切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

紅葉2019 高神社 京都府井手町・・・まだあるヨ

2019-12-31 22:54:11 | 撮影

 

 高神社。

 以前に一度平常時に来ている。緑が綺麗だった。本殿は京都府の登録文化財。

 さて今回、行き当たりばったりの感じで行ってみたが、何と大当たりやった。もちろん最盛期よりはかなり散ってはいたものの、これだけ豊かな紅葉があれば十分と言える。シーズンもほぼ終わっており、境内には誰もいなかった。撮影中に一人のおばさんが参拝に来ていたが、それだけ。本殿が綺麗に塗り直されていて実に見事。前回、掲載した由緒に加えて本殿の紹介も京都府の文化財課の資料を載せておいた。

 くれぐれも有名なところばかりに目をやるのではなく、マイナーだと思われるようなところにも素晴らしい名所が何箇所もあるのが本当にいいと思える。 

高神社の由来

 

『元郷社 式内社高神社

当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見守るように建てられています。

創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。

聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました。

元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦885年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。この間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正一位勳一等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。』

 (全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 より)



高神社由緒

 

 『当神社は、人皇第二十九代欽明天皇の元年(西暦五四〇年)に御降臨よりて、社宮を建てて奉祀し、後一七一年を経て元明天皇の和銅四年(西暦七一 一年)多賀明神之社として奉祭したのに始まる。

 次いで聖武天皇の天平三年(西暦七三一年)九月夷牛に現在地に遷座され、当時の御祭神である高御産日神伊邪那美命、須佐鳴命を祀った。

「輿福寺官務牒琉」によれば、その御祭神である高御産日神の「高」をとって「高神社」を号する事になった。

 現在の社殿は、慶長四年(西暦一六〇四年)に建てられたもので、京都府の文化財として指定を受けている。また鎮守の森は、平成二年七月に設置された「京都府緑と文化の基金」推進事業の一環である「京都府の自然200選」の「歴史環境部門」に指定されている。(文化財環境保全地区)』


『高神社本殿

 高神社 三間社流造、檜皮喜 附 棟札八枚額 二師 慶長九年(一六〇四)高神社は多賀集落東南方の天王山中腹にあり、中世においては大梵 大王社と呼ばれ、多賀郷民の尊崇をあつめた。本社には造営関係の文書が多数残されており、神社造営の歴史だけでなく、神事を中心とする中世村落の諸相がわかる点でも貴重である。

 現本殿は棟札により慶長九年(一六〇四)河内郡高田村の住人宗左 衛門尉が棟梁となって請負い新造したものであることがわかる。三間社流造、檜皮葺で西面する。組物は柱上に連三斗を組み、組物間に中備として極彩色を施した蟇股を置いている。向拝は面取角柱上に連三 斗を組み、中備として極彩色の蟇股を配し、身体とは海老虹梁で繋ぐ。 妻は二重虹梁大瓶束とし、軒は身舎,向拝とも二軒繁垂木としている。 正面は三間とも格子戸引違とするが、中央間は今は建具はない。

 本殿は木割りがやや細い点や木鼻等の細部様式に中央の同時期の建 物とは少し異質なところもあるが、全体としては、桃山時代の雰囲気 をよく伝えていて、建築年代の明らかな神社本殿として重要である。』

 (京都府教育庁指導部文化財保護課 「京都の文化財 第1集」より)

 

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紅葉2019 神明神社(神明皇大神宮)・宇治市~鞍岡神社・精華町~酒屋神社・京田辺市・・・ある所にはある

2019-12-30 22:58:15 | 撮影

 紅葉がまだ結構残っているのを知って味をしめてしまった私は、色褪せていてもいいし散りかけていてもいいし、比較的近辺の神社やお寺を回ってみた。もちろん紅葉が確実にあるところを調べた上で回る。

 12月中旬のこの日は3ヶ所を回った。何れも既にこのブログで紹介済みの神社ばかりだ。詳しいところはそちらの方を見ていただければと思う。ここには由緒書きだけを載せておく。

 神明神社は我が家のある地区の隣の隣の地域だ。徒歩でも十分に行けるところ。

 宇治市は大体が全体的にまっ平らな平地が少なく、あちこち凸凹している。 NHK の「ぶらタモリ」で放送していたが、宇治市全体が太古の昔、扇状地であったことからこのような凸凹の状態になったと紹介されていた。今でもその名残があちこちにあって、地下に川が流れているところもあるという。

 神明神社も例に漏れず広い敷地も結構坂がある。期待していた紅葉はほとんどなく、ごくわずかに銀杏らしきものが黄色く輝いていた。元からしてもみじはないのかもしれない。でも一応我が家の近くでもあり、再掲させていただく。

 次に精華町にある鞍岡神社

 精華町と言っても京田辺市との境に近いところ。低い子山のふもとから石段をずっとを上っていくことになる。幸いなことに車が行ける細道があって広い駐車場がある。ふもとの鳥居のところにはあまり目立たなかったが、参道の石段を登ると、なんとなんと見事な赤と黄色に満ちた紅葉の輝きが眼前に現れる。そして境内へ到着。

 本殿の方には紅葉は少なかったが、上の鳥居前辺りはまだまだ十分。これは思ってもみなかったほどの光景だ。まだこれだけ綺麗に残っている。最盛期ならば紅葉の名所とも言うべき資格があるかと思う。

 2年ほど前に平常時に訪れたことがあるが、まさか紅葉期にはこれほどのものとは思いもしなかった。上の鳥居の前をを少し離れて行くと、そこにも巨木のイチョウやモミジが所狭しと綺麗な色を見せてくれる。来年は是非紅葉真っ最中に行くべきだ。と言っても多分忘れてしまっているだろうが。最盛期を過ぎたということもあって、境内には誰もいなかった。一人でしっかりと写真を撮り十分な満足感を得ることができた。

 3箇所目は鞍岡神社から北へ、そして西へ少し走って酒屋神社

 ここは確か昨年だったか、紅葉期に来ている。あえて撮影しなくてもよかったのだが、すぐ近くだったので、紅葉の終盤にどんな状態なのか見てみようという思いで寄ってみた。

 やはりここはもうかなり散り果てて、見るべきところはごくわずかだった。まぁこれが普通なんだろう。考えてみれば鞍岡神社の方がおかしいのであって、この時期だと酒屋神社のようにほとんどが散っているのが普通。でもごくわずかだが葉がたくさん付いてる木もあったので集中的に撮影してきた。

  紅葉を撮影するというのは、その赤色と相まって何か気持ちが高ぶるような気がする。さらにそれがイチョウの黄色と背景の緑葉を合わせて撮ると、実に見事な光景となり、さらに加えて神社の本殿や石灯籠、あるいはお寺の様々な建築物を入れながら撮影すると、ど素人ながらも、ちょっとした写真家気分を味わうことができる。大きな観光寺院や観光神社とは違って、人が少ないのが何と言っても撮影する上では好都合だ。そういった意味では比較的マイナーなところを回るというのも実にいいものだと思えた。 



神明神社(神明皇大神宮)

『由緒書

御祭神

内宮(天照皇大御神・豊秋津姫命・手カ雄命)

外宮(豊受大神・瓊々杵命・天太玉命)

末社(猿田彦命・天児屋根命・稲荷社・

  天満宮・雨宮風宮・蛭子社・住吉社・結社)

厳島神社(市杵嶋比売命)

羽拍子社(級長津彦命・級長津姫命)

 当社は古文書や社伝によると、白鳳二年春三月天武天皇の詔により栗子山に神殿を造営、市杵嶋比売命を祭神として神明神社と称えられたのが起源とされる。

 桓武天皇延暦十三年(七九四年)都を平安京に遷され、当地が都の巽に当るので伊勢皇大神宮の神を勧請しこの地を宇治と号ししばしば行幸された。その後延喜四年(九〇四年)醍醐天皇の詔により新たに社殿を造営、伊勢内・外皇大神宮及び雨宮・風宮・稲倉魂命の御分霊を祭り歴代天皇が行幸された。南北朝の争い等により社殿は大破する等したので、康和元年四月(一〇九九年)に洛南の景勝地であった現在地の神明山に移された。その後、いたびもの変遷を経て、現社殿は文政二年(一八一九年)に建設されたと記録が残っている。

 室町時代前後のこの神社に関わる内容の狂言二つがあり、現在も大蔵流茂山家により上演されている。また、山崎の合戦に敗れた明智光秀が山階に逃れる途中隠れたと言い伝えのある古井戸を藻隠池と称して現存している。

 このような経緯を経た当神社は、平成二十八年五月に神社創建一三五〇年記念祭が斉行される。』  (掲示板の説明書きより)

 

鞍岡神社

『鞍岡神社

御祭神 菅原道真公

創 立

 社伝によると寛弘五年(一〇〇八年)八月二十五日に京都北野社から勧請したと伝えられている。

本殿

 明和五年(一七六五年)に焼失したため安永二年(一七七三年)八月八日に再建されたもので、木造桧皮葺春日造り様式である。』  (掲示板の説明書きより)


 

酒屋神社

『酒屋神社

 京田辺市興戸宮前一〇〇番地

 

 創建年代は明らかでないが式内社で、「日本三代実録」の貞観元年(八五九)正月に従五位下に叙せられた諸神に「酒殿神」とみえる。

 現在の本殿は明治9年(一八七六)の再建で、一間社流造、正面に千鳥破風、向拝の全面に軒唐破風を加えている。

 祭神は津速魂神と応神天皇である。

 社伝によれば、神功皇后が通ったとき三個の酒壺を神社背後の山上に安置し、諸神を祭り再度通ったとき社殿を創立したとある。

 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連の一族が来住して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいう。

 江津区にある佐牙神社とともに酒造りに縁のある神社である。

 例祭十一月三日

 末社 埴山毘売を祭る壺神社ほか

  京田辺市教育委員会

  京田辺市文化財保護委員会 (説明書きより)

 

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紅葉2019 一言寺 京都市伏見区・・・まだまだ行ける

2019-12-30 22:11:02 | 撮影


 紅葉が終わりと言いながら、実際に行ってみるとまだ残っているところも結構を多かったので、希望を託しながらこの日は一言寺へ行く。
 醍醐寺の南側約1㎞余りのところにある。十分に徒歩圏内。今年は醍醐寺についてはパスしているが、一言寺は紅葉を撮ったことがないと思い込んでいたので、訪れてみた。山腹の坂を登って駐車場に入れる。
 門前の紅葉が意外や意外、結構残っている。門をくぐって境内を見渡すと、確かにかなり多くは散ってしまっていたが、池のある庭園の方は若干色褪せが見られるものの、かなり紅葉が"まだまだ残ってるぞ″と言わんばかりにアピールしているようだった。
 このお寺も台風の影響でかなり多くの樹木が倒れおり、裏庭の方には業者が入って倒れた木材のを処分を進めていた。本堂などの建物は大丈夫だったようだ。もみじの木や銀杏の木は背丈が全体的に低かったせいもあってか、あまり被害は見られなかった。こうして残り少ないわずかな紅葉をしっかりと撮影して満足して帰宅。
  撮影した紅葉の写真が溜まっているので、今頃になってようやくブログにアップしているが、実は自分のブログの一言寺を調べたところ、何と去年、紅葉真っ盛りのこのお寺をブログにアップしていた。まぁいいか。去年は去年の紅葉。今年は今年の紅葉、ということで同じような風景ながらも、カメラの機種も違うしレンズも違う。天候も違うというふうに自分で自分を納得させてアップすることにした。
 とにかくあちこち紅葉シーズンだけではなく、普段の時にも各地のおお寺や神社にひっきりなしに行っているので、分からなくなってしまっているということで、もう終盤を迎えた一言寺の紅葉を見ていただければと思います。 



『一言寺
 高台にある一言寺は、四季折々の花に彩られた静かな寺である。
 この緑に覆れた寺は、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子に仕え、「大原女」のモデルとも言われる阿波内侍(後白河天皇の側近である藤原信西の娘)によって創建された。
 本尊の千手観音は、「ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という御詠歌で歌われるように、一心に祈れば、一言だけなら願い事が叶う、ということで、多くの信仰を集めている。
 現在の本堂は、江戸時代の再建で、「一言観音」と呼ばれる千手観音菩薩像や不動明王像等の他、元禄七年( 一六九四)に造られた阿波内侍像が安置されている。
 山門の近くにある大きなヤマモモの木は、樹齢四〇〇年以上と言われ、京都市の天然記念物に指定されている。幹の内部が大きく空洞になっているが、今でも樹勢は衰えることなく、毎年六月頃には多くの赤い実を付ける。
 京都市』 (駒札より)

『一言寺
 真言宗醍醐派のお寺で金剛王院、通称一言寺と言います。一八七四年(明治七年)金剛王院の祖聖賢を開山とする醍醐三流の一つ金剛王院と合併しました。ご本尊の千手観音さんに一心に祈れば言下に願いがかなうことから、一言寺の名がおこったと伝えられています。
「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言といわぬ、一言寺かな」の御詠歌の額が本堂の軒下にあります。
 寺伝によれば、 高倉天皇の中宮「建礼門院」に仕えた少納言藤原通憲(信西)の娘「阿波内侍」が出家して「真阿」(しんな)と名乗リ、清水寺の観音さんの霊告によって、一言寺を建立したと伝えます。
 仁平年中珍海はここに住み、密教の仏画を多く残し、阿波内侍座像は、元禄七年画像を基に造られたと記録に残されています。
 本堂は、一八一〇年(文化七年)の再建で、江戸時代を代表する建築の一つです。内陣の中にさらに土蔵造りの奥内陣がある珍しいものです。一言観音と呼ばれる秘仏千手観世音菩薩像は、この中に安置されています。』
  (説明書きより)


















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紅葉2019 城陽市・水度神社~宇治市・皇大神宮社・・・意外にもまだまだ鑑賞できる

2019-12-29 22:40:06 | 撮影


 12月もそろそろ中旬。まだ紅葉が残っているところがあるかもしれない、ということで比較的近所の2ヶ所を回る。
 城陽市の水度神社
 すでにこのブログでも以前に紹介している。ここでは駒札等の説明書きを載せておく。
 本殿は国の重要文化財。 今年の春頃に行った時には本殿の改修中で撮影は諦めた。10月に改修工事が終わったとネット記事にあったので、行ってみることにした。入り口の鳥居の近くに駐車場があり、その時点でやや色あせてはいるものの、大量の紅葉が見られる。同じもみじの木でも、色々と種類があるんだろうか。とっくに落葉している紅葉もあれば、このようにまだ色を残してしっかりくっついているものもある。
 長い参道をゆっくり上がりながら撮影していく。水度神社は相当な歴史と由緒のある神社で、敷地も非常に広い。市民にとっても憩いの場となる落ち着いた場所だ。近くに府立城陽高校があるが、ここで高校生を見たことがない。皆さん鳥居の前を歩いて通学はしているが、年齢的には神社に興味ある人っていうのはいないんだろう。通常の時にも三々五々参拝者が比較的多いが、この日も何人もの人が来ていた。
 境内に到着。ひょっとしてプロカメラマンかと思われるような2人組がいて、三脚にキャノン一眼レフ。巨大な白レンズ。多分あのレンズだけで優に50~60万はするだろう。こちらはあくまでも素人。
 すっかり改修されて綺麗になった本殿を参拝した後、あちこちの角度から撮影していく。さすがに重要文化財だけあって見事の一言。何時もうっとりと見惚れてしまう。 境内の周囲にも残り少なかったが、紅葉が見られ拝殿や本殿をバックに紅葉を撮っていく。極めて満足感の高い撮影となった。

 続いて家に戻る途中の宇治市大久保に、皇大神宮社がありそこに寄る。
 京都近鉄大久保駅の東側にあたり、JR奈良線の新田駅の西側となる。幹線道路が交錯しており車や人の往来が多く、渋滞の名所でもある。駐車は少し離れたコインパークに入れる。
 もちろんずっと以前からここに神社があるのは知っていたが、鳥居だけが見えていて本殿らしきものは外からはなかなか見えていなかった。極めて小さな無名に近い神社かと思っていた。やはり地元の宇治ということで、ブログでも紹介しておくべきだとの思いで撮影することにした。おまけに神社の横に沿って紅葉がまだそこそこ残っている。鳥居の前に来ると由緒書きが掲示されていた。下に載せておく。
  名前の皇大神宮は元々伊勢神宮の内社であり、江戸時代初期にこの地域が広野新田村として開発された時に、近くのお寺及び地域の鎮守社として創建されたものだ。境内には伊勢神宮への遥拝所がある。
 鳥居前の細い通りは秀吉によって通された大和街道であり、その西側にはずっと以前からある奈良街道が平行する。このあたり一帯では今の伏見区淀にある淀城に、京都や大阪の防衛及び諸大名の反乱等を防ぐために永井尚政が藩主として着任した。彼の指示により淀から南側のこの辺り一帯も大きく開かれ、広野新田と呼ばれた。
 そういった意味では神社としての歴史は比較的新しいが、歴史上の重要人物が関わっており大事な役目を果たした神社でもあったわけだ。
 紅葉の方は境内そのものには特に見られず、脇道のところに小さいながらも赤い色のもみじの葉が連なっていた。幹線道路を走っている時など、車窓からよく見える。小さな神社ではあるものの、意外な程の歴史を持っていて感心した。

水度神社



『水度神社
 ご祭神
 天照皇大神
 高皇産霊神
 和多都美豊玉姫命

神社の由来記
創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれは清和天皇の貞観元年正月(八五九)従五位下の神位を授かり、延喜の制には小社に列せられる。明治六年村社仝一五年郷社に、仝四十年府杜に昇格。現在は社格廃止され、神社本庁に属す宗教法人水度神社と称す。
旧社地は境内領東にある住古、鴻が巣を結んだという鴻の巣山の、その峰つづきにあたる太神宮山であったと伝う。現在の地へは鎌倉時代の支永五年(一二六八)旧地より遷し奉り今日に及ぶ。由来、寺由郷の産土神として氏子の信奉篤く、近年近隣よりの参詣者もその数を増す。
本殿は正面一間、側面二間の変化に富んだ流造破風様式(千鳥正面破風)で簡素にして優美な建築である。
社伝棟札によれば室町時代の文安五年 ( 一四四八)の建立になる。その後、桧皮葺替えの修理を重ねて今日に至る。現在は重要文化財に指定されている。
神社の大祭
九月三十日 例祭 十月二日 大祭
小宮十社
天満宮社 日吉神社
太神宮社 加茂神社
八幡神社 嚴島神社
松尾神社 稲荷神社
春日神社 竜王神社 』


『水度神社本殿(重要文化財)
 水度神社

 鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、旧寺田村の産土神で、祭神は天照皇大御神・高御産霊神・少童豊玉姫命です。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祇社」とあることから、風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられます。平安時代前期に成立した『延喜式』には、「水度神社三座」と記されています。
 重要文化財の本殿は一間社流造で、文安五年(一四四八年)に造営された市内に現存する最古の建物です。屋根は檜皮葺で、正面に大きな千鳥破風があります。また庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。
 水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」と、城陽市指定文化財の「鉄湯釜」、「大般若経」があります。「おかげ踊り図絵馬」は、文政十三年( 一八三〇年)十一月一日に寺田村北東町の人々が水度神社に奉納したおかげ踊りの様子を描いたものです。
「鉄湯釜」は、湯立て神事に使われていたと考えられ、銘文から応永三十二年(一四二五年)
に作られたことがわかります。
「大般若経」は、鎌倉時代前期に本 さかのぼる書写経で、村落における信仰の歴史を知る貴重な資料です。
城陽市教育委員会 』





























皇大神宮社



『皇大神宮社の歴史
 淀藩第二代藩主、永井信濃守尚政公が、慶安二年(一六四九年)広野新田村を創設した時に、円蔵院の鎮守として、天照大神を奉祀した。
その後広野神社と称されたが、いつの頃からか今の社名になっている。
明治維新の神仏分離令により、円蔵院から離され村方三役が、この神社を引請けることとなり、民衆の信仰の対象となる。
 昭和三十六年(一九六一年)第二室戸台風により、本殿他社殿が倒壊したが氏子中の熱意により昭和三十八年十二月現社殿が滞りなく復興竣工した。

祭 神、天 照 大 神

末社、(豊受神宮、住吉社、春日社、天満宮、稲荷大神、瀧長明神)
主な祭事、元旦祭(一月一日)    節分祭(二月三日)
     春季祭(三月中旬日曜日) 秋季祭(十月九日)
     除夜祭(十二月三十一日) 』
  (説明書きより)






















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紅葉2019 常念寺~西念寺 京都府木津川市・・・紅葉はほぼ終わりだ

2019-12-28 22:39:48 | 撮影


 木津川市の2ヶ所のお寺へ撮影に行く。
すでに紅葉という意味ではほぼ終わっていたが、南部の方がやや遅いので、ごくわずかながら期待を込めて行った。しかしその期待はかなり残念なものとなってしまった。

 旧加茂町の JR 加茂駅近くにある常念寺
 到着してみると小山の裾に、鉄筋コンクリートの建物や駐車場もきれいに整備されており、まるでつい最近建築されたような雰囲気だ。駐車場に置いて石段を登り境内に入る。かなり広大な敷地を持っており、すぐにこれも真新しく見える。大きな本堂。あと社務所などが建ち並ぶ。そして山側の方には巨大な 石造観音像がそびえ立っている。高台になるので旧加茂町のどこからでも見えるような感じだ。その大きさに圧倒される。
 境内を回って紅葉などがあったことはわかったが、ほぼ全部落葉。ごくごく一部いちょうか何かが残っていた程度だった。そういうわけでお寺全体にも歴史的な古さを感じさせるものがあまり見当たらず、部分的に石造物があるくらいで正直なところちょっと興ざめだ。
 しかし、帰宅してから色々調べてみると、どうしてどうしてその外観とは裏腹に、なかなかの歴史的な由緒を持ち、様々な文化財も有している。そのギャップの大きさに思わず 「へぇー」と 声を上げてしまった。
 創建は室町時代の中頃。コロンブスがアメリカ大陸へ向かっていた時だ。(関係ないけど。)このお寺には周囲にあったいくつかのお寺から様々な仏像などが寄せられ、本尊は阿弥陀如来立像(室町)、他にも多くの仏像などがあるが、その大半が京都府の登録文化財となっている。また鎌倉時代の釈迦涅槃図が国の重要文化財に指定されている。頑丈な鉄筋コンクリートの宝物館にでも収められているんだろう。公開日があるのならば是非見てみたいと思う。
 広大なお寺には誰一人おらず、加茂駅の方から電車の走行音が聞こえていた。

 続いて鹿背山地区にある西念寺へ向かう
 この鹿背山は古くから開けた丘陵地、山地であり、小山の上の方にかつて山城があった。今では城址として残されている。
 西念寺そのものは丘陵地帯の細い道をくねくね曲がって到着。一般車は山門前の駐車場には入れないので、下の空き地に置いて上がっていく。山門前にはほぼ朽ちた紅葉が今にも落ちそうな状況で、色もすっかり落ちてしまっていた。来るのが一週間早ければ、境内も含めて万感の真っ赤な紅葉に包まれた光景を堪能できたのだが、やはり遅すぎた。境内のもみじもわずかに残っている部分はあったものの、大半は散り果てて、何か枯れたものの侘しさというものを感じさせる。ある意味独特の無常観というものが感じられ、これはこれで気持ちの中にしみるものがあるかと思われた。
 沿革については下にパンフレットのものを掲載しておく。
 その中にある古代南都仏教というのは、古墳時代に伝来した日本仏教の原形期のようなもので、元興寺を中心にまさにそこから各地へ影響力を伸ばしていくことになる。ここ木津川市はそのすぐ近くであり、この地域にはその影響があちこちに残されている。ただ単に古いお寺が多いというだけではなく、後年になって各地で彫られた石造物や磨崖仏など、非常に多いのは仏教信仰の厚さを物語っているものと思われる。もちろんその前提として、古墳時代以前の弥生時代、またそれ以前の縄文時代にまで遡る、この地域で生活していた我々の先祖たちの生活というものがあり、様々な生活基盤を切り開いてきた証でもあると言えるようだ 。

常念寺



『多聞山 随願院
常念寺 天台真盛宗


 室町時代の半ば、伊勢国一志郡小倭荘(現在の三重県一志郡一志町大仰)に生まれた真盛上人 (一四四三~一四九五)は、十九歲で比叡山延曆寺に登り、勉学修行に励みました。その後、文明十八年 (一四八六)に西教寺(大津市坂本)へ入って不断念佛を始め、応仁の乱て荒廃した各地を廻って人々を教化しました。人は正直であることが大切で、心の安らぎはお念佛にあると説く、「無欲清淨・専勤念佛」の教えはたちまち朝廷や幕府はもとより、老若男女を問わず貴賤衆庶の間に広まり、多くの人々が上人に帰依したといわれています。
 真盛上人が、諾国を布教していた延徳四年 (一四九二)、伊賀の西蓮寺(三重県上野市)を発って加茂の船屋に立ち寄られ法話をされたとき、南都東大寺の大勧進盛憲が感銘を受けて帰依し、ほどなくして念佛道場を船屋に開き「常念寺」と名付けました。その後、木津川の水運が活発になるにつれ、加茂の船屋も主要な港津として発展をとげ、常念寺を中心に念佛の教えが南山城一帯に広がっていきました。
 江戸時代に入ってまもなく、加茂一带は伊勢・伊賀に領地をもつ大名藤堂高虎の所領となりました。高虎は、元和六年 (一六二一)德川幕府から大坂城の修復を命じられると、加茂に拠点をおいて近郷近在から多くの石材を切り出し、木津川を利用して大坂城へ運びました。その折り、高虎が逗留したのが常念寺であったと伝えられています。
 その後、正德二年(一七一二)八月、木津川の大洪水で流域の町や村のほとんどが壊滅的な被害を受けました。船屋ても大半の町家が流され、常念寺も水没して多くの仕什器・什宝類を失いました。このとき、加茂組大庄屋畑山重左衡門が里村の山際に寺地を寄進し、流失した佛像を引き上げて常念寺を再奥しました。その後も当寺は幾多の変遷を経て今日に至っています。
 その本堂も近年になって老朽化が進み、檀信徒の方々と協謙を重ね、平成二年(一九九〇)事業に着手、平成八年 (一九九六)三月落成いたしました。加えて、檀信徒の方々の先祖供養が行える舍利堂を新たに建立しました。
 主な文化財
 佛像  阿弥陀如来立像  南北朝時代
     釈迦三丼像    室町時代
     地藏菩薩半跏像  藤原時代
     地咸菩薩立像   鎌倉時代
 (府登文)十王坐像     室町時代
 絵画(国重文)积迦涅槃図  鎌倉時代
       三千佛図   室町時代
       真盛上人六字名号 室町時代
       盛憲上人念佛供養板碑 永正十七年 銘』
  (説明板より)



























西念寺



【西 念寺 沿革】
 西念寺の前身は「鹿山」と称して古代南都仏教の一派である奈良元興寺と関りがあったとされる。鎌倉時代、建曆年間 (1211~13)に庶民信仰の南都念仏門興隆の一端をこの「鹿山」が担っていた。後に南朝に味力して後醍醐天皇の元應 (1321)三年堂舎焼失し、室町時代には、真言律の西大寺とも交流があり、江戸時代に入ってからは念仏門を表に立てて興隆し、1872(明治5)年より西山浄土宗に所属しています。江戸時代は何処の本山にも所属せず「無本寺」浄土宗を通していました。
 現在の本堂が建ったのは1706(宝水3)年です。位置は鹿背山城から下る谷筋、300年余りの間雨水により岩盤がむき出しととなっていたであろう谷川に石垣を積み上げ、南北の尾根を削っで造成し敷地としました。以来、修理と改修を繰り返して310年、今日に至ります。
 寺名は浄勝寺から鹿山寺に改名されたと『鹿山略縁起』は伝え、鹿山寺の跡と伝える地「小字古寺」があります。現西念寺の東方約400メートル、谷の奥に溜池があり、改修工事の際に瓦・土器などが出土しています。溜池は「古寺の池」と称し、西向きの斜面で、そのまわりを丘陵に囲まれた袋谷状の地形となっています。池を含む傾斜地の範囲は東西約150×南北80メートルで、寺院を造営するのに十分な広さです。標高は88~96メートル前後です。
 焼失した鹿山寺は、城山の峰に移り(西念寺の北、鹿背山城跡のある丘陵上)、1589 (天正十七)年現在地に移ったとされ、西念寺を鹿山寺の後身としています。』
  (パンフレットより)






















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