切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

東光寺~光明院・・・東福寺塔頭     京都市東山区   2022.12.18 訪問

2022-12-31 21:38:35 | 撮影
東光寺

  

 東光寺は東福寺の塔頭寺院であり、従って臨済宗東福寺派の寺院となる。東福寺のすぐ西側に位置している。大半の人は東福寺の西門から東福寺境内へ入ってしまい、東光寺の方へ向かう人はごくわずかだ。またその道を通っても山門が小さいので、見逃してしまいやすい。非公開寺院であり、年に紅葉の時期だけ公開される。

 

 創建は南北朝時代の1311年。鎌倉幕府が少しずつ衰えを見せ始めた頃だ。当時はかなり大きな寺院であったが、後に荒廃し、廃寺寸前となる。途中再建されて少し場所も移動し、東福寺塔頭として蘇り今現在に至る。
 美しい庭園を有しており、紅葉時にはそれが公開され素晴らしい風景を目にすることができる。

 

 今回は紅葉の最盛期を過ぎてようやく訪れた。開門されており、本堂前の境内には入ることはできた。しかし内部の公開及び庭園の拝観はすでに終わっており、ごくわずかだけの空間を撮影するだけに止めざるを得なかった。境内にはやはりもみじの木があったが、ほとんど枯れ果てており、ごくわずかに赤色が見えるのみだった。やはり公開時に内部に入って、庭園の撮影をすべきであったと後悔。


光明院

  

『光明院
 東福寺の塔頭として明徳二年(一三 九一)、金山明昶が創建した寺院であ り、桜や紅葉の季節には、特に苔が美しいことから別名「虹の苔寺」とも称される。
 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和一四年(一九三九)、重森三玲が作庭した名庭で平安式の州浜型の枯池に多数の石組を配し、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏のごとく斜線上に立石が並んでいる。
 その背後には、サツキやツツジが雲紋になぞらえて刈り込まれ、雲の上に月を形どる重森三玲設計の茶亭 蘿月庵が佇む。「波心の庭」から眺めると、蘿月庵が東の空に昇る月の姿となる。
 本堂には、本尊である金造佛の釈迦牟尼佛が安置されている。
  京都市』  (駒札より)

  

 『明徳二 (一三九一)年、金山明昶の創建による東福寺の塔頭。別名「苔の虹寺」 とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。
 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和一四年、東福寺方丈庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。
 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶余亭「蘿月庵」が佇む。 これは神語の『雲ハ嶺上二生ズルコトナク、月ハ波心三落ツルコト有り』によるもので、昭和三二年(寄付きは昭和三八年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しむという仕掛けになっている。』
 (パンフレットより)

   

 光明院は創建時から東福寺の塔頭寺院として今現在に至る。鎌倉幕府が終わり、新たに室町幕府が誕生する寸前のころだ。朝廷の分裂時期を迎える中で、足利氏が権力を握り京都を中心に勢力を伸ばしていく。そんな中で禅寺としての東福寺は何箇所も塔頭寺院を建立し、一大勢力となっていく。

 東福寺の南門からそのまま南へ数百m行くと光明院がある。門前に大きなもみじの木があり、盛大な紅葉が、しかも真っ赤に色づいたまま道路上にまで突き出しているので、すぐにわかる。この山門の部分だけでも撮影する値打ちがある。ちょうど若い女性の2人組が、この門の前でそれぞれポーズをとってスマホで撮影していた。そういった意味では、拝観料を払って内部に入らずとも、結構見栄えのするいい写真が撮れるだろうと思う。

 

 何年か前に公開時に中に入っているので、今回は2回目となる。やはり紅葉の最盛期を過ぎているので、どうかなとは思ったが、こちらは予想に反してまだまだ十分な見頃と言えるほどだった。近代に作庭された庭園は、平安時代や江戸時代などのかつてのものとは違って、昭和の時代の新しい感覚で造営されたものであり、見る人が見ればその違いや訴求しているものが分かるだろうと思われる。全く素人の私ではその辺りはよくわからない。庭園と言われれば何でも彼でも枯山水式の庭園と思ってしまう程度だ。

  

 方丈から見る庭園は、様々な構図からその様子を変化させ、そういった点ではどこからどう撮るのか、という楽しみがある。本来ならば時間をかけて、じっくりと気に入った構図を見つけたいものだが、やはりそこそこ人が来ているので、なかなかチャンスが訪れない。どうしても十分気に入ったということなく、まあこのあたりでいいだろうと妥協しながら、撮影してしまうのが、いつものパターンだ。しかしやはり、庭園の中の緑と赤と黄色の様々な色がお互いを主張しあう場面、というのはさすがに見応えがある。

  

 光明院はれっきとした紅葉の名所と言われる。ただ大御所の東福寺の境内の外側にあるということで、なかなかここまでわずかな距離ではあるものの、やってくる人が少なめとなる。せっかく東福寺に来たのならば、周囲の何箇所かの塔頭寺院の中には、このように公開されるところがあるので、是非とも内部拝観をするのがいいだろうと思う。

   

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向日神社・・・さすがの紅葉     京都府向日市     2022.12.13 訪問

2022-12-29 21:35:12 | 撮影
   

『向日神社縁起
 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られところである。』
 (駒札より 抜粋)

   

『祭神
 向日神 ムカヒノカミ
 火雷神 ホノイカヅチノカミ
 玉依姫命 タマヨリヒメノミコト
 神武天皇 ジンムテンノウ

一、縁起

 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

一 、本殿建物
 現在の本殿は應永二五年(一四一八年)に建造されたもので、室町時代の流造様式の代表的建築物として、重要文化財に指定されている。また明治神宮本殿造営の際には、当神殿をモデルとされている。

一、宝物
 日本書記 神代巻の下巻(重要文化財)
      延喜四年藤原清貫筆と奥書に印されている。
 飾太刀 天狗久光作の銘あり
 額  小野道風の筆による「正一位向日大明神」の額
 棟 札 應永二五年本殿棟札一枚
     慶長二年(一五九七年)棟札一枚
 古 印 「向日神社政印」の銅印
 朱印状 豊臣秀吉および徳川歴代将軍の御朱印状』
  (パンフレットより)

  

 向日神社は京都府向日市の中心部にある。かなり広い敷地の上に広がり、周囲には古墳も見られる。平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記載されるいわゆる式内社である。奈良時代初めに創建ということになっているが、それ以前にこの地の2箇所に社が建てられ、それぞれ向神社・火雷神社と名乗っていたが、両社がひとつになる形で今の向日神社となる。その歴史は極めて古く、この地の開拓を祈り多くの信仰を集めてきた。

 現在の本殿は国の重要文化財に指定されており、周囲を取り巻くように多数の末社があるが、そのほとんどが国登録有形文化財に指定されている。そういった意味ではかなり重要な役割を果たしてきた、歴史的に由緒のある神社と言える。

  

 神社の周囲の境内は比較的すっきりしていて、紅葉等はあまり見られないが、本殿の裏側に回ると数多くのいちょうの木や楓の木があって、見事な紅葉を見せている。それ以上に豊かな彩りを添えているのが、幹線道路から本殿に至る長い参道沿いだ。ここもそれこそ見事としか言いようのない、赤や黄色が両サイドから迫ってくる。市街地の中心部にあり、交通の便もよく、桜の季節にしても紅葉の季節にしても、名所と言うにふさわしい場所だ。

   

 訪れたのは紅葉の末期に近い頃。赤い葉はかなり散っていたが、それでもまだまだ鑑賞するには十分な状態。ゆっくり歩きながらカメラを向けシャッターを押していく。さすがにこのころになると、紅葉撮影に訪れている人はごくわずかだった。また参拝者も平日とあってわずかに訪れているのみだった。休日や催事のある時にはかなり大勢の人が訪れる。

   

 今までにも何度か、桜や紅葉を撮影しているが、同じ場所でもその度に時期的な違いもあり、別の様相を見せてくれるようだ。時間があれば本殿裏の少し奥に古墳があるので、そちらへも行きたかったが、日が傾き始めていたので今回は行かなかった。じっくり時間をかけてあれこれ見ていると、興味深いものも非常に多い。末社などにしても当然それぞれ名前が付けられており、祭神も記されていた。歴史的にも価値のあるものだ。何度訪れても期待に応えてくれる神社だと言える。

   
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伏見桃山城公園・・・伏見キャッスルランド跡   京都市伏見区   2022.12.12 訪問

2022-12-28 23:03:27 | 撮影
 

『伏見桃山城運動公園
「伏見桃山城運動公園」は、「伏見桃山城 キャッスルランド」(平成十五年一月閉園)の 跡地を活用して、市民の皆様がスポーツに気軽に親しめ、また、憩いの場ともなる運動公園として、平成十九年四月に開設されました。
 公園内のお城は、伏見桃山城キャッスルランドの目玉施設として昭和三十九年に建設されたものです。遊園地の閉園後は伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマ の撮影等にも活用されています。

公益財団法人京都市体育協会
伏見桃山城運動公園管理事務所』
   (説明板より)

   

 伏見桃山城に行く。とはいっても豊臣秀吉が建てた伏見城ではなく、後に徳川家康が建てた桃山城でもない。1964年東京オリンピックの年に、元伏見城のあった近くに一大テーマパークが、近畿日本鉄道によって開発されオープンした。その中心的な目玉が伏見桃山城というわけだ。伏見城については詳しい資料が乏しいこともあり、詳細がわかっていない。ある程度判明している様々な資料を基にして、当時の伏見城を元にして設計し建築された。その意味では、適当に日本のお城を模したものを建てたというのではなく、それなりに考証をくわえて建てられたものであり、なかなか見栄えのするものだった。

 テーマパークは「伏見桃山キャッスルランド」という名前で、当時はかなり人気を博したもので、私も一度だけここを訪れ、ジェットコースターやプールには入ってないが、城の内部に入り、エレベーターで天守閣の最上階まで上がることができた。非常に見晴らしがよく、京都市南部一帯、さらには大阪方面も遠望でき、当時はフィルムカメラであったが、懸命にシャッターを切って多くの写真を撮ったものだ。

   

 しかし残念ながら、一般ファミリーにとってみれば近鉄や京阪電車の駅からはかなり遠く、恐らくその辺りがネックになったのだろう。同時に全国的にこのような大規模遊園地というのが、次々に閉園となり、キャッスルランドも例外なく、利用者の減少によって閉園という形になる。

 伏見桃山城は解体の予定だったが、地域の人々からは存続してほしいという要望もあり、京都市に広大な土地とともに寄贈され、敷地にはグラウンドや野球場などのスポーツ施設、そして城の周囲は憩いの公園といった形で再整備され、今は決して人は多くないものの、都市部にある大型公園として大いに活用されている。残念ながら城そのものは経年劣化もあり、今では周囲がロープで張り巡らされて、近づくのも禁止。当然内部に入るのも禁止という状態になっている。いずれは修復工事ということになるだろうが、かなり費用もかかりそうなので、京都市の財政事情から言うと、ほぼ間違いなく解体ということになるだろうと思われる。

   

 城の周りは多くの草花が、そして木々が取り巻いており、四季それぞれの花々が非常に美しく、ベンチなども置かれ、また芝生もあって近所の人だけではなく、少し離れたところからも、グループや学校の遠足でやってきて、ゆったり過ごしている風景が見られる。スポーツ公園の方はかなり利用頻度が高いようで、訪れたこの日もグラウンドや野球場の方から大きな声が盛んに聞こえていた。

   

 秋とあって紅葉の方はどうかということで訪れたが、最盛期を過ぎていて、残念ながら末期に近く、もみじや銀杏の 葉などは大半が枯れ落ちていた。それでもまだまだ赤い紅葉や黄色のイチョウの葉が、大木を包んでおり、見どころはまだまだ残されていたのは幸運だった。私と同じようにカメラ抱えて、あちこちの角度からシャッターを切っている高齢者を何人も見た。お城の近くでは芝生に10人ほどの高齢女性グループが座って、お弁当を食べ楽しそうに談笑する姿もある。赤い紅葉を見て綺麗だねという声が聞こえてくる。

  

 これだったら紅葉最盛期にくるべきだったと少し後悔。桜の名所であることは知っているので、4月には盛大な桜の満開を撮影に来ようかと思っているところだ。


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城南宮・・・名所中の名所       京都市伏見区    2022.12.15 訪問

2022-12-27 23:49:33 | 撮影
   

『平安京の守り神ーー城南宮

 四神相応の地とされる平安京に都が遷った時、国の安泰と都の守護を願って創建された城南宮は、
 国土の守護神
  国常立尊
 武勇に秀でた経営・医薬の神(大国主命)
  八千矛神
 安産と子育ての守り神
  神功皇后
を始めとする神々をお祀りしています。
 平安時代後期に城南宮を取り囲むように離宮が築かれ院政の拠点となると、秋の城南祭が盛大に行われるようになります。また方位の災いが無いように願って行う方違の宿所に離宮の御殿が選ばれることも多く、熊野詣に出掛ける際は、離宮に七日ほど滞在し、身を清め旅の無事を祈って出掛けました。ここに「方除の大社」と仰がれる城南宮の方除の信仰を見ることができます。
 文久元年(一八六一)、十四代将軍徳川家茂に嫁ぐために和宮親子内親王が江戸に向われた折、城南宮では、旅の方除・道中安全の祈祷を修めました。また孝明天皇から正月・五月・九月の年三回のご祈祷に与るなど皇室の尊崇を受け、城南鳥居には菊の御紋と御神紋の三光の紋が輝いています。
 そして、明治維新を告げる鳥羽伏見の戦いは城南宮の参道から始まりました。』
  (パンフレットより)

   

『城南宮

 平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊、八千矛神、神功皇后をお祀りする。平安時代の末、この地に白河上皇によって城南宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、 城南茶では流鏑馬や競馬が行われた。
 また離宮は方違えの宿所や熊野詣での精進所となり、 方除の信仰が高まった。 承久三年(一二ニ一)、後鳥羽上皇が城南流鏑馬武者の武者揃えと称して兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたことは名高い。
 江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称されて大いに賑わう。皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の際に行幸されて吹散を賜り、慶応四年(一八六八) 正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。
 日・月・星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで広大な方除の御神徳を表し、 建築・ 転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。
 神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。
  京都市』   (駒札より)

   

 伏見区の城南宮へ行く。今までに何度も訪れており、その都度四季の花々を撮影し、このブログにもアップしてきた。今回は紅葉の撮影に訪れる。

 国道1号線のすぐ横にあるので、本来なら車の音で騒々しいはずだが、城南宮の境内や広い庭園は驚くほど静かな雰囲気が漂っている。梅のシーズンであっても桜のシーズンであっても関係なく、素晴らしい花々を静かな環境で見せてくれる。どの場面を切り出しても決して後悔することのないような、我ながら素晴らしい写真が撮れるのだ。

   

 平安時代末期の創建であり、その意味では歴史的には相当な長さを持っており、貴重な場でもある。かつてこの近くには、藤原氏の栄華を極めた鳥羽離宮が造営され、南側の旧巨椋池の広大な水景色を、貴族たちは大いに好んで優雅に暮らしていた。その一部が現在この城南宮として残っている。近くには鳥羽離宮跡の遺構も残っており、そちらには発掘の結果、様々な遺跡が出てきている。また巨大な五輪塔も今に残っており、国の重要文化財に指定されている。ただしその五輪塔はなんと老人ホームの敷地内にある。

   

 今回は訪れた時点でややピークを過ぎていたが、紅葉としては全く過不足なく十分だった。しかも人も少なく自由に撮影することができた。庭園の前半は特に紅葉は見られず、その場所は梅や桜などの集中して咲くような場所だ。本殿の裏側を回ると、そこから紅葉が密集した、見事な池を中心とした庭園が広がる。しかも紅葉だけにあらず、小さな花々があちこちに咲いている。撮影するたびに満足感を得ることができた。

   

 庭園を出て向かい側に別の庭園があり、そちらに入ると枯山水庭園を模した光景が広がる。その部分に紅葉は全く見られない。しかし奥へ進んでいくと、城南宮の施設の建物の横にかなり大きなもみじの木が何本も並んでおり、これまた素晴らしい紅葉風景を見せてくれる。こうして撮影を終えて、いつものごとくだが、やはり城南宮はさすがだな、と思わずにはいられなかった。


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瑞光寺・・・茅葺きの本堂      京都市伏見区     2022.12.11 訪問

2022-12-26 23:25:52 | 撮影
  

『瑞光寺(元政庵)
 深草山と号する日蓮宗の寺である。
 この地は、もと極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していたが、明暦元年(一六五五)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれている。
 上人は、京都に生まれ、俗名石井吉兵衛と称し、彦根藩に仕えた武士であったが、後に出家してここに草庵を建て、父母を引き取って孝養に努め、学者、文人、又は孝子として知られるようになった。寛文七年(一六六七)、母親の死の直後に四六才で没した。上人の墓は、境内の西隅にあり、遗命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。
 本堂寂音堂は、丸みを帯びた萓葺屋根の建物で、寛文元年(一六六一)に建立されたものである。
 堂内に安置する本尊釈迦如来座像は、中正院日護上人の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められている。
 毎年三月十八日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開される。
  京都市』 (駒札より)

   

 瑞光寺には何度も訪れている。私の好きな寺院のひとつだ。すぐ横をJR奈良線の列車が頻繁に走っていて、少し騒々しい面もあるが、境内及び本堂などの建物が非常に趣のあるもので、いかにも昔の場面を思い出させるような様相を呈している。

 小さな門は江戸時代に建てられたものだろうか。雰囲気がそのように訴えているようだ。境内に入って少し進むと立派な鐘楼があり、梵鐘もある程度年代ものではないかと思われる。そして何と言ってもこのお寺の最大の見物は茅葺の本堂だ。他にもこのような本堂を見たことがあるが、比較的小さい建物で手前の境内の草木と一緒に見ると、まるでここは江戸時代なんだろうか、と錯覚を起こさせる。

  

 境内全体は草木や様々な花に覆われており、石畳の通路が続いていて、そこを進むことになる。社務所は一般民家のような感じで、そこを除けば境内には池もあり、大きな錦鯉が何匹も泳いでいる。酸素を入れる水の音が心地よい。

 調べてみると本堂そのものは、江戸時代初期の建立だ。がしかし、何の文化財指定も受けていない。瑞光寺が有する文化財は、大般若経の一部であり、これは国の重要文化財に指定されている。普段は奈良国立博物館に委託されているので、特別な公開日でないと見ることはできない。本堂内には小さな釈迦如来があるとの話だが、これも普段は見ることができない。

  

 創建当時はかなり広大な敷地を有し、向かい側にある宝塔寺とともに、場所を共有していた極楽寺というお寺があった。様々な事情で宝塔寺と瑞光寺に分けられ、この瑞光寺もかなり広大な土地を有していたが、これも様々な開発やJR線の建設等により、今現在のようなやや狭い敷地となっている。

   

 四季折々の花や紅葉等の名所でもあり、ゆったりと心を落ち着けて眺めることができる。近くには多数の重要文化財を有する宝塔寺があり、少し北側には五百羅漢で有名な石峯寺もある。そういった意味ではこの辺り一帯、結構見所が豊かだと言える。

  
 
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