切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2020紅葉 今宮神社~大徳寺・興臨院 京都市北区

2020-11-30 22:17:11 | 撮影
今宮神社  (2019.2.17掲載済み)



『今宮神社

 大己貴命・事代主命・奇稲田姫命の三柱を祀る神社であり、鎮疫の神として信仰が厚い。本社の西には、本社が鎮座される以前から疫神が鎮まるといわれる摂社・疫神社があり、 素蓋鳴尊を祀る。
 疫病鎮めのため一条天皇は、正暦五年(九九四) に疫神をひとたび船岡の上へと奉安して御霊会を修せられ、長保三年(一〇〇一)には新たに三神を祀る神殿を現社地に造営して、再び御霊会を営まれた。今宮の名は、この 新しい宮に由来する。
 なお、本社と疫神社の現社殿は明治の再建である。
 四月第二日曜日、桜の花開く頃に斎行される「安良居祭」は疫神鎮めの祭礼であり、京都の奇祭の一つとして知られている。
 京都市』  (駒札より)

        

 北区の今宮神社は紫野にある。大徳寺という大きな寺院の北側に位置する。詳しいことは以前にブログにアップしているので上記日付の記事を見ていただきたい。
 西暦994年の創建と言うから1000年以上の歴史を誇る。駒札にある通り疫病を治めるために御霊会を営み、疫病退散を祈った。東側の門前には茶店が並びゆったりできる雰囲気がある。南門は朱色に塗られた比較的大きなもので、神社そのものの風格を感じさせる。紅葉も量は多いとは言えないものの、なかなか綺麗で境内に華を添えている。
          


大徳寺・興臨院



『興臨院

 大徳寺の塔頭の一つで、大永年中ょり天文二年間(一五二一一〜一五三三)に、能登(現在の石川県北部)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
 方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、天文年中(一五三ニ〜一五五五) に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。ハ イタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虛亭」も趣き深い。
 寺宝として椿尾長鶏模様堆未盆(重要文化財)を所蔵している。
 墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。
   京都市』  (駒札より)

      

 大徳寺の広大な境内には数多くの塔頭寺院があり、興臨院もそのうちの一つ。普段は非公開だが紅葉時期には秋の特別公開ということで訪れることができた。
 興臨院についての創建や由緒等については上記駒札の通り。特別公開ということで重要文化財の方丈に入り、室内の拝観や目の前の見事な枯山水庭園を拝見することができた。この庭園のあちこちに少ないながらも紅葉の赤が見事にマッチしており、見応え撮影の死し甲斐が十二分にある。これはもう名勝庭園と言ってもいいくらいだ。大勢の人が景色に見とれ、シャッターを切るのに夢中になっている。
 ここには三つの国の重要文化財があり、貴重な歴史の遺産の展示場ともなり得る。実は大徳寺の数多い塔頭寺院の中には、やはり多くの重要文化財などがある。しかし大半の塔頭寺院は非公開であり、何かよほどの催物等がない限り公開されることはない。本来ならば仏教寺院というのは、庶民のために布教活動を広げてきたという歴史からして、原則として日常的に誰にでも公開されるべきものではないのかと思っている。もちろんお寺の経営面から考えると国や自治体からの補助金ではとても賄いきれず、公開時に拝観料を取るというのはこれはもうやむを得ない実情がある。神社とて同様だ。それでもいいのでやはり普段からの公開を是非望みたいし、国宝や重要文化財をじっくりと拝観したいと思うのは誰しも同じだろうと思う。さらに各自院が見事な庭園を有しており、それぞれが紅葉の名所ともなっている。
 大徳寺そのものには以前から何度か行っているが、塔頭寺院が多すぎてしかもほとんどが閉門状態だったので、塔頭寺院には入ったことがなかった。大徳寺における塔頭寺院に入ったのは今回が実は初めて。やはりどう考えても公開してもらうべきだとつくづく思った。

       
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《先日第一日赤病院へ行ってきた。検査結果は・・・》

2020-11-29 23:34:00 | 日記


 先日もこのブログで書いたように、癌の手術から3年経った。

 一昨日第一日赤病院へ行く。ちょうど3年。癌にとっては「3年後生存率」と言う基準がある。区切りの年数だ。

 朝1番に行って病院の待合室に入ると大変な人。これは相当時間かかるなと思っていたが予想通りとなった。採血をして精密な検査をしてもらう。外科の待合室で延々と待つ。人気がある先生なのかどうか、とにかくこの先生はいつも予約時間関係なし。昼前にようやく呼ばれた。

 検査結果は概ね良好。特に「腫瘍マーカー」2つはいずれも基準値の範囲内。ほっとする。体重もこの間減っていないし、むしろごくわずか増えている状態なので良い方だろう。自覚症状も何もなく、たまにあるのが睡眠中の逆流。寝る姿勢が悪いのか、何しろ時々あって目が覚める。これで目が覚めなかったらそのまま器官へ入り、肺の方へ行って窒息死と言う形になる。何とかそれを免れて今日までやってきた。

 体調は全般的に良い方で、半年ほど前から抗癌剤については休止中。今飲んでいるのは胃液の逆流をがあってもその影響が少ないようにする薬などだ。来年になるが梅雨時に精密検査を行う予定となった。レントゲンやCTなど詳しく全身を診て、転移や再発がないかを確認する予定だ。

 こうしてあと2年経つと手術からちょうど5年となる。この段階で特に異常がなければ「完治の宣言」となる。一応この段階で一安心となるのだが、癌治療の指標として「3年後生存率」「5年後生存率」「10年後生存率」と言う3段階がある。つまり5年間を無事に乗り切ってもその先があると言うことで、多分半年に1回か1年に1回かの通院はあるんだろうと思われる。しかも私の食道癌の場合、普通に食道の1部を切り取っただけではなく、食道の下部と胃の上部の1部を同時に切りとっているので、日本ではあまり例のない食道癌となる。そのために逆流を防ぐ食道の出口にあるはずの逆流防止弁がない状態なので、逆流が起こりやすい状況となっている。それを少しでも防ぐための投薬治療は一生続くのではないかと思っている。逆流して器官から肺に入ると窒息状態になり、のたうちまわって死ぬ、と言うことになるのは絶対に避けたい。そんな苦しんで死ぬよりは静かに無意識状態で死んでいきたいと思っている。今やこの状態を改善することができず、残りの人生をこれで生きていかなければならないのは宿命として受け入れざるを得ないのだ。

 ところで先週だったか、「国立がんセンター」が最新の癌生存率の情報を発表した。10年後生存率まで追っているので、罹患者は今から10年余り前の発症の人だ。その人たちを手術後に追って得た貴重な結果となる。

 それによるとすべての癌及びすべてのステージを総平均すると、前回調査よりも生存率は約1ポイントほど上がったと言う。その平均は約68%。調査のたびに少しずつ生存率は間違いなく上がっている。しかしこれはあくまでもすべての癌の全てのステージの総平均であって、癌の部位によっては大きな差がある。前立腺癌等は10年後生存率ほぼ100%に近い。逆に最も厳しいのが膵臓癌で10年後生存率はわずか数%。一般的に多い癌は胃がん、大腸がん、乳がんといったあたりになるが、症例が多い分だけ術式や研究も進み、生存率は大幅に上がっている。もちろんステージ4あたりになると厳しいが、ステージ3までぐらいだったら助かる可能性はかなり高い。

 厳しいほうの癌は先程の膵臓癌のほかに胆嚢がん等症例の少ないものが目立つ。私の食道癌は肺癌とほぼ同じ位の数値を示している。3年後生存率は約55% 5年後生存率で約45% 10年後生存率は約30%といったところだ。これはステージ2の場合。こう考えると私の場合、10年後にはわずか30%の生存率でどちらかと言えば死んでる可能性の方がずっと高いと言うことになる。と言う事は日本人の男性の平均寿命に全く達しない。今や80歳でも元気なお年寄りは男性女性ともにずいぶんたくさんおられる。私の場合にはそこまで全然届かないと言う有様となってしまう可能性が高い。まぁ今頃こんなことを考えていてもしょうがないと言えばしょうがない。これも先程の宿命として受け止めざるを得ない。

 したがって残り56年と考えて、その間何ができるかと言うことを考えた方が良いだろうと思っている。自分自身の生きた証というか痕跡を残すためにできること。その1つとして今、このようなブログを書いて世間にさらしている。でもこのブログの運営会社がなくなれば自動的にこのブログも胡散霧消してしまう。したがって何らかの形で具体物として残すことができるものがないか考えておく必要がある。墓石に名前が残るではないかと言われるかもしれないが、今住んでいる市に墓あるが、親類縁者はもう近くにはいない。みんな東京のほうに行ってしまった。わざわざここに来て線香あげるなんて事はないだろう。墓じまいを考えておくべきか。東京のほうにカプセルホテルならぬカプセルお墓のようなものを購入して、そこで線香でも、なんてことを考えてしまう。

 しかしそんなことよりもやはり、自分自身が長年やってきた仕事に関わって何か残すことができないかを考えておく方が大事だろう。一応プランはあるが間に合うかどうかはわからない。できれば来年その1歩でも実現できればと今は考えている。私自身がこの年になって、またこのような大病をして余命のことを考えざるをえなくなるなんて言うことなんて、以前は思いもしなかった。しかし時間がないのは確かだ。そのことを念頭におきながら、11年をそして11日を有効に使わなければならないと思ってはいるのだが・・・




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2020紅葉 知恩院 京都市東山区・・・浄土宗総本山

2020-11-27 23:00:13 | 撮影


『知恩院
 浄土宗の総本山で、法然上人を開基とする。
この地は法然上人が比叡山から下り、草庵(吉水の草庵という)を結び、初めて浄土の教えを宣布した所である。法然の死後、文歴元年(一二三四)に弟子勢観房源智が廟所を整えて華頂山知恩教院大谷寺と号し、自ら当寺第二世となった。
 応仁の乱の時には一時兵火を近江に避けたが、のち徳川家康の手厚い帰依を受け、広大な寺地の寄進を受けて寺観を整えた。三門は徳川秀忠が 元和七年(一六二一)に建立した宏壮雄麗な大楼門で、国宝に指定されている。このほか、本堂(御影堂・国宝)は寛永十六年(一六三九)、大方丈・小方丈(いずれも重要文化財)は寛永十八年(一六四一)の建築で、本堂と集会堂と大方丈をつなぐ三角間の長廊は、知恩院七不思議の一つに数えられる「鶯張りの廊下」として有名である。寺宝として阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)ほか多数を蔵する。
    京都市』   (駒札より)

    

 私は生まれてから長年京都市内及びその衛星都市に住んでいる。幼少期の一時は南河内にいたが事実上の京都人ということになる。京都には神社仏閣が多く、しかも多くの有名な人気の所も多数ある。こういったものに興味のない頃からなんだかんだ言いながら、金閣寺や銀閣寺、平安神宮等々いわゆる有名どころにはいつのまにか行っていた。
 ところがどういうわけか知恩院へは行ったことがない。清水寺などにも近く、知恩院前は何度も通っているが、中に入ったことがないのだ。長い教員生活を終えて今や神社仏閣を写真に撮り、ブログにあげて紹介していると言う身になったが、それでも知恩院へは入っていなかった。このままではということで今回初めて知恩院の中に入ることにした。
 駐車場はないので近くのコインパークに預ける。山門だけは年賀状印刷のために撮影したことはあるが、改めて よく見るとさすがに国宝だけあって、大変な風格を感じる。見事な造りだ。主目的は知恩院に入るだけではなく紅葉撮影も兼ねている。山門の前に少し紅葉が見られた。巨大な門をくぐって境内に入る。さすがにそこそこ人は来ている。
 すぐ前にはこれも国宝の本堂が構えている。知恩院は徳川家康の時期にあちこちから多くの品物が寄進されそれぞれが貴重なものであり、結果的に多くの文化財を所有することになった。また大方丈・小方丈ともに国の重要文化財に指定されている。入口の山門の部分だけはほぼ平地だが、境内に入って奥へ進み方丈に入ると庭園が見られるし、庭園内をぐるっと一周することができる。そこはもうすでに山麓から山の斜面となっている。結構高いところまで登るので京都市内がよく見える。改めて見てみると知恩院境内というのは大変な広さを持っている。そのあちこちに真っ赤に染まった紅葉が実に見事だった。

           

 由緒については上記の駒札の通りだ。開いたのは法然。平安時代終わりから鎌倉時代初期にかけてのことだ。平安貴族たちが贅を尽くし遊び回っている中で、仏教は貴族たちから信仰を得て勢力を増していく。そして仏門に入る者は極めて厳しい勉学と修行が要求され、仏教の教えそのものが非常に難しいものとなり、貴族など一部の文字の読み書きができる者しか理解の仕様がなかった状態になる。つまり仏教は一般庶民を離れて裕福な貴族と武士のものになってしまい、仏教本来の趣旨からは全く乖離してしまったものとなった。
 そんな中現れた法然は「専修念仏」を主張し、難しい仏教の教えを学まずとも、経典を深く理解することも必要なく、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えることによって悩みが救われ往生極楽への道が開けると、一般庶民向けに唱えたのだ。当然このような仏教の簡素化に対して既存の仏教勢力は激しく反発し、法然を流罪とする。
 しかし一度庶民に広まり始めた専修念仏はあっという間に広まり、法然はこれを浄土宗として、更に広める活動をする。後に許されて武士の世の中で法然の教えは権力からも受け入れられることになる。ある意味権力にとってみれば、人々を支配するのにこのような仏教などの教えや簡単な念仏によって、篤い信仰を持たせることで権力者も同じ考えのもとにあるとのことで支配しやすくなるという側面もあったんだろう。
 起点となるお寺としてこの知恩院が創建されることになった。武士の世の中になりその力を借りてさらに知恩院は大きくなり、本山としての役割が持たされることになった。
 今現在、知恩院は浄土宗の総本山。そして庶民に広がった浄土宗は全国各地の信者がどの場所においても気軽にお寺を訪れて参拝できるように、ということから今では地域ごとの浄土宗のお寺は約7000に及ぶと言う。総本山に続く大本山は何箇所かあって、東京の増上寺、京都の百万遍知恩寺、金戒光明寺などがある。
 実際に京都市内で無名の寺を撮影している時にちょうど御住職さんが出てきてお話を聞いた。この京都の中でも浄土宗のお寺だけで500あると言われた。基本的には本尊は阿弥陀如来となっている。そしてその地域ごとに開かれたお寺として様々な催し物の場としても利用されており、人々にも解放された心の休まる場所となっている。
 やはりかつて貴族という権力とお金を持っている者と結びついてしまった仏教そのものが、庶民からはかけ離れてしまうと必ずそれに批判する勢力は出てくるもので、法然がその典型的な例であり、さらにその弟子の親鸞が浄土真宗を起こして全国の布教に力を尽くしたのもその好例の一つだと言える。
  浄土宗のこのような流れの中から、大本山も総本山である知恩院も基本的には開かれたお寺として存在しており、むろん境内の出入りは自由だ。ただし貴重な文化財も多いだけにその維持費や修理費なども巨額なお金がかかり、本堂や方丈庭園などの部分については有料拝観となっている。たとえ有料であっても入る価値は十分にある。やはり全体が圧倒的な存在感に溢れており、浄土宗の全国への影響というのはすごいものがあるものだと改めて考えさせられた。

                 
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《三島由紀夫、自決から50年》

2020-11-26 00:30:00 | 社会




 今日1125日、新聞の片隅に小さな記事が出ていた。それは戦後文壇の気鋭の小説家、三島由紀夫が自決してちょうど50年となる日だ。

 三島由紀夫の名前を知らない人は、少なくとも大人であればいないのではないかと思う。実際に彼の作品を読んでなくても名前はおそらく知っているだろう。私自身はこの事件の前に「金閣寺」を読んでいた。もともと私の家は超貧乏で、教科書以外に小説はおろか本らしい本も全くないような家だった。したがって文学作品などと言うものは教科書でしか知る由がなかった。つまり中学生や高校生なら読んでいるであろう夏目漱石や宮沢賢治など、その名前しか知らない有様。しかし浪人中にアルバイトして貯めた金で小説を買えるだけ買って読みふけっていた。

 その中に三島由紀夫の作品もあった。三島由紀夫がおそらく師と仰ぐノーベル文学賞受賞者の川端康成の小説も少しは読んでいた。しかし川端の作品には何かよくわからないが、自分の心境に合わず彼の作品のどこがいいのか全く理解できなかった。しかし三島の作品、金閣寺はこれも理由はよくわからないが、強烈な印象を受けた。実話を基にしたフィクションではあるとは言う物の、主人公の心の変遷や、金閣寺と言う具体物の象徴的な存在が彼に与えた影響などが自分の気持ちの中にすっと入ってきた。そういった意味では老人となった今でも川端作品は読む気にもなれない。しかし三島の作品については今のところ時間がなかなか取れずに実現はしていないが、再読したいと言う気持ちはある。

 1970年と言う年は戦後四半世紀。日本が高度経済成長をある程度達成し、東京オリンピックの成功によって世界に名を広げさらに各産業部門でも大きな成長を遂げている最中だった。しかし同時に資本主義経済の日本国内においては、様々な社会的経済的な矛盾が噴出しており、世の中は必ずしも国民皆が上向いて頑張ろうといった状態ではなくなっていく過程にあった。当面の課題は沖縄返還問題であり東京新国際空港建設問題であったと思う。大学を中心に革マルや中核と言う新左翼系の学生運動が尖鋭化し、70年安保改定の問題も槍玉にあがっていた。   

 そんな中各種問題を吹き飛ばすかのように大々的に開催されたのが「1970年大阪国際万国博覧会」の開催だった。これからの未来社会は希望にあふれ、世界が平和になり便利になり明るさや躍動感が必要以上に強調された博覧会の様相を呈していた。国内における大宣伝もあり国民の博覧会に対する期待は大いに高まり、3月から9月までの半年間に予想を大きく上回る6千数百万人の入場者が訪れ、中でも前年にアメリカのアポロ計画で月面着陸において月の石が回収され、この博覧会でも展示されたと言う、当時の人々にとってみれば信じられないほどの科学の発展と言うものが、強烈な形でそれぞれの心の中に浸透していくことになる。



 9月に終わった万国博覧会。一転日本は静かになった。このような状況の中で数年前から三島由紀夫は私設の「軍隊的」組織である「盾の会」を起ち上げ、若者たちを集めて山中において武闘訓練などを行い、様々な討論を通して戦後日本の置かれた状況に憂いを持ち、一同が共感しながら日本クーデター計画を進めていた。当時三島由紀夫が自ら制作した短編映画「憂国」を見たことを覚えている。三島由紀夫は比較的小柄で威厳があるように見えない。そのために彼は徹底的に体を鍛え筋肉をつけ、いわば自分が憂国の武士であるかのような存在としてアピールをしていたのだ。当時は時々ニュースなどに盾の会の動向が放映されたりしていたのを覚えている。著名人である彼は当時既にノーベル文学賞の有力な候補者だった。したがって彼の存在や発言と言うのはかなり大きな影響力があったし、テレビやラジオ、あるいは雑誌などで様々な著名人と討論をしている。それらを読んだ事はないが、彼自身が軍隊式の訓練をしている様子からどのような思想的背景を持って行動していたのかは、見当が十分についたものだ。一般的には「右翼思想」と言われそうなものだがなぜか当時は「民族主義」と言う表現が使われていたような覚えがある。あくまでもうろ覚えだが。また彼は自身との間逆の考え方である東大全共闘の新左翼の連中と討論もしている。これはかなり話題になって、いわゆる新左翼のあり方や考え方といったものにも一定の影響を与えたようだ。前年度の東大入試は、新左翼による武力闘争の激しさのために中止になると言う前代未聞の事態が起こっていた。

 そのような混乱した状況の中で三島由紀夫の動きも、ただ討論や考え方がどうのこうのではなく、具体的な行動によって自分たちのいわゆる「憂国」の思いを示さなければならないと言う動きにつながっていく。当時彼は自衛隊の幹部にも顔が効いて、今では考えられないが自衛隊からすれば一国民が申請して自衛隊本部の中に入り、自衛隊の高官と話をするなんて言うことを行っていた。自衛隊の高官、あるいは当時の防衛庁の幹部たちはかなり多くが先の大戦経験者だ。三島由紀夫の考え方と思いが重なったとしてもある意味当然だったのかもしれない。そのようなつながりを生かす形で綿密な行動計画を立てて、この1125日に決起することになった。

 彼は部下たちを率いて自衛隊市ヶ谷駐屯地の本部に許可を取って入っていく。その時に日本刀も持ち込んでいる。なぜそんなことが許されるのかと思うが、当時は三島由紀夫は自衛隊の幹部連中にとっても顔見知りであり、一種の同志的な存在であったんだろう。そして長官室に入り長官をその場で拉致する。三島由紀夫は庁舎のバルコニーに立って自衛隊員を集めるように指示をし、長官を拉致された自衛隊としては仕方なく一定数の自衛隊員をバルコニーの前に集めた。ここで三島由紀夫は約20分に及ぶ演説を始める。ところが演説が始まると、若い自衛隊員からは激しいヤジが飛ぶ。もちろん三島の行動に対する否定のヤジだ。年配の幹部たちは三島の言っていることをなんとか聞き取ろうとしていた。三島由紀夫は「自衛隊諸君、今こそ立ち上がる時だ、自衛隊を天皇陛下にお返しし、日本は帝国になるのだ」と言うような趣旨の発言をしていたようだ。

 しかし若い自衛隊員たちの激しいヤジは収まらず三島は決起は失敗と悟って引き下がり、長官室の前の廊下に出て短刀を取り出す。既に辞世の句を残しており、第一の部下である森田秘勝(当時早大生)が日本刀で介錯をする。三島は自分の腹に短刀を突き刺し横に引く。小腸がはみ出たと言う。森田の介錯は失敗し、途中で交代して他の部下が最後に首を切り落とした。続いて森田必勝も同じく割腹し斬首。廊下は血の海になったと言う。

 こうして2人が自決しクーデター計画は完全に失敗に終わる。生き残った部下たち数人は逮捕される。当然この事件は日本国内のみならず世界的な大きなニュースとなった。三島由紀夫の名はノーベル賞候補者としても知られていたし、決起行動そのものの異常さから日本独特の行動の仕方、考え方と言うものが様々な角度から考えられるようになった。

 三島由紀夫にとってみればこれが「日本的美的精神のの体現」といったものになるんだろうか。川端康成は三島の死に対して「惜しい人を亡くした」と言ったらしい。彼自身が常に「美しい日本」と事あるごとに口にしていた。三島由紀夫はただ単にその思いを口にするだけではなく、「美しく死ぬ」を通して本人が記してきた作品の総仕上げにしたのかもしれない。

 事件から50年。あれから半世紀とは・・・、日本と言う国も大きく変わった。三島の行動が賛同されるべきものでない事は当然だ。今の日本においてはこの事件をリアルなものとして捉えるのは難しいだろう。良きにつけ悪しきにつけ今や日本国民の大半は、新人類と言う言葉さえ死語になってしまい、今や同調圧力の中でただおとなしく上の言うことを聞いて従うだけの暮らしぶりになってしまっている。私自身としては反面教師というかなんと言っていいか、うまい表現が見つからないが、社会に対して個々人の権利が蹂躙され愚弄されるような社会と言うものを、どのように解釈しその内容をどう訴えていくのか、と言うことが必要なのだなと思うばかりだ。

 かつての盾の会の生き残りメンバーたちは、毎年この日に慰霊祭をしていると言う。それは勝手にどうぞとしか言いようがない。私自身は当時は確かに相応の衝撃を受けたが、今となっては遥か彼方の一種のフィクションでしかないように思える。ただ有能な作家を失ったことだけは確かだろう。

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2020紅葉 泉涌寺 京都市東山区

2020-11-24 23:08:20 | 撮影
泉涌寺


    
 泉涌寺には何度も行っている。紅葉期の泉涌寺は広大な境内の中にはほとんど紅葉は見られないが、庭園に入ると様子は一変する。庭園そのものの見事さと赤い紅葉の取り合わせが非常に美しい。ここの泉涌寺に限らずだが、お寺の中の庭園と紅葉のコラボレーションというのはそれぞれ似ているようで様々な違いがある。そういった意味ではどこのお寺に行っても飽きることはない。
 私の場合はいつものことだが、撮影の方に夢中になってしまってゆっくり落ち着いて座って庭を眺め、そして何らかの物思いにふけるということがないので、よく考えればこれはこれでもったいないことだ。あまりゆっくりしていると家での時間が少なくなり、高齢爺ながらやっている作業的なことは結構多い。ブログ書きもそのうちの一つだ。従ってどうしても他の観光客や参拝者の人たちに比べて短時間で出てしまうことになる。本来お寺という場そのものが撮影されるためにあるものでもなく、様々な思いを持っている人々に心の拠り所を示してくれる場のはずなのだが、そのあたりもう少し意識すべきだと思う。
 泉涌寺の紅葉は前回2018年11月24日にアップしているので、そちらの方もご覧いただければと思う。

   

『総本山 御寺 泉涌寺
 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが順徳天皇の御代(承久元年,・1219)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師俊芿が時の宋の法式を取り入れて、この地に大伽藍を営む事を志し、寺地の一角より清泉が涌き出ていた祥瑞によって寺号を泉涌寺と改め、嘉禄2年(1226)には主要な伽藍が完成した。この泉は今も涌き続けている。
 月輪大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺を創建して戒律の復興を計り、律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として大いに隆盛させた。
 時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山陵がここに営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が御寺と称せられる所以である。境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代天皇の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉に一段とその美しい姿を映えさせている。
 (パンフレットより)』

     

『泉涌寺

 真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く、「御寺」として親しまれている。
 寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、 法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保六年(一二一八)には宋(中国)から帰朝した月輪 大師・俊芿に寄進され、 大伽藍が整えられた。 その際、境内に泉が涌き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。 仁治三年(一二四二)の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、 寺内に御陵が営まれており、皇室の香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。
 広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿(重要文化財)のほか、 釈尊の仏牙(ぶつげ・歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿など数多くの伽藍が建ち並んでいる。
 寺宝として月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏」(国宝)、楊貴妃観音堂に安置される聖観音像(重要文化財)など、多数の貴重な文化財を所蔵する。
 また、謡曲『舎利』の舞台としても有名である。
 山内の塔頭には七福神が祀られており、毎年成人の日に行われる七福神巡りは多くの参拝客でにぎわう。
  京都市』  (駒札より)

       
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