切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大徳寺 塔頭  黄梅院・龍源院・興臨院   京都市北区  2022.5.21

2022-05-30 23:40:55 | 撮影


『大徳寺
 臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。
 鎌倉末期の正和四年(一三一五)に、大燈国師(宗峰妙超)により開創され、花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建造物は焼失したが、
「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建造物はほとんど整えられた。
 三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財) ・方丈(国宝)など、主要建造物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建造物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。
 茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。
  京都市』  (駒札より)

 大徳寺は北区紫野にある臨済宗の禅寺だ。境内は広大でありその中に21ヶ寺の塔頭を抱えており、京都市内でも有数の規模を誇る。大徳寺そのものの本堂などは、中央部に固まっているが、周囲は全て塔頭寺院が占めており、内部の通路はまるで迷路のように複雑に東西南北に連なっている。
 大徳寺の本堂などを含むほとんど全ての建築物は、国宝及び重要文化財に指定されているほどのもので、安土桃山時代を代表する圧倒的な存在感を誇ると言える。広い境内に入るのは自由だが、大徳寺そのものは普段は非公開であり、特別拝観の時のみに内部に入り庭園などを拝観することができる。しかし内部に入ることができなくても、外部から拝観するだけでも大徳寺のある意味、すごさというものが伝わってくるようだ。また周りの塔頭寺院も同様であり、中には特別拝観すらしていないケースもある。
 今回は塔頭寺院の中で、春の特別拝観を実施している三ヶ寺に行ってみた。

 

 三箇所の塔頭寺院はそれぞれが似ているといえば似ているし、違うといえば違う。私のような素人から見ると、全体的な印象としてはやはり似た雰囲気ということになる。
 何も見どころは基本同じで、創建以来、火災などの災難に遭わずに、今に至る本堂や書院などの建築物、部屋の中の襖絵、そして最大の見所はどのお寺もそうだが、お互い競うように見事な枯れ山水庭園が工夫を凝らして、縁側の前に広がっている。やはりこうなると庭園には全くずぶの素人であり、どこをどう見れば良いのかもほとんどわかっておらず、それこそ同じように見えてしまう。見る人が見ればそれぞれの岩や木々の配置、池や海を模した白い小石が敷き詰められた水面の模様。国の特別名勝に指定されているとはいうものの、抽象的に綺麗だなという感覚しかつかめないのは情けないのかもしれない。
 寺によっては、部分的に室内の襖絵が撮影可能であったり、安置されている仏像が撮影できたりといったところもあったが、基本は撮影は建物外観と庭園のみといったところだ。しかしこのように似てはいるものの、それぞれが工夫を凝らして何百年という長きにわたり、お寺の境内と庭園を守り続けてきたというのは、なかなかすごいことだと思う。

 大徳寺塔頭の中には特別公開そのものをしないところもあると言う。しかも大半は門は本格的な物で、閉まっていれば一切内部を覗くことも叶わない。順次公開してくれれば良いものだと思う。
 それにしても大徳寺そのものを含め、塔頭と合わせるとここにある国宝、重要文化財、京都府登録指定文化財、京都市指定文化財などなどを合わせると、大変な数になる。
 京都では何度も争いが起こり、応仁の乱にしろ、あるいは天災である天明の大火といった街中を襲った災禍により、貴重なものがずいぶん失われている。その際多くのお寺では貴重な本尊などが、住職たちによって持ち出され守られてきたと言う努力があった。しかし一部の寺院はそのような災禍から無事に逃れられて、ほぼ創建当時の姿を残すといったところもある。そういった意味では大徳寺というのはかなり貴重な存在だ。

黄梅院

   

『黄梅院
 大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄五年(一五六二)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した小庵に始まる。
 大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
 天正十四年(一五八六)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(一五八九)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裡・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裡は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
 秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
 本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の 師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
 墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。
  京都市』  (駒札より)

        


龍源院

 

『龍源院
 大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺南派の本庵である。
 文亀二年(一五〇二)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
 方丈、玄関、表門(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示している。
 方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の東滴壺は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
 このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
 寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(一五八三)の銘がある種子島銃などを蔵している。
  京都市』  (駒札より)

        


興臨院

  

『興臨院
 大徳寺の塔頭の一つで、大永年中より天文二年間(一五二一〜一五三三)に、能登(現在の石川県北部)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
 方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、 天文年中(一五三二〜一五五五)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が 行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。ハイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣き深い。
 寺宝として椿尾長鶏模様堆朱盆(重要文化財)を所蔵している。
 墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。
  京都市』  (駒札より)


         
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《切れじいさんの食道癌闘病記》 No.33  2022.5.27

2022-05-28 23:13:06 | 闘病記


 日赤病院へ診察に行く。2週間前に受けた検査結果の内容を聞くためだ。 CT スキャンと胃カメラ、そして血液検査の結果。
 朝9時ということでいつもより早起きして出発する。以前同じ時間に指定された時には通勤渋滞で、予約時間よりも遅刻してしまった。今回はなぜか渋滞は少なめで充分間に合った。

 診察券を出して待合室で待っている。やはり大規模病院とあって朝から大勢の人が来ている。朝早い予約の人は大半が、何らかの検査結果を通知するというケースだ。それが終わってから新たな患者や入院中の人、あるいは説明時間が長引くケースなど、様々なケースが扱われる。私もかつてはそちらの方だった。
 程なく名前が呼ばれて診察室へ入る。各検査の結果は概ね大丈夫だろうというものだった。極めて好調という表現でなかったのは、やはり胃カメラの映像内容の関係だろう。私自身も当日モニターに映し出された、食道内の様子を見ていると食道の内壁がかなりガタガタで、出血も見られ、まるで5年前に食道癌が発覚した時の胃カメラの映像のようだった。今回はその5年前と同様に食道内壁の荒れた部分の検体を切り取って、精密検査するということだった。その結果は特に癌細胞は見当たらず大丈夫だったのだ。

 しかし食道内壁の凸凹はさすがに気になった。主治医はやはり逆流の影響でこのように荒れた部分ができているのだろうと言われた。この間派手な逆流現象は起ってはいなかったが、軽い逆流は確かに何度もあった。なぜ逆流が起こるのかはよくわからない。いつもより少し食べ過ぎたなという時などは、確かに胃が重く逆流的な現象を感じることがある。あるいは寝床について、首の下部分あたりから頭にかけて傾斜をつけて寝るのだが、それが甘い時に軽い逆流が起こることがある。そういった軽い逆流が何度かある中で、このように食道内壁が爛れてしまうということなんだろう。そういった意味では、胃酸というのは大変強力な酸を持っているということになる。このような胃酸で消化している胃の中というのはこれに耐えるのだからすごいものだとつくづく思う。

  CT スキャンの方も、また血液検査の方も特に問題なしということだったので、それはそうなんだと受け止めるしかない。しかし服薬はまだ当分続くことになる。次回は8月下旬だ。その時は血液検査のみ。あと診察。
 そしてその次の診察が10月か11月になる。ちょうどその時点で手術から満5年となる。胃カメラや CT スキャンなど精密検査を行うことになると思うが、これで特に問題なければ少なくとも食道癌については「寛解宣言」ということになる。
 しかし私の場合には、たとえ寛解と言っても食道癌の出来た部位が胃のすぐ近くなので、かなり複雑な手術をしている。胃の中に取り込まれた食べ物は食道の出口にある便の働きで逆流することは普通はない。しかしこの便が何らかの原因で弱くなっていて、食道の上部へ胃酸とともに上がってくるのが逆流性食道炎だ。私の場合にはこのストッパー役の便が手術の結果ないのだ。従って水平に寝るだけですぐ胃酸が逆流してくる。だから寝る時には背中から上部をやや上向きにして角度をつけて寝ることが求められる。そして寝返りも左側を下にすることはできない。必ず右側が下になるように寝なければならない。一応布団で左向きにならないように壁を作っているので、そこは何とかなっている。

 こんなことをしながら丸5年間、自分なりにはなんとかやってこれたなと思っている。食道癌と宣告された時に、国立がんセンターの公表値で、食道癌の場合の5年後生存率が45%と知った際には少々愕然とした。ちょうど肺がんと同様の生存率だったのだ。手術中にステージ2ということが分かったが、今ではその数値は医療の発展により少し改善されている。しかし相変わらず生易しい数値ではない。これが10年後生存率となると、ほぼ30数%に近い数値だ。例えば70歳で食道癌になった場合には、10年後は80歳。そこでの生存率ほぼ30%というのは、男性の平均寿命にほぼ近い数値となるので、必ずしもこの癌だけが死亡原因ではないかもしれない。これがもし50歳で食道癌というのならば、60歳で生存率ほぼ30%というのはなかなかキツイものがある。


   (サイト「人間ドックの評判とホントのところ」より)

 私の場合にはこれの中間くらいの場面で手術を受けたので、10年後生存率は男性の平均寿命近くということになる。平均余命で見るととてもそこまでは厳しいということになる。
 まあしかしこういうことを考えていても、何かがどうなるわけでもなし。常に気持ちの中はケセラセラと言った気分でやっていくしかないだろう。癌であろうがなかろうが、来るものはいつしかやってくる。自分の中で何か達観したものがあればいいのだが、何かの修行したわけでもなし、やはり聖人君子の高みに至るわけではなく、ケセラセラが一番自分としては合っているのかもしれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福寿院  京都市上京区

2022-05-26 22:38:46 | 撮影


 福寿院は二条城から北西約1 km ほどのところにある。付近は住宅街であると同時に小さなお寺の密集地となっており、少し歩くと次のお寺、また街路に出ると次のお寺が見えるといった雰囲気だ。多くのお寺は柵が閉まっており、特に拝観ができるというわけではないが、中には境内へ入れるお寺もある。たまたま福寿院は柵が開いており、境内に入ることができた。
 浄土宗のお寺という以外、何の情報も見つけることはできなかった。同名のお寺が仁和寺の塔頭寺院としてあるが、おそらくただ単に同名であったということだろう。宗派も全く異なる。

  

 比較的小さな山門をくぐると、境内は緑が非常に豊かで、季節によっては綺麗な花が、住職さんによって植えられているようだ。訪れた2月においてはさほど花というものは見られなかった。木々の間の道を少し進むと目の前に本堂が現れる。比較的小さなお寺だが、本堂そのものは本格的な造りのもので、わりと立派に見えた。内部におそらく本尊が安置されており、時々ご住職さんの法話会などが行われ、町内会の催し物などもあるんだろう。またその近くには鎮守社が控えていた。がしかし、これだけお寺が密集していると、それぞれ檀家さんなどはどのような具合になっているのか。経営的にはどうなのか、ちょっと心配になってくる。

 豊臣秀吉による京都改造計画の中で、街路の整備とともに住居街や門前町などの整備が行われ、お寺などはあちこちかなり移転させられている。その結果京都市内にはお寺密集地帯というのが、結構あちこちにある。かつては一戸一戸の家が何かのお寺に属するという形を取っていたので、経営状況はある程度やって行けたのだろうが、今のように信教の自由という世の中では、特に若者世代にとってあえてどこかのお寺の檀家さんになるというケースは極めて少ないように思う。法然さんもまさかこんな事になるとは当時は思いもしなかっただろう。せっかく難しい教義をを少し横に置いて、誰もが南無阿弥陀仏を唱えることによって、極楽往生の世界へと導かれるというのに、今やそのようなことを考える余裕もない忙しい社会となってしまった。
 何らかの文化財や庭園などで有名な寺院であれば、それなりに観光客も含めて収入が期待できるだろうが、街中の小さな寺院としてはそのあたりも厳しいのではないかと思われる。

  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《 ロシアによるウクライナへの侵略という暴挙 》 ㉑  2022.5.24

2022-05-24 23:44:31 | 社会


◆ ウクライナへの侵略開始から3ヶ月・・・現状は

 ウクライナ軍の激しい抵抗から、ロシア軍は当初の目的を達成できずに途中で東部地域の制圧に目標を変えた。もともと不当に手に入れていたクリミア半島をもとにして、そこから黒海沿岸地域を全て制圧し、いわば海岸地帯を手に入れるというところまで来ている。
 市民たちの命をかけた抵抗を続けていたマリウポリも鎮圧され、先日最後まで残っていた500数十名の人たちがロシア側に投降するという事態になった。戦闘の状況そのものは東部のドンバス地方を中心にした地域に集中している。まだこの地域に残っている一般市民も数多くおり、やはり先日街の駅に集まっていた人たちの中に砲弾が撃ち込まれ、60名以上が死亡するという事態となった。たった一発の砲弾でも助かった人の証言によれば、手足を失ったり体がバラバラに吹っ飛んだといった事態になったようだ。かくも戦争というのは残酷なものだと言える。


 
 ゼレンスキー大統領はウクライナ東部の状況は極めて厳しいと発言しており、それでも戒厳令を8月末まで延長するとし、徹底的に抗戦すると言う。ウクライナにとってのこの戦いの勝利というのは、ロシアが戦闘を開始した以前の状態に戻すことと発言している。つまり領土は1cm足りとも渡さないという決意の表れだ。
 ウクライナの中部から西部にかけては、戦いそのものは比較的落ち着いてきており、国外に避難した人たちもかなり戻ってきてると言う。そういった意味ではウクライナ軍も戦力を東部に集中して投入して戦いをある程度有利に進めることができるようになるのではないかと思われる。
 アメリカやイギリスの戦争研究所などの推計によると、ロシア軍はすでに約15000人の損害を出しており、予想を遥かに超えた厳しい戦いを強いられていると言う。ただしウクライナ側の死者の数は軍人一般市民合わせると、おそらくそれ以上ではないかと思われる。戦争における国際協定の遵守などは全く無視され、一般市民への攻撃殺戮、学校や病院への攻撃、ミサイル攻撃などなどいわば、無差別攻撃をロシアという国は平然とやってのける。
 すでにロシア側の攻撃用兵器の残量がかなり厳しくなりつつあるとも言われており、生産が間に合わないという実態もあり、さらに高度な技術を持った最新兵器が、事実上使えないと言った現実もあるようだ。
 ウクライナへは西側諸国から最新兵器が次々に供給され、さらに無人機ドローンによるピンポイント攻撃が、次々とロシアの戦車や艦船などを攻撃し、ロシア軍の損害は止まることがないような状況になっている。このままいくと物量的にもロシア側が不利になっていくのは目に見えている。ロシアが手詰まり状態になった時にはじめて、停戦協定の話が持ち上がるとゼレンスキー大統領は発言している。
 ネット上の様々な情報によると、ロシア軍の逼迫状態はもう時間の問題だと言う意見もあれば、このまま年末まで一進一退で進むのではないか、との見方もあるなどと報じられている。
 そんな中、ウクライナ軍によるプーチン大統領暗殺計画があったが、失敗に終わった、との報道が出たりした。どこまで信憑性があるものかは分からない。また国連に派遣されているロシアの外交官が、ロシアのしていることに耐えられないということで、外交官を辞し亡命を発表した。プーチン大統領を巡る周辺の動きが今後どのようになっていくのか、ということもかなり大きな影響を持つことになると思う。

◆ フィンランド、スウェーデンの NATO 加盟について

 北部にある両国が NATOへ の加盟を決意した。 NATO とは「北大西洋条約機構」のことで簡単に言えば、ヨーロッパを中心とした西側諸国の軍事同盟的な組織だ。フィンランドとスウェーデンについては、ロシアのすぐ隣の国ということで、NATO には属せずいわば中立的な立場を取ってきた。中でもフィンランドはロシアと、直接国境線を約1300 km にわたって接している。内海を抜けてすぐ隣がスウェーデンだ。やはり同様な立場をとってきた。
 しかし今回のロシアの一方的な侵略戦争は、両国に極めて大きな衝撃を与え、理想論的な中立立場などというものが通用しないであろうと判断したんだろう。 NATO に加盟すれば加盟国に少しでも攻撃を加えれば、 NATO 諸国全体が反撃に出るということになる。となればいくらロシアであってもそう簡単に手を出すことはできない。
 フィンランドは第二次世界大戦の頃に、旧ソ連が一方的に侵略を開始し多大な犠牲を払って自国を守ったという過去がある。それだけにフィンランドとしては、旧ソ連、現在のロシアという国を信頼するということなどは全くできないはずだ。



 そのためにフィンランドは徴兵制を取っており、軍事力そのものはロシアに比してかなり劣るものの、かなり強力な軍事力を発揮することができるのではないかと考えられている。さらにスウェーデンに至っては、ハイテク工業技術のレベルが非常に高く、自国で独自に戦闘機や世界最新鋭の武器を開発生産することができる。日本ではスウェーデンといえばボルボという車が有名だ。サーブと言う会社の車もあったが、この会社は戦闘機などを生産している会社でもある。人口も少ない国とはいえ、いざという場合の軍事力については決して侮れないものを持っていると言われている。
 この両国の NATO 加盟については、現30カ国の100%賛成が必要だが、トルコがネックになると言われている。トルコは NATO の国でありながら、ロシアとの結びつきもある程度あって、反対に回る可能性があると言われている。ただ他の29カ国から圧力があるだろうし、最終的には両国の NATO 加盟に賛同するのではないかとの見通しだ。

◆ 今後の成り行きは

 こうしてみた時、ロシアは旧ソ連時代の広大な領土を復活することを目的に、ウクライナに理不尽な理由をつけて侵略をしたものの、逆効果の現象が生まれつつあるということになる。つまりロシアのすぐ隣に NATO の国が新たに誕生するということになったのだ。ロシアにとってみれば NATO の国に対して攻め込む大義名分は何もない。プーチン大統領はあらたな戦争の危機が生まれると脅し文句に終始するばかりだ。
 ともあれヨーロッパにおいては、ロシア、エストニア対 NATO 諸国の新たな対立構造、かつての冷戦構造のようなものが生まれることになるのではないかと考えられる。仮にプーチン大統領が政権をおりても、ロシアという国が行った残虐行為の責任は取らされることになるだろう。この代償は極めて大きい。仮に非常に民主主義に長けた新大統領が誕生したとしても、ロシアの責任は国際的に追及されるべきだし、おそらくそうなるだろう。
 このように考えてみると、何やら第1次世界大戦の後の世界の構造に似たような感じになってしまう。敗戦国ドイツがワイマール共和国として出発したものの、戦争責任を厳しく問われ追い詰められ、その結果ヒトラーと言う新たな独裁者であり、ゲルマンの英雄として讃えられることになる人物の登場を許し、それが次の大戦へとつながっていってしまった。
 
 まだまだ戦闘状態は続く。どのように帰結するのかは不明と言えば不明だが、ゼレンスキー大統領は一切退く気持ちを持ち合わせてはいない。あくまでもウクライナの本来の土地を完全に取り戻すことが最終目的であり、そこからロシア勢力を追い出すのがウクライナにとっての至上命令なのだ。おそらくまだまだ多大な犠牲者が出るだろうと思われる。
 ロシアが音を上げて侵略を諦めるのか。あるいは国家総動員をかけて本格的な戦争にさらに突入していくのか。または戦術核兵器を使ってウクライナに止めを刺すのか。様々な在り方が考えられる。
 これらを遠くで眺めているのが中国だ。ロシアの取った作戦に対して、中国はそこから何を学びどのような方法で台湾侵略を行うのか。これも同時進行で大きな世界的な課題となっている。

   (画像はニュース映像より)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弘源寺(天龍寺塔頭) 春季特別拝観  京都市右京区   2022.5.14

2022-05-22 22:41:58 | 撮影
  

『天龍寺塔頭 弘源寺

 弘源寺は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院。永享元年(一四二九) 室町幕府の管領であった細川右京太夫持之公が天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建した。持之公の院号をとって弘源寺の寺号とした。細川家は清和源氏の流れをくみ、足利家より分かれた細川家九代が当寺の開基持之公である。創建時は小倉山の麓に位置し、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していたが、幾度かの火災に遭遇し変遷を重ね、明治十五年に末庵である維北軒 と合寺した。本堂からの眺望は雄大で、嵐山を借景にした枯山水庭園が春の桜、 秋の紅葉と調和する景色は嵐山屈指である。

 本堂は客殿形式で寛永年代の造営。正面中央には本尊観世音菩薩、右側に開山である玉岫禅師像、左側に開基である細川右京太夫持之公の位牌を祀る。柱に残る刃傷は、幕末の「禁門の変(御門の変)」(一八六四)に際し、天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が試し切りをしたものである。』
  (パンフレットより)

   
  
 天龍寺塔頭の弘源寺が春季特別公開ということで訪れた。天龍寺そのものには何度も訪れているが、塔頭寺院に入るのは初めて。
 この日は好天とあって天龍寺そのものに大勢の人が訪れており、また嵐山の中心地でもありこの界隈は大勢の人で賑わっている。ようやくコロナ禍もましになりつつあり、日本人観光客がかなり戻ってきたように思える。

 弘源寺にも門前に特別公開の大きな看板が出ており、わりと多くの人が入っていく。このお寺に期待したのは、毘沙門天立像と枯山水庭園の2点だ。また竹内栖鳳らの日本画が多くあり、歴史的な価値を持つ絵画ファンにとってみれば、たまらないものであろうが私はその方面については二の次となる。

   

 山門をくぐって入り口の受付で拝観料を支払い本堂へ入る。この山門と本堂は、京都市の暫定登録文化財となっている。いずれは正式な指定登録文化財となるだろう。堂内に入ると早速、嵐山を借景とした枯山水庭園「虎嘯の庭」が広がる。縁側から撮影するのも、あるいは室内からあえて窓枠を入れて撮影するのも趣があって、非常に良い。さすがに固有名詞が付けられた庭園と言える。順路に沿って進んで行くと、様々な建物が廊下を通じて続いており、毘沙門堂へと至る。
 その間、本堂の部屋と廊下の間にある柱には、幕末期に長州藩の志士がこの寺に滞在し、刀を振り回し切る練習をした刀傷が残されている。当初1ヶ所から2ヶ所くらいだと思っていたが、よく見るとあちこちにある。寺の柱をこんなふうに傷つけるというのは、おそらく夜になって酒を酌み交わし、気持ちが大きくなったところで刀を抜いて相手を切り倒す練習をしていたものだと思われる。まあはっきり言って乱暴狼藉といった雰囲気だ。
 さて弘源寺の毘沙門天立像は国の重要文化財。毘沙門天はもともとはインド仏教の神として崇められたものが、中国から日本へ伝わったものだ。京都においては鞍馬寺のものが非常に有名だ。なかなか力強い容態をしているが、中世期の毘沙門天信仰において人気を呼び、今現在では七福神の一つとして数えられ、勝負運に強いご利益があるものとして信仰されている。

 

   (看板より)

   (パンフレットより)
 訪れたのは5月であり、桜のシーズンは大きくずれてしまい、本来ならば4月の桜と秋の紅葉の時期がこのお寺に限らず、天龍寺全体が見所ということになる。秋にも特別公開があるということなので、できればそのようなシーズンを目指して、改めて訪れてみたいものだと思った。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする