高神社。
以前に一度平常時に来ている。緑が綺麗だった。本殿は京都府の登録文化財。
さて今回、行き当たりばったりの感じで行ってみたが、何と大当たりやった。もちろん最盛期よりはかなり散ってはいたものの、これだけ豊かな紅葉があれば十分と言える。シーズンもほぼ終わっており、境内には誰もいなかった。撮影中に一人のおばさんが参拝に来ていたが、それだけ。本殿が綺麗に塗り直されていて実に見事。前回、掲載した由緒に加えて本殿の紹介も京都府の文化財課の資料を載せておいた。
くれぐれも有名なところばかりに目をやるのではなく、マイナーだと思われるようなところにも素晴らしい名所が何箇所もあるのが本当にいいと思える。
高神社の由来
『元郷社 式内社高神社
当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見守るように建てられています。
創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。
聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました。
元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦885年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。この間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正一位勳一等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。』
(全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 より)
高神社由緒
『当神社は、人皇第二十九代欽明天皇の元年(西暦五四〇年)に御降臨よりて、社宮を建てて奉祀し、後一七一年を経て元明天皇の和銅四年(西暦七一 一年)多賀明神之社として奉祭したのに始まる。
次いで聖武天皇の天平三年(西暦七三一年)九月夷牛に現在地に遷座され、当時の御祭神である高御産日神伊邪那美命、須佐鳴命を祀った。
「輿福寺官務牒琉」によれば、その御祭神である高御産日神の「高」をとって「高神社」を号する事になった。
現在の社殿は、慶長四年(西暦一六〇四年)に建てられたもので、京都府の文化財として指定を受けている。また鎮守の森は、平成二年七月に設置された「京都府緑と文化の基金」推進事業の一環である「京都府の自然200選」の「歴史環境部門」に指定されている。(文化財環境保全地区)』
『高神社本殿
高神社 三間社流造、檜皮喜 附 棟札八枚額 二師 慶長九年(一六〇四)高神社は多賀集落東南方の天王山中腹にあり、中世においては大梵 大王社と呼ばれ、多賀郷民の尊崇をあつめた。本社には造営関係の文書が多数残されており、神社造営の歴史だけでなく、神事を中心とする中世村落の諸相がわかる点でも貴重である。
現本殿は棟札により慶長九年(一六〇四)河内郡高田村の住人宗左 衛門尉が棟梁となって請負い新造したものであることがわかる。三間社流造、檜皮葺で西面する。組物は柱上に連三斗を組み、組物間に中備として極彩色を施した蟇股を置いている。向拝は面取角柱上に連三 斗を組み、中備として極彩色の蟇股を配し、身体とは海老虹梁で繋ぐ。 妻は二重虹梁大瓶束とし、軒は身舎,向拝とも二軒繁垂木としている。 正面は三間とも格子戸引違とするが、中央間は今は建具はない。
本殿は木割りがやや細い点や木鼻等の細部様式に中央の同時期の建 物とは少し異質なところもあるが、全体としては、桃山時代の雰囲気 をよく伝えていて、建築年代の明らかな神社本殿として重要である。』
(京都府教育庁指導部文化財保護課 「京都の文化財 第1集」より)