切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

比較的最近のニュースから・・・①

2019-09-30 22:13:10 | 社会

◆大坂なおみさんへの人種差別発言について



 先日ライブ会場で、ワタナベエンターテインメント所属の女性漫才師? (芸人)の「Aマッソ」の2人が、舞台上でテニスの大坂なおみさんに対して「日焼けしすぎやろ、必要な美容品は漂白剤」などと言ってお笑いを取ろうとした。
 ライブ会場はざわついたらしい。もちろん笑った者もいるようだ。このことはSNS上で瞬く間に広がり、外国にも知られることになり、ヨーロッパやアメリカのテレビ局が積極的に取り上げた。もちろん取り上げたのは、この発言がれっきとした「人種差別」発言だからだ。
 ところがどういうわけか、日本国内のテレビ局や新聞を見ている範囲では、一切報道されていない。かろうじてネットニュースで知っただけだ。欧米先進国では公的な場での人種差別発言は一発アウトだ。しかし日本ではあまりにも甘い対応、にいつまでたってもこのようなことがなくならない。そりゃそうだ国会議員などの政治家ですら、これに類するような差別発言を平然とやっていて責任も取らないんだから。

 昨日この件について、大坂なおみさん本人が、非常にウィットに富んだ反論をして非常に評判になっている。ご自身が資生堂のCMの出演していることで、UVカットの商品を例に挙げて、その商品では日焼けはしない旨のことをSNSで発信すると、たちまち世界中から、非常に大人の見事な反論と言うことで話題になっている。
 また彼女の彼氏と言われるヒップホップのアーティストは同様にSNS上で、日本人は島国の中で歩んできたからこそ、多様な人種や文化の違いと言うものを体験できていない。そういう点からこのような差別的な内容について感覚が鈍いんだろう。今回の件を活かしてしっかりと学んでいってもらえれば良い、と言う内容の、これもまた大人の返しをした。

 この記事読んで、やはり欧米人と言うのは根本的に日本人とは違うということを改めて思い知らされた。その彼氏が言う「島国」特有の、1つの人種、1つの文化(ただしアイヌ民族や沖縄民族の件がある)と言う具合に閉ざされた環境で歴史を歩んできた民族にとってみれば、やはり人種差別といっても本質的な部分で、ピンとこないものがあるんだろう。
 日本のメディアが取り上げないのはおそらく、渡辺エンターテイメントが多くのタレントをテレビに出演させていると言うこともあって、強烈な忖度が働いて何も発言できないんだろうと言う、これまた島国特有の劣化したマスメディアの姿が垣間見える。

 ある意味これで一見落着のような形になったが、今回はたまたま「人種差別」発言であったが、これと本質的には変わらない差別発言がテレビを中心とする様々なメディアで、しかもタレント、芸人、ときには有識者等によって平然と行われている。すなわち相手の人の「身体的あるいは精神的」な状況や特徴をとらえて揶揄するというか、明確な差別的発言。相手を馬鹿にすると言う形で出し放題と言う有様だ。「デブ、ブス、ハゲ、猿顔、精神異常などなど。」これらを全て否定的な意味で相手に対して使っている。
 私はキレキレ爺いを名乗っているが、それなりの歳で、完全にハゲでかつてはデブの部類に入っていた。テレビで芸人どもがそんな発言をするたんびに、こいつらの人間性や人格を疑ったものだ。直接縁もゆかりもない奴らなので疑ってもしょうがない。芸人どもというのがそのような悪質人間としか思えなくなってしまった。また「イケメン」などと褒め立てて、逆にそれ以外の人物を貶めると言う言い方も目立つ。あるいはクイズ番組などでよくあるが、高学歴芸人などを集めてわざわざテロップ等で、東大卒京大卒等々、頭がいいことを紹介し、番組の進行をもり立てているような雰囲気になっている。
 このようにマスメディア自体が「様々な種類の差別」と言うものを煽っているとしか思えない。このようなものを出せば視聴者が喜んでバカ笑いすると思っているんだろうか。そんなこと自体が視聴者を馬鹿にしている証拠だと言える。

 日本と言う国の、何たる偏狭な考え方しか持ち得ない哀れな実態。今回の大坂なおみさんへの差別発言に対して、そこから考えるべき事は非常にたくさんあった。またその反論が相手に気遣いながら、これをもとに勉強して公平な人間になるようにとの思いを込めた発言ができるというのが、人間としても素晴らしいと思う。

 ちなみにキレキレ爺いはそれだけの人間的な幅がなく、はっきり言って今回の当事者のAマッソは二度と人前に出るな、との思いが圧倒的に強い。それ以外の漫才などの芸人を名乗る練中も、人を嘲り笑うような言い方をして平然としている。それがお笑いだと思っている。その浅はかさにむかつきが止まらない。こんな奴らもテレビなんかに出すべきではない。それがキレキレ爺いの現時点での結論だ。



  (画像は他のHPより)
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北向見返天満宮~綱敷天満宮神社 京都市伏見区・・・菅原道真との関わり

2019-09-28 23:12:55 | 撮影

北向見返天満宮



『北向見返天満宮
 この地は平安時代前期の延喜元年(九〇一)、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、時の右大臣管原道真公が筑紫太宰府に下向の折、先祖代々縁り深き、羽束師神社に参詣の際、立ち寄られたところであると伝えられている。その際、「君臣縁の切れしを再び結び給へ」と御祈念の上、「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 杜といふらむ」の歌を詠進せられ、北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところでもある。
 後年、菅原道真公の威徳を称える人々により、神霊が奉祀され、都の行く末を案じ守護するかの如く、北向に奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広い崇敬を戴いている。
 平成二十七年(二〇一五)には大々的に境内整備が実施され、現状に一新された。
  京 都 市  (駒札より)

 伏見区の京都府運転免許試験場の北側にある。近くには羽束師神社。北向見返天満宮の由緒については上記駒札の通り。
 創建については詳細は不明。駒札を読めば、菅原道真が大宰府に流される時に立ち寄ったということになっているが、これの真偽についても諸説あるようだ。実際には太宰府に向かう途中で亡くなるのだが、それ以前の創建であるならば、整合性は取れることになる。事件の発端が延喜元年と言うから、平安時代の中期となって話は合うのかもしれない。
 現地に着いてみると数年前の境内整備によって、何かあまりにもすっきりしすぎて、歴史的由緒を持つ神社とは思えないような光景が広がる。石造鳥居も新しく、本殿については全体が覆い屋で囲まれておりほとんど見えない。前面の格子窓の間からわずかに古びた屋根が見えるだけだ。
 しかし京都市によってわざわざ駒札が設置されているというので、それなりに語り継がれてきた重要な由緒があったんだろう。道真亡き後、「学問の神様」として崇められるようになり、その少し後に北野天満宮が創建されている。そういった意味ではこの神社は、元々は天満宮ではなかったはずだ。道真との由縁ができたことにより、後に天満宮として改められたものと思われる。整備されたばかりということだが、あと50年もすれば境内の木々ももう少し大きく成長し、100年もすれば神社の森も、それにふさわしいようなら光景になるだろうと思う。今現在は訪れても、ちょっと拍子抜けを感じるかもしれない。
      


綱敷天満宮神社



 伏見区の桂川西岸にある。対岸には有名な淀競馬場がよく見える。川沿いのこの土地は比較的新しく造成されたところで、戸建て住宅が整然と並んでいる。その中央部に綱敷天満宮神社はある。
 新しい造成地なので、この神社もかなり新しく新築同然と言った雰囲気だ。しかし鳥居の横に、かなり古い神社名前入りの石柱が立っていた。おそらくこの土地にあったものが、造成によってそのまま全面建て替えになったのか。それとも他の場所から移転してきたものなのか、どちらかだろう。
 ネット情報も含めて、全く情報が見つからない。天満宮と名乗っていることで、祭神は菅原道真公だろうということだけが予想される。本殿の中も覗いてみたが、やはり新築といった感じだ。ただ本殿の裏側にかなり古い石柱が4本置かれていた。そういったところから見ると、そこそこ長い歴史を持った神社だろうと思われる。歴史の流れの中ではさまざまなことが起こり、やむを得ず古いものが取り壊され、 建て直されるということも過去には何度も例がある。現代においてはそういうことは珍しいだろうが、そのように思うしかない。
 「綱敷」という名前の神社については、西日本から四国・九州に多く見られ、基本的にはどれも「綱敷天満宮」といった名前になる。
 この綱式は菅原道真が立ち寄ったということに由来すると言われているようだ。具体的には立ち寄ったことによって、何故「綱敷」なのかわからない。この二文字の漢字の組み合わせが何を意味するのか、専門的に調べられればいいかとも思っている。何にしろ綱敷は天満宮と続く神社名であり、そこここに菅原道真の左遷の旅が続いたことがよくわかるような気がする。

       
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水分神社・念仏寺 京都府京田辺市・・・お向かい同士

2019-09-27 22:46:48 | 撮影

水分神社 (みくまりじんじゃ)



『改築記念碑
当神社は文政年間 既に龍五社として この地に鎮座し 治水の神として在
住の信仰を受けていた。
明治二十八年 八幡社と天満宮を合祀して水分神社と改称し 氏神として村民
の信仰特に厚く 現在に至る。
昭和四十五年 当東区共有地を田辺町立田辺東小学校用地として提供 この
機にその代価をもって本殿の改築 拝殿の新築 鳥居を始め境内の整備
をし住民の心のよりどころとするため起工し昭和四十六年四月三日 ここに竣工
したものである。
  昭和四十七年四月 東区 (石碑より)

 水分神社(みくまり)へ行く。
 近鉄新田辺駅から東へ徒歩約10分のところ。すぐ近くに府立田辺高校があるので分かりやすい。入り口の赤い鳥居をくぐると短い参道があって、すぐ割拝殿。そして本殿へと続く。 境内を含め全体的に小さな神社だが、非常によく手入れが行き届いており、地域によって大事にされていることがよくわかる。境内の周囲は高い木に囲まれており、そこに神社があるということは容易にわかる。
 拝殿には古い写真などが掲げられていて、前の大戦もものと思われる兵隊たちの集合写真が目立った。本殿も小さなものだが、かなり新しさを感じる。上記の石碑にあるように明治時代に整備し直されたということだ。
 名前の「水分(みくまり)」というのは、記紀の神話に出てくる神の名前で、元々は水を分配するというような意味があり、江戸時代から治水の神として崇められていたところから、「水分」と新たに名づけられたものだ。
 「み」が「水」で、「くまり」が「配る」ということで、「水分」と書いてミクマリと言う神の名前をつけたようだ。元々は文政年間と言うから、江戸時代の終わりに創建された新しい神社。新しくとも古代の神の名前をつけているということで、割と珍しい名前の神社だ。なお、ミクマリと名付けられている神社は、少ないながらも日本各地にある。
         


念仏寺



当山は康永年中(一三四二)に法明上人によって開創され寛文十年(一六七〇)三月仁雲上人
が再建されたと伝元られ文化十一年(一八一四)三月第十世群誉上人の代に大洪水あり群誉上人と檀徒一同の総結集の努力により鍵田一四の現在の地へ改築せられ爾来三百余年の星霜を经て今日に至るしかるに本堂及び庫裡の建の老朽化が激しく境内の風致を大いに損なうことありかねてより壇信徒において再建の儀興りしが漸く機熟して再建を議決しここに竣工を見るに至り本日吉辰をトして落慶法要の盛典を挙ぐこれひとえに檀信徒の至誠過分 の浄財の寄進総代建築委員の諸氏のご尽力の賜なり伏して願くば総じて仏国を莊厳し衆生を成就し列しては淨財寄進尽力結緣の各位の二世の真福を円満しその祖先の菩提を増上せんことを更に
希くば天下和順し日月清明にして仏日ますます輝き專修山頭祗樹蒼々として法光常に照し給わんことを謹しみて臼す
  昭和六十年三月三十日
 専修山 念 仏寺  (石碑より)

 続いて念仏寺へ行く。
 といっても先ほどの水分神社の向かい側だ。全体的になかなかきれいなお寺で、本堂の建物もかなり新しい。境内は様々な樹木が植えら、れきれいに整備されている。敷地全体は狭い方になるが、これも新しい石造十三重塔もあり、かと思えば墓地の入り口には、おそらく江戸時代の古い墓石が多数密集して立っている。小型の宝篋印塔のような石造物もあり、これはかなり古そうだ。このように新しいものと古いものが混在していて、結構面白いものだ。
 由来は上記石碑の通り。句読点も何もなく非常に読みにくく、理解しがたいが、鎌倉末期に創建され、その意味では約700年の歴史を有する。しかし洪水によって移転し、当寺建てられた本堂が300年経って老朽化が激しく、そこから再建されたようだ。
 本尊は阿弥陀如来。
 周辺は高校の広い敷地があり、住宅が並ぶ。その外周は田畑が広がる。この周辺にはお寺なども結構あってよく撮影に行く。少し離れるが重要文化財を有するお寺や神社もある。その意味では京田辺市というのは、京都府南部にあって木津川市とともに、文化財という面ではなかなかのものであると思う。機会あれば近鉄の駅からすぐなので、立ち寄るのもいいと思う。

          
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大枝稲荷神社 京都市西京区・・・伏見稲荷の小型版

2019-09-25 22:45:20 | 撮影

大枝稲荷神社  (西京区大枝東長町)



 大枝稲荷神社へ行く。
 似たような名前でこの神社から西北へ約2 km ほど行ったところに大枝神社というのがある。そちらの方が知名度は高いが、こちらは地元以外は無名といってもいい。国道9号線沿いの京都明徳高等学校の南側にある。ちょっとした丘陵地になっていて、森が広がる。入り口の鳥居から少し上がりながらまっすぐな参道に、同じ真っ赤に塗られた鳥居が連続して立てられている。伏見稲荷大社の超小型版といったところだ。周りは樹木に囲まれていて民家などは、また明徳高校も全く見えない。非常に静かで別世界に来たような感じ。何かここだけは江戸時代のような雰囲気を醸し出している。
 通称、稲荷神社と言われ、地元で産土神として信仰を集めているようだ。神社の創建は江戸時代の比較的初期だと言う。当時はこの地は広野と呼ばれていたので、広野稲荷神社と称されていた。明治になってからは村社扱いとなる。
 祭神は稲荷神社に非常に多い「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。」古事記や日本書紀に出てくる神話の女神で、この土地が開墾して開かれたということで、穀物の神として崇められている。元々「宇迦」というのが、穀物を表す意味の言葉だ。この神は伏見稲荷大社にも祀られている。全国的にも多くの稲荷神社で祭神となっているようだ。
 参道を上りきると、少し古めの拝殿があり、その背後にひっそりと建つ 小さな本殿が構えている。特に周りが覆われるようなこともなく、ほぼ全体がむき出しの状態だ。おそらくこれも江戸初期のものとは見えず、おそらく明治期頃に再建されたものだろうと思われる。しかし上にも記載したように、ずらりと並ぶ鳥居には奉納者の名前が書かれており、お稲荷さんの福徳にあやかろうという思いが伝わってくるような気がする。
 いろんな資料を調べてみたが、皆無に近い状態。わずかに他のブログでここを訪れた人が、写真や簡単な記事を紹介していた。決して不便な場所ではないので、数多く並べられた赤い鳥居を見るのもそれなりの価値があるのではないかと思う。もう少し知られても良いのではないだろうか。


           
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日本の民主主義は崩壊の一途をたどり、もはや修復不可能ではないのか・・・⑩

2019-09-23 23:12:36 | 社会


《日本、敗戦から74年・・・今や日本の民主主義が崩壊の危機に》 (6)

◎民主主義と言うのは何によって維持されているのか?




 民主主義と言う言い方は、言い換えれば人民主権となる。つまり国民全体が主権を有するいわば国の主人公だ。しかしどの国でもそうだが、極めて多い人口に対して各自の民主主義意識に任せておくだけでは、それぞれの利害や考え方等の違いにより対立や争いが起こったりする。
 日本のように1億2000万人もいると民主主義に限らず、様々な事柄に統制が取れなくなる。だからこそ国のあり方の基本的なルールとして、「日本国憲法」と言う最高法規があり、その内容に基づいて国民生活全般に関わる法体系が整えられていく。その中に民主主義と言う根幹部分を入れていくためには、法の条文だけではなく、国全体を運営していく仕組みが必要となる。それが何かと言えば、世界各国で採用されている「三権分立」と言う三角関係による相互作用関係の仕組みだ。
 もちろんその中心にいるのは「国民」である事は言うまでもない。三権分立については国民全員が学校で教わっているはずだ。もちろん三権とは「立法、行政、司法」を指す。各国同様日本は人口が多いためにこれらは、間接民主制と言う方法をとって、選挙によって選ばれた議員やあるいは国家試験を突破してこれらの仕事に就いた人たちが中心になって行っていくことになる。これら三権が民主主義と言うものを根幹に置いて、相互に平等な関係で回っている限り、その国の民主主義は基本的には保障されていると言うことになるはずだ。
 そういった三権分立の実態だが、この日本ではどんな状況なんだろうか。私こと癌爺いは日本の三権分立と言うものを基本的に信頼していない。
 三権がそれぞれ勝手に動いて、お互いに牽制しあい批判しあい、必要な場面で協力し合うと言う関係にはどうしても見えない。



・立法権(国会)・・・確かに政府内閣によって新しい法律案が示されたり修正案が示されたり、場合によっては野党からも立案されたりするが、この間、数の力によって政府にとって、つまり安倍内閣にとって都合の良いような内容のものばかりが、ほとんど審議不十分な状態であっという間に採決に持っていかれる。安保法制のような極めて重要な法案についても、最後は強制採決によって法案が通ってしまう。
 もちろん昔から自民党内閣によるこのような暴力的な採決は何度もあったが、安倍内閣では重要法案に限らず、どんな法案でも修正案でも、強制的に押し切ってしまう。本当にそれが民意を反映したものと言えるのかどうか。このような数々の暴挙によって新しい法律が作られ修正され、国民生活は大きな影響を受け続けている。
 身近なところで言うと例えば、介護保険法等でも、要介護度の評価基準が「見直し」の名のもとに、少しずつ下げられ、困窮している要介護のお年寄りなどにとってみれば、少ない年金も合わせて生活そのものが成り立たない状況に追い詰められていく。もちろんこんなことを決めてる立法府や行政の議員連中には縁のないことであり、奴らの老後生活は十分過ぎる貯金とともに悠々たる生活が待っている。
 日本は世界の中では先進国と言われているが、外国からの目では先進国と言われているのにもかかわらず、貧富の差が非常に激しいと言う特殊な状態にあると言うふうに見られている。このような状況に至った背景にはもちろん、政府による政策の内容が大きく関わっており、いわば「権力のあるもの、金持ち優遇、有力者のお友達などなどなど」を優遇するような方策が取られ、貧しい者は切り捨てられ排除される、と言う実態がますます顕著になってきていると言うことだろう。
 かつて1960年代日本経済は奇跡の成長を遂げつつあり、いわゆる中間層と言われる働いた分だけ収入を得て、小さな家を持ち車を持つといった生活が、多くの人々の中に広がっていった。しかし世界経済との関連の中で、日本経済も大きなうねりの中に翻弄され、70年代の長引く不況の中で次第に政策内容によって、有利になる者たち、逆に不利になる者たちが明確に選別されていく。そして80年代バブルを経験し、その崩壊とともに日本経済は政策により極めて露骨に、有力者たちを守る立場を鮮明にし、下層民たちはいっそう切り捨てられて行くことになる。
 そして今現在の貧富の差が激しい「異様な先進国」状態になってしまっている。癌爺いは教育公務員であったために、そういった点でははっきり言ってましなところにいたと言える。それでも現役の晩年期には、毎年連続で給料は下げられていた。当然退職金も下げられた。最後の給与を基本に計算され、癌爺いの何年も先輩の人たちよりは大幅に減らされた。自分などはっきり言って、それでもまだまだ恵まれた方だと言えるが、個人事業主や中小企業の従業員たちにとってみれば、もっとはるかに厳しい状態に置かれている。
 年金についても何年か前に安倍総理は、「100年安心の年金制度」とぶち上げた。ところが今年になって、厚労省だったか「老後の生活には年金以外にさらに2000万円必要」などと言う話が突然出てくる。癌爺いの年金は月額で言うと、独居生活のために様々な贅沢さえしなければ一応やっていけるレベルだ。しかしこれが夫婦2人となるととてもじゃないけど、食費だけで後は極めて厳しいと言うことになるだろう。まして家の35年ローン等を組んだ人たちはまさしく地獄ともなりかねない。
 一方で大企業については、政府は様々な優遇策を講じて助けてきた。もう何年も前になるが、ある銀行が大ピンチになった時にも政府は国費を投じて都銀を助けた。もちろんその後何年もかかって返還することにはなるのだが、本来ならその銀行は破綻していて当たり前だ。別に銀行に限らず、大きな企業がピンチになったときには、国が金を出して助けるようなシーンは幾度と無くある。その際の理由は、大企業が破綻することによって労働者が職を失い、一気に生活困窮者になってしまう。また下請けの中小企業なども連鎖倒産を起こし、大勢の失業者が生まれてしまう。そうさせないためにも国がお金を出して助かる必要がある。そして法人税免除などと言うことも行われ、中には業績がすっかり回復しているのに、未だに法人税が免除されている大企業がいくつもある。誰が考えたって不公平だ。中小企業が潰れるときには、銀行はさっさと債権回収して、国はもちろん知らん顔だ。
 つまりもともと「強い者」に対しては国は有利な政策を取り、「弱いもの」に対しては切り捨てる、と言う方向が今は明確になっている。こんな形で立法府が政権にとって都合の良いような法令をどんどん作っていく。などと言うのはまさしく、権力者の身勝手、乱用以外何者でもない。こういうことが「良識の府」と言われている、国会において行われていると言うこと自体が、日本の国会の実態であり、不幸なところだ。
 政策論議の結果、何もかもが強者優先弱者切り捨てと言うものが、国会の中でまかり通っていると言う実態を自民公明の与党は改革しようと言う気すらない。こんなものを一体誰が信頼すると言うのか。そして立法権によって作られた法令と言うものは、行政権によってつまり内閣を中心とする政府によって具体的に進められることになる。そういった意味では行政の方から立法に対して問題提起と言うものは全くなされていない。いわば両者は一体化して、与党の都合の良いような政策を進めていると言う事しか見えない。つまりそこには立法と行政の一体化と同時に「民主主義」を完全に否定している姿が見えるのだ。



・行政権(内閣)
 話はすでに「行政権」の分野にも入っているが、果たして日本の行政は本当に民主主義と言うものを根に据えて行われていると言えるのかどうか。法律や政策が決まったらそれに基づいて政治を行っていく。もちろんそのためには「民意を反映した十分な審議」が行われなければならない。それは国会の場だけではなく、予算委員会や専門委員会等の場でも全てがそうだ。
 しかし今やどの場においても、審議と言うのはウワベの単なる形式的なものに終わってしまっているとしか思えない。今の野党が十分な調査や証拠を下にして、鋭い追求ができているとはとても思えないが、それでも自民公明の与党を追求する姿が一応はある。しかし与党の態度はいつも同じ。「知らない、そんな事実は無い、印象操作だ、などなどなど」と言う徹底的な嘘とごまかしと方便で逃げ切ってしまう。つまり国民の前には真相を何一つ明らかにしようとせず、嘘と言うものが正々堂々とをまかり通ってしまうような場となってしまっている。こんな明白な嘘や方便がまかり通るような国会の国っていうのはあるんだろうか。
 世界各国で様々な政治が行われ、それぞれに外国から特派員が派遣され、国会審議の様子や政策決定の内容が世界中に配信されている。外国のテレビニュースの内容は少なくとも先進国においては、真っ先に「世界の政治情勢」が紹介される。その後続いて世界の情勢に関連する形で「国内の政治情勢」の報道が続く。それらの後にいわゆる一般的な事件などの、あるいは出来事の報道となる。つまり世界の民主主義国家は何を見ているのか、ということがこれではっきりとわかる。そして国民のためには、何を知っておいてもらわなければならないのかと言う姿勢が明確に示されている。
 振り返ってこの日本はどうか。よほど重大なことがあれば、世界情勢の報道がトップに来るケースはあるが、そんなものほとんどない。国内の政治が先に来るのかと言えば、そんなケースもほとんどない。台風のニュースや、小泉進次郎が滝川クリステルとできちゃった婚をした、大臣になった、などと言うどうでもいいようなものがメインのニュースになっている事が多い。つまり日本のニュースというのは、エンタメ番組と同じような構成になっていると言ってもいいだろう。どんな内容が視聴者の興味を一番に引くのか、どうすれば視聴率が上がるのか、そこがメインなので、お堅いニュースは後回しでもいいのだ。だからニュースもはっきり言って真実味がない。マスメディアとして、民主主義と言うものに基づいて、国民に何を知ってもらわないといけないのか、と言う基本的なスタンスが見られない。
 もちろんその最大の原因は、日本の国会の場にある。最近、日本に派遣されている海外特派員の数がどんどん減らされていると言う。アメリカかどこか忘れたが、外国人特派員が日本の国会の様子を見て、「まるで老人ホームの様子を見ているようだ」と言ったそうだ。そう言われても反論もできないだろう。実際そうなんだから。老害としか言いようのない、年寄り中心の老いぼれ国会議員共が、あーだこーだと審議のふりをしている。見応えも何もない緩いゆるい緊張感のない場でしかないのだ。
 国会の無様な姿をさらにここに書き足しているが、それもこれも行政を司る安倍内閣の狙いがそのまま反映していると言うことになる。つまり政策を実施するにあたって、立法の場が嘘と欺瞞にまみれた老人ホームであって、それが好都合なのだ。強行採決の後は思いにかなった政策をそのまま進める。
 かつて菅官房長官は、「粛々と進める」と言う表現を多用していた。このまさしく上から目線の冷酷な言い方は問題だ、と言うことで批判され、最近はこの言葉を聞く事はほとんどなくなったが、彼らの真意としては正しく粛々なんだろう。沖縄の基地問題にしても、県民投票を実施してもその民意と言うものは全く無視されている。先にも言ったように、今や狡猾な行政権と老害でしかない立法権が癒着してしまって、三権分立ではなくなってしまっているとしか言いようがない。
 つまり沖縄問題に限らず、行政が気にいっているか、気に入らないか、で物事は立法府で行政権の思惑通りにちゃんと決まってくる。つまり日本の民主主義の体系をなす三権分立と言うものは、ただ単なるハリボテに過ぎないわけだ。こうして立法と行政による権力の癒着によって、日本と言う国の方向性が国民の思いとは無関係に決められてしまう。はっきり言って危機的な状況だ。



・司法権(裁判所)
 裁判に関わる人たちと言えば、裁判官、検察官、弁護士たちと言うことになる。裁判そのものには3種類あって、刑事裁判、民事裁判、行政裁判だ。これ以外に裁判所には「違憲立法審査権」と言う権限がある。日本国憲法を頂点とする各法律の内容に基づいて審判を下すことが大きな役割だ。もちろん審判と言う方法だけではなく、和解勧告と言う事もある、と言うわけで裁判所は、「法の番人」とも呼ばれる。この権限によって社会の秩序が保たれると言うのが、理論的な位置づけだ。そしてあくまでも裁判に関わる人々は、日本国憲法が保障する人権に対して、平等であり民主主義の精神に基づいて、各種判断を進める。そこには偏った判断や不公平な扱いは、どんなことがあってもあってはならない。その部分が崩れてしまえば、誰も裁判なんて言うものを信用しなくなるし、その事は国の法秩序を崩壊させてしまうことにもなる。
 では今の日本の司法権と言うのは、そのように機能しているんだろうか。癌爺いの印象としては「否」だ。印象と言う言い方をしたのは、法の専門家でもないし、裁判員裁判に関わったこともないし、自分自身が過去に何らかの形で法廷の場に立ったこともないからだ。つまり書物やメディアの報道等ですら実態はわからないからだ。
 それらの報道でも本当に公平な形でなされているのかどうかさえ、疑問に思っている。少なくとも素人の目からしても、明らかにおかしいと思える事はいくつもある。
 例えば、
☆ 三審制度と言うのは本当に公平な審判がなされた上で、制度が機能しているのだろうか。
☆ 各種裁判でも法の適用について、十分納得できるような整合性があるんだろうか。
☆ 特に「行政裁判」については、そのほとんどが原告は国民であるケースが多いが、裁判結果は一審から三審まで、これもほとんど被告側の国や自治体が勝訴することが圧倒的に多い。何かで読んだのだが、行政側が勝訴した割合は約80%位だと言う。しかもそれは上級審に行けば行くほど、つまり最高裁へ行くほどに原告の国民側は勝てないと言う状況があるが、これは一体どういうわけなのか。
☆ 行政裁判と同様に「民事裁判」においても原告の住民側が、大企業などを相手にした裁判においては、大半は企業側が勝つケースが圧倒的だ。これも上級審に行けば行くほどその傾向が強い。なぜなのか。
☆ 法律と言うのは何があっても「冷徹」なものなのか。つまり社会の変化に応じて国民感覚もさまざまに変化していく。そのような感覚を受け止めるような裁判にはなり得ないのか。
☆ 刑事や民事裁判等においても、たとえ原告の市民たちが勝訴したとしても情状酌量等の名目で、求刑に対して減刑されて判決が下され、原告が悔しい思いをすると言うのはなぜなのか・・・
 まだまだ疑問はあるが、ざっと挙げてもこのような疑問が拭えない。さらにまたは冤罪の可能性について、どこでどのような判断がなされているのか。最高裁による差し戻しが命じられても、そこに至るまで何十年もかかるのはなぜか。場合によっては冤罪の被告人が死亡してしまっているケースもある。誰が責任を取るのか・・・

 つい先日もある1つの判決が下された。東日本大震災における福島原子力発電所のメルトダウンによる、放射能汚染事件について、住民たちが東京電力を訴えたものだ。会社そのものではなく、当時の執行役員を訴えている。争点は、そもそも津波が想定外であったのか、想定内であったのか、という点だった。裁判では一審から最高裁まで全て、被告の東電執行役員は無罪判決となった。
 大勢の人々が津波で犠牲になり、さらに放射能問題で風評被害も受け、なおかつ居住地からは追い出され、極めて辛い思いをしてきた人々だ。住人の人々は裁判のやり直しを求めて、再び訴えたが、結論は変わらず最高裁は被告全員を無罪とした。逆に言えばこれだけの大事故を誘発させながら、誰も責任が問われないと言うような状態。東電は今までこの件について、自主的に何らかの責任をとって来たのか。無罪にされてしまったんでは、住民たちはただ単に大きな被害を受けただけで、後は見捨てられたも同然だ。
 しかも日本の原子力発電はそもそもが「国策」として国が積極的に進めてきたものだ。原子力発電所を建設するにあたっては莫大な費用がかかる。当然それに対して国費で補助金が出ている。つまり我々の税金も投入されているはずだ。国も今回のことで何の責任も取ろうともしない。たとえ訴訟がなくでも「日本の原子力は安全だ」と訴え続け、その言葉尻に乗って各電力会社は、テレビコマーシャルでも「安全な原発」と言うことを有名タレントを使ってさんざん宣伝してきた。
 しかしいざメルトダウンと言う信じがたいような事態にまで至ると、安全神話は一気に崩れ去る。政府は「原発は安くつく」と言うことも繰り返し言ってきた。それが完全な嘘である事は我々のような素人の一般市民でもおかしいと思えるし、いろんな学者が計算して実際には高くつくと言う結論を導き出している。このような嘘と言うものに基づいて進められた政策に対して責任が問われないこと自体が、「司法の敗北」なのではないか。ここでの判決には住民、国民の様々な思いと言うものは全く考慮されない。ただひたすら冷たく「被告は無罪」と言うだけだ。判決理由はその場で述べられるらしいが、よほどのことでない限り報道の中には出てこない。この件はほんの1つの例だ。
 過去を振り返っても行政裁判における、そして民事裁判における裁判官の判決には疑問があるものが非常に多い。
 典型的な例は「水俣公害訴訟」だ。当初は水俣病が窒素株式会社の汚染水の排水によって海が汚され、そこでとれた魚を食べた人々が重篤な障害に悩まされ、死亡する人も相次いだと言う事件から始まる。最初はメディアも「奇病」として扱っていたが、熊本大学を中心とする研究チームが窒素株式会社が排泄する汚染水に高濃度の水銀が混ざっていたことを突き止め、それが原因であると結論づけた。こうした原因が一定はっきりしてきた段階で裁判が起こされることになった。訴えられた国及び企業は、病気とは関係ない、無罪であることを主張し続ける。裁判で要求された様々な資料を提出する際に、なんと関連を否定するような捏造された嘘の資料まで提出して、無罪に持っていこうとしたと言う事実がある。
 このような背景の中で当初は、住民側敗訴していたが、何年も何年もの裁判の戦いで、最後は住民側が勝訴することができた。しかし本来、国も企業側も住民たちと公平平等な民主的な立場に立って審議に臨めていれば、もっと早く結論が出ていたはずだ。裁判に勝訴するまでに何十年もかかると言うこと自体が異常としか言いようがない。
 刑事事件にしても疑問はいっぱいある。例えば相模原の障害者施設大量殺人事件の公判はこれからだと言う。つまり何年もかけて本人の精神鑑定が行われていると言う事だ。なぜこんなに時間がかかるのか。被害者や遺族にとってみれば納得のできない実態がそこにある。長引けば長引くほど、事件は風化していく可能性があるのだ。
 交通事故の裁判でも驚くほど軽い判決に、被害者側がショックを受けるケースは極めて多い。誰が言ったのか「加害者にも人権はある。」確かにそうだろう。では被害者の人権はどうなるのか。特に殺されてしまった人、あるいは重大な障害が生じてしまった人。この人たちはどのように守られるのか納得できない。
 被害者が民事訴訟を起こして出る判決は、損害賠償金と言う金額で表されるが、裁判ではそこまでだ。ある調査によると、加害者側がその損害賠償金をどのように支払っているのかと言う調査では、大体8割程度は1銭も支払っていないと言う。民主主義国家日本のこれが、ある一面の実態だ。
 いつだったかある書物を読んだときに、下級裁判所の裁判官同士の会話が紹介されていたことがあった。そこには「裁判官になったからにはやはり出世もしたい。このまま地裁にいるだけではなく、高等裁判所、そして最後に最高裁の判事に出世したい・・・」と言う会話があったそうだ。そして出世するためには、特に行政裁判、あるいは大企業相手の民事裁判において、国や大企業に有利に計らった裁判官が出世していくと言う事実があるらしい。国に敗訴を言渡した裁判官は生涯、日本各地の地方裁判所を転々と回されることになると言う話だった。なるほど、道理で裁判においては行政や大企業が圧倒的に強いはずだ。なんともはや不公平なことではないか。
 そのような声を聞いたのか聞いてないのか知らないが、何年か前から「裁判員裁判制度」と言うものが取り入れられた。いわば裁判に国民の心情や思いを、つまり市民感覚を取り入れるようとの理由からで、その結果殺人事件の裁判においては、被告に下される量刑は以前よりもやや重くなったと言う統計が示された。当然だろう。1人殺して最高でも懲役15年。殺された者と遺族にとってみれば、どんなことがあっても納得はできない。2人以上殺せば死刑があり得る。人数の問題だけでは無いはずだ。
 こうして殺人事件においては、裁判員が話し合って1つの結論を出すようになった。ところが2〜3年前だったか、裁判員が出した結論に対して、プロの裁判官がそれを覆すと言うことが行われた。暴挙としか言いようがない。つまり裁判官は、根本的には一般市民の裁判員と言うものを信用していないと言うことが、明らかになったケースだった。何のための裁判員制度なのか。こんなことだったらその意味がない。あくまでも裁判員に選出された人に対して、公平で平等な扱いをしてこそ民主主義に基づく裁判と言うものが実現するはずだ。司法自らが民主主義を否定することになったと言うことだ。
 他にも挙げればキリがない。国政選挙の際に行われる最高裁判事の信任投票について、投票の方法が極めて不公平だ。該当の裁判官に×印をつけて初めて信任しないと言う意思表示になる。では信任する場合はどうかと言うと、丸印をつけるのではなく、空白にするだけで良いと言うことになる。最高裁判事がどのようなことをしてきたかっていうのは、ごくわずかに広報で紹介されるだけだ。国民の90%以上は空白にするだろう。方法自体が間違っている。こうして裁判官は制度として完全に守られているわけだ。
 裁判官は本当に人間的にも思想的にも、感性、理性面においても国民の信頼に足りる人物と言えるのかどうか。弁護士なんかでは、右翼から左翼までいろんな奴がいるが、テレビでエンタメ番組などにのこのこ出てきて偉そうに言ってる弁護士のほとんどは保守右派と言っていい。そーゆー思想の持ち主が公平な弁護活動ができるんだろうかと思う。
 同様に裁判官も本当に、中立公平な立場の人と言えるのかどうか。司法権内部においても様々な問題が散見される。違憲立法審査権なんて行使した例はあるのか。新たに作られた法律や改訂された法律には、市民感覚から見ても明らかにおかしなものがあるが、裁判所は黙ったまま何の動きもない。それらひとつひとつが国の最高法規である日本国憲法に即しているのかどうか。本当にそんな判断をしているんだろうか。そういうわけで癌爺いは、日本の司法と言うものを基本的には信用していない。

 立法、行政、司法と言う国家権力の実態をあまり知識のない、自分なりの目で少し見てきたが、その限りにおいては、立法と行政の馴れ合い一体化。さらに加えて官僚機構もそこに完全に組み込まれて、いわば安倍独裁体制がほぼ確立しつつある。司法も間接的に行政への配慮と言うものが明確に見え隠れする。こんなことでどこに「三権分立」と言うものがあると言うのか。
 事実上、三権分立が骨抜きになると言う事は、その反対の定義である「独裁体制」が成立するということだ。右派の連中は大喜びだろう。
 しかし前回の国政選挙において、意外な政党が票を伸ばした。「令和の党」「NHKから国民を守る会」だ。日本国民全体が総保守化する中で、何となくおかしいな、嫌だな、と思っている人々の気持ちの中にタイミングよく入り込んだんだろう。そういった意味ではヨーロッパで広がっていたポピュリズムの政党が、一定の支持を得たと言うことだ。入り口はともかく、人々の不満が一定数あることが明らかになったのは事実だ。そういった意味では既存の野党勢力の情けなさが露わとなり、これからどのように手を組んで、民主主義を守る方向で協力できるのかが、大きな課題となる。

 しかしそのためには大きな前提が必要になる。それは基本的には、国民一人一人の政治に対する無関心を払拭すること、そして憲法が保障しているように国民の誰もが平等に扱われるようにするには何が必要であるのか、をしっかり認識することではないかと思う。
 もう10年以上前になるが、日本人の女性ボランティア達が、中東の戦場で窮地に陥っている貧しい子供たちを助ける活動をしていて、敵側の兵士に捉えられると言う事件が起こった。その時に政府自民党・公明党の奴らは、「彼女たちを助けるのにどれだけお金がかかっているのかわかってるのか。わざわざ外国でそんなボランティアするぐらいだったら日本国内でやれ。捕まったのは彼女たちが勝手な真似をして、これは自己責任だ」と言う趣旨の主張をした。テレビのニュースでそう述べている場面を明確に覚えている。
 この「自己責任」と言う言い方に当時の世論は圧倒的に多くの国民が同調してしまった。そしてようやく解放された彼女たちが日本に戻ってきたときに、空港で罵声を浴びせられ、住居にまで押し寄せて避難を続けられた。
 その一方、当時アメリカのメディアは「日本人の中に命をかけて、このようなボランティアをする人がいると言うのは、国としても誇るべきことだ」と報道した。何と言うこの違い。民主主義が全く定着していない日本においては、国の偉いさんが一言発すると馬鹿みたいに国民が同調して大騒ぎする。今でもその状況は全く変わっていない。
 そして何よりもこの「自己責任論」と言うのは、政府にとって極めて都合の良い表現なのだ。これを言い続けることによって、国民の中には何をするにも「自己責任」で対処しなければならないと言う考え方が定着してしまい、逆に「政府の責任」と言う考え方が封印されてしまう。税金ばっかりとられて、怪我しようが貧しかろうが落ちぶれようが、何もかもが「自己責任」で片付けられてしまう。つまり国民同士がお互いを非難しあって、お上つまり政府の方には目が向かなくなっていく。自民公明の政府の練中にとってみれば、ほんと万々歳といったところだ。
 
 我々国民は決して、狡猾な手口に騙されてはならない。形だけ民主主義を標榜し、中身はスカスカで何もない。それどころか民主主義と言うものを逆手にとって国民の目が他の国民へ向くようにし、相互に避難しあって、自らが民主主義と言うものをつぶしていく。
 住んでる地域のいろんな様子や書店に並ぶ雑誌などを見ていても、嫌と言うほど民主主義つぶしがますます勢いを得ていくのを感じる。癌爺いは本当に危機感でいっぱいなのだ。そんな思いでこの連載を長々と書いてきた。まだまだ言いたい事はあるが、正直こういった文章を書くこと自体が非常に疲れる。第1回目や2回目など何を書いていたのか思い出せないような有様だ。とりあえず理解し難い駄文ではあったが、もしこれを読んでくれた人がいたならば、本当に感謝したいと思う。中には事実誤認のこともあるかもしれない。もしあれば謝罪はしておきたいと思う。
 この民主主義の問題については一旦これで終わりとします。

 (一旦、終わり)
 (画像等は他のHPより)


コメント
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