切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

中京区・誓願寺~誠心院~下京区・菅大臣天満宮・・・寺町界隈と

2020-03-31 23:37:16 | 撮影


 先日のブログで、寺町界隈のビル街の中のお寺を紹介したが、今回はその続き。寺町辺りのお寺の撮影をした後、少し移動して下京区の菅大臣天満宮へ行ってみた。
 今回訪れたところは何れも駒札が用意されており、由緒や沿革についてはそれを読んで頂ければと思う。
 一応、梅撮影を兼ねて行ったのだが、まともに梅が開花していたのは菅大臣天満宮だけだった。天気は良かったし、コロナに関わらず、やはり京極や寺町辺りは人手が多い。でも密集というほどではなかった。自分自身でもなるべく密集した集団を避けて、通りを素早く歩いて移動する。まずは誓願寺からスタート。

誓願寺



『誓 願 寺
 天智天皇六年(六六七)、天皇の勅願により創建された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)に移転し、その後、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。
 その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ヶ寺の山内寺院を擁していた。
 清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人が興福寺の葳俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。現在は、法然上人の高弟・西山上人善惠房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。』
 (駒札より)

 天智天皇の勅願により、奈良に創建された。天智天皇といえば飛鳥時代ということになるから、相当古い歴史を持つお寺だ。その後様々な変遷を経て、今現在の寺町界隈の地にある。人通りの多い通りに面していて、境内に入ると本堂の扉は全開で、内部にそこそこの高さがある阿弥陀如来が座している。ちょっとした大仏といった感じだ。このお寺は、清少納言や和泉式部といった女性との縁があり、ここで仏門に入ったということで、女人往生の寺として名を馳せることになる。
 なお、京都大仏として知られていた方広寺の木製大仏は、残念ながら消失し、京都には大仏はない。したがって奈良の大仏には遠く及ばないものの、この誓願時の大仏も5mほどの高さがあるので、見ておく価値は十分にあるだろうと思う。
    


誠心院



『誠心院 
 華嶽山東北寺誡心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部の名で知られている。
 寺伝によれば、関白藤原道長が、女の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起りといわれている。当初、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間 (一五七三〜九一) この地に移された。
 和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅選集に収められている和歌は二四七首に及んでいる。
 本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。
 境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「幹端の梅」に因んで、後に植えられたものである。
  京都市』  (駒札より)

 誠心院は別名、和泉式部の寺とも言われる。平安後期に創建されたが、初代の住職が上記の誓願時で仏門に入った、和泉式部だとのこと。その縁から今現在でもこのように呼ばれるんだろう。
 小さな門をくぐると、和泉式部とお寺の関係が詳しく紹介されていた。また和泉式部に関わる絵画が何枚も掲げられている。境内は狭く大半が石畳で、どうしても都会中心部の狭い敷地で、ある意味仕方がない。
 墓地の方に行くと、和泉式部の墓とされている宝篋印塔があった。どこまで事実かは分からないが、和泉式部の墓を名乗っているところは他にもある。この辺りは一定研究はされているんだろうが、確たるものではないのかも知れない。名乗ったもの勝ち、というわけでもないだろうが、それぞれの由緒のある場所が主張しているのも、全く無縁というわけではないんだろう。いずれにしろ和泉式部との縁が極めて深いだけに、ここのお墓が本物だということは十分に納得できるものではあると思う。
     


菅大臣天満宮



『菅大臣神社
 祭神 菅原道真公、尼神、大己貴命
 社地は約一千年前、天神樣すなわち菅原道真公(八四五〜九〇三)の紅・白梅殿というお邸や管家廊下と称する学門所の跡で、また公、誕生の地と伝えられ、境內には産湯の井戶が保存されている。仏光寺通を中心に南北ニ町、東西一町が当時のお邸で、公、太宰府へ 左遷に当り
 東風吹かばにほひおこせよ梅の花
   主なしとて春なわすれそ
と詠まれた飛梅の地である。神社は公没後間もなく創立されたが、度々兵火にかかり 鎌倉期には 南北両社に分れ、当社を天神御所、白梅殿社北社を 紅梅殿社と呼んでいた。応仁の乱が慶長十九年に、菅家ゆかりの曼殊院宮良怒法親王により再興され、今日に至っている。 この間、天明の大火、元洽の兵乱で再度消失するが 、現本殿は天保六年(一八三五)造立の三間社流造 という下鴨神社の旧殿を、明治二年に移築し、その後幣殿を建立して、いわゆる八棟造をなしている。』  (駒札より)

 
 菅大臣天満宮とも呼ばれる。このブログでも何度も登場している菅原道真を祀る神社であり、また当人がここで誕生したとも言われている。元々は菅原家の邸宅であったところ。道真はこの場所で幼少期より学問研究に励み出世するが、既知の如く後に策略に会い大宰府へ左遷されることになり、かの地で亡くなる。それにちなんでこの地に天満宮は創建された。
 ここは本数は少ないものの、紅梅の名所であり、この日も少し早めだったが、綺麗な桃色の花を咲かせていた。道真の和歌が駒札の中にも掲載されているが、梅を愛した人柄がそのまま出たような見事な歌と言える。
 境内は決して広くはないが、鳥居をくぐると狭い境内には似つかないほどの立派な本殿が控えている。あまりにも立派なので少々違和感があるほどだ。駒札をみると、元は下鴨神社にあった本殿と言う。なるほどと納得。
         

 今回は梅は最後の一箇所だけだったが、都会のど真ん中で小さな敷地の中に、さまざまないわれのあるお寺や神社があって、大きな収穫だったと言える。

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2020年の梅 清水寺・霊山観音 京都市東山区・・・世界遺産

2020-03-29 23:57:13 | 撮影


 この日、綺麗な梅の花を求めて訪れたのは、あまりにも有名な清水寺。ついでと言っては失礼だが、そのすぐ近くにある霊山観音にも寄ってきた。
  清水寺に行くのは数年ぶり。前回は本堂の全面改修工事が始まった時で、すでに足場が組まれ巨大な布で全体が覆われていた。舞台の方は入ることができたが、肝心な見所が見られないということで、あまり撮影もせず戻ったことを覚えている。改修工事には3~4年かかるという話だった。
 去年の末頃にその改修工事が終了し、元々の本堂を拝見することができるようになった。しかしこの春から舞台の板の修復工事が始まるとのことで、また一部見られなくなるということもあって、今回訪れた。
 実は清水寺は今までに行った回数が少ない。理由は極めて簡単で、いつ行っても大変な人だからだ。そもそも駐車場も清水寺にはなくて、コインパークがあるが高い。少し離れた高台寺の駐車場はかなり広くて、満車で駐められないということはないが、やはりかなり高い。そんなこんなでついつい行きそびれてしまう。
 ここ数年、海外からの観光客が団体で訪れ、それまでの混雑に更に輪をかけたような大変な混雑の様子が、テレビのニュースなどで放映されると、正直行く気が失せてしまう。まぁしかし 年齢のことも考えると、大きな工事の間隙を縫って今が最終チャンスかもしれない、と思って行くことにしたわけだ。
 これはたまたまだが、中国で新型コロナウイルスが猛威を振るいつつあったので、中国をはじめとするアジアからの観光客が大きく減り始めていた時だった。欧米人はかなり来ていたが、中国人の姿は個人旅行で来ている人以外は見られなかった。そういった意味では少し空いていたのでよかった。こんな言い方は許されないが、偶然が重なったということだ。
 清水寺の創建は奈良時代の終わり頃。日本で一番古いお寺は一応、奈良の飛鳥寺と言われている。仏教伝来直後の創建だ。清水寺はそれから約200年後の創建となる。これは京都においては、広隆寺などとともに最も古い部類に属する。創建の由来については、お寺の広い境内の中に駒札を見つけることができなかった。あちこちに駒札や説明書きはあったものの、本堂についてのものであったりして、お寺そのものの由緒は見つけられなかった。

 帰宅してから書物や複数のネット資料などでいろいろ見ていくと、確かに創建そのものは奈良時代の終わり頃となるが、そこに至る話というのが、当時書かれた古文書に残っているらしい。「続群書類従」あるいは後年書かれた「清水寺縁起」といった書物にそれは書かれていると言う。その内容も紹介されていたが、読んでみるとどうにもこうにも本当の話かどうかわからない。ある意味清水寺の価値を高めるために創作された話のようにも思える。部分的には史実に基づくところもあるのだろうが、とても常識では考えられないような伝説、あるいは伝承的な話が盛られている。
 しかしその辺りは1300年近く前の昔の話として、置いておいてもいいのではないかという気もする。いずれにせよ同じ頃に創建された広隆寺にしても神護寺にしても、今現在に至るまで存続しているし、後に火災や災禍にあいながらも、あるいは場所を変えながらも人々の信仰の対象になっているというのは、それだけの人々の信頼を得ていたんだろう。
 いつもより少ない観光客とはいってもやはり多いことは多い。大半が若い人で、レンタル着物で綺麗に着飾ってあちこちで写真を撮り合うカップルもいる。欧米人もファミリーで訪れている。やはりよく見るとそこそこ人は多いなと感じる。
 三年坂を上がって正面に仁王門が見えてくると入り口だ。鮮やかな朱色に塗られ、青い空によく映える。逆に言えばあまりにも鮮やかすぎて、なんだかつい最近建てられたような雰囲気さえする。仁王門の前にすぐ綺麗な梅が現れる。
   
 すぐ近くに縁結びで有名なは地主神社があるのでここにも寄っていく。やはり若い人だらけ。年寄りから見るともう一度その世代に戻ってみたい気持ちに駆られてしまう。
 結果的には広大な境内の敷地を順路に沿って全部回った。梅の木は決して多いとは言えないが、所々に主に桃色を中心とした綺麗な花を咲かせていて、貴重な建築群と対比させるとただ単に綺麗だけではなくて、歴史的な重みを感じさせる。
 本堂は国宝。そして紹介した画像に写っている朱い建物、黒っぽい建物のほとんど全部が国の重要文化財に指定されている。ある意味大変なものだ。しかも各建物ごとに重要文化財という文字が小さく柱に付けられているだけ。このあたりもう少し大きめの看板でもよかったのにと思う。
 本堂の前に広がる舞台はあまりにも有名。大勢の人たちがそこからあちこち写真を撮っており、さらに舞台から先へ進むと今度は、先ほどの本堂及び舞台がよく見える場所に到達する。ここも絶好の撮影ポイント。なかなか人が進まない。さらに進んで子安塔などを回り、下に降りて三本の滝の所へ出る。清水寺の名前の謂われになる水ということだ。元々は清泉と表記されていて、これが清水に転化したと言う。こうして最後の仁王門のところへ戻ってきた。
 清水寺の場合は、どの場所のどの場面を撮っても満足感がある。そこにお寺の歴史的な背景や各建物の価値というものを考えると一層満足感が湧いてこようというものだ。幸いにも好天で青い空をバックに、それなりに良い写真が撮れたと自画自賛といったところ。
                                  



 高台寺の駐車場に戻る時、その駐車場に面しているのが霊山観音。門のところから中を少し見ると綺麗な梅が咲いている。もちろん有料だが安価で入ることにした。東南アジアの若い女性グループが全員和装姿で、キャッキャと楽しみながら写真を撮っていた。
 ここには鉄筋コンクリート製の巨大な観音像があり、ずっと以前から遠くからでも見えるので一体何だろうと思っていた。今回初めて訪れたわけだが、一応内部はお寺のように伽藍が並んでいる。
 調べたところ戦後10年、1955年にある会社の創設者が自費にてこの霊山観音を建てたという。目的は第二次世界対戦で亡くなった兵士たち、及び民間の犠牲者等を弔うというものだ。また無名戦士の碑もある。そういうことで特に伝統あるお寺というわけではなく、巨大な観音像だけはいやが応にも目に入るので、その存在感が記憶に焼き付けられる。でも見ているとあえてお金を払ってここに入ってくる人はほとんどいないようだ。しかし内部境内は非常によく整備されており、梅の木が何本か植えられていて非常に綺麗な花を咲かせていた。現在は宗教法人の運営となっている。

       
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2020年の梅 西京区・正法寺~向日市・向日神社・・・さすが!

2020-03-27 23:33:01 | 撮影


正法寺



『正法寺
 真言宗東寺派の寺で、奈良の唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟で、天平勝宝六年(七五四)に鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳がこの地で修練を行ったことに始まる。古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(七八二~八〇六)に、伝教大師(最澄)が智威の威光を世に示すため、大原寺という寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲・徴円の両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。
 元禄年間( 一六八八~一七〇三)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。
 寺宝として、本尊・聖観世音菩薩(弘仁畤代)、三面千手観世音菩薩(重要文化財)をはじめ、貞和二年(一三四六)の銘がある地蔵菩薩、鎌倉初期の両界曼荼羅などの仏画、徳川家関係古文書などを蔵する。
 境内には、全国各地から集められた名石があり、「石の寺」とも呼ばれている。特に、東山連峰を望む借景式山水庭園の「宝生苑」は、庭石が象、獅子、蛙、うさぎ、鳥、亀など動物の形に似ているため、「鳥獣の石庭」として親しまれている。
 京都市 (境内駒札より)』

 
 正法寺にはこれまで何度か訪れている。本堂に入って、はるか東山の風景を借景とした枯山水庭園をゆっくり眺め撮影したのが最初。その後は春の桜、そして秋の紅葉が見事なもので、毎年のように訪れていた。
 門周辺にごく僅かながら梅の花が咲いているのを見つけたことがあって、それも撮影対象にしていたが、1年前、そのわずかな梅を撮影しようと訪れた時に、時期的にも遅かったが、確かに少し梅は残っていた。そして門前の道をゆっくり歩いていると、なんとすぐ目の前に広大な梅園があるのに気がついた。
 今まで何度も訪れているのに、なぜ気が付かなかったのか。やはり意識していなかったので、多分視界には入っていても、それが梅の木々であることを認識できなかったんだろう。すぐ梅園に降りて撮影し始めたが、時すでに遅く、大半は花が散って落ちていた。その時に1年後には、この梅園をしっかりと撮影しようと思い、今回訪れることになったわけだ。
 梅園なので、基本的には比較的背の低い梅の木が多く、そういった点で、迫力には欠けるが、何しろ本数が多い。それぞれの木々に色とりどりの梅の花が咲いている。これはなかなか壮観。お寺の門の方をバックにして撮影すると、単なる梅の花ではなくなり、風情のようなものが出ていい雰囲気だ。
 この正法寺を訪れる人ははっきり言ってそう多くはない。大半の人は向かい側にある大原野神社の方へ行ってしまう。したがっていつも撮影に来た時には、人の数が少なくゆっくり落ち着いて撮影ができる。この日も訪れている人は少なかった。でも皆さん梅園のことは知っているようで、何人もの人が梅園をゆっくり散歩して、特に綺麗な花を撮影している。自分としては最も良いのは、お寺の境内の内部にそこそこの本数の梅の木があり、多くの花が咲いてている場面が、と思っている。
 でもやはり、梅の木の多いところはどうしても梅園という形をとっている。長岡天満宮でも、ほんの少し離れたところに梅園があるし、大覚寺にしても境内の外側に広い梅園がある。これらの一部でも、境内の中にあれば本堂や各建物をバックにいい写真が撮れるのに、と思ったりしながら撮影を楽しんでいる次第だ。
                      


向日神社



『向日神社縁起
 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社ま下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られところである。』
 (駒札より 抜粋)



 向日神社にも何度も訪れている。
 やはり春の桜と秋の黄葉がなかなか見事なもので、ついついシーズンが来ると訪れる。梅については長い参道、そこそこの広さがある境内ともに、あることはあるが、本数としては少ないのは以前から知っていた。しかし白梅、桃梅といったふうに、複数の色が楽しめ、しかも末社の祠のすぐ横に、比較的高い木が立っていたり、あるいはまた神社の本殿そのものの前に、半ばしだれ梅のような形で咲き誇っていたり、なかなかいいポイントに梅の木がある。
 これが神社の本殿の暗い色と良い対比をなして、撮影写真にメリハリができて結構いい雰囲気になる。末社の方も、祠の横に桃色の梅の木が数本あって、真っ赤な祠と同系色の色で非常に明るい。これはこれでまた絵になる。
 向日神社は、向日市と言う京都や大阪の衛星都市として、住宅街を中心に発展した都市であり、そのほぼど真ん中に この神社が広大な境内を有していて、市民全体の憩いの場ともなっている。そこに梅や桜、そして紅葉。こういったものが人々の心を和ませる。例え梅の木の本数が少なくとも、ついつい撮影したくなるような魅力を持っている。

  
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2020年の梅 下京区・文子天満宮~東山区・松宿院(松風天満宮)~左京区・金戒光明寺・・・ちょっと早すぎた

2020-03-25 23:36:59 | 撮影


 この日は3箇所の梅を求めて走り回った。
 最初の文子天満宮は同名の天満宮が京都市内にあと2箇所あって、その関係はよくわからない。ただ天満宮というだけあって、菅原道真に関わるものだが、その乳母であった多治比文子にゆかりのある天満宮として建立されたものだろうと思われる。下京区のこの天満宮は東本願寺の向かい側の細い路地の途中にあって、かなり分かりにくい。もちろん祭神は菅原道真だ。
 梅そのものは行った時期がちょっと早くて、まだ満開からは遠い状況。数こそ少ないが、こじんまりした神社にはちょうどいい具合な感じではあった。
 続いて松宿院。別名松風天満宮に行く。
 今は知恩院の塔頭扱いとなっている。この神社がある意味有名なのは、画像にもある陶器製の恐ろしい形相をした狛犬だと言う。それを見たさに訪れる人も結構いるという話だ。こちらは宿院てある通り、元々は宿坊の役割を持っていたが、後に天満宮としての役割を与えられることになった。ただなぜ天満宮なのかというのは、由緒を読んでもよく分からない 。おそらく西行法師が天神尊像を安置祈願したというところから、天満宮を名乗ることになったのかもしれない。ちゃんと牛も控えている。
 梅についてはやはりここも時期的に少し早かったせいか、満開には至らず。しかし程よく小さな梅が配置されており、雰囲気はなかなか良い。
 金戒光明寺は京都市内有数の大寺院でもあり、多くの文化財も有する。広大な敷地の小山の上部には三重塔があるが、かなり距離があるので今回は行かなかった。あくまで梅が目的。
 大きな山門をくぐると、参道沿いに見事な梅の木が並んでいるが、境内の中には植物そのものがほとんどない。かろうじて境内の端に桃色の梅の木と、庭園に白梅が見られた。こちらはかなり満開に近い状態で、遠くからでも綺麗な色がよく目立つ。何分にも巨大な伽藍ばかりが目立って、名のある寺院としてはかなり殺風景な感じがするところ。そこにこういった梅は何かほっこりさせるものがある。
 ただし、金戒光明寺は桜や紅葉についてはなかなかのものである。


文子天満宮



『文子天満宮
 祭神として管原道真を祀り、洛陽天満宮二十五社の一つに数えられている。
 社伝によれば、大宰府(橋岡県)に左遷された道真は、延喜三年(九〇三)に五十九歲で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣(おつげ)を受けたという。 しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。
 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、 明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正七年(一九一八)に造営されたものである。毎年四月十六日に近い第三日曜日に、例祭が執り行われる。
  京 都 市』 (駒札より)
        


松宿院(松風天満宮)



『松風天満宮(松宿院)由
◆寛永の頃、総本山知恩院が中興された折り知思院第三十二世松風霊巖大僧正が、歌人・西行法師が感得した天神尊像を大伽藍に安置祈願した。その後、この地に尊像を移し学文・技芸の向上・家門繁栄・諸緣円満・諸願成就の社とLて「松風天満宮・松宿院」と呼ばれるようになった。
◆祠正面右側に、善光寺別院・得淨明院樣よりお預かりしている、久邇宮家の天神像を合和している。
◆祠前の黄色い陶器製の狛犬は、小寺慶昭先生著「京都狛犬巡り」に、京都府下で一番恐ろしい面構えと紹介されている。』
  (駒札より)
       


金戒光明寺



『金戒光明寺
 紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黑谷の名で視しまれている。
 寺伝によれば、承安五年 (一一七五)、法然上人が浄土宗の確立の為に、比敏山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明弃と呼ばれるにいたった。また、正長元年(一四ニ八)、後小松天皇より、上人が始めて浄土教の真実義を広めた由緒により「浄土真宗最初門」、の勅願を賜った。
 御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(直實)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
 寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇 斎、茶人藤村庸軒、筝曲開祖八橋検校などの墓がある。
  京都市』  (駒札より)
               
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2020年の梅 下御霊神社 京都市中京区・・・名所と言ってもいい

2020-03-23 23:14:27 | 撮影


『下御霊神社
 平安初期の貞観五年(八六三) に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区) の地に奉祀したのが始まりである。
 いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。
 当初、御霊神社(上御霊神社) の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと
いわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(一五九〇) に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(一七一六~一七三六) に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。
 本殿は、寛政三年(一七九一)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移
したものといわれている。
 境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。
  京都市   (駒札より)』

  

 下御霊神社については 2年前の4月に、「桜」ということで紹介している。ただ実際には桜の木はほとんどなく、梅の花がほぼ散っていた状態の状況だった。今回はこの神社が誇る「梅」を紹介する。
 神社そのものについては2年前の駒札をそのまま上に掲げている。ここの梅は主に紅梅が中心で、しかも比較的背の高い木が多い。そうた意味では全体の本数自体は決して多くはないものの、木の幹から多くの枝が広がり、その枝に数多くの花が咲いていて、見るものを十分に楽しませる。
 しかも神社の本殿や拝殿などは京都市の指定文化財であり、その歴史を十分に感じさせる。そういった意味では見応えも十分あるし、撮影の撮り甲斐もあった。ついつい枚数も多くなるが、梅の名所と言っても良いほどなので、是非見ていただければと思う。

           
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