切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 桜の花 宇治神社・・・莵道  京都府宇治市  2024.4.11 訪問

2024-04-18 23:23:22 | 撮影
 

『宇治神社
宇治神社は、日本書紀に「応神天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位を巡る葛藤から宇治で自殺した」と記されている、悲運の皇太子菟道稚郎子の等身大の坐像を祀っており、付近は菟道稚郎子が造営した桐原日桁宮跡と伝えられています。また、明治維新までは、宇治上神社と二社一体で、それぞれ、 離宮上社、離宮下社と名付けられていました。
現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代につくられたもので、狛犬は開口する獅子(阿形)と一角を持つ狛犬(吽形)で一対とされ、格調高い作品として極 めて貴重なものです。
当社の祭礼である離宮祭は、田楽等の芸能が催され、平安後期から鎌倉時代には多くの人々が集まり大いに賑わいました。』
   (掲示板より)

  

『延喜式内社 宇治神社

【 御祭神】
 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) (第十五代応神天皇の皇子)
【 御由緒】
 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは第十五代応神天皇の離宮跡《桐原日桁宫》でもあり、皇子の莵道稚郎子命の宮居跡と伝えられており、 命の 御後に、御神霊をこの地にお祀りしたのが、当神社の始まりである。
 応神天皇は命を皇嗣と定めておられ、兄宮である大顦鷯尊《後の仁徳天皇》を太子の輔導にあてられた。これは、我が国の古代の慣例であり、なるべく若い者に嗣がせた方が一代の活躍期間が長く、国の繁栄が期待できるとされていたのである。ところが命は、阿直岐や王仁などを師に迎え典籍に通じておられ皇位継承については長男相続説を守っておられたため応神天皇崩御後に、兄宮に皇位に就かれるよう勧められたのである。しかし、大顦鷯尊は日本的な思想の方で、これを固辞されたことにより、お二人の皇位の誤り合いが三年程続いた。命は宮居をこの莵道《宇治》に移され、皇位を早く定めて天下の煩いを除くために自害せられ、兄宫に譲られたのである。
【御神徳】
 宇治の産土神としての信仰は勿論のこと、幼い頃より聡明で学問の道を究められ、我が国文教の始祖として、学業成就や受験・就職・資格などの試験合格祈願の他、古くから伝わる「みかえりうさぎ」との御縁から、安産成就や方位除の神として古来より信仰が篤い。
【神使の兎】 
 命がこの地に住まいを定められて、 河内の国より向かわれる途中、難渋している時に、一羽のうさぎが現れ、後からついて来られる命を、振り返り振り返り先導したという古伝により「みかえりうさぎ」といわれ、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭しているもので、神様のお使いとされています。 
【文化財】
 本殿は三間社流造、桧皮葺の社殿で、殿内中央に莵道推郎子命の木道の御神像を奉安する。ともに健倉時代初期のもので国の重要文化財に指定されている。』
  (境内説明書きより)

  

 宇治神社は宇治橋から宇治川北岸を上流にしばらく行ったところにある。宇治川の中洲 である塔ノ島への橋があり、その向かい側となる。大きな鳥居が非常に目立つので、ここに結構人が集まる。道は桜並木になっておりシーズン中には多くの観光客が、外国人観光客も含めてゆったりと散策している。また正月の初詣には、階段の上にある本殿から長い行列がこの道にも溢れて大いに賑わっている。ちなみに私は宇治神社の方ではなく、そのすぐ北側にある宇治上神社の方へ初詣に行っている。

  

 創建の具体的な経緯は分かっていないが、平安時代の「延喜式神名帳」に記載されており、そこには「宇治神社二座」とあって二つの神社があることを示しており、この宇治神社と宇治上神社に比定されている。そういった意味では式内社であり、平安時代初期、あるいはそれ以前に創建されているということになる。祭神は「菟道稚郎子命」であり、応神天皇の皇子となる。応神天皇は4~5世紀の天皇であり、ちょうど古墳時代の天皇だ。この祭神の人物については、「古事記」及び「日本書紀」にも記載されているが、使用されている漢字は別となる。またその実在性については微妙なところだ。ちなみに「莵道」と書いて「うじ」と読む。これが後にこの地域の地名となって、漢字は違うものの今も「宇治」として受け継がれている。なお 漢字の「莵道」の名は、宇治市内の地名あるいは、小学校や高校の名前に使用されているが、読み方は「とどう」となる。

 石段を上るとすぐに拝殿があり、これは京都府の指定文化財。そしてその奥に本殿が控える。この本殿は国の重要文化財に指定されている。他にも数社 の末社があり、いくつかは宇治市の指定文化財だ。やはり歴史があるだけに境内も含め、全体的に格式というものを感じさせる。散策道からすぐなので入れ替わり立ち替わり、参拝者が訪れて本殿だけではなく 末社にも参拝して行く。

  

 桜の木は数は少ないが、まだなんとか花を咲かせていた。1本1本の木も小さめで、従ってある程度花が咲いていてもさほど目立った感じはない。もう少し桜の木が欲しいところだ。例のごとく本殿などの建物を背景に桜の花を撮っていく。そこそこ人が来るので待ち時間も結構費やした。

 宇治市といえばどうしても平等院ということになりがちであり、大型観光バスも神社側には駐車場がなく、平等院の方の大型駐車場にずらりと並んでいる。修学旅行などは到着すると急いで列を作って、平等院を一通り回ってまたバスに乗って出て行く、といった忙しさだ。しかし 学校によってはかなり時間を費やして、自由行動をさせていて、宇治川北岸のこちら側にもちらほらと中学生や高校生が見られる。平等院は教科書に掲載され勉強するが、宇治神社はそのかけらもない。由緒があるだけに取り上げられても良さそうな感じはする。もちろん私も中学校社会科で宇治神社を取り扱ったことはない。ただし宇治市の名前の由来として、「莵道」についての説明だけはしていた。

 

 また宇治神社には「見返りうさぎ」の伝説があり、昔々菟道稚郎子命が河内の国から莵道へ向かう時に道に迷い、その時に一羽のうさぎが現れて道案内をしたという。こうして無事に莵道に到着されたので、うさぎを神の使いとして崇める 話ができたようだ。なおこのうさぎの話と菟道稚郎子命の「莵道」つまり「菟」にどんな関係があるのかはわからない。


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