『乙訓寺
真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第六番札所。本尊、合体大師像。
寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦四年(七八五)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁二年(ハ一一)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
江戸時代の元禄八年(一六九五 )に護持院隆光が五代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。
また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の十一面観音像等がある。境内には、ぼたんが二千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。
長岡京市観光協会 京都府観光連盟』
(駒札より)
『長岡京市指定文化財 有形文化財(建造物)
乙訓寺
本堂(附宮殿) 鎮守八幡社 鐘楼 表門
裏門 附棟札二枚 元禄八年(江戸時代)
昭和六十三年十一月三日指定
早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁二年(八一一)唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年十一月に乙訓寺別当に任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、弘仁三年十月、高雄寺に移ったが、ここに真言宗に由緒の寺としての歴史に印された。
中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永十年寂)に与え、禅宗寺院として再出発した。法皇寺の寺号も称した。五代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して乙訓寺の地を入手した。工事は元禄七年(一六九四)十二月八日に起工、翌八年五月二十一日竣工し、六月十五日に供養した。造営後は宝永二年(一七〇五)八月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺の芳運房元貞が入山して一世となり翌三年十一月に護摩堂が建立された。近世中期の寺觀は都名所図会により窺うことができる。
平成二年二月 長岡京市教育委員会』
(境内説明書きより)
桜の季節が終わり、4月後半から5月6月にかけてはツツジや牡丹のシーズンとなる。毎年のように訪れている。別名「牡丹の寺」として有名な乙訓寺へ行ってみた。こちらは牡丹だけではなくツツジの花も境内いっぱいに広がっており、確か5月だったか「牡丹祭り」が催され、大勢の人々で賑わう。私も数年前にちょうどその祭りのシーズンに訪れて、大勢の人々とずらりと並べられた牡丹の花々に酔いしれたことがある。様々な色の花びらがまさしく壮観だった。
乙訓寺の横には広い空き地があり、そこが駐車場となっている。普段は無料だ。しかし花のシーズンには、あるいはボタン祭りなどは臨時に有料となる。到着して駐車場に入るが数台の車が停まっていて無料だった。さて祭りはいつなんだろうか、ということで山門前に出る。するとそこに「今年の牡丹祭りは中止」との掲示。やはりコロナに配慮した結果なんだろう。残念だ。しかし祭り用に準備された花ではなく、普段から芽吹いている花は咲くはずだし内部に入る。
境内へ続く参道に入ると、本来なら両サイドに牡丹の花がずらりと密集して咲いているところだが、中止ということで牡丹の花は大幅に減らされていて、数は少ない。それでも満開に近い状態の牡丹の花々はその大きさもあって、かなりよく目立つ。色も本来ならば多数あるが赤や白、桃色あたりが中心で、寒色系は見られなかった。それでも綺麗なことは綺麗。ゆっくり歩きながら写真を撮っていく。境内にはそこそこ人が来ていてゆっくりしながら花々を見つめたり写真を撮ったりしていた。
境内に入ると今度はツツジの花があちこちに目立つ。赤や白、桃色など色の数は少ないが緑色の葉と密集して咲いているので、そういった意味ではこれはこれでよく目立つ。また桃色に白が混ざった混合色の花びらも数多くはありなかなか美しいものだ。
乙訓寺は奈良時代以前からあると言われる古いお寺であり、一度衰退するが江戸期に入って再興された。その時に再建された建物が今現在もそのまま残っている。堂宇の一軒一軒は長岡京市の指定文化財となっており、また境内全体は国の重要文化財となっている。同様に重要文化財の仏像も保存されている。残念ながらそれを見たことはないが、公開時期に改めて見たいなとは思っている。
境内はそこそこ広く、樹齢400から500年に達する大きな木もあって、全体的に花とともに緑も豊かであり、鎮守社もあって様々な場面が楽しめる。すぐ隣は小学校でこの日は授業中であったようでわりと静かだった。
おそらく来年度は久しぶりに牡丹祭りも開催されるだろうから、改めて訪れてみたいと思っている。