切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 梅の花 吉祥院天満宮・・・まだまだ行ける  京都市南区  2024.3.27 訪問

2024-03-31 22:39:10 | 撮影
 

『吉祥院天満宮
 祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮二十五社の一つに数えられている。社伝によれば、道真の祖父清公が、邸内に一宇を建立し、吉祥院と名付けて菅原家の氏寺としたのが当社の起こりで、承平四年(九三四)、朱雀天皇が自ら道真の像を刻み、この地に社殿を築き道真の霊を祀ったことから、吉祥院天満宮と呼ばれるようになったと伝えられている。
 吉祥院は道真誕生の地として有名で、境内には、道真が参朝の時に顔を写したといわれる「鑑の井」や道真のへその緒を埋めたと伝えられる「菅公胞衣塚」など道真ゆかりの遺跡が残っている。
 また、この地は、古くから六斎念仏が盛んに行われていた所で、今も吉祥院六斎念仏踊として継承されており、国の重要無形民俗文化財に指定されている。毎年、四月二十五日の春祭と八月二十五日の夏祭には、境内の舞殿でこの伝統芸能が奉納される。
 京都市』
 (駒札より)

     

『創建由緒
当宮は、菅原道真公がおなくなりになって31年目に当たる承平四年(934)に菅原家ゆかりの道真公御誕生の地に朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮である。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつった。これが吉祥院の由来で地名の起源となっている。境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」をはじめ、少年時代に習字に使用したという「硯の水」や顔を写したと伝える「鑑(かがみ)の井」などがある。』
 (パンフレットより)

   

 吉祥院天満宮へ行く。ネットの写真で境内に梅の花が写り込んでいるのを見つけ、早速 訪れてみた。こちらへは2回目の拝観となる。平日とあって人は少ないものの、参拝に訪れる人はポツンポツンとあまり途切れることなくやってくる。たまたまこの日は併設される幼稚園の卒園式で、小さな子たちが正装して賑やかにしていた。保護者も略礼服などでやってきていた。

 平安時代に菅原道真が亡くなった後、当時の朱雀天皇の勅命によって創建されたという。元々この辺りは菅原道真が生まれた地域となっており、ここに創建されていわば最初の天満宮として誕生した。そういった点では非常に由緒のある天満宮ということになる。境内にはかなり大きな黄金の牛の像が設置されていた。

   

  いつものごとく撮影は鳥居から始める。すぐに境内に入り、主要な建物などを撮影していく。本殿では拝観を済ませ、さらに境内の周囲を回っていくと、見事な紅梅が現れた。2箇所に木が伸びて、満開と言っていいのかどうかよくわからないが、つぼみのようなものと 満開の花が多数入り混じって、枝はまっすぐと伸びている。背景に本殿などの建物を入れようとしたが、角度的に難しく一部しか実現できなかった。比較的広い 境内に2本の梅の木というのは、これだけかと思いがちだが、それでも梅の色が輝くようにその存在を主張しているような感じだった。これだけの梅の花々を撮ることができれば十分に満足と言える。

   
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2024年 梅の花 香雪院(東山聖天)・・・枝垂れ白梅が  京都市東山区 2024.3.22 訪問

2024-03-29 22:30:58 | 撮影
  

 香雪院は二度目となる。前回は私にとって未知の寺院や神社をあちこち探しては、訪れ撮影に明け暮れていた。
 今回はもちろん、「梅」だ。実際に行ってみないと分からない面もあったが、ネット上の画像には梅の花らしきものが見えていて、とにかく行ってみようと訪ねた。しかし以前来ていることは全く記憶になく、境内に入って何となく見たような光景が、という感じだった。
 境内は多くの植物で満たされていて、あちこち見ている内に梅の花を発見。まだ何とか残っていた。枝垂れ桜だ。思う存分、撮影に集中、こうしてみると、結構多くの寺社に梅はあるものだと改めて思えた。

  

 香雪院は、京都女子大学の校舎や附属小中学校などのすぐ隣に建っている。天台宗のお寺で別名「東山聖天」ともいう。江戸時代中期、寛保年間の創建で、元々所有していた聖天像を安置するために創建されたと言う。これには少し西方に位置する妙法院にとって鬼門となる、丑寅の方角にあたると言う縁もあって、後に妙本院塔頭となる。

   

 天台宗は仏教の中でも密教系に当たり、特定の神などに関わらず様々なものを取り込んでいる。中でも本尊として扱われるのが「歓喜天」であり、その元はインドのヒンズー教に発すると言う。これがのちに仏教に取り込まれ、恐ろしい神と言われていたものが次第にその性格が変わり、謂わば仏教の守護神的な役割を果たすものと理解されるようになった。

 歓喜天というのは「聖天」とも言われ、さらに「象鼻天」とも言われる。元々がインド発祥ということで、インド象が尊重され神として扱われるようになったものが、具体的な像として祀られるようになったんだろう。これらはおそらく仏教だけではなく、神道においてもその影響が表れていると考えられる。

   

 実際、仏教の本堂などの建物、あるいは神社の本殿などの建物の飾りとして、横向きの象の顔が彫刻されていることがよくある。またここ香雪院でも、境内に象の全身像が置かれていた。本尊としては 「歓喜天」となるが、これには様々な形態があって、その代表的なものが「象頭人身」と言われるものだ。形状は漢字の通り。どのお寺においても秘仏とされており、公開されることそのものがないと言われている。おそらく修理の際などに姿を現すくらいなものだろう。
 発祥の地インドにおいては、歓喜天は魔物であったが、日本の仏教に取り入れられる中で次第に仏教の素晴らしさを表す存在として、歓喜天信仰が人々の間に広まり、「聖天さん」として広く親しまれるようになった。

   
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2024年 梅の花 地蔵禅院・・・実に見事!  京都府綴喜郡井手町  2024.3.18 訪問

2024-03-28 22:35:19 | 撮影
  

『曹洞宗・地蔵禅院 縁起
 山号 玉峯山 本尊 地蔵菩薩
 開基 肇建上人 開創 一六二七年
 城南西国第二十七番札所

 當院の歴史は古く白鳳年間(千二百年前) 井手左大臣橘諸兄公によって草創され、当時は華厳宗に属していました。貞享元年(一六八四年)の雍州府志によると、當院十一面千手千眼観世音菩薩は、井手左大臣・橘諸兄公の持仏であったと伝えられています。
 他宗等に改宗を重ね、曹洞宗としては江戸時代初期寛永年間一六二七年、関東天王院の至心考察和尚(當院二世)が當院の本寺である曹洞宗・東長寺の惣外麟應和尚を當院開山に拝請してから数百年、今 日に至っております。 現在の建物は、安政三年に當院十八世寶山俊棟和尚によって中興され、また平成七年に再中興されたものです。江戸中期には末寺十八ヶ寺を有する中本山格の寺院であり、曹洞禅を鼓吹していました。
 地蔵院に残る古文書には西側と南側門前に、今は廃寺となっていますが、他宗の寺院(密教系寺院)が隣接していた、と残されています。當院の南南東の方角 の小高い山には井手城趾(山城)があり、当院に伝わる文献によるとその昔お城の関係者が地蔵禅院にて出家したと記録されています。

 井手の山 登り登りて 上もなき
  道に入れとの 教えなるべし(門前・榮福寺) 』 (説明書きより)

   

『京都府指定 天然記念物
「地藏院しだれ桜」

 ご協力有り難うございます。

 この桜は樹齢約三百年の老木のため、いたわ が必要です。近年の大気汚染と異常気象等により傷みも顕著であり、通年の手入れを行っています。 また立ち入り制限により樹下の根部分の保護を図り、樹勢回復を見守っています。 これまで皆様のご浄財によって治療(土壌改良、苔等の除去ほか)等の手だてを施してまいりました。後世に長くこの桜を残すため、今後ともご協力のほどお願い申し上げます。いくらでも結構です。ご浄財箱にお入れください。
 しだれ桜保存会会長合掌
 地藏院住職合掌』  (説明書きより)

  

 地蔵禅院には何度か訪れている。京都府の天然記念物に指定されている大きなしだれ桜の撮影が目的だ。最初に訪れたのはもう6~7年前になると思うが、ちょうど若い住職さんが手作りでベランダのようなものを作っていた。少しお話をしたがその内容はもうすっかり忘れてしまった。少し小高い山の中腹にあり、南山城地域がよく見渡せる風光明媚な場所にある。このしだれ桜は咲き始めると地元の新聞にも掲載されるほどで、京都府民であればかなりの人が知っているものだ。

 今年は桜の前の梅の撮影に訪れた。このお寺に梅の花が咲いているかどうかは未知だった。お寺の少し手前に行き止まりの道路があり、少し広くなっているのでちょうど駐車場代わりになる。すぐ目の前が玉津岡神。そしてその横に地蔵禅院がある。特に山門といったものはこの場にはなく、少し入ったところに玉津岡神社の鳥居が入り口のような感じになっている。梅撮影前に境内全体が様々な樹木、あるいは花に恵まれており、非常に良い雰囲気だ。 ゆっくりと撮影を始める。

   

 もちろんしだれ桜はまだ咲いていない。しかしその場に近づくと、下の方に白い花が満開状態で咲いている。どう見ても梅ではなく、桜にしか見えなかった。桜にも様々な品種があり植物に疎い私にとってみれば、おそらく桜であろうその花を撮り始める。河津桜が早咲き と言われるが、それは桃色の花を咲かす。白い河津桜というのは見たこともないし聞いたこともない。とにかく何らかの桜らしき花を十分に撮影した。

   

 続いて境内を順に撮影していく。すると少し奥の方に赤い塊が見える。ひょっとしてと思いながら近づくと、なんと真っ赤な紅梅が満開状態で咲き誇っている。一部は花そのものが 枯れかけていたが、圧倒的な迫力で迫ってくる。こんなに真っ赤な梅の花はなかなか見ないものだ。まさかが実現し、大いに撮って撮って十分すぎるほどシャッターを押し続けた。他にも白梅の木もあったが、既にかなり散っていた。

 地蔵禅院は奈良時代に活躍した橘諸兄が創建したお寺が元になっているという。ずっと後に宗派を点々とし、江戸時代に今現在のお寺として再興した。ずいぶん長い歴史を持つ由緒ある寺だと言える。こうして思いもかけず見事な梅の花を見ることができ、また撮影することができて、十二分に満足感を得ることができた。

 ちなみにこのお寺は玉津岡神社の神宮寺となるようだ。

    
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2024年 梅の花 金剛王院(一言寺)・・・まだあった  京都市伏見区 2024.3.16 訪問

2024-03-27 22:20:09 | 撮影
  

『一言寺
 高台にある一言寺は、四季折々の花に彩られた静かな寺である。
 この緑に覆れた寺は、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子に仕え、「大原女」のモデルとも言われる阿波内侍(後白河天皇の側近である藤原信西の娘)によって創建された。
 本尊の千手観音は、「ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という御詠歌で歌われるように、一心に祈れば、一言だけなら願い事が叶う、ということで、多くの信仰を集めている。
 現在の本堂は、江戸時代の再建で、「一言観音」と呼ばれる千手観音菩薩像や不動明王像等の他、元禄七年( 一六九四)に造られた阿波内侍像が安置されている。
 山門の近くにある大きなヤマモモの木は、樹齢四〇〇年以上と言われ、京都市の天然記念物に指定されている。幹の内部が大きく空洞になっているが、今でも樹勢は衰えることなく、毎年六月頃には多くの赤い実を付ける。
 京都市』 (駒札より)

  

『一言寺
 真言宗醍醐派のお寺で金剛王院、通称一言寺と言います。一八七四年(明治七年)金剛王院の祖聖賢を開山とする醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。ご本尊の千手観音さんに一心に祈れば言下に願いがかなうことから、一言寺の名がおこったと伝えられています。
「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の御詠歌の額が本堂の軒下にあります。
 寺伝によれば、 高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍」が出家して「真阿」(しんな)と名乗リ、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます。
 仁平年中珍海はここに住み、密教の仏画を多く残し、阿波内侍座像は、元禄七年画像を基に造られたと記録に残されています。
 本堂は、一八一〇年(文化七年)の再建で、江戸時代を代表する建築の一つです。内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです。一言観音と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像は、この中に安置されています。』
  (説明書きより)

   

 一言寺は山科盆地に位置するが、行政区としては伏見区となる。 少し北側に行くと醍醐寺に達する。寺は外環状線の脇道を東山の方に上がった山裾にある。正式には金剛王院という。創建については説明書きの中に阿波内侍によるとあるので、平安末期となる。その意味では800年にわたる長い歴史を持つ。阿波内侍は「大原女」のモデルになった人物と言われ、墓は大原にあるという。

  桜及び紅葉については境内にいっぱいに広がり、私としては名所と言ってもいいくらいの見事なものだ。梅はそこまでは至らずとも、本堂前あるいは鐘楼の近くに木が数本立っている。今年は遅いかなと思いながらも期待を込めて訪れた。

   

 はたして梅の木は山門をくぐり、ずっと奥の本堂の前に見える。近づくとある意味、予想通りかなり散っていたが、まだ長く伸びた枝にそこそこ咲いているのが見える。白梅だ。少しクローズアップを中心にして丁寧に撮っていく。境内全体が広い上に池などもあり、かなり時代を感じさせる古さが風情を醸し出す。そういった点では昔ながらのお寺の状態を保っているという意味では、貴重なまた私が好きなお寺といえる。

  一通り撮影を終えて帰ろうとした時に、山門横の鐘楼の近くに小さな紅梅の木が見えた。早速近づいて撮影を始める。やはりクローズアップを中心に撮影していく。背景に鐘楼や池、あるいは遠くの本堂を入れようとしたが、本堂を入れるためにはロープで仕切られた内部に入らなければならず、これは遠慮した。従って近くの 鐘楼の背景が中心となる。護摩堂も近くにはあったが、少々分かりにくい。まあしかし時期的にやや遅いものの、これだけ咲いていれば、そこそこ満足はできる。なお門前の駐車場の梅の木は全て散り落ちていた。

  
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2024年 梅の花 吉利倶八幡宮・・・なかなかのもの 京都市山科区  2024.3.13 訪問

2024-03-26 22:46:40 | 撮影
   

『八幡宮の御由緒
御祭神  応仁天王 仲哀天皇 神功皇后

御鎮座地 京の都は山科に伏見に通じる御道あり 大岩街道と称す その街道沿い東の端山八幡山の中腹に平安時代の初めより御鎮座されております
 京都外環状線と京都府道三十五号大津淀線の交差点「外環小野」を淀方面へ 勧修寺の南側に表参道の鳥居が望めます
 京都市営地下鉄東西線「小野駅」一番出口より 徒歩約五分 境内地及び常緑の山林・鎮守の森が当宮の宮域で御座います

勧請・沿革  仁寿の御代 八幡山の中腹に夜毎に金色に光を放つ神木があり人々は恐れ慄いておりました そのことをお告げで知られた文徳天皇はこの地を鎮護国家の霊場とすべく 社殿を創建し八幡大神様を勧請され 御遷宮の儀を執り行いましたところ山は激しく鳴動したと云われております
 昌奉三年 延喜格式を编纂し延喜帝とも称される醍醐天皇は真言宗山階派 大本山勧修寺建立の鎮守の神とし 造営料に社領等寄付されました
 往古より王臣家の崇敬深く社祭には刺使の差遣が御座いました また宇多天皇の皇子敦実親王は自作の尊像を奉安されるはどであり その頃より世間では神仏習合思想が流行し始め参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事をご祈願されました
 やがて源氏の八幡信仰が広まりますと当宮にも武将ゃ大名より社領神宝その他数多の寄進があったと云われており 長禄二年には室町幕府 八代将軍 足利義政公より修覆造営料とし社領等の寄進も御座いました
 その数年後 羲政公の後継等複数の要因から応仁元年より文明九年の十一年間の長きに亘り洛中各所で大乱が展開されました 文明二年七月には大内政弘が勧修寺に東軍を攻め一带に火を放ち この兵火のため当宫の末摂社数多の神宝・旧記等悉く炎上焼失致しました
しかし何故か本殿だけは延焼を免れ 御神木がその身代わりにか大火のため枯れたような色になりました そこで枝を切り払いましたところ梵字=サンスクリット文字「キリーク」=がその切り口に浮かび上がりました それより種子八幡とも称され「吉利倶」の文字が充てられたとも云われております
 幸にしまして勧修寺に八幡縁記等貫重な古文書が残っておりましたので事跡の一端をそれに依って辛うじて知る事ができます
 国家安泰・武運長久に霊験あらたかと豊臣秀吉公 伏見城北東に鎮座する当宮を崇敬するも慶長三年八月十八日死去ㄝられ その遺命にて豊公重臣 寺社奉行の前田玄以が同年十二月金燈籠・木製灯籠及び社領十二石を寄進されました (以下略)』
  (説明書きより)

  

『八幡皇大御神様は 千古より常緑の空の杜に鎮守されております
元禄八年 出羽新庄藩主戸沢政寔 再建の檜皮葺の御本殿 慶応四年伏見宮邦家親王の第一王子 山階宮晃親王が拝殿を寄進 端麗な姿で鎮まり 清々しくも尊厳な空気の中に聳える御神矢は総代会が奉納したもので御座います 境内各所の燈篭や狛犬 鳥居に至るまで親王様や氏子崇敬者をはじめ御参詣の皆様が奉献されたものであり敬神の念が感じられます
 現在 古と変わらぬ神聖な姿を保ち 広大無辺なる御神威を発揮されているのは祖先から受け継がれてきた貴重な伝統や文化遺産 そして素晴らしい魂を受け継いでいる賜物で御座います 今後も皆様の御心や御志により 後世に伝えていくという意義ある使命を成し遂げなければならないと存じます
 大神様との御神縁により 当宮へ御参詣の皆様におかれましては 御賢察の上格別の御理解を賜りますよう 宜しくお願い申しあげます
八幡宮 宮司 長谷川責啓 拝』
  (境内説明書きより)

 

『京都市指定有形文化財
 八幡宮本殿
 八幡宮は仁寿三年(八五三)の創建と伝え、江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。
 現本殿は元禄八年(一六九五)に建築された。このときの大工は、後に勧修寺の宸殿等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられる。その後、享保十九年(一七三四)と安永八年(一七七九)に修理が行われており、向拝部労は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定される。
 建物は桁行三間、梁行二間で切妻造、桧皮葺の屋根をのせる。内部は、内陣と外陣が前後に仕切られるが、間仕切の位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてある。
 この本殿は、向拝が改変されているものの、当初の姿をよく伝えており、江戸時代中期の大型の切凄造平入本殿として、その価値は高い。
 昭和六十二年五月一日指定
 京都市』
 (駒札より)

  

 八幡宮は以前、桜の撮影に来ている。普段は花の景色というのはほぼないに等しいわりと そっけない雰囲気の境内の神社だ。しかし桜はほぼ名所と言ってもいいくらいに境内の周りに咲き誇り、素晴らしい風景を呈してくれる。創建は平安時代で北側にある勧修寺の鎮守社として位置付けられていた。桜があるならばその前の梅もあるのではないかと予想をつけて訪れる。

 
 
 境内前に広い駐車場があり、そこに小さな赤い鳥居がある。そこから少し石段を上がっていく。ほどなく広い境内に本殿が見えてくる。この本殿は江戸時代初期の再建であり、今では京都市の有形指定文化財となっている。さすがにその造り、そして絵模様などは見事の一言だ。しかし広い境内には梅の花は見当たらない。境内の周囲を順番に回っていく。

    

 すると北側の端に比較的小さな梅の木があった。かなり散ってはいたが、白梅の木だ。近づくと小さな白い梅の花があちこちに伸びた枝にへばりついている。こんなに広い境内の中にわずかこれ1本しかないのか、などと思いながらもあらゆる角度から撮影していく。本殿などを背景にするとなかなかいい構図となる。まあなんとか間に合ったと言った感じだ。こうして白梅を撮影し、少し満足感を得て境内を降りようとしたその時に、なんと石段の北側に大きな紅梅が目に入った。かなり大きな木で四方八方に伸びた枝に、桃色の梅の花がこれでもかというほど咲き誇っている。まさかこんなところにあるとは。夢中になって写真を撮っていくが、境内の少し外れで地面は緩やかな坂になっており、気をつけないとそのまま滑り落ちてしまいそうだ。しかしなんとか花まで近づいて、これまた撮れるだけ撮っていく。残念ながらバックは山科盆地の町の風景となる。神社そのものを背景にすることはできなかった。

 こうして小さな白梅と大きな紅梅を撮影することができて、そこそこの満足感を得ることができた。今後機会があればいずれも満開の最中に訪れてみたいとは思う。

    
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