切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

護国寺・・・山科檀林        京都市山科区    2023.1.26 訪問

2023-01-31 23:00:20 | 社会


『護国寺

 当山は山号を了光山。寺号を護国寺といい、1643(寛永20)年3月に法性院日勇上人によって開創された日蓮宗のお寺である。また明治5年までの230年間、僧侶の修行道場である山科檀林として栄え、関西六檀林のひとつであった。
 歴代の住職は、化主と呼ばれ学德全てが備わっていないとなれず、京都東山にある本山 妙傳寺の猊座をはじめ、総本山である身延山久遠寺の法主の猊座に何人もすすんでいる。後水尾天皇の皇后、東福門院は開山上人に自ら縫ったと伝わる菊の御紋・金紋袈裟を寄進。この袈裟は日蓮宗初の金紋袈裟であり、以後、山科檀林の歴代化主は着衣が許される事となる。
 当山にお祀りする妙見菩薩は泥棒の詫び証文が伝わっており、盗難除けの守護神として崇信され、弁財天女は開山上人の霊夢により、火伏せの誓いがあって火難除けの地主神、また七面大明神は法華経信仰者の守護龍神として信仰をあつめた。
 現存する総門は伏見宮家、紀州徳川家の寄進。
『栴檀林』の額は深草元政上人の墨蹟である。
  京都市』   (駒札より)

  

 護国寺はJR東海道線山科駅の前にある三条通りに面している。赤いのぼり旗が多数たなびいているのですぐにわかる。日蓮宗のお寺。

 元はこの地に真言宗の護国院というお寺があったが、江戸時代初期に廃寺となり、跡地は竹やぶとなっていた。その土地を切り開き護国寺が創建された。江戸時代中期には日蓮宗の僧侶を育成する修行道場である「山科檀林」が開かれたこれは「だんじょ」とも呼ばれる。以降、明治初期まで存続することになる。

   

 寺の山門の横に車も入れる入り口があり、境内に駐める。山門は比較的小さなものだが、境内になかなか立派な鐘楼がある。そして正面には本堂が控えているが、これは1962年に再建されたもので、鉄筋コンクリート製のものだ。そういった意味では歴史のあるお寺だという雰囲気は感じられない。境内全体も決して広くはない。緑もやや少なめだが、社務所など、またかつて檀林として使われたらしき建物は本堂のようだ。日蓮宗のお寺とあって、特に観光寺院というわけではないが、赤いのぼり旗が嫌が応にも目立つので、ついつい惹かれて入ってしまうといった感じもある。撮影している間、誰も入ってくる人はいなかった。

   
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弘誓寺・・・ぐぜいじ     京都市中京区     2023.1.22 訪問

2023-01-30 21:26:18 | 撮影
 弘誓寺は上京区にある同名のお寺と区別するために、「西之京弘誓寺」と呼ばれる。浄土宗のお寺で本尊はもちろん阿弥陀如来となる。JR山陰線円町駅から北へ数100メートルの所に位置する。

 

 浄土宗のお寺の中ではおそらく、かなり規模の大きいお寺となると思われる。山門はごく普通だが、境内は結構広く比較的高さのある大きな本堂が正面にある。境内も非常によく整備されており、緑が豊かでお堂があり地蔵らしきものもが安置されている。また法然ではないかと思われる石造物が立てられており、これはかなり新しいようだった。隅にはかなり古い墓石が密集して並べられ、おそらく江戸から明治時代の物だと思われる。お寺は全体として静かな環境の中にあり、なかなかいい雰囲気だと言える。

 

 創建などの詳細はよくわからなかったが、色々調べてみると江戸時代の少し前に創建されたようだ。安土桃山時代、豊臣秀吉によって上京区にある弘誓寺が創建され、その後、建材が秀吉によって寄付され、西之京弘誓寺の創建に至ったと言う。その後すぐに豊臣家は滅亡し、徳川家康により江戸幕府が開かれる。こうして江戸時代に入り、戦いのない平穏な時代がやってくる。そんな中、弘誓寺は平穏な形で時代を経て今現在に至るのだろう。

   

*「御土居」
 平安京においては度々鴨川の氾濫により、街が破壊され荒地が増えていった。権力を握った豊臣秀吉は安土桃山時代になって、平安京の洛中を守るために、洛中の外縁部に沿って一周分の長い土手を築くことになった。同時に洛中の改造計画を実施に移し、平安京が安泰になるように計った。こうして作られたのが「御土居」だ。
 各藩の大名から物質的人的資源を供給させ、突貫工事でわずか数カ月で完成させたという。この御土居は洛中の大事な場所を全て取り込むように計画されたので、ただ単純に長方形に設置されたわけではない。計画中のそばに様々な民家やお寺、神社などがある。そして現在の中京区において、弘誓寺がある場所が天神川沿いに作れば、弘誓寺が外側になってしまうので、あえてお寺を御土居の内部に取り込むように計画された。その結果その部分が出っ張ったような形になっている。従って弘誓寺のすぐ北側に御土居があったということになる。
 この御土居については戦後になってから、発掘調査が少しづつ進められ、あちこちでその遺構が確認されている。弘誓寺のすぐ隣にある学校敷地内からも、その遺構が現れている。そういった意味では弘誓寺は、豊臣秀吉の命によって創建されたこともあり、うまく内部に取り込まれたということになる。

     
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稱名寺・専定寺(烏寺)・・・天台宗から浄土宗へ   京都市東山区  2023.1.21 訪問

2023-01-29 21:37:09 | 撮影
稱名寺

 

 稱名寺は京阪電鉄本線、清水五条駅から南東へ約200mほどのところにある。現在は浄土宗のお寺として地域の信仰を集めているが、かつては天台宗のお寺でもあった。こういうケースはよくは比較的に見られたケースであったらしい。これを「兼学寺院」と言う。
 創建は慶長年間であり、安土桃山時代から江戸時代の初め頃の辺りだ。当時は天台宗の三門跡寺院の一つに数えられ、大いに栄えていたと言われる。このような状態はずいぶん長く続き、仏教界では当然のように扱われてきたが、太平洋戦争中の法律改正によって禁止され、最終的に浄土宗のお寺として再出発することになった。

   

 稱名寺の山門を入ると、広い境内に豊かな緑が迎える。正面の本堂はそこそこの歴史を感じさせ、鐘楼もしっかりしたものが建てられている。山門及び本堂の建物は江戸時代初期のもので、指定文化財になっていてもおかしくはないと思われるが、今のところ指定はされていないようだ。本堂内には本尊の阿弥陀三尊像があるが、これは運慶作と伝えられている。確証がないので、これも指定文化財ではない。また境内には弁慶石というものが置かれており、もともとは他所にあったものだが、こちらに移されてきた。義経と弁慶がこの石の上で酒を酌み交わしたという言い伝えがあるという。

 建物も含め境内全体もよく整備されており、由緒のあるお寺として格式を感じさせる。周辺は幹線道路もあり、古くからの住宅街でもあるが、静かな雰囲気で今でも地域で大切にされているのだろうと思う。
    


専定寺(烏寺)



『専定寺(烏寺) せんじょうじ

 熊谷山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。
 寺伝によれば、昔、専定法師という旅僧がこの辺りの松の木陰で休んでいると、二羽の烏が梢に止まり、「今日は、蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないか。」と語り合い、南の空へ飛び立った。法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、 烏が話していた同日(承元二年(一二〇八) 九月十四日)同刻に亡くなっていた。
 このことから、ここを有縁の霊域と感じた法師が草庵を結んだのが当寺の起こりといわれている。
 かっては、この故事を伝えるため、境内の松の梢に土焼の烏が置かれており、大仏七不思議 (方広寺周辺に伝わる七不思議)の一つに教え られていた。
 本堂に安置されている本尊・阿弥陀如来坐像は、後白河法皇の念持仏と伝えられ、金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので、 京都市の有形文化財に指定されている。
  京都市』   (駒札より)



 専定寺は東大路七条にある京都国立博物館の西側にある。博物館の北側には豊国神社が隣接し、さらにその隣に方広寺がある。方広寺は京都大仏がかつてあったということで有名だ。木造であったため炎上し、今その姿はないが、大仏の一部が残されている。
 専定寺の創建については詳細は不明だが、鎌倉時代初めの頃とされる。駒札にあるように話の内容は一つの伝承であり、史実とは異なるものである可能性が高い。しかし何もないところに伝承というのは生まれないものであり、おそらくこの時代に、寺の創建に関わる出来事があったのであろうと考えられる。



 専定寺そのものは極めて小さなお寺であり、山門も非常に小さい。非公開であり何度もこの前を訪れているが、開門されていたことは一度もない。門前に上記駒札が立てられており、そこから由緒を知るのみ。従って撮影も、山門越しに見えるところだけを撮るのが精一杯だった。
 駒札に記されている蓮生坊というのは、熊谷直実のことであり、源平の合戦で活躍した武士。元々は平家側の武士であったが、後に源氏側に移り、様々な武勲を立てた後に、法然の教えに気持ちが動かされ、出家して僧となった。

 寺の本尊は阿弥陀如来坐像で、平安時代後期の作とされる。仏師定朝派の弟子たちによって作られたと伝わる。後白河法皇の念持仏とされている。



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《 日本の行先は「後進国」への転落の道を突き進むのか  ② 》  2023.1.27

2023-01-27 23:47:48 | 社会
◆ 相対的貧困率増加の問題

 岸田総理による所信表明の発表には、「貧困」という表現はなかったように思う。実のところ現日本においては、先進国であるべき地位にあったものが長期間にわたるデフレ政策により、30年間国民所得は増えないという状況が続いてきた。そんななか世界の主要国は次々に金利を緩和し、インフレ政策をとって同時に所得が増加するような政策を実施し、着実に所得を増やしてきた。日本だけがなぜ長期間異例と言うべき低金利政策を取り続けてきたのか。その結果、明確に国民全体の貧困化の進行が露わとなってきている。

 貧困の指標を表す時に、「絶対的貧困率」「相対的貧困率」という指標が用いられる。前者については最低限の生存を続ける上で、それが不可能になるほどの貧困状態に置かれ、そのままでは生活できない。生きていけない、という状況を表している。特にアフリカや一部中近東、南アジア諸国などで見られることが多い。いわゆる先進国においても必ず、そのようなケースが多々見られる。
 後者は世界各国の貧困の状況を見る上で、一般的に使われる指標だ。これは国民全体の各世帯所得の、平均値の半分に達しているか、達していないかが基準となっている。現在の日本においては全世帯の平均所得は400万円を少し切るぐらいだろう。それの半分ということは180万円前後くらいになるだろうと思われる。全世帯のうち年収がこれ以下の世帯が、どのくらいの割合であるか、総理府の統計によるとおよそ16%前後くらいだと言われている。この数値を高いと見るか低いと見るか、少なくとも日本という国が自称、「先進国」と主張するならば、明らかにこの数値は高すぎるのではないかと思わざるを得ない。



 憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。第2項においてはこの達成のために、国がしなければならない政策について書かれている。果たしてこれは守られているのかどうか。

 今日本において貧困というキーワードでネットなどを調べると、圧倒的多数が「子どもの貧困」という項目が上位を占めている。現在では就学児童生徒のうち約7人に1人が該当するらしい。もちろん就学児童生徒は家庭生活を基盤に置き、学校に通って学び友人を作り、肉体的にも精神的にも大いに成長し、未来を担う人格形成をはかっていく場にいるはずなのだ。しかし「子どもの貧困」と言った言葉が、ネット上だけではなく新聞紙上やテレビニュースなどでも頻繁に登場するということは、そのぶんだけ社会問題となっており、かなり深刻な状況にあるということを示している。

 もちろん就学児童生徒本人には全く責任のないことであり、これは各家庭の経済的な事情によるところからきている。その経済的事情はさらに働き方や働く場、そして法的に定められた報酬が保証されているのか、あるいは雇用形態の問題などなどが複雑に絡み合っている。そういった意味では、子供たちの親自身の問題が原因となっているケースも中にはあるかもしれないが、それ以上に上記のような社会的な構造上の問題が極めて大きいのではないかと考えてもいいだろう。

 

 岸田総理の所信表明には、「新しい資本主義」という言葉が発せられていたが、はっきり言って何の事か皆目わからない。資本主義が新しいとか古いとか、一体何を指しているのか。日本という国は明治維新において、それまでの中央集権国家体制から天皇中心ではあるものの、経済様式は資本主義体制と変換していった。その後、政治的な独裁体制はあったものの政治形態自体は、資本主義経済を基本的には持続してきたと言える。戦時中の一部統制経済の時代があったものの、戦後においてもずっと資本主義経済が続けられてきている。

 経済について私自身は詳しい勉強したことがなく、その内容について述べる立場にはない。ただ上辺の浅薄な知識の中でここに記すことぐらいしかできない。かつては日本の労働者は学校を出て就職すると、基本的には一生同じ会社で働き続け、少しずつ所得が上がっていくという終身雇用制度のもとに、いわばそういった制度に守られながら働いてきた。少なくとも1970年代までは、そのような状況が続いていた。しかし同じ資本主義制度をとる先進諸外国においては、すでに個人主義的な思想が高まる時代でもあり、会社のために組織のためにということではなく、自分のために働く、仕事をする、という考えから、終身雇用は成立しにくくなり、キャリアアップを目指して次々に職場を変えていく、職種を変えていくということが当たり前の資本主義制度の世の中になっていった。

 日本という国もそれを横目で見ながら、一部の優秀な人材が外資系企業にリクルートされる時代が到来し、1980年代のバブルの時期には、自らの思いで起業し多くのチャンスをものにして、いわば Japanese Dream を満喫するような時代がやってきたが、しかし資本主義社会の宿命とも言うべき、そのバブルが弾ける時がやってくる。20世紀の前半にアメリカなどが既にに経験済みのことであり、資本主義の行き着く先がわかっていたはずなのに、ほとんど初めての自分たちにとって素晴らしい体験をしている身においては、そのようなバブルがはじけることなど、考えも及ばなかったんだろう。

 そしてしばらく続く不況の時代がやってくる。そういった時代を通して政策的にも変化が表れ始める。いわゆる働き方改革なるものが芽を出し始めたのだ。それがかなり鮮明な形で現れたのが、小泉内閣の時だ。彼は「自民党をぶっ潰す」などと口ばかり大きいことを言って世間の人気を集めた。しかしその具体的な内容というのは、後に日本の労働者を大いに苦しめることにつながっていく。労働基準法で定められた、いわゆる8時間労働というものに例外規定を作る中で、働き方の多様性を一方的に労働者側に、不利な形で押し付ける方策がとられるようになると同時に、「正規雇用」労働者に対し、「非正規雇用」労働の形態を大いに進めることになっていく。一見これはちょっとした時間を利用して、指示されたところに行って働いて収入を得ることができる、といったうまい方法だと考えられたが、実態は企業側にとって都合のいいように使われ、そして使い捨てられる立場に労働者が追いやられることになる。

 これらの新しい働き方を通して、企業側の論理が全面的に通用するようになり、労働者はますます不利な立場に追い詰められる。元からして低い最低賃金も保証されないような実態もあちこちで現れる。これがもたらすものは結局は、「格差社会」だったのだ。
 多くの労働者たちが気が付いた時にはすでに遅かった。何百万何千万人という人々が、そのような混沌とした競争の場に放り込まれ、企業側の思うがままにこき使われることになるのだ。しかも残業手当の未払い、最低賃金法の違反、過労死問題などなど、あちこちに矛盾が出てきた。こうして終身雇用制も少しずつ崩れ始め、元から有利な立場に立っていた正規労働者はさらに有利となり、不利な立場で働いていた人々はさらに不利な立場に追いやられる。

 1990年代以降、これらはさらに顕著になり、ついには金融政策においてもゼロ金利政策という異常な政策がとられるようになり、労働者の賃金は増えるどころか、僅かではあっても減るような方向に進むような有様となる。こうして「相対的貧困率」の指標が少しずつ上がっていく。つまりそれに該当する家庭が増えていくということだ。そしてこれらは確実に成長期にある子ども達にも、直接影響を与えることになる。

 約1年前に、ロシアはウクライナへ一方的に侵略戦争を開始した。その結果明白になったのはいわゆる、天然資源及び食料品に関わる安全保障の問題だ。言うまでもなく日本という国は一部を除き、天然資源は大半を輸入に頼っている。食料品については本来自給自足が可能なはずなのにも関わらず、アメリカをはじめとする外圧に押されて政府は、歴代の内閣が揃いも揃ってアメリカにペコペコ頭を下げながら、その要求、つまり日本産の農産物よりも安い、アメリカ産や外国産のものを輸入しろとの要求を飲んできた。その結果、本来国内で生産できるはずのものが、国外から安価で輸入されるようになり、国内の産業の衰退につながっていった。

 それがもたらしたものは言うまでもなく、今現在大問題になっているありとあらゆる品物の小売価格の異常な上昇だ。つまり巨大インフレが到来している。食料品だけではない。天然資源に関わって電気代やガス代も一斉にこれから上がっていく。いざ何かあればこのような状況になることなど、経済学者たちならばわかっていたはずだ。日本の政府にはこのような事態に備えるための研究機関やブレーンはないと言うんだろうか。結局は政策上の大失敗が、国民を苦しめる結果となって表れている。安全保障問題というのは、何も軍事的なものとは限らないのだ。食料安保、天然資源安保、これらも重要な安全保障上の課題であるはずだ。結局アメリカを中心とする国にあれこれ言われたことによって、日本は、実はのっぴきならない崖っぷちのところに立たされているということが、これで嫌と言うほどわかったはずだ。

 このことは各家庭の生活の中身についてみれば、ますます生活の困難な実態が明らかになり、貧困家庭の増加と格差世界の造花が一層進むのは間違いないだろう。そして各家庭レベルの中でも、弱いところにそのしわ寄せがいく。それが結果的には子供達であり、高齢者であり、障害を持った人たちであり、介護を受けている人たちであるということになってしまうのだ。

 岸田総理の所信表明の文章を全部読んだが、新しい資本主義の中身について、ある意味当たり前のことが書かれていたが、一体これから何年かけてそれを実現するというつもりなんだろう。2~3年で実現できるんだろうか。誰が考えたって何十年とかかるような事ばかりしか書かれていない。つまり当面は夢物語に過ぎないことばかりが前面に出されているのだ。いわば所信表明というのは単なる遠い未来に向けての、単なるスローガンであり、実現すべき具体的な目標ではないと言える。

 国民の税金を使ってそれでも足らないものは、さらに増税すればいいという発想が見えている。物価は高くなってさらに増税を求められ特に、相対的貧困の中に置かれている家庭はどうしろというのか。一応政府の統計では該当する家庭は約16%とはいうものの、これからは確実に増えるだろう。これらの大元となる全世帯の平均年収が約400万円弱という数値自体に、希望がもてない大きな原因がある。企業においても、大企業と圧倒的多数の中小企業におけるその格差たるや大変なものだ。この件について総理は、企業に労働者の給料の増額をお願いするなどと言っていたが、一部大企業はそれに反応して給料アップを表明した。しかしそんなことができるのは文字通り一部であって、元からして下請けを、ギリギリのところまで追い詰めている大企業だからこそできるのであって、下請けの中小は元から不可能なことだ。

 貧困問題の解決というのは極めて困難だと言える。確かに天然資源を豊富に持っている国であれば、アラブ首長国連邦やサウジアラビア等、石油産出国などは働かなくても国からお金がもらえる何て言う所もあるが、それもあと何年続くのかかわからない。いつか天然資源はなくなる。日本のように天然資源が元からあまりないような国は、自然というものを活用しながら電力にしろガスにしろ、新しいエネルギーで解決を図っていく必要がある。そういった意味では研究も盛んだし、最先端技術も開発が進んでいるとは思われる。

 

 しかしあくまでも大局的に見ればという話であって、貧困問題は各家庭各個人のマクロの部分を見ていかなければならない。そのためには社会における労働と所得のあり方や、システムを改革していく必要があるのではないか。少子化問題とも関連するが、ただ単に子供一人産まれたら何10万円補助する、と言うその場しのぎの政策ではやはり限界があるだろう。政治のあり方も含めて本当に国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が保障されるようにしていくための、全面的な変革が求められるべきだ。
 少なくとも総理自身が企業に対して、給料の増額をお願いすると言う視点で話を進めているならば、いつまでたっても「貧困」の問題点には目が向かないだろう。つまりそもそもの発想自体が間違っているとしか思えない。給料アップの非現実的な実態というのは誰でもわかることのはずだ。従ってそういった視点から見るのではなく、現実に深刻な問題になっている貧困及び、「子どもの貧困」という直接的な視点でものを考え、どう解決していくのかを見ていく必要がある。でないといつまでたってもボランティアや善意の寄付などという所に、解決の矮小化が行われてしまうようで、何の解決にもならないような気がする。そういった点では少子化問題と同じような、国の構造的な問題があると言える。そこを具体的にどうするのかということを、国会の責任でもって話し合い、改善策を提示すべきなのだ。


   (画像はTVニュースより)

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芬陀院 (雪舟寺)・・・ふんだいん    京都市東山区   2023.1.20 訪問

2023-01-25 23:10:55 | 撮影
 

『芬陀院(雪舟寺)

 東福寺の塔頭で、元亭年間(一三二一〜一三二四)に時の関白一條内経公が、東福寺の開山である聖一国師の法孫・定山祖禅和尚を開山に迎えて創建した。
 水墨画などで有名な雪舟等揚禅師が東福寺に参るときは必ず当院に身を寄せ、庭を作ったので雪舟寺ともいう。
 建物は元禄四年(一六九一)と宝暦年間(一七五一〜一七六三)の二度、火災にかかったが、桃園天皇の中宮恭礼門院の御殿の一棟を賜って移築 し、更に明治三十二年(一八九九)に昭憲皇太后から御内帑金を下賜されて改築した。
 「鶴亀の庭」として知られる方丈の南庭は、寛正・応仁期(一四六〇〜一四六八)の雪舟の作と伝えられ、美しい菩地の中に鶴島と亀島の石組が あるのが特徴で、昭和十四年(一九三九)に復元修理された。東庭は重森三玲作の枯山水庭園で、 書院の背後には、茶関白といわれるほど茶道を愛した一條昭良(恵観)好みの茶室図南亭がある。
  京都市』   (駒札より)

  

 芬陀院は東福寺の主要な入り口である日下門前の参道沿いにある。東福寺周辺の寺院と同様、ここも東福寺の塔頭となる。従って臨済宗の東福寺派のお寺だ。
 このお寺はおそらく通年拝観受付をしているようで、訪れた時はいわばシーズン外になる。他のお寺は閉門しているところも目立ったが、東福寺山門前のところに大きな芬陀院の看板が出ていた。何度もこの辺りに来ているが入ったことはないので、初めて訪れることにした。本来ならば紅葉時期がいいのだろうが、その時点では全く視野に入っておらず、素通りという状態だった。

 創建等の由緒については駒札の通りだ。鎌倉末期の創建であり、禅宗のお寺として修行僧達がこの寺で教義を学び修行に励んでいたのだろうと。別名「雪舟寺」と呼ばれるように、こちらには水墨画の達人である雪舟が度々訪れたことから、また和尚の依頼で庭園を作ったことから縁が深いということで、このように呼ばれている。

  

 もちろんすでに紅葉はなく、庭園は緑と白い石に満たされており、枯山水庭園とはいえどもやや素っ気ない感じがした。しかし逆に言えば、色数の少ないこのような光景に、本来のわびさびの文化が表現されているのではないかとも思える。方丈などの建物の内部も特に撮影禁止のところがなく、色々と撮影させていただいた。建物は全体的に古さがあまり無いようで、やはり再建からさほど年数が経っていないこともあり、非常に綺麗に整備された気持ちの良いものであったと言える。

 庭園についても本堂前の、雪舟が作庭したと言われる庭園から、東側に回って新たに設けられた庭園があり、作者は違うとはいえども全体的な統一感は意識されたんだろうと思う。 最初私の他に拝観者はいなかったが、途中から老婦人2人組がやってきて、室内に座りゆっくりと庭園を眺めていた。本来ならば腰を据えて庭園を眺めて、思索にふけるのがいいんだろうが、いつものように若干急ぎ足で回ってしまい、撮影を終えると帰ろうということになってしまう。
 なお庭園の作者が雪舟というのは、あくまでも言い伝えであり確証はない。

   

 雪舟は日本の歴史上に名前を残す高名な水墨画家であり、元々はお寺の後継ぎとして生まれて、成長してからは和尚となる予定だったものが、本人は子供の頃から絵を描く事が好きで、そちらの方に熱中していたようだ。ある時それを咎められ部屋に閉じ込められた。和尚が様子を見に行って、どうしているかと心配したが、涙を流しているその足元には、なんと鼠がいたと言う。しかもその鼠が動いている。和尚は驚いて近くに寄ると、その鼠は雪舟がこぼれ落ちた涙を脚指につけて床に描いたものだった。あまりにも見事な涙絵に和尚は驚いたと言う。
 結局雪舟は生まれたお寺を継がずに旅に出る。その中で水墨画の腕を上げていき、この芬陀院にたどり着いた。気に入って何度も訪れているうちに和尚から、庭に亀を作ってほしいと頼まれる。なかなか取り掛からない雪舟だったが、ある時石を積み上げて何かを作っていた。そして石でできた亀ができたと言う。ある夜その亀が歩いたのを和尚が見て、抑えてくれと頼むと、大きな石を亀の背中に乗せた。こうして亀はその場に大人しくじっとしているようになったとのことだ。
 雪舟はこれからもお寺に関わってほしいとの依頼に対して、さらに修行を深めるために遠く明の国へと旅立っていった。

 この話はあくまでも伝説として残っているものであり、実際に亀が動くはずもないし、どれほど素晴らしい水墨画を書いても、何かを作っても、それが生き物のように移動することはありえない。しかし見るものにそう思わせるほど素晴らしい出来栄えであるという、象徴的な出来事として雪舟の凄さを後世に伝えるために、このような話が出来上がったのだろう。

  
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