『大徳寺
臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
鎌倉末期の正和四年(一三一五)に、大燈国師(宗峰妙超)により開創され、花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建造物は焼失したが、
「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建造物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財) ・方丈(国宝)など、主要建造物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建造物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。
京都市』 (駒札より)
大徳寺は北区紫野にある臨済宗の禅寺だ。境内は広大でありその中に21ヶ寺の塔頭を抱えており、京都市内でも有数の規模を誇る。大徳寺そのものの本堂などは、中央部に固まっているが、周囲は全て塔頭寺院が占めており、内部の通路はまるで迷路のように複雑に東西南北に連なっている。
大徳寺の本堂などを含むほとんど全ての建築物は、国宝及び重要文化財に指定されているほどのもので、安土桃山時代を代表する圧倒的な存在感を誇ると言える。広い境内に入るのは自由だが、大徳寺そのものは普段は非公開であり、特別拝観の時のみに内部に入り庭園などを拝観することができる。しかし内部に入ることができなくても、外部から拝観するだけでも大徳寺のある意味、すごさというものが伝わってくるようだ。また周りの塔頭寺院も同様であり、中には特別拝観すらしていないケースもある。
今回は塔頭寺院の中で、春の特別拝観を実施している三ヶ寺に行ってみた。
三箇所の塔頭寺院はそれぞれが似ているといえば似ているし、違うといえば違う。私のような素人から見ると、全体的な印象としてはやはり似た雰囲気ということになる。
何も見どころは基本同じで、創建以来、火災などの災難に遭わずに、今に至る本堂や書院などの建築物、部屋の中の襖絵、そして最大の見所はどのお寺もそうだが、お互い競うように見事な枯れ山水庭園が工夫を凝らして、縁側の前に広がっている。やはりこうなると庭園には全くずぶの素人であり、どこをどう見れば良いのかもほとんどわかっておらず、それこそ同じように見えてしまう。見る人が見ればそれぞれの岩や木々の配置、池や海を模した白い小石が敷き詰められた水面の模様。国の特別名勝に指定されているとはいうものの、抽象的に綺麗だなという感覚しかつかめないのは情けないのかもしれない。
寺によっては、部分的に室内の襖絵が撮影可能であったり、安置されている仏像が撮影できたりといったところもあったが、基本は撮影は建物外観と庭園のみといったところだ。しかしこのように似てはいるものの、それぞれが工夫を凝らして何百年という長きにわたり、お寺の境内と庭園を守り続けてきたというのは、なかなかすごいことだと思う。
大徳寺塔頭の中には特別公開そのものをしないところもあると言う。しかも大半は門は本格的な物で、閉まっていれば一切内部を覗くことも叶わない。順次公開してくれれば良いものだと思う。
それにしても大徳寺そのものを含め、塔頭と合わせるとここにある国宝、重要文化財、京都府登録指定文化財、京都市指定文化財などなどを合わせると、大変な数になる。
京都では何度も争いが起こり、応仁の乱にしろ、あるいは天災である天明の大火といった街中を襲った災禍により、貴重なものがずいぶん失われている。その際多くのお寺では貴重な本尊などが、住職たちによって持ち出され守られてきたと言う努力があった。しかし一部の寺院はそのような災禍から無事に逃れられて、ほぼ創建当時の姿を残すといったところもある。そういった意味では大徳寺というのはかなり貴重な存在だ。
黄梅院
『黄梅院
大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄五年(一五六二)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した小庵に始まる。
大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
天正十四年(一五八六)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(一五八九)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裡・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裡は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の 師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。
京都市』 (駒札より)
龍源院
『龍源院
大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺南派の本庵である。
文亀二年(一五〇二)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
方丈、玄関、表門(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示している。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の東滴壺は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(一五八三)の銘がある種子島銃などを蔵している。
京都市』 (駒札より)
興臨院
『興臨院
大徳寺の塔頭の一つで、大永年中より天文二年間(一五二一〜一五三三)に、能登(現在の石川県北部)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、 天文年中(一五三二〜一五五五)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が 行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。ハイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣き深い。
寺宝として椿尾長鶏模様堆朱盆(重要文化財)を所蔵している。
墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。
京都市』 (駒札より)