先日のブログで、寺町界隈のビル街の中のお寺を紹介したが、今回はその続き。寺町辺りのお寺の撮影をした後、少し移動して下京区の菅大臣天満宮へ行ってみた。
今回訪れたところは何れも駒札が用意されており、由緒や沿革についてはそれを読んで頂ければと思う。
一応、梅撮影を兼ねて行ったのだが、まともに梅が開花していたのは菅大臣天満宮だけだった。天気は良かったし、コロナに関わらず、やはり京極や寺町辺りは人手が多い。でも密集というほどではなかった。自分自身でもなるべく密集した集団を避けて、通りを素早く歩いて移動する。まずは誓願寺からスタート。
誓願寺
『誓 願 寺
天智天皇六年(六六七)、天皇の勅願により創建された。本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)に移転し、その後、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。
その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ヶ寺の山内寺院を擁していた。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人が興福寺の葳俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。現在は、法然上人の高弟・西山上人善惠房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。』
(駒札より)
天智天皇の勅願により、奈良に創建された。天智天皇といえば飛鳥時代ということになるから、相当古い歴史を持つお寺だ。その後様々な変遷を経て、今現在の寺町界隈の地にある。人通りの多い通りに面していて、境内に入ると本堂の扉は全開で、内部にそこそこの高さがある阿弥陀如来が座している。ちょっとした大仏といった感じだ。このお寺は、清少納言や和泉式部といった女性との縁があり、ここで仏門に入ったということで、女人往生の寺として名を馳せることになる。
なお、京都大仏として知られていた方広寺の木製大仏は、残念ながら消失し、京都には大仏はない。したがって奈良の大仏には遠く及ばないものの、この誓願時の大仏も5mほどの高さがあるので、見ておく価値は十分にあるだろうと思う。
誠心院
『誠心院
華嶽山東北寺誡心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部の名で知られている。
寺伝によれば、関白藤原道長が、女の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起りといわれている。当初、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間 (一五七三〜九一) この地に移された。
和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅選集に収められている和歌は二四七首に及んでいる。
本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。
境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「幹端の梅」に因んで、後に植えられたものである。
京都市』 (駒札より)
誠心院は別名、和泉式部の寺とも言われる。平安後期に創建されたが、初代の住職が上記の誓願時で仏門に入った、和泉式部だとのこと。その縁から今現在でもこのように呼ばれるんだろう。
小さな門をくぐると、和泉式部とお寺の関係が詳しく紹介されていた。また和泉式部に関わる絵画が何枚も掲げられている。境内は狭く大半が石畳で、どうしても都会中心部の狭い敷地で、ある意味仕方がない。
墓地の方に行くと、和泉式部の墓とされている宝篋印塔があった。どこまで事実かは分からないが、和泉式部の墓を名乗っているところは他にもある。この辺りは一定研究はされているんだろうが、確たるものではないのかも知れない。名乗ったもの勝ち、というわけでもないだろうが、それぞれの由緒のある場所が主張しているのも、全く無縁というわけではないんだろう。いずれにしろ和泉式部との縁が極めて深いだけに、ここのお墓が本物だということは十分に納得できるものではあると思う。
菅大臣天満宮
『菅大臣神社
祭神 菅原道真公、尼神、大己貴命
社地は約一千年前、天神樣すなわち菅原道真公(八四五〜九〇三)の紅・白梅殿というお邸や管家廊下と称する学門所の跡で、また公、誕生の地と伝えられ、境內には産湯の井戶が保存されている。仏光寺通を中心に南北ニ町、東西一町が当時のお邸で、公、太宰府へ 左遷に当り
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
主なしとて春なわすれそ
と詠まれた飛梅の地である。神社は公没後間もなく創立されたが、度々兵火にかかり 鎌倉期には 南北両社に分れ、当社を天神御所、白梅殿社北社を 紅梅殿社と呼んでいた。応仁の乱が慶長十九年に、菅家ゆかりの曼殊院宮良怒法親王により再興され、今日に至っている。 この間、天明の大火、元洽の兵乱で再度消失するが 、現本殿は天保六年(一八三五)造立の三間社流造 という下鴨神社の旧殿を、明治二年に移築し、その後幣殿を建立して、いわゆる八棟造をなしている。』 (駒札より)
菅大臣天満宮とも呼ばれる。このブログでも何度も登場している菅原道真を祀る神社であり、また当人がここで誕生したとも言われている。元々は菅原家の邸宅であったところ。道真はこの場所で幼少期より学問研究に励み出世するが、既知の如く後に策略に会い大宰府へ左遷されることになり、かの地で亡くなる。それにちなんでこの地に天満宮は創建された。
ここは本数は少ないものの、紅梅の名所であり、この日も少し早めだったが、綺麗な桃色の花を咲かせていた。道真の和歌が駒札の中にも掲載されているが、梅を愛した人柄がそのまま出たような見事な歌と言える。
境内は決して広くはないが、鳥居をくぐると狭い境内には似つかないほどの立派な本殿が控えている。あまりにも立派なので少々違和感があるほどだ。駒札をみると、元は下鴨神社にあった本殿と言う。なるほどと納得。
今回は梅は最後の一箇所だけだったが、都会のど真ん中で小さな敷地の中に、さまざまないわれのあるお寺や神社があって、大きな収穫だったと言える。