する。しかし他の学者や他の大学からは否定的な意見も出される。そんな中での裁判に被害者たちは訴えることになるのだ。

 ユージン・スミス氏は千葉県にあるチッソの工場に、被害者達とともに抗議活動に参加した。しかしその時にチッソの社員から激しい暴行を受け、脊髄損傷、片目失明という重傷を負うことになる。それでも彼はくじけずにアイリーンさんとともに、水俣の問題を一冊の写真集として出版する。これが世界に水俣のことを知らしめる決定的な要因となった。そして同時にただ単に、水俣だけの問題ではなく、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病とともに、4大公害として大きな注目を集める。水俣病の問題が発生したのは戦前からだと言われる。しかし具体的に猫や人間に症状が現れるのは戦後になってからだ。当初は奇病として原因も何も分からず、一種の風土病扱いだった。それに科学的な視点から取り組んだのが熊本大学だったのだ。

 そういった背景をもとにユージン・スミス氏の写真集は一つの大企業による現地の人達への公害という災禍をもたらしたものとして、世界に紹介したのだ。その後、裁判で一定の方向性が出た中ユージン・スミス氏はアメリカへ戻り、日本で負った大怪我が元になって60前の若さで亡くなった。

 アイリーンさんはすでにスミスと離婚しており、そのまま日本に残った。今現在は京都市にお住まいで環境問題の取り組みをしていることが紹介されていた。同時に時折、スミス氏の水俣の写真を展示会という形で外国でも行なっていると言う。
 おそらくジョニー・デップ氏は水俣問題そのものの残酷さと同時に、これを一国の一地方の問題ではなく、世界的に知らせるべき問題だということの重要性を認識し、実際に行動に移した点に感銘を受けて、自ら映画化することにしたんだろうと思う。
 今や日本では水俣病のことが普段話題になることはほぼ皆無と言っていい。訴訟開始からでも既に何十年も経つ。被害者が裁判に勝ってもこの日本と言う島国に住んでいる国民性なのか、被害者等に対する誹謗中傷、金目当てなどなどの罵声が浴びせられ、差別が未だに存在することは確かだ。すでに不知火海の魚は安全だという宣言はなされている。一方で一部の裁判はまだ続いている。このような実態に対して本来ならば、日本の自国民が様々なメディアを通して取り上げて然るべきではないか。ハリウッドスターが自ら製作主演するというのは非常に貴重なことではあるものの、この映画を見て日本人は一体どのように思うんだろうか。
 私も機会があれば見に行ってみたいと思っている。

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独居癌爺さんのつぶやき・・・世界一の超高齢化社会  2021年9月21日

2021-09-21 23:43:26 | つぶやき


 ちょうどシルバーウィークということで、先日敬老の日には新聞記事にもそのことが書かれていた。テレビのニュース等でも各局が取り上げていた。昔ならば高齢者の様々な課題については、敬老の日あたりに出てくるものだったが、今や年中このことが話題にならざるを得ない事態となっている。日本は世界でもずば抜けて超高齢化社会トップを走り続けているのだ。

 私が教職に就いて社会科の地理の授業を受け持った時に、教科書にも地図帳にも当時の日本の人口構成比がグラフとして載せられていた。まるで富士山かのように綺麗な二等辺三角形。しかしヨーロッパの一部先進国ではその構成比が、いびつな形となり、釣鐘型あるいはコカコーラの瓶型といった国もあった。そういった国々は概ね多くの税金を収める反面。社会保障が充実している国々だった。そういった意味では当時の日本は、とても先進国とは言えず発展途上国という状況だったんだろう。

 しかし今やその人口構成比は激変した。ヨーロッパ諸国ではいびつな人口構成を正常化するために、同時に人口減少を防ぐために、かなり早い段階から様々な取り組みを始めていた。その反面日本は1960年代の高度経済成長の波に乗って、働け働け、給料アップ、国民全員が中産階級を目指して必死に働いた。人口もどんどん増え、第二次世界対戦で大幅に減少した人口はとっくに上回り、一億人を突破し高齢者はその年代に応じて亡くなっていき、同様に若い世代は結婚し子供が生まれ、綺麗な二等辺三角形となったのだった。

 しかし資本主義日本は高度経済成長の中で、激しい競争社会となり次第に経済の仕組みによる矛盾が具体的な形で現れる。要するに貧富の差の拡大だ。第1次産業の仕事の厳しさと低収入、第2次産業の労働の厳しさと比較的低い賃金収入、そして第三次産業の比較的恵まれた収入。このように分けるのはあまり良くないが、総じてそのようなイメージがあった特に、第3次産業の一部では株式投資や先物取引などで莫大な利益を得るものが次々と現れ、産業による富の分配が極めて不健全で不公平な形になるのが、時の政権によってほったらかしにされた。

 70年代以降はオイルショックによる不景気が続き、それを脱して80年代にはバブル景気に沸いて、日本の繁栄は永久に続くという神話が生まれ、人々はお金が入ってくる場所を求めて狂喜乱舞することになる。その終わりは突然やってくる。1929年のアメリカに端を発する世界恐慌と同じだ。人間は過去の歴史から何も学んでいない。永遠の繁栄などありはしないのだ。こうして長い不景気の時代がまたやってくる。同時にそれらの出来事は日本人の様々な文化に関わる思いをも変えてしまうことになる。

 外国から自由気ままに生きるヒッピーの文化が入り込み、反戦平和の具体的な行動が各国でも主流になり、世界の国々も日本もまたそのあり方が根本的に問われる時代がやってくる。これらを通して人々の中には大きな価値観の変化が同時にやってくる。それは個人主義という一言では語れないが、少なくとも伝統的な家制度を元にした日本の家族や家庭の在り方というものは崩壊にいたる。こうして親の後を継いで家を守るというしきたりに対し、伝統文化というものは完全に置き換わっていく。こうして人々は家から独立をしていくのが当然の社会になっていく。核家族化だ。

 2000年代に入りさらに人間として、あるいは生き方として多種多様な考え方が勃興し始め、いつしかそれが当たり前の範疇に入ってくる。日本でも一人一人の個人が結婚するかしないか、子供を産むか産まないか、そういったものは、こうでなければならないというところから、次第に個々人の考え方に任されるようになっていく。その是非はともかく現実問題として、多種多様な価値観が社会の中に大きく育ち始め、いやが応にも日本社会はそれを受け入れざるを得ない状況になっていた。

 そんな中現れたのが「 少子高齢化」という問題だ。すでに2000年の時点以前において日本の人口構成比は、先進ヨーロッパ諸国と同様、歪な形を取り始め、結婚し子供を設けるという生き方以上に、自分自身の個人的な生き方というものが大きな位置を占めるに従って、毎年毎年新たに誕生する子供の数は減り続けた。同時に医学の発展によって、同時に福祉の整備によって高齢層の年齢がさらに高まっていくことになる。その結果日本の人口構成比は釣鐘型に近い状態になっていく。下がすぼんでおり上の方が膨らんでいる。この状態が続けば確実に人口が減りながら、同じ釣鐘型の構成比が続くということになる。

 2021年の今、結果として日本の高齢者人口は全人口に対する割合が29.1%(65歳以上。)このパーセンテージはずば抜けて世界一となってしまった。去年だったかインターネットのニュース記事を読んでいると、中国のある新聞に日本はこのままの状態で行くと将来、日本人がいなくなってしまう、という笑えないような記事が出たのだった。思わずまさかとは思うものの、日本の少子高齢化対策は根本的な問題を解決しようとしないので、このままいくら叫んでも何も変わらない。医療の進歩で高齢者はさらに増えるだろう。しかしなぜ子供が産まれないのか。

 産まれないではなく、「産みたくても産めない」という実態があるものと考えるほうが自然だ。子供一人を大人に育てるまでには莫大なお金がかかる。結婚していても共働きでないと、一人でも二人でも子供を育てることは大変な労力とお金が必要なことであり、見通しが持てなくなってしまうこともある。そのために保育所があり幼稚園があるのだが、特に保育所については責任のある厳しい労働環境で低賃金。これは何度も指摘されながら政府はほったらかしにしてきた。そして保育所に預けるのにも多額のお金がかかる。日本に数ある自治体の中でもごくごく一部が、それ相応の補助金を出したりしているが、それなどははほとんど例外であり、公立の保育所は日本全国で次から次へと閉鎖されて民間に移される。そこに待っているのは、特に保育料の大幅値上げということになる。そして保育士の身分はあくまでも民間の企業労働者になるということだ。公立であるならば公務員として法律や条例に基づいて賃金が定められるが、民間ではそうもいかない。

 さらに共働きで働いても、女性の賃金は男性に比べて圧倒的に低い。先進国といわれる国々の中では最低クラスといえる。それほど男女賃金格差は大きい。そして様々な理由でシングルマザーも増えていく。どのように収入を得られるのかというのか。まして今はコロナ禍の中にある。実質食べていけない状況があちこちに蔓延しており、小学生や中学生にも家でまともな食事ができないところもずいぶん増えてると言われている。このように子供を育てるのに日本という国は、その環境がまともに整備されていないのだ。いろんなところから指摘はされても国にやる気がなければ、どうしようもない。そして実際やる気がないのだ。

 いわば社会の矛盾がこのような所に集中的にやってきている。同じことは老人にも言えることだ。核家族の社会の中で、老人世帯が大幅に増え更に独居老人が急拡大している。私もその独居老人の一人だ。独居老人の一番嫌なところは、誰も知らないうちに家の中で死んでいたというものだ。私は十分にその可能性があると思っている。何しろ基礎疾患はあるし、癌の手術はしたし、他の癌の可能性も言われている。ひっそり死んで周辺に異臭が立ち込めて、近所が警察を呼ぶ。そこで発見されるということになりかねないと言うか、そうなる確率は極めて高いだろうと思っている。

 こういう社会に暮らしていると、極めて理不尽さを覚える。いわゆる新自由主義の台頭により経済格差の社会が大きく広がり、アベノミクスにおいてはさらにそれが顕著となり、今や日本の社会には、一部の大富豪、圧倒的多数の中間層、そして弱い立場でお金のあまりない高齢層、というふうに経済的なアンバランスも起こっている。老人でお金を持っている何ていう言い方はなされるが、それは一部であって多くの老人層は、場合によっては食べるのも困る状態にある可能性も高い。一時テレビコマーシャルなどで、勝ち組負け組、と言う極めて腹立たしい宣伝文句が流行ったが、すでにそのような言い方がまかり通るほど、この国モラルハザードはひどい状態になっているのだ。
 年寄りが今の日本を作って頑張ってやってきたことを誇りに思い、また尊敬されるべきものだったはずが、今や邪魔者扱い。かつてある大物大臣が次のようなことを言った。だいぶ昔の話だ。「老人というのはお金がかかる。長生きしすぎて国の予算を使うのも困るので、さっさとを順番に死んでもらいたい。」この通りの言葉ではなかったが、このような意味のことをマスメディアの前でしゃべったのだ。外国ならこのいう発言は一発でアウト。ところがこの大臣は謝罪したのかしてないのか知らないが、亡くなった後、今はその息子が国会議員やってる。まぁ日本の国会議員なんていうのは、与党は大半が世襲制みたいな形でやってるので、いわば政治屋商売をやってるみたいなもんだ。庶民からは考えられない歳費という給料をもらって、それでも足らず政務活動費もらって、更に政党助成金から分け前をもらって老後も何の心配もない。羨ましい生活の限りだ。

 そんなことにかまけてコロナ禍の中で、去年全国民に一律10万円なんて言うほとんど意味不明の施しをやったが、あれに何の意味があるのか未だに分からない。もうすぐ衆議院選挙だから、公明党が公約として子供一人10万円をばらまくと言う政策を発表した。単なる一時しのぎで継続性も何もない。それで素晴らしいことをやってのけたなんていう、うぬぼれがこの国を決定的に駄目にしている。もはや少子高齢化は止められないだろう。今12500万人余りの人口だが、高齢者人口が3600万。ほどなく1億を切るだろう。その後はたぶん50年後ぐらいに8000万から7000万と底なし沼のように減り続け、政府は決して「外国人労働者」とは認めようとしない、「外国人技能実習生」なるものを日本に呼び込んで、数年間働かせて後はポイ捨て。

 こんな国にしたのは一体誰なのか。歴代の首相および政権内部の議員たち。そして特に小泉純一郎氏が導入した新自由主義の考え方によるその結果がこれだ。彼の背後には今も政権を裏で操っていると言われる竹中平蔵氏と言う元慶応大学教授がいるのはみんな知っている。このような人物たちは元からして裕福な立場におり、自分たちの思う通りにこの日本を操ってきた。その結果が国民の中に強者と弱者を作り出し、世代分裂を招くようなことになってしまった。まぁ彼らも分かってやったんだろう。まさしく見事なる「超格差社会。」医療にとやかく力を入れるのではなく、老人にはさっさと死んでいただいて、若者が楽に均一に働けるように、貧しい国から技能実習生を数年間入れて、日本人の若者が嫌がる仕事はみんなそちらへ回しましょう。そうか、日本という国そのものが、もはやモラルハザードを発散しており、後戻りできない有様になっているのだろう。




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独居癌爺さんのつぶやき・・・今日の撮影では・・住職さんがおられた  2021年9月20日

2021-09-20 22:38:31 | つぶやき


 3連休ということで京都に限らず、あちこちで相当人出が増えていたというニュースが流された。当然だろう。緊急事態宣言の中で家の中にこもっている生活も長く、それなりにストレスは溜る。 私の場合は撮影という目的があり、全天黒い雲や雨の場合には行わない。明るい雲あるいは晴天の日は絶好の撮影日和となる。ちょうど昨日と今日はそこそこいい天気だった。青空の部分は少ないものの、当然かの如く撮影に出かける。

 行き先は必ず前もって決めていく。京都市内の幹線道路は東西南北分かりやすいが、細い路地に入ると、どれがどこだか全くわからない。したがって既に知っている場所以外は必ず、カーナビに打ち込んで向かう。今日の第一目標は、東映太秦映画村近くにある神社。ここはまだ行ったことがない。1時間近くかけて現場近くに着いたが。カーナビには神社名は出ないので、ほぼこの辺だろうと思う所を指定して行った。

 とりあえずコインパークに車を停めて、歩いて探すも見つからない。仕方なくスマホでいろいろ探してみるが、家のパソコンでは見つかったのにスマホではなかなか見つからない。あれこれ操作しているうちに、ようやく見つかった。私の記憶とはいい加減なもので、東映太秦映画村の西側にあるものと思い込んでいたが、実際には東側だ。車で移動する。映画村の駐車場に停める。しかし神社らしきものが見当たらない。またスマホの Google マップを頼りに歩く。スマホ上ではすぐ近くに到着している。だが神社はない。改めて詳しく調べてみると、なんとその神社、映画村の敷地内にある。なんたる有様。映画村には入らなかった。

 神社は諦めて次の目標の、映画村北側にあるお寺へ向かう。コインパークに入れてすぐ。このお寺はネット上でも、山門前にある巨大な切り株が話題になっていた。写真も見たが実際に見てみたいと思い訪れた。なるほど実に巨大な切り株。じっくり撮影させていただく。ちょうどその時にお寺の住職さんが現れ、境内を撮影させてほしいとお願いすると快く応じてくださった。その前に少しお茶でもどうぞ、ということで堂内に入れていただく。

 約1時間ほど様々なお話を伺う。あちこちのお寺を撮影のために訪れて、たまたま住職さんがおられ、お話をする機会というのはかなり少ない。やはり仕事を持っておられたり、あるいは法事で出かけておられたり、様々な理由で住職さんに直接お会いする場面というのは本当に少ないものだ。

 このお寺について、簡単な由緒や経緯などを聞かせていただく。元々の開基が西暦603年というから正直びっくり。日本に仏教が伝わってからさほど経っていない時期だ。元はこことは別の場所にあったようだが、何かの理由で移転したようだ。山門前の巨大な切り株は約800年の樹齢と言う。つまり平安時代から鎌倉期のものだ。今から50年余り前に切られたとのこと。当時腐って朽ちないようにコーティングされたというが、もう50年も経つとそのコーティングも効果が薄れてしまって、また何か考えないといけない状態らしい。
 お寺は思いのほか広く、境内も周りをかなり大きな木が取り囲んでいる。ここ2~3年の台風でかなり倒れたようだ。これはあちこちのお寺や神社を回っていても、何度も見てきた光景だ。ただここは大きな木がまだまだ多く残っており、ぱっと見たところそういった被害はあまり感じさせない。

 ご住職は仏像に関する本も2年がかりで出版されており、他にも様々な活動をされているようだ。私がブログを開いてあちこちのお寺や神社を紹介していることを話すと、是非それを何らかの形で残すようにしたらいいと言われた。例えば「令和宇治絵図」などといったものでもどうかとの提案。なるほどそういうものもあるんだなと思った。よくお寺や神社のことを調べていると、随分昔の名所図会にそれが描かれているというケースもあったりして、そこからこの時代にはすでに建立されていたことがわかる、などといった話もある。私自身は今のところ、四年半ブログをやってきてこれをどういう形でまとめるのか、ということを今考えている最中だ。まぁいいヒントをいただいた。是非形として残るものをまとめることができればいいのではないかと改めて思った。

 最後にお礼を言ってパンフレットを頂き、境内の撮影をさせていただく。このお寺については近日中にブログにアップする予定。

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