切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 桜の花 豊国神社・・・国宝    京都市東山区    2024.4.9 訪問

2024-04-14 22:42:13 | 撮影
   

『豊国神社
 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の減亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ケ峯の頂上に再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の全地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。
    京 都 市』 (駒札より)

   

 東山区の三十三間堂向かい側に京都国立博物館がある。その隣が豊国神社。神社そのものは明治時代の再建となるが、その元になるものは豊臣秀吉に関連している。従ってこの豊国神社そのものが豊臣秀吉を祀るものとして位置付けられている。この地はもともと隣にあった「京都大仏」として知られた方広寺の境内地であったという。そこに豊国神社が整備され、石段の上に大きな鳥居。そしてまっすぐ東の方に大きな門が据えられた。

 この門がいわゆる「唐門」であり、豊臣秀吉が築いたという伏見城の解体後の遺構だという。伏見城については短期間で解体されたので、詳しい資料があまり残っていない。しかし 解体されたいろいろな部分が各お寺などに再使用をされている。豊国神社の唐門もその一つとなる。これは国宝に指定されている。

   

 他にも比較的この近くにあるお寺などにも再利用されている。中でも養源院の血天井は 真偽のほどはともかく、非常に有名だ。また御香宮神社にも伏見城の別の門が、山門として使用されており、これは国の重要文化財となっている。また山門を入ったところに伏見城の石垣に使われていたような巨大な石などが置かれている。こういったものを全部合わせて考えると、少しずつ伏見城の様子が判明していくのではないかと考えられているが 、発掘調査によって今現在では伏見城のあった場所がほぼ確定している。しかし発掘には限界があり、付近が少し高台になっていて住宅地であるために、今後の調査研究は比較的難しいものになるだろうと言われている。

    

 この日はあいにくの薄曇りの天気であり、青空は皆無に等しい。しかし鳥居のすぐ横に大きな桜の木が多くの花を咲かせていた。白い桜で背景の白い空と同じようで、その中に埋まってしまったような感覚だ。しかし参道を少し進むと豊臣秀吉の像があり、唐門の近くにも桜の木々が数は少ないものの、花を咲かせていた。背景に唐門や鎮守社あるいは隣の方広寺などを入れると白い桜もそこそこ 目立つようになる。そういった点ではたとえ薄曇りであっても撮影する価値は十分にあると思えた。

 この辺りは国立博物館や三十三間堂、智積院など有名な寺社があり、観光客の多いところだが、大半の観光客は三十三間堂に吸い込まれていく。豊国神社まで近いのにやって来る人は少ない。来る人を見ていると、おそらく近所の信仰深い人たちが訪れて参拝しているようだ。唐門の内側には入ることはできない。従って本殿に近づいて参拝 というわけにはいかない。何らかの公開で入れる時が来るかもしれないので、その時には訪れようと思っている。

    
コメント
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