切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

乙訓寺・・・ツツジ、牡丹の花が彩る境内 京都府長岡京市   2022.4.28

2022-04-29 22:46:43 | 撮影
  

『乙訓寺
 真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第六番札所。本尊、合体大師像。
 寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦四年(七八五)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁二年(ハ一一)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
 江戸時代の元禄八年(一六九五 )に護持院隆光が五代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。
 また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の十一面観音像等がある。境内には、ぼたんが二千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。
 長岡京市観光協会 京都府観光連盟』
 (駒札より)

   

『長岡京市指定文化財 有形文化財(建造物)
乙訓寺

 本堂(附宮殿) 鎮守八幡社 鐘楼 表門
 裏門 附棟札二枚  元禄八年(江戸時代)
  昭和六十三年十一月三日指定

 早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁二年(八一一)唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年十一月に乙訓寺別当に任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、弘仁三年十月、高雄寺に移ったが、ここに真言宗に由緒の寺としての歴史に印された。
 中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永十年寂)に与え、禅宗寺院として再出発した。法皇寺の寺号も称した。五代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して乙訓寺の地を入手した。工事は元禄七年(一六九四)十二月八日に起工、翌八年五月二十一日竣工し、六月十五日に供養した。造営後は宝永二年(一七〇五)八月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺の芳運房元貞が入山して一世となり翌三年十一月に護摩堂が建立された。近世中期の寺觀は都名所図会により窺うことができる。
 平成二年二月  長岡京市教育委員会』
 (境内説明書きより)

   

 桜の季節が終わり、4月後半から5月6月にかけてはツツジや牡丹のシーズンとなる。毎年のように訪れている。別名「牡丹の寺」として有名な乙訓寺へ行ってみた。こちらは牡丹だけではなくツツジの花も境内いっぱいに広がっており、確か5月だったか「牡丹祭り」が催され、大勢の人々で賑わう。私も数年前にちょうどその祭りのシーズンに訪れて、大勢の人々とずらりと並べられた牡丹の花々に酔いしれたことがある。様々な色の花びらがまさしく壮観だった。

  

 乙訓寺の横には広い空き地があり、そこが駐車場となっている。普段は無料だ。しかし花のシーズンには、あるいはボタン祭りなどは臨時に有料となる。到着して駐車場に入るが数台の車が停まっていて無料だった。さて祭りはいつなんだろうか、ということで山門前に出る。するとそこに「今年の牡丹祭りは中止」との掲示。やはりコロナに配慮した結果なんだろう。残念だ。しかし祭り用に準備された花ではなく、普段から芽吹いている花は咲くはずだし内部に入る。
 境内へ続く参道に入ると、本来なら両サイドに牡丹の花がずらりと密集して咲いているところだが、中止ということで牡丹の花は大幅に減らされていて、数は少ない。それでも満開に近い状態の牡丹の花々はその大きさもあって、かなりよく目立つ。色も本来ならば多数あるが赤や白、桃色あたりが中心で、寒色系は見られなかった。それでも綺麗なことは綺麗。ゆっくり歩きながら写真を撮っていく。境内にはそこそこ人が来ていてゆっくりしながら花々を見つめたり写真を撮ったりしていた。
 境内に入ると今度はツツジの花があちこちに目立つ。赤や白、桃色など色の数は少ないが緑色の葉と密集して咲いているので、そういった意味ではこれはこれでよく目立つ。また桃色に白が混ざった混合色の花びらも数多くはありなかなか美しいものだ。

  

 乙訓寺は奈良時代以前からあると言われる古いお寺であり、一度衰退するが江戸期に入って再興された。その時に再建された建物が今現在もそのまま残っている。堂宇の一軒一軒は長岡京市の指定文化財となっており、また境内全体は国の重要文化財となっている。同様に重要文化財の仏像も保存されている。残念ながらそれを見たことはないが、公開時期に改めて見たいなとは思っている。
 境内はそこそこ広く、樹齢400から500年に達する大きな木もあって、全体的に花とともに緑も豊かであり、鎮守社もあって様々な場面が楽しめる。すぐ隣は小学校でこの日は授業中であったようでわりと静かだった。
 おそらく来年度は久しぶりに牡丹祭りも開催されるだろうから、改めて訪れてみたいと思っている。

  
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『ブッダのお弟子さん ~ 教えをつなぐ物語』 龍谷ミュージアム  2022.4.27

2022-04-27 23:19:32 | 日記
 

 表題の展示会が行われていたので早速行ってきた。龍谷ミュージアムは約10年前に開館し西本願寺のま向かいに建っている。龍谷大学が運営する一般向けの博物館であり、これまでも仏教に関わる様々な展示会を行っている。その都度京都新聞などで報道されるので、いつかは行ってみたいと思っていた。今回テーマが興味深かったのでホームページで調べ訪れることとした。
 地下一階地上3階建ての非常にモダンな建物で、前面をすだれの意匠で覆っており、京都の景観に配慮したデザインとなっている。入口受付は地下一階でそこには、展示品の図録などが販売も含めて置いてあり購入することが可能だ。一部過去の展示物のものもある。受付を済ませてエレベーターで3階へ上がる。ここが特別展の展示場となる。

 順序立ててブッダ及びその弟子たちの説明文及び展示物が並ぶ。紀元前5世紀頃にガンジス川周辺で、釈尊が仏陀となって多くの弟子たちを集め仏教を広め始める。優に1000人以上いたといわれる弟子達の中でも、特に釈尊を支え大きな役割を果たした弟子を「十大弟子」と言う。さらに後年になって釈尊亡き後、釈尊の任務を任された16人の高弟を「十六羅漢」と言う。
 なにぶんにも基礎知識がないために、釈尊については少し知っていてもその弟子たちについては初めて知ることばかりだ。ところが展示してある像そのものはいいとしても、説明文が老眼のせいでなかなか満足に見えない状態。ぐっと目を凝らしても何とかやっとこさ、という有様で、この調子で行くと全部見て読み終わるのに2時間以上はかかりそうな雰囲気だったので、仕方なく説明文の表題の文字だけ読み、回ることにした。


  (パンフレットより)
 十大弟子については後に物語化されて、ガンダーラ地方においても、あるいは中国に伝わり特にその時代の文献、そして日本に伝わった後も様々な文献に登場するようになる。紀元1~3世紀頃の発掘されたお椀の中に記された、サンスクリット語の文章でありながら、別の表音文字で記された文字を見てみたが、当然さっぱり意味がわからない。2000年も前の貴重な遺物であり非常に興味深かった。すでにその文字は研究によって意味が明らかにされており、説明文にその文章の意味が日本語訳で書かれていた。内容は、仏陀を褒め称えみんなの者にそれを伝え、最後にまた仏陀万歳、といったような内容が記されていた。
 十大弟子の名前や果たした役割なども説明されていたが、とにかくよく見えないので分からないまま物語化された文章を元に作成された、それぞれの像が見られただけでもよしとした。これらの十大弟子像は少ないながらも各地のお寺や博物館に収蔵されている。同様に十六羅漢像も展示されていたが、同様な状況だ。この十六羅漢像については京都の清涼寺や奈良の興福寺にあるものが展示されていた。
 清涼寺から出品されていたものは他にもいくつかの像や絵画などがあったが、つい先日清涼寺を訪れて宝物館を見学した時にこれらのものは見た記憶がなかった。普段は非公開になっているものかもしれない。
 またガンダーラ地方で発掘されたと思われる仏陀や、その弟子たちの物語をレリーフにした石版がいくつも展示されている、時々テレビや本などで見るインドの寺院のカーマスートラのような雰囲気のものだ。展示されていたものはかなり小さなものだったが、おそらく日本からの学術探検隊が発掘して持ち帰ったものと思われる。
 他にも国宝や重要文化財に指定されたものもあったが、古文書が結構多く見られブッダの十大弟子のことが描かれた部分に矢印が置かれていて、読もうとしたもののこれまた老眼でぼやけて読めないという情けない有様だった。


   (パンフレットより) 
 一通り見終えて2階へ降りる。こちらの方は通常展示のスペースになっていて、仏教全般の発生から歴史的な流れに沿って紹介されている。無論この2階も3階も撮影はできない。しかし2階の一部が回廊のようになっていて、トンネル状の壁面全体に実物を高精細カメラで撮影し復元された石窟画が迫力十分に迫ってくる。これは「ベゼクリク千仏洞」というもので、中国の新疆ウイグル自治区トルファンにある。70以上の石窟画のごく一部が再現されたものだ。これらはおよそ5世紀から14世紀にかけて描かれたものであり、それぞれの壁画の内容は、インド人や中国人あるいはヨーロッパ人も含めて、みんなが仏陀を礼賛するといった内容のものとなっている。これだけは写真撮影可能でわざわざ持って来た本格的なカメラで多数撮らしていただいた。
 すでに世界大戦以前にこれらはヨーロッパやアメリカなど各国から探検隊が送られ、壁画が剥ぎ取られてそれぞれの国に持ち帰られている。そしてその国を代表する美術館や博物館に今現在も展示されている。日本には全くない。つまり欧米各国によって貴重な文化財が盗まれたというものだ。ある意味これはこれで見る価値は十分にあると思う。

   

 こうして約2時間かけてミュージアムを全部回った。まあ基礎知識があまりないので理解できたかどうかと言われれば、単に上辺しか見ていないというのが実状だ。でもこのような展示に触れるというのはなかなか貴重な体験だったと言える。


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正伝永源院 京都市東山区・・・細川家の菩提寺    2022.4.24

2022-04-26 22:28:49 | 撮影
   

『正伝永源院
緣 起
 正伝永源院は、元は正伝院と永源庵の二ヶ寺であり、いづれも我が国最初の禅窟、臨済宗大本山建仁寺の塔頭である。正伝院は、大覚禅師・蘭渓道隆とともに中国より来日した義翁紹仁・勅謚普覚禅師(弘安四年寂・ 一二八一建仁十二世)を開山に鎌倉年間に創建された。しばらく荒廃していたが大阪冬の陣後隠栖した信長の弟、織田有楽斎長益が元和四年(一 六一八) 当院を再興し林泉の美を誇り名席如庵を建て悠々自適茶道三昧のうち元和七年七十五歳天寿を全うする。因に法名を正伝院殿如庵有楽大居士と号し、高さ四・五メートル の五重の石塔が正室霊仙院殿遭丘清寿大姉の塔とともに本堂の東に並び立っている。
 また、永源庵は無涯仁浩禅師(一二九四〜一三五九 出羽の人建仁第三十九世)を開山に南北朝時代に創建された。 師は二十五年間中国にあって禅を極め、帰国後細川頼有 (熊本細川家の始祖)の帰依を受け、その後代々師檀の関係が厚く、同家より永源庵に出家するものや住職になるものも数名を数え細川家の菩提寺として続く。ところが明治初年の廃仏毀釈の政策により建仁寺は五十余ヶ寺の塔頭が十四ヶ寺(現在)にと大幅に削減されられた。当時永源庵は無住であったため、たちどころに廃寺処分となったが、当庵が本山の真北に位置していたため、堂于を残し、少し離れた場所にあった正伝院がここに移って来た。その結果正伝院の土地は上地、建造物は売却の上、その金の寄付を強要された。そのひとつが如庵である。そしてしばらくは、 正伝院と呼んでいたが、時の侯爵で ある細川家の菩提寺であるため後に 永源の名を残し「正伝永源院」と名乗るようになった。 また、賤ヶ岳七本槍で名を馳せた、安芸五十万石の大名福島正則寓居の地でもある。』(原文ママ)
  (パンフレットより)

   

 正伝永源院は建仁寺の北側に隣接している。建仁寺の外塀の外側なので、まったく別のお寺のように見えるが、建仁寺の塔頭寺院となる。この日は普段非公開寺院のところ、春と秋に設けられている特別公開ということで訪れた。
 由緒については上記の通り。元々正伝院が鎌倉時代に創建され、しばらくして荒廃する。それを江戸時代初期に織田信長の弟である織田長政が再興しよみがえる。一方永源庵は南北朝時代に創建される。両者は長い間別々の寺院であったが、明治に入り正伝院が実質的に廃寺となり、それを熊本の細川家が今現在の場所に移し、また永源庵を同じ場所に移していわば二つのお寺を一つにまとめた形となった。こうして名前も正伝永源院となる。そういったこともあり、このお寺は細川家の菩提寺となっている。

    

 門を入り本殿への入り口をくぐると庭園が広がる。本殿から横幅の広い庭園を一望できる。ちょうど桜が終わった後のツツジが真っ赤な色で、あちこちに咲き誇り緑の楓の葉と絶妙なコントラストを描き、素晴らしい眺めだ。特別公開とあって決して多くはないものの、次から次へと人が訪れる。特に仏像等については小さな本尊が安置されているのみで、他にはない。むしろこのお寺は襖絵が多く、中でも狩野山楽の花の絵は16面にわたり、花の芽吹きから綺麗に咲いた様子、そして次第に色あせてしぼみ、最後は散っていく様子が描かれている。解説者の言葉によれば全体として、栄枯盛衰を表しているのだという。いわば無常の世界を描いているということなんだろう。残念ながら今回の公開では山楽の襖絵は見られなかった。
 また襖絵の中には元総理大臣の、細川護煕氏の紅葉を描いたと言う水墨画があった。
 庭園の端にはこじんまりした茶室が建っている。これはもともと再興された正伝院の境内に建てられたもので、この地に移されてきたものだが、国宝に指定されている。しかし戦後諸般の事情により、名古屋鉄道に買い取られその後、愛知県犬山市の遊楽苑に設置されている。名前は「如庵」と言う。こちらにあるのはそれを模して建てられた、いわば本物と同じ大きさのレプリカということになる。もちろん茶席が設けられることもある。
 このようにしてみると、このお寺は複雑な歩みを持っているが、国宝などの文化財については買い取られる形で他県へ移築されてしまった。如庵だけではない。方丈なども含めて他にも貴重な文化財があったのだ。
 なお門を入ったところには大きな石造物や五輪塔が並んでおり、織田家のもの、あるいは細川家のものが見られた。

   
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《 ロシアによるウクライナへの侵略という暴挙 》 ⑰  2022.4.24

2022-04-24 22:30:54 | 社会


◆ プーチン大統領とはどんな人物なのか、何をしようとしているのか?

*プーチン大統領がどんな人物かなどということは、軽々しくは言うことはできない。特定の個人に対して私自身は専門家でも何でもないし、単なる社会的な問題に対して少し関心を持っている素人でしかない。一応ネット上の様々な資料、あるいは書店にて目についた書籍を購入したり、あるいは立ち読みしたりして得られた情報というのはごくわずかなものだ。それをもって彼の人物像があーだこーだということはやはり言えない。また細かな部分は省略して記しており、事実とは異なる部分も多々あるかもしれない。
 従って今回のウクライナ侵略戦争に当たって、なぜこのような残虐なことができるのか、この先の彼の狙いが何なのか、ということを中心に可能性のレベルで考えることしかできない。

 ウクライナ侵略戦争はもはや戦争とは呼べず、れっきとした独立国家に対し、一方的な言いがかりをつけて無断でウクライナの国土を蹂躙し、破壊し尽くすだけではなく一般市民国民を見境なく虐殺しているという「戦争犯罪」の場にしてしまっている、というのが実態だ。しかも当初は、プーチン大統領の勝手な言い分で「ウクライナのネオナチによって親ロシア派の人々が虐待を受けている。ロシアとしてはその人たちを助けて解放するための正義の戦いをするのであって、これは戦争ではなく特別軍事作戦だ。」と詭弁を弄しながら、世界から市民や国民の虐殺を巡って「戦争犯罪だ」との強い批判に対しては、「ウクライナによるフェイクだ」と厚顔無恥も甚だしく、これまた誰もがわかるような嘘を平気でついている実態となっている。

 マリウポリはすでに街全体がロシア軍に包囲されており、まだ10万人ほど市内に残っているウクライナ市民だけではなく、巨大製鉄所の地階に逃れている兵士及び市民等数千人が支援経路を絶たれる中で、餓死させられようとしている状況にある。ゼレンスキー大統領は市民達だけでも安全に避難できるように訴えかけているが、ここでもプーチン大統領は誰一人この場所から脱出できないように包囲を続け、新たな戦争犯罪を犯そうとしている。

 戦争に関わる国際的な協定の中でも、捕虜に対する扱いはその生存権をきちんと保証するよう定められており、それが間違いなく実施されるならば、ゼレンスキー大統領としても少なくとも市民については降伏の意思を示し、ロシア軍に投降させるだろうと思われるが、ロシアという国そのものが、このような国際的な取り決めを守る意思がないということが明確であるだけに、ゼレンスキー大統領としても徹底抗戦を発言せざるを得ないものと思われる。



◆ プーチン大統領の大まかなあゆみ

 プーチン大統領の独裁的な政治及び海外戦略については、以前から周辺諸国及び国内の政敵に対して行われてきた行為について、ある程度独裁者特有の傾向があるというのは感じていたが、今回のウクライナ侵略戦争においてその実態が決定的に、同時に世界的に明らかにされるようになった。
 プーチン大統領の考え方については私自身は個人的に薄っぺらい根拠だが、なんとなくナチスドイツの「ヒトラー」とダブルのように感じていた。

 第1次大戦においてはドイツ軍の一兵卒に過ぎなかった人物が、政治の世界に関わるようになってから、逮捕の憂き目に遭いつつも次第に頭角を現し、最終的に様々な策略を通してワイマール共和国から邪魔者を消し去り、国会議事堂放火事件を自作自演しながら、ナチス党を通してゲルマン民族の優秀性を国民にアピールし、ナショナリズムをかきたててドイツ帝国の総裁にまで上り詰めたという事実。そして政治的に邪魔者を次々に消し去って完全に独裁体制を築く。巧みな演説力によって国民の心情に訴えかけ、大きな信任を得ることになり、かつてのドイツ帝国を取り戻すべく第二次世界大戦に至ることになる。こうした経過を見ていると、何かプーチン大統領と妙に重なるものを感じさせられた。

 しかしヒトラーとプーチン大統領とでは、人間的にかなり大きな違いがあるようだ。ヒトラーは第1次世界大戦において、自国が敗戦したという事実をどういう形で受け止めたのかはともかく、彼自身が策略家であり自信家であり、自らのを持てる力を発揮して、どのようにすれば新たなドイツ帝国を復興できるのかということを、逮捕され刑務所の中で考えそれを後に書物という形で著している。「我が闘争」だ。
 こうして見るとヒトラーは、かなり主体的な形で行動をする強い意志があり、自分が計画した通りに政治のトップに上り詰め、独裁者になり上がっていった。一方のプーチン大統領は、元々は比較的真面目で素直な青年だったと言う。彼は若い時に何かの影響でスパイ活動というものに憧れて、大人になれば当時のソ連のスパイ組織である KGBに採用されることを希望していたようだ。しかしそれは叶わず大学に進学し、後に友人関係その他から彼の故郷である、かつてのレニングラード、現在のサンクトペテルブルグ市において市長の補佐役的な任務に就くようになったと言うことのようだ。そこから次第に政治的な仕事に関わるようになり、後に伝手を通して KGBに入ることになる。彼は対外情報収集任務に就いて当時の東ドイツに派遣され仕事をしていたと言う。

  

 しかしそんな最中に東西の壁が破壊され、ベルリンの統一が起こる。そしてその後ソ連邦という社会主義政権が倒れ、ロシア連邦と言う資本主義国となる。彼自身は働き盛りにこのような国の大転換を体験したわけだ。ロシアに戻った彼はそれまでの経験を買われる中で、また人間関係を通して政治の世界に関わるようになり、当寺のエリツィン大統領の失政をカバーしたこともあって、大きな信任を得て、次期大統領に出馬する。そして今現在に至るというわけだ。
 こうしてみるとプーチン大統領の場合には、自らが策略を講じて国のトップに立ったというよりは、周囲の人間関係や上司から気に入られたと言ったことを利用しつつ、トップに立ったといった状況だろうと思う。
 このように見ていくと、これは運が良かったといったように見えるが、実のところプーチン氏のあゆみの中では、かなり策略的なことも多々行なっており、決して単純に流れに乗っただけではないようだ。
 様々な細かな部分ではまだまだ野望的な部分はあったんだろうが、しかしヒトラーほどの強い意志を持って自らがトップに立ったというほどのものではないように思える。そういった点ではヒトラーとはかなり違うんだろう。

 ただ働き盛りの彼にとって、自分の国が崩壊し新たなロシア連邦が成立すると言う大きな出来事は、彼の心理的な部分にかなり大きな影響を与えたと思われる。彼にとってみれば生まれ育ったソ連邦時代の社会が何よりも素晴らしいものであり、それが完全否定され新たな国になったということは、ある意味許されないことであって、そこに彼自身のかつての強大核大国ソ連邦という国に対する、いわば「愛国心」といったものが更に強まったことになったのではないかと思われる。
 そしてソ連邦の一部が分裂し、次々に一独立国家になっていったということが、心の中では許されないことといった具合に認識されるようになったのではないだろうか。



 話は少し逸れるが、日本の元総理大臣である安倍晋三氏は、プーチン大統領をかなり高く評価していたことで知られる。プーチン大統領の強権的な政治力でもって、ロシアという国を経済的に立て直したり、国民に対してはいわばカリスマ的な人気を獲得したり、そして自国に対する勇壮なビジョンを掲げて自信を持って政治に取り組んでいる、というところが安倍晋三氏の共感を得ているようだ。

 なるほどよく考えてみれば元安倍総理は、日本という本来は民主主義の国家であるはずの場で、公的にも私的にも自らを批判する勢力をひとつずつ潰していき、独裁的な政権を運営するに至り、憲法改定の内容に至っては、9条の平和条項の件どころか基本的人権の制限や国家観の押し付け、封建的社会生活制度の制定や、はては教育勅語復活を含め大日本帝国憲法への復古調の思想を前面に押し出し、それを「美しい国日本」と表現しながら、一部の国民の間に狂気的なシンパサイザーを生み出し、実質的に安倍独裁体制を築き上げてきたところが、妙にプーチン大統領と重なる点が多いように思える。まさしく「類は友を呼ぶ」だ。




 (以下続く)  (画像はTVニュースより)

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《 ロシアによるウクライナへの侵略という暴挙 》 ⑯  2022.4.22

2022-04-22 23:23:11 | 社会


◆ マリウポリは陥落したのか、徹底抗戦中なのか?

 この間、マリウポリにおけるウクライナ軍とロシア軍の激戦は物量に勝るロシア軍が優勢と言われ、ウクライナ側はマリウポリの都市内にある巨大製鉄所の地階に追い込まれる形となっている。地上におけるウクライナ側の援軍についてはかなり厳しい状態で、実質上支援経路が途絶え、ウクライナ軍としては共に逃れている民間人を支援しながら、次第に弾丸等がなくなりつつあり戦闘継続がまもなく尽きようとしている。
 ゼレンスキー大統領も SNS で世界に向けて発信を続けており、製鉄所の地階に逃れている民間人の救出に向けて、全勢力をかけて助けてほしいと願っている。こういった状況に対してロシアのプーチン大統領は実質的に、マリウポリが掌握できたとの軍司令部からの報告を受け、これ以上の地上戦は犠牲者を出すので無駄であるとして、中止を命令し同時に製鉄所を包囲して誰一人出入りができないようにするよう指示したとされる。
 ゼレンスキー大統領はプーチン大統領のこの発言に対して、マリウポリにおいては未だにウクライナ軍が抵抗を続けており、降伏はしていない、徹底抗戦の最中であると発言している。実際のところ様々な情報が錯綜する中で、どの情報がどこまで信憑性の高いものであるかは分かりにくいのが実態だ。ただこれまでの経緯からしてロシア側の発表は嘘であるケースが多く、あくまでも世界に対してマリウポリがこれで「解放された」と発信することによって、国外においても国内においても正しいことをしているのだと言うことを印象付けようとしている。
 これによって5月9日の対独戦勝記念日の軍事パレードが戦果を伴って実施できると判断したのだろう。しかも戦勝記念パレードをマウリポリの市街地で行うと言うのだ。厚顔無恥も甚だしいとしか言いようがない。
 ウクライナはこのようなプーチン大統領の発言に対して、巨大製鉄所に民間人と兵隊たちが追い詰められていることを認めつつも、一部の部隊が地上戦において未だに戦闘状態にあると明確に発言した。実際米軍などの衛星画像解析からも、ロシア軍の大きな変化移動の状況が見られず、膠着しているような状況から判断するに、やはり戦闘状態にあるのは確かではないかとの推測が発表されている。



◆ ロシアに連れ去られた民間人の運命は?

 ウクライナ東部戦線の地域において、ロシアと国境を接するウクライナの市街地に住むウクライナ人たちのかなり多くがロシア側に連れ去られた。その時点で命だけは助けられたという形になるが、戦争状態にある中では民間人であっても捕虜の扱いとなる。捕虜は捕らえられた時点でたとえ敵の国内であっても、生存権は保障されなければならない。そして戦争の終結と同時に元の国へ帰されるのが筋だ。基本的には第1次対戦であろうと第二次対戦であろうとそのように扱われてきたはずだ。
 しかしロシアにとって、それ以前の旧ソ連にとって、この筋は通用しないようだ。周知の通り第二次世界対戦において捕虜となった民間人であれ兵士であれ、捕らえられた者はソ連の広大な国土の東部へ、つまりシベリア地方へ送られ、そこで強制労働の任務が与えられ少ない食料しかない中で、朝から晩まで肉体労働をさせられ大勢の人が栄養失調や病気その他で亡くなっている。後年強制労働から解放され国へ戻ってきた人々の証言は、その過酷な強制労働の実態を数多く明らかにしている。
 そして今回のウクライナ侵略戦争においてもすでに、大勢連れ去られた民間人、中心は老人、女、子供達となるが、彼ら彼女たちは極東シベリアの地へ送られるのではないかと心配されている。このところロシア国内では極東に住む人たちが生活の厳しさを嫌って、西部の人口密集地帯の方へ移住する傾向が強まり、シベリアの地が人口不足で荒れ地も増えているという。その地域にウクライナから連れ去った人たちを送り込んで労働させようというのがロシアのやり方ではないか、ともっぱら心配されている。
 つまりロシアという国は、国際的な人権上の取り決めなどを守るような国ではなく、自分勝手にご都合主義で個々人の人権を奪い自由権を奪い、何もかもロシアという国のために人々を強制することなどを平気でやれる国、ということだ。無論これはロシアという国の過去の歴史的な経緯や国民性、そしてさらに加えて独裁体制が成せる技といえよう。


 
 ロシア側の一方的な言い分としてはあくまでも戦争ではなく、「特別軍事行動」というウクライナによって虐げられたドネツクやルガンスク地方の人々を解放するための作戦であるとの主張であり、戦争との認識はないと主張している。従ってロシア側に連れ去られたウクライナの民間人や兵士たちは捕虜ではなく、自ら進んでロシアに身を寄せた人々であり、その人たちに働く場を与えるという名目でシベリア送りをすると言う詭弁を弄することになるのだと思う。
 無論こんなことが許されるはずもなく、こういう事態が起これば世界中がロシアに対して非難すべきだし、更に厳しい措置を取るべきだというのは当然のことだ。
 
◆ ロシアに対する経済制裁は効果が上がっているのだろうか?

 先日プーチン大統領は西側諸国の経済制裁は完全に失敗に終わったと主張した。すなわちルーブルの貨幣価値はさほど下がらず、大きな影響を受けなかったという。また国内物価も少し上がった程度であり、国民生活に大きな打撃を与えるに至っていないというのだ。ただこのあたりの問題については、まだ判断は時期尚早であるのではないかとも考えられる。今後じわじわとルーブルの価値が低下し物価の激しい高騰等、品不足も加えて国民生活に大きな影響をもたらす可能性は十分にあるのだろう。
 しかし懸念されるのはロシアに対する経済制裁に対して、これにどの国もが賛成しているわけではないという事実があることだ。これは EU 諸国の内部やアジア諸国の中でも態度が分かれている部分であり、経済制裁をするにしても、その程度の足並みが必ずしも揃っているわけではない。そういった点からはロシアにとっても、いわば抜け道が数多く存在する可能性があるのではないかと考えられる。そういったところからこの経済制裁というのは効き目半ば、といった状態で推移する可能性も十分にある。
 日本にしても経済制裁には参加しているが、重要なエネルギーの輸入についてはロシアからの輸入量がかなり大きな部分を占めており、これらがすべてストップできるのかどうかという点で弱みがあるのは確かだ。サハリンの天然ガス開発においても、日本の民間企業がロシアの企業と共同での開発を進めてきたが、現時点においては日本政府はここから引き上げることはしないとの判断だと言う。イギリスのシェルオイルは既に撤退を完了した。しかし日本はどのような理屈なのかわからないが、ここから撤退するとかえってロシアを利することになると主張して、現段階においては共同開発から撤退はしないらしい。

 これは何もエネルギー問題だけではなく、農産物においても小麦などの食料品についてはロシア依存度はかなり大きく、多数の品目にわたっている。これらを完全にストップさせるとたちまち最初言われていた、いわゆるブーメラン効果で制裁したはずが、逆に制裁を受けてるかのようなダメージを受けてしまうことになりかねない。そういった意味では日本はエネルギーにおいても穀物類の輸入においても新たな国から、あるいは既存の国から輸入量を増やす交渉をしなければならない。無論それが困難であることは言うまでもない。
 そして実際にこのところ日本の中で、エネルギー及び食料品の値上がりが急激に進みつつある。天然資源開発においては日本の近海で海底に膨大な量のエネルギー資源が発見されたなどとは言っているが、これらが実際に採掘されるようになるまでにはまだ10年20年とかかるだろう。元々天然資源は無いに等しい国なのだ。更に食料についてもかねてから「食料安保」という表現がずっと使われてきていたが、現実に日本の政府は食料自給率を高める政策をほとんどとってこなかった。むしろ逆に日本の得意分野であった一次産業の収穫が一部を除きどんどん減っており、そのぶん輸入を増やさざるを得ないような実態となっている。
 日本という国が独立国家として自立していくためには、基本的なエネルギー資源や食糧資源がどれだけ自給できるのかというのが決定的に大事な問題となる。やはり先の太平洋戦争において日本が戦争に踏み切る原因の一つになったのは、資源不足という背景があったはずだ。そういったところから日本は戦後何も学んで来なかったんだろうか。これから先日本という国が世界のどの国とも仲良く共存共栄できるとは限らない。日米安全保障条約という名のもとに、いわば軍事同盟的なものを結んでいる限りは、当然日本は平和を希求する国家としては認められることはないだろうと思う。



◆ ロシアの今後の戦略はどの方向に向かうのか

 現時点でウクライナ東部については、そして南部の湾岸地帯については実効支配の中に入ってしまっている。ウクライナ軍が今後体制を整えて、西側諸国から大量の武器援助を受けながら反撃を開始すればどのようになるかはわからない。しかしこのままいってしまえば東部は完全にロシアのものになる可能性が高い。
 すでにロシア側も甚大な損害を出しており、多くの兵士の死者を出している。プーチン大統領は国内向けに正義の作戦行動だということを主張しながら、ナショナリズムを煽ってなんとかこの戦争を乗り切ろうとしている。
 仮に5月9日までの時点で、東部の地域が支配されたまま一旦停戦となれば、事実上そこはロシアのものとなる。ひょっとすれば名前だけの独立国として存在させておき、傀儡政権を存続させて後日、ロシアとの併合に持っていくということが考えられる。この時にすでにクリミア半島が実効支配下にあり、そこを結ぶ湾岸地帯も支配されれば、重要な地域がロシアのものとされてしまう可能性が極めて大きい。更にロシアが軍隊の力でウクライナ全土を掌握、などということはロシアの経済的な事情からは考えられないだろう。今現在マリウポリの製鉄所の包囲を行っていること自体で手一杯という状況なのであり、とてもウクライナ全土への拡張は無理だと思われる。そういったところから考えて、東部から南部にかけての支配で停戦合意に持っていく可能性が高い。それだけでもロシアにとってみれば大きな戦果となる。無論西側諸国はそれを許すはずがない。そういった意味ではロシアは今後何十年にもわたって制裁を受けることになるだろうと考えられる。少なくともプーチン氏が大統領でいる限りは原状回復なんていうことはありえないと考えるべきだ。
 そしてまた何年か経ってから体制を整えて、さらにウクライナへの侵略を開始することがあるかもしれない。こうして年数をかけてじわじわとウクライナに攻め込んでいく。最終的にはウクライナ全土を手中に収めるというのがロシアにとって、最も望ましい戦略となるだろう。最終的には旧ソ連邦時代の国土を全て回復する、というのが大きな目的ではないかと思う。



  (以下続く)  (画像はTVニュースより)
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