切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2024年 桜の花 藤森神社・・・重要文化財   京都市伏見区  2024.4.6 訪問

2024-04-11 23:10:53 | 撮影

    

『藤森神社
 平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴命、神功皇后、日本武尊など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土神として崇敬されている。
 「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年五月五日に行われる藤森祭で曲乗りのの妙技で有名な「駈馬神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。 また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。
 本殿は正徳二年(一七一二)に中御門天皇より賜った宮中内侍所(賢所)の建物といわれる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐長姫命を祀る。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた社の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。
 本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名づけられたという名水「不二の水」は有名である。六月の紫陽花が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。
 京都市』
  (駒札より)

    

『由緒
本殿 主たる御祭神は素盞鳴尊。神功皇后摂政三(二〇三)年、纛旗鎮座の地。
神功皇后が新羅ょり凱旋し給うた後、山城の国深草の里藤森の地を神在の清地として撰び給い、纛旗(軍中の大旗)を樹て、兵具を納め、塚を造り、弓矢蟇目の法を修して神祀りし給うたのが当社の起こりである。延暦十三(七九四)年、桓武天皇より弓兵政所の宝称が授けられ、遷都奉幣の儀式が執り行われた。
東殿 主たる御祭神は舎人親王で、天平宝字三(七五九)年、藤尾の地に鎮座。永享十(一四三八)年、藤森に合祀。
舎人親王は天平宝字三年、深草の里藤尾の地に祀られ、同時に淳仁天皇より崇道盡敬天皇と追号された。藤尾の地は現在の伏見稲荷の社地である。永享十( 一四三八)年、後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が山頂にあった稲荷の祠を山麓の藤尾の地に遷した際に藤尾大神を藤森に遷座して東殿にお祀りし、官幣の儀式が執り行われた。舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝で国政に参与され、養老四(七二〇)年には『日本書紀」を撰し、一方では弓矢蟇目の秘法を伝えられるなど文武両道に優れたお方であられたので、皇室や藤原一門の崇敬も厚かった。天平七(七三五)年に神去り給うた。貞観五(八六三)年、清和天皇の宝祚に際し、奉幣の神事が行われ、これが藤森祭(深草祭)の初めである。
西殿 主たる御祭神は舎早良親王で、延暦十九(八〇〇)年、塚本の地に鎮座。延応元(一二三九)年、深草古天王へ遷座、文明二(一四七〇)年に藤森に合祀。
早良親王は天応元(七八一 )年、兄桓武天皇の皇太子となられた。当時朝廷に謀反し、勢力を増してきていた陸奥の大領、伊治公呰麻呂の征討将軍を拝されたので、直ちに軍勢を催して当社に詣で、戦勝を祈願して出陣しようとされた。これを伝え聞いた反乱軍は忽ち畏怖し、乱は戦わずして平定されたという。このように英武なお方であられたが、延暦四(七八五)年、事に座して淡路に流される途中、神去り給もうた。延暦十九年、桓武天皇は早良親王の神霊に崇道天皇と追号され、塚本の宮(京都市東山区本町十六丁目)に斎き祀られた。伊豫親王、井上内親王のお二方はともに非業の死を遂げられたので、天長三(八二六)年淳和天皇の詔勅により、その御霊鎮めのため御二柱の御魂が塚本の宮に合祀された。塚本の宮は天喜三( 一〇五五)年、隣地法性寺からの出火で悉く焼失、白河天皇の勅により承暦元( 一〇七七)年再建された。建久三(一一九二)年には後鳥羽天皇による奉幣の儀が行なわれたが、度重なる火災と、九条道家が塚本の宮の隣接地に東福寺を建立するため、延応元年、深草極楽寺の南に「古天王」と称する社を建て遷座、応仁の乱で社殿悉く焼失したため、文明二(一四七〇)年に藤森神社に合祀され、西殿に祀られた。』
  (パンフレットより)(*纛旗:とうき、いくさ旗)

   

 伏見区の藤森神社へは何度も訪れている。 2年前の桜の時期にも撮影し、ブログにアップしたが、その時は桜は散り始めで、不十分な紹介となってしまった。今回はほぼ満開に近い状態を撮影すべく訪れた。
 由緒については上記の説明にかなり詳しく紹介されている。創建の時期については詳細は 不明とされる。しかし上記のごとく、一説には神宮皇后の時代、つまり 3世紀初頭に元になる祠のようなものが設営されたという。一般的には平安時代以前だろうとされる。主祭神は 素戔嗚尊であり、後に本殿や境内内末社が整備され、今に至っている。特に勝負の神としてご利益があり、境内には馬の像が設置され競馬の絵画が多数奉納されている。また初夏には紫陽花が境内に広く咲き渡り、大勢の人が訪れる。

    

 本殿は江戸時代のもので京都市の指定文化財となっており、境内社の大将軍社及び 八幡宮社本殿が国の重要文化財に指定されている。本殿の方はまだ300年余りということで、重要文化財には至っていないということだろう。

 境内に駐車場があり車を置いて正面鳥居の前に出る。そこから撮影開始。ちょうど鳥居に降りかかるように白い桜が咲いている。そこから長い参道を通り境内に向かうが、桜見られず。 境内に入ると本殿周辺に桜が目立ち始める。今回もやや散りかけの状態ではあったが、まだまだ十分に白い花を咲かせていた。特に桜の木が密集しているわけではなく、境内のそこここに分散して咲いており、特に抹茶や本殿周辺では桜との共演が いい絵になる。当然夢中になってそれらを次々に撮影していく。一通りぐるっと回ってほぼ撮り終えたかという時に、ちょうどカメラのバッテリーが切れた。もうこれ以上はいいか、ということでそこで撮影は終了。まあまあそれなりに収穫はあったかと思えた。

  

 ただ境内が非常に広く、桜の木がそこそこあっても分散して咲いていると、あまり目立たないのも事実だ。そういった意味では少しズームアップして、背景に本殿や重要文化財の境内社などを入れると、写真が引き締まるような気がする。かなり有名な神社であるだけに、平日のこの日もそこそこ人が訪れている。鉄道の駅からも比較的近く、行きやすい便利な場所にある神社だ。

   
コメント
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