切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

『 兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~ 』 京都市京セラ美術館  2022.3.29

2022-03-30 23:41:24 | 日記




 京都市立美術館において表題の展示会が行われているということで訪れた。ここに来るのは随分久しぶり。以前の建物は煉瓦造りの風格のある建物であったが、その上部は残しつつ正面を掘り下げて、そこに近代的なスマートなフロアが加えられた美術館にリニューアルしていた。
 ともかく「兵馬俑」というものに惹かれて、これは見ておかなければならないということで行った。この日は曇っていたものの陽気も良くて、岡崎公園一帯は車、観光バス、人々が大勢訪れていて、特に春休みともあって親子連れ、小さい子供連れといったファミリーも目立った。駐車場はどこも満杯で漸く京都市の岡崎公園地下駐車場に駐めることができた。
 美術館へ向かう。すっかり様子が変わっていた美術館と思いながら、2000円の入場料を払って入る。入る時には内部撮影が可能かどうかを確認し、不可のところと可のところがあるということで、撮影可能なところはおそらくレプリカが置かれているんだろうと予想しながら遠慮なく撮影することにした。

 テーマの副題にある通り、秦漢文明の遺産、つまり中国古代王朝の秦から漢にかけての様々な発掘物が展示されている展示会だ。
 中国古代王朝においては、実在が確認されているもので最も古いものが殷王朝であり、紀元前約1600年前後となる。その後に周が台頭してきて王朝ができる。その最中に一部分裂し春秋時代、戦国時代となり、そんな中から始皇帝が現れ、秦王朝が誕生する。この王朝は紀元前221年に滅亡し、代わって漢王朝が誕生。日本で言えばまだ弥生時代だ。古墳時代にすら至っていない。

 

 展示品はいくつもの部屋に区切って時代ごとに並べられていたが、最も古いものは、紀元前11世紀頃のものと思われている小さな青銅器があった。これはその測定が正しいとすれば殷王朝の頃のものとなる。それ以外のものは土器あるいは青銅器にしても、周時代のものがずらりと並ぶ。紀元前7~8世紀あたりのものとなる。やはり古いものほど青銅器にしても作りがやや粗雑で、年代を重ねていくと精巧な作りになっている。そして次第に日常生活用品では土器が少なくなり、青銅器が増えてくる。今現在家庭で使われてるような食器などとほとんど同じようなものが並んでいる。2千何百年も前のものであるが、基本的な日常品というのはこれだけの長い年代を経ても変わらないものだ、ということを改めて実感した。
 そしてしばらくすると最初の貨幣が青銅貨幣として誕生する。日本最初の貨幣と比べて全体的に薄く小さめのものが目立った。中には黄金のものも見られる。やはり様々なものの価値というものがごく当たり前に認識されるようになっているようだ。一つ一つに説明がついているが全部読んでいたらとても時間がかかるので、表題だけ見て次へと進んでいく。
 土器や青銅器の中には文字が彫られたものが比較的多くみられ、秦王朝時代の文字は明らかに漢字のひとつ前のものだということが明確に分かってなかなか興味深かった。
 入場者もかなり多くて少し待たなければならないものも多々あった。そして時代が周から秦へ至るあたりにようやく撮影可能なコーナーになっていく。やはり兵馬俑の巨大土器については基本的にはレプリカのものだ。従って中国の西安近くにある兵馬俑のものとは大きさが少し小さめとなっている。であってもやはり大きなものだ。背後には現地の発掘された写真が掲載されていたが、やはり要人が亡くなるととてもすごい副葬品が製作され、一緒に埋められるのだということが、権力に比例して墳墓として残される事がよく分かる。

   

 元々中国では殷王朝から周王朝にかけては基本的には殉葬と言って、亡くなった人がたった一人で埋葬されることを悲しみ、生きた人々が選ばれてそのまま埋葬されるという風習があった。それが秦の時代辺りから次第に人間に代わり、人間よりも少し大きめの土器を作ってそれを副葬品として埋めるという風習になったという。
 西安郊外で発見されたこの兵馬俑は、その最たるものと言えるだろう。レプリカとはいえどもやはり圧倒的な大きさと分量で迫ってくる。私の友人は今はリモートだが、コロナ前は現地の中国の大学で教えていた。休みの時には実際の兵馬俑を見学に行ったことがあると言う。発見当時は世紀の大発見と言われたものであり、日本でも大きく取り上げられたのをうっすらと覚えている。
 今からあえて中国まで行こうとは思わないので、今回の展示で私としては十分といったところだ。何分にも古代中国のことなので、この展示会を見に来た人もあまり詳しい人はいないようだ。私は一人で行ったが大半はカップルなりファミリーで訪れている。そんな人たちの会話の中身がよく聞こえてくる。本来なら中学校で学んでいるはずだが、殷周秦漢といった王朝をどれがどれだかよくわからないような人もあちこちにいた。中には少し詳しそうな人がいて、一緒に来た彼女に得意げに説明したりしている。美術館側も有料の貸し出しヘッドホンで音声説明を聞くことができるような対応はしていた。これはこれでまた時間がかかりそうだったので私は利用しなかったが。
 一通り見終えていろんな感想を持ったが、改めて古代中国の発展というものが、黄河文明以降の早い時期から、ハイレベルな文明が構築されている様子が感じられたということが大きい。その一方、展示物にやはり「本物」が欲しい。日用生活用品などでは本物が数多くあったが、やはりメインの本物の人物と馬の土器があればよかったのだが。でももしそのような展示をしようとすれば、かなりお金がかかり入場料2000円ではとても済まないだろう。最後に図録を購入して帰途についた。


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2022年 京都の桜 東寺 京都市南区

2022-03-29 22:49:14 | 撮影
  
(重要文化財 講堂)

(国宝 金堂)


『教王護国寺(東寺)
 真言宗の総本山で、平成六年(一九九四)に世界文化遺産に登録された。平安遷都とともに延暦十五年(七九六)、羅城門の東に東国(左京)の鎮護のために建てられたのが当寺の起こりで、弘仁十四年(八二三)、空海(弘法大師)に下賜され、名を教王護国寺と改めて真言宗の根本道場となった。
 学僧名僧も多く居住し、朝廷・公家・武家の信仰が厚く、事あるごとに祈祷法会が行われ、中世には多くの寺領も寄せられた。創建の後、度々兵火にかかったが、そのつど再建された。
 五重の塔(国宝)は寛永二十一年(一六四四)の徳川家光による再建で、総高五十五メートル、現存する木造塔としては我が国最高である。講堂(重要文化財)内部には大日如来を中心に仏像が安置され、平安初期密教美術の宝庫となっている。大師堂(国宝)は大師の御影を祀ることから御影堂とも呼ばれ、寝殿造を伝える数すくない遺構としても有名である。なお、塔、金堂(国宝)などの配置も古式を示している。これらのほか、仏像、絵画、工芸、書籍等、多数の国宝を蔵し、仏教芸術の宝庫を成している。
 一方、弘法大師に対する庶民の信仰も深く、毎月二十一日の大師の命日(ご縁日)には「弘法さん」と親しまれる市が開かれ、数万人の参詣者でにぎわう。特に十二月の終い弘法には、ひときわ多くの人が訪れる。
   京都市』  (駒札より)

   

 梅に引き続いて春の桜のシーズンになった。一部早咲き桜はすでに咲いており満開に近いところもある。今シーズンの第1号は東寺に行くことにした。世界遺産に指定されている東寺については、当ブログにおいて2021年11月27日付け「紅葉特集」で紹介している。詳しいことはそちらをお読みいただければと思う。
 ちょうど快晴の日で昼頃に訪れた。境内に広い駐車場を持つが、すでに車や観光バスでかなり多くが埋まっていた。また人出も非常に多く次々にやってくる。京都新聞などでは桜の開花状況がほぼ毎日紙面に掲載されているが、やはりそれを見ると大半がまだつぼみ状態。東寺は五分咲きといった具合だったが、実際に行ってみるともうかなり花が咲いている。

 奈良には東大寺があり、それに対して西大寺がある。平安京でも東寺が創建され対局に西寺が開かれた。西寺は今現在では極小さなお寺になってしまっているが、その近くに元の西寺の発掘跡が一部保存されている。東寺と比較してもかなり境内の広い大型の寺だったということが分かる。東寺のシンボルは言うまでもなく、国宝五重塔だ。境内に入らずとも外からでもよく見える。この東寺を訪れるのは半年ぶりとなる。
 シーズンとあって駐車場は有料となっていた。車を駐めて大勢の人が並んでいるチケット売り場へ行く。人でごった返していた。修学旅行生も班行動という形で訪れている。観光バスの団体観光客も大勢来ていた。チケットを購入して庭園へ入る。すぐ目の前に桃色のしだれ桜が目立つ。そこはすでに国の史跡に指定されている庭園だ。その西側に重要文化財の講堂がそびえ建ち、内部へ入る。
 ここに収められた大日如来をはじめとする多くの仏像群に、文字通り圧倒されてしまう。並んでいる仏像群のほとんどが国宝であり、重要文化財に指定されているものだ。しかもどれもこれもが大きいもので。これらがすぐ目の前で見られるということに大きな価値があると思う。お寺によっては、国宝などはセキュリティの関係から、参拝客からかなり離れた奥に置かれていて、ほとんど細かなところがよく見えないような状態の場合も結構ある。しかしここはまさしく目の真ん前。ベンチもあるので大勢の人が座ってじっくりと眺めていた。
 続いて講堂の南側にある国宝の建造物、金堂へ入る。こちらにはやはり薬師三尊をはじめ大きな仏像群が並び、いずれも重要文化財に指定されているものだ。よく考えてみればこの東寺というのは五重塔の他にも、国宝の建造物があり、その他にも仏像だけではなく古文書類も重要文化財などに指定されているものが数多くある。直接目に出来るものはその一部ということになる。
 でも大半の人はこれらの仏像群が収められている講堂や金堂が文化財指定された建物だとはほとんど気が付いていないだろうと思われる。さすがに五重塔だけはガイドブックその他でも、国宝と記されているので知られているものと思うが、それ以外はでかい建物だなといった感覚だろう。

  
 (パンフレットより)

     

 参拝し終わって建物を出ると、再び庭園に入る。白い桜を中心にあちこちに桜の花が咲いており、しかも撮影する際には五重塔をバックに入れると優雅な味わいが出る。撮影しながら徐々に五重塔に近づいて行く。さすがに周りにはロープが張り巡らされているが、すぐ近くまで寄ることができる。現存するこの木造の塔は建物としては日本で一番高いものとなる。大半の人は撮影するために五重塔からは少し距離を取って、すぐ近くまではあまり来ないようだ。しかしすぐ近くから見上げるように撮影するのも結構迫力が出ていいものだ。
 こうしてゆっくり時間をかけて庭園を一周し、撮影をし終えた。やはり大きなお寺であり、庭園や五重塔などの目立つ物があるだけに、非常に印象に残りやすいものと言える。今回は重要文化財の南大門を撮影するのをすっかり忘れてしまっていた。

      

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《 ロシアによるウクライナへの侵略という暴挙 》 ⑬  2022.3.27

2022-03-27 23:21:29 | 社会
◆ ロシアは戦略を方針転換したのか



 ロシアによるウクライナへの侵略戦争は1ヶ月を超えた。ロシアの当初の目論見は大きくはずれてウクライナ軍の激しい抵抗により、戦況は一進一退で長期化する傾向にある。その意味では侵略攻撃は手詰まり感が漂っていると言われる。それにウクライナ側の発表によれば、ロシアの軍司令部の司令官が7名も戦死していると言う。そのために指揮系統に混乱をきたし大きな目標の一つであった、首都キエフの包囲及び制圧が難しくなってきたと状況にある。
 一方ウクライナの東部及び南部においては、比較的小さな都市が狙われており、特に南東部の拠点都市であるマウリポリにおいては、ロシア軍による徹底的な攻撃爆撃によって都市全体がほぼ廃墟に近い状態になりつつある。中でも市内の大型集会所に避難していた1000人に及ぶ一般市民に対して、ロシア軍はピンポイント攻撃を行い建物は全て吹っ飛び、更地のようになってしまった。建物の周囲にはロシア語で「子供」と記されており、ここは攻撃してはならないという意味で市民たちが地下室に逃れていたのだが、侵略者ロシアはそんなことはお構いなしに子供がいようと、一般市民を殺戮するために攻撃したのだ。ウクライナ側の発表では約300名が死亡、600名ほどが生存とのことだ。

 こうして見るとロシア側の「戦争犯罪 」は一向に変わらず続けられており、犯罪に犯罪を重ねているという状況になっている。ゼレンスキー大統領は徹底抗戦を指示しており、ロシア側からの降伏要求については一切受け付けていない。そしてウクライナ軍だけではなく男性のウクライナ民間人が、簡単な訓練を受けて戦線に出て戦っている現状だ。その戦いはかなり激しいものとなっており、いわゆる市街戦におけるゲリラ戦の様相を呈しており、ロシアの陸上部隊の戦車や装甲車、輸送トラックなどが次々に破壊されている。これらは様々な形で録画され放映されて全世界に広まっている。
 いわばウクライナ軍がかなり善戦をしているという風に見られる。南部黒海に面するオデッサではロシアの輸送艦などが、ウクライナ軍の攻撃を受け撃沈されまた大きな損害を被ったと報じられており、その様子も全世界に発信された。また空中戦においてはウクライナ軍の航空機数は絶対的に不足しており、ロシアの戦闘機及び攻撃型ヘリコプターに対しては地上からの対空ミサイルあるいは対空砲火によって撃墜するという方法になっている。これらも記録されて全世界に発信されており、数多くのおロシアの航空機が撃墜されている様子が見て取れる。

 しかしウクライナ軍が損害を受けている状況は報道にはなかなか載っておらず、被害の実態はなかなか掴みにくいのが実際のところだ。あくまでも戦況の実態はウクライナ側の発表とロシア側の発表があるが、それぞれ自国にとって有利な発表となるのは当然だろう。
 ウクライナ軍の兵士の損失は千数百名と言う。一方ロシア軍の方は自国発表でやはり1500名ほどだと言っている。ただアメリカの発表などによると、少なくともロシア側の損害は兵士だけで8000名前後、あるいは1万人を超えるのではないかとの発表だ。戦場の混乱の中でこの辺りの実数についてはよくわからない。しかしウクライナ側にとってみれば軍人だけではなく、民間人の犠牲も非常に大きく大勢の民間人が西側のポーランド側へ避難しているにも関わらず、人道回廊が攻撃されたりして民間人の死者は相当な数に上っていると考えられる。

 ロシアの大きな目的のひとつであった首都キエフの包囲が極めて難しい状況になったということで、陸軍部隊が今は退いていると言う。そして戦力を南東部に集中させてそちらの方を完全支配し、そこからウクライナ側との交渉に持ち込もうとしているのではないかと言うことのようだ。同時にウクライナ人の避難にあたっては東部の住民達は、ロシアに避難せざるを得ない状況に追い込まれ、その様子はロシア側の宣伝に使われた。ロシア側に到着したウクライナ避難民は軍人から食べ物を与えられ、優しく出迎えられ良い待遇をなされているというビデオだ。 ロシア側に逃れた人々がその後どういう扱いを受けることになるのかはまったく不明だ。場合によっては人質扱いとして、ロシアとウクライナの交渉の場で取引材料にされる可能性もあるのではないかと思われる。
 いずれにしろロシアがかなり苦戦を強いられた中で、方針転換をし、戦略的に南東部を支配してそれを材料に交渉に持ち込むというのが、これからの方向になるのではないかと考えられる。



◆ 各国の対応は現状ではどうなのか

 無論隣接する NATO 諸国については今の段階では、武器や資金援助という形で、あるいはまた民間人に対する生活物資の援助という方法で行われているが、既に隣国ポーランドにおいては約200万人の避難民を受け入れており、限界に達しつつある。そういった意味ではさらに西ヨーロッパ諸国に分散して受け入れること、あるいは海を越えて友好関係にある各国にも避難民をどんどん受け入れてもらえるようにするのが急がれる課題となっている。
 日本においてもコロナ禍の中で、ビジネスや留学生の一部入国が認められるようになってきたが、ウクライナ避難民についてはビザなしでも簡単な手続きで受け入れるようにする方向で受け入れが実施され始めている。またウクライナ共和国やウクライナ国内の大学などとの交流がある組織などについては、積極的に受け入れると表明しており、福岡にある日本経済大学が多人数の受け入れを明らかにしており、本来学生寮であるところを全て解放し無料で生活を援助すると表明した。このようなところが今後も増えるものと期待している。

 このように民間レベルでも支援というものはあちこちで見られるようになっているが、これが「国」というレベルになるとこれは様々だ。同じ NATO 諸国であってもハンガリーはロシアとの結びつきが比較的強いと言われており、ロシアに対する経済制裁も含めて消極的だと言われている。そして大きな役割が本来期待されるはずの中国においては、全くロシアの侵略戦争に対する批判も含めてやる気があるのかないのか全く分からないような曖昧な有様だ。
 かつてロシアがソ連邦の時代に内モンゴル自治区の方で、国境線をめぐって中国の軍隊と銃撃戦が行われたこともあったが、ソ連邦崩壊以降はロシアが資本主義国となって経済体制が異なる国となった。しかしいくら資本主義ロシアになったとしても、ロシアそのものはアメリカとともに強大な核超大国であることには変わりない。核兵器の数においては今や世界3位ともいわれる中国ではあるものの、その数においては米ロ両国に比較して圧倒的に少ないのが実情であり、また経済的に中国がロシアを大きくリードするにあたって、中国としては何らかの形でロシアと緊密な関係にあること自体が、対米関係においては大きな意味を持つものと考えているのは明らかだ。
 このような観点から様々な場面で中国は、今回のウクライナへの侵略戦争に対する態度を明確にはしていない。むしろ間接的に擁護するような姿勢が目立つのが事実だ。大国ロシアとはいえども、その経済政策では必ずしもを成功しているとは言い難く、その大きな原因としては未だに資源頼みの経済、という点が指摘されている。天然資源に頼っている限りはいつかは限界が来るのは誰から見ても常識のことだ。今現在は資源の輸出によって一定の潤いというものがあったとしても、将来的な見通しというのは厳しいのが事実となる。ロシアが経済的に得た外貨によって新たな産業を構築し、軍事的には高いレベルを持っているのであるから、それを民間にも活かした形で第二次産業及び第三次産業を育てるという視点があれば、国力も大いに増すものだと普通なら考えられる。

 だがしかしプーチン以前から、大統領の政策そのものが本来の国づくりからそれており、一時はアメリカのマクドナルドをはじめとする外国産業を開放することによって盛り上がりかけたものの、プーチン大統領が就任して以降すっかり様相は変貌していく。結局はソ連邦の崩壊を経験したプーチン大統領本人の、かつての「ソ連邦回帰」という幻想のもとに、巨大ロシア帝国を復活させたいと言う、突拍子もない懐古趣味から起こされたこの戦争が、逆にロシアという国を世界から孤立させ、これから先何十年にもわたって大きな制裁を受けることになるのは確定している事実だ。
 一方アメリカは NATO 諸国に1 mm たりとも手を出すことを許さない、と明言した。ちょうどポーランドを訪問し演説したのだ。バイデン大統領がポーランド訪問の機会を狙ったかどうかは分からないが、今までウクライナ西部にはほとんど攻撃がなかったものが、突然ポーランドへの出口となるリビウの都市にロシアの精密誘導ミサイルが着弾し、石油貯蔵施設が破壊された。もちろんロシアが今後同じような攻撃をウクライナ西部、あるいは全土に展開するとはとても考えられない。はっきり言ってそれだけの経済力がないというのが実態だろう。また武器も兵士も不足しつつあると伝えられる。そういうことからシリアやチェチェン或いは他の地域から兵士を参加させて戦いを続ける方向だと言われる。



 アメリカが経済制裁を中心にロシア制裁を行なっているが、今後それだけで済むような形になるのかどうかは不透明だ。ただアメリカそのものは過去の様々な戦争に参加しており、国民の中にはアメリカの兵士が戦争に参加することに対する嫌悪感のようなものがある。そういった点を見ると直接戦争に参加というのは考えにくく、今やプーチン大統領が口にした第3次世界対戦の可能性がある限りは、あくまでも無人機攻撃による局地戦といったものが可能性としてはあるのかもしれない。
 また同時にこのところ急速に報道されるようになっているのが、ロシア側の、あるいはまた西側諸国のハッカー集団が、それぞれ相手の国にサイバー攻撃を仕掛けているという問題だ。今や大きなところで言えば核ミサイル・コントロールセンターなどに対しても、あるいは各民間企業に対しても、また小さなところでは戦場にインターネットによってコントロールされれば、様々な所にサイバー攻撃を仕掛けることによって相手の情報を盗みとり、またコントロール不能にするなどといったことも行われる。このようなサイバー攻撃は民間の企業に対して行われると、その国の人々の生活にも大きな混乱がもたらされることになるのは必至だ。そういった意味で軍事目標だけではなく、民間をも巻き込んだ幅広い国の制度のコントロールを混乱させることが、案外大きな損害を与えることにもなると思われる。

 周辺各国の対応は難しさを抱えながらも、ウクライナを全面的に支援する方向でまとまっていることは大きい。それらの国々がただ単に支援するだけではなく、様々な情報を発信することによって、次第に情報統制が敷かれたロシア国内にも流れ込むのは間違いない。そのような経過をたどり、徐々にロシア国民の間にも真実というものが次第に伝わり広がり、この侵略戦争の大義名分の嘘というものが認識されるようになるのではないかと考えられる。
 最新情報では、今ロシア国内において新たな動きが顕著になり、プーチン大統領の孤立化が鮮明になりつつあると言われている。それは一体どういうことなのか。またどこまで信憑性のあることなのか、ということについて引き続き考えてみたいと思う。




 (以下続く) (画像はTVニュースより)
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2022年 京都の梅 長岡天満宮 京都府長岡京市

2022-03-25 22:33:56 | 撮影
   

『菅原道真(845年~903年)と長岡天満宮の由緒
 長岡人満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平(平安時代前期六歌仙の一人)らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。
 道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇田天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣まで昇りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快く思っていませんでした。
 昌泰4年(901年)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王(宇多法王の息子・醍醐天皇の弟)に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き人れ、道真に九州・太宰府への左遷を命じます。
 無実の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、この地を訪れ、「我が魂長くこの地にとどよるべし」と都を想ったそうです。(このことから長岡人満宮は「見返り天神」とも呼ばれます)。
 その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが乙訓郡開田村(このあたりの旧地名)の中小路宗則らでした。道真は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6センチ余りの木像を贈り、名残を惜しみます。左遷か2年後の延喜3年(903年)、道真は配流先の太宰府で亡くなります。これを開いた宗則らは、道真から贈られた木造を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始まりです。』 (説明書きより)

    

 長岡天満宮は毎年梅のシーズンと紅葉のシーズンには必ず訪れている。従って撮影する風景は毎年同じような状況だ。しかし実際に現場に行って様々な梅の木を見ていると、また花を見ていると、同じところに同じ色の花が咲いているものの、そういう細かな記憶はないので改めて新鮮さと色のコントラストの美しさに感嘆する。
 やはり良いところは何度訪れてもいいものだ。1年も経つと前回のことはあまり覚えていないので、現場で思い出すという形になる。しかしそれでも新たな発見という感覚はなく、改めて新鮮な感情が芽生えるというのが本当のところだろう。

 

 長岡天満宮は人口約8万人の長岡京市にあって、車の駐車料は必要なもののそれ以外は出入り自由で境内も広く、遊ぶわけにはいかないがゆったりと楽しめる。ちょっとした茶店も出ており、また市街地沿いに大きなため池があって、その端に料理旅館がある。この辺りも天満宮の巨大な石造鳥居を中心として桜や紅葉、そして梅雨時期のキリシマツツジが真っ赤に染まる。なかなか素晴らしい場所だと言える。

 昔勤務していた地域でもあり、当時からすればJR の駅前など隔世の感があるほど再開発が進み、村田製作所の超高層ビルと少し離れてちょっとしたタワーマンションがあり、とてもじゃないが人口8万都市とは思えないくらいの様相を呈している。そして同時に天満宮の境内だけではなく、あちこちに結構広い公園が整備されており、住むのには絶好の環境だと言える。 JR と阪急京都線が走っており、地価が高いのも頷ける。大きな文化センターもあって催し物も多い。こういう所に住んでいると精神的に豊かになれるような気がする。このようにして天満宮をふらっと訪れている近所の人たちも結構多い。すぐ横のグラウンドでは少年達が大きな声を上げて楽しそうに遊んでいた。

     

 なお、今シーズンの梅については今回で最後。

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2022年 京都の梅 随心院(小町梅園) 京都市山科区

2022-03-24 23:12:05 | 撮影
     

『隨心院
 真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海僧正が正暦二年(九九一)に創建した。
 もとの名は牛皮山曼荼羅寺といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。
 その後、第五世增俊が曼荼羅寺の塔頭として隨心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受け、門跡寺院となった。
 この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚や、化粧の井戸などが残されている。
 梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。
 京都市』  (駒札より)

       

 そろそろ梅も終わりを迎えつつあった。やはり新規開拓というのはなかなか難しく、この日は曇っていたものの、随心院へ行くことにした。本堂の前に広がる広大な境内の中央に「小町梅園」が整備されていて、見事な梅の共演を見せてくれる。
 随心院については梅だけではなく、春の桜や秋の紅葉でも有名であり、常に人が訪れる有名なところだ。小町梅園というのはもちろん小野小町ゆかりの寺という意味で名付けられたものだ。小野小町が使用した井戸も残っていると言う。やはり曇ってはいても、梅が満開ということでけっこう人が来ている。駐車場は満杯だった。少し待つ必要があったほどだ。

 今回は随心院の中には入らず、梅園だけを目指した。赤、桃色、白といった三色の梅の花が周囲の緑、そして途中から晴れ間が出てきて、背後の青空と見事なコントラストを描く。何度も訪れているがやはり名所ということであり、何度でも飽きることはない。
 ちょうどお寺では結婚式が行われており、式の後お寺の前に出て写真撮影。続いて梅園の中であちこち記念撮影。さすがにプロのカメラマンがいい場所を見つけてポーズを要求する。カメラもレンズも私のような素人が持っている物とは桁が違うほどの凄いものだ。ちょうど青空も出てきていたし、お二人の新たな人生の出発にあたって、いい思い出になるものだろうと思う。

        
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