切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2020年 京都の桜 木津川市・神童寺

2020-04-30 23:41:39 | 撮影
 

神童寺へは何回か行っている。秋の紅葉・春の桜が見事というだけでなく、このお寺が所有する数々の重要文化財の仏像がこれまた素晴らしい。
 初めて行った時にはいきなり宝物庫の中で並べられているそれらを見て、この山里にこんな素晴らしいものがあるのかとビックリしたのを覚えている。以来その仏像たちを観るためにわざわざ訪れたりもしている。
 今回はあくまでも桜の撮影に絞っている。これもまたなかなか見事。ただかなり古い一眼レフで撮影したので、どうにも色彩が納得いかない。画像処理ソフトで若干の調整はしたが、やはりもう少し新しいものを使用すべきだった。とはいうものの所有している一眼デジタルは全て中古品を購入したもので、新品で買ったものはひとつもないという有様だ。



『神童寺縁起
 当山は、聖徳太子が初めて開き、自ら千手観世音菩薩の像を彫刻して本尊とし大観世音教寺と号した所で、のち後行者が来て、除災招福のために自ら蔵王権現の像を彫刻して本尊とし、北吉野山神童寺と呼ぶことになりました。
 白鳳四年、役行者が当山に登り行法していると、突然童子が現われて「汝の傍らに石楠花の樹あり、誠に霊木なり。これにて仏像を刻み衆生を済度せよ。吾らは子守、勝手、金精、佐抛の四神、常にこの樹を守護す。」と言い終わって空に飛び去りました。行者は奇異に思い「三世十方の諸仏願はくは諸の悪魔を降伏して衆生に福を与へ給へ。」と祈ること三七日、満願の暁大地震動して地中から光明を放ち、忿怒の形を具えた蔵王権現が現われ、悪魔降伏、除災招福の相を示現し、虚空遥かにかくれました。役行者は歓喜の涙に咽び、大慈悲の仏思に奉謝し、すぐ石楠花の樹を以て蔵王権現の像を彫刻し始めると、南方から神童が二人現われ、これを助けたので像は忽ち成りました。神童は、「吾等は天八百日尊、天三下尊なり、永く伽藍を擁護せん。」と言い終わって去ってしまいました。役行者は、そこで別に蔵王堂を建てて権現像を安置し、天八百日尊、天三下尊(当村社の祭神)、子守、勝手、金精、佐抛(当村社末社祭神)の六神を勧請して伽藍の守護神とし、また、永く神徳を顕わすため、ここに寺号を改めて神童寺と称することになりました。
 次に、役行者は自らの像を彫刻して、開山堂に置きました。養老六年(七二二) 泰澄大師が当山に登り、鷲峯山を北山上、当山を北吉野山と名づけました。』
 (パンフレットより)

               
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2020年 京都の桜 大山崎町・山崎聖天

2020-04-29 22:41:41 | 撮影
 山崎聖天については昨年の紅葉の特集で、このブログで紹介したばかりだ。昨年の台風19号の被害が甚大で、特にに仁王門には巨木が折れて倒れかかり、修復工事中だった。境内にもあちこち倒れた木が存在しており、見事な紅葉とその惨状にびっくりしたものだ。しかしやはり相当な被害を受けたにも関わらず、紅葉の素晴らしさが勝っていたような気がした。
 今回は数ヶ月ぶりに桜ということで訪れた。先に仁王門の方に回ると、すっかり修復工事は終わっており、見事に復活を感じさせる。石段を登り境内に到着すると、あちこちにこれまた満開の見事な桜があちこちに花開いていた。各建物もほぼ修復が終わったようで、わずかに境内の隅に切り倒された、あるいは切り落とされた木の幹や枝が積まれていた。こんなに早く復帰するとは思っていなかったので、ある意味びっくりした。
 やはり大山崎町の地元においても、人々が誇れるだけの有名寺院であり、観光客も比較的多い。この日も三々五々カップルを中心に、桜を楽しみにやってきていた。やはり復帰が早いと訪問する人たちにとっても勇気が湧くんだろうと思う。
 早速撮影に入る。ところがなんと、ここで持参した一眼カメラが故障。一応シャッターが切れるものの、露出が作動せずほとんど真っ白な画像。あれこれ調整してシャッター押すと 今度は真っ暗な画像。もちろんそのままでは合焦せず、シャッターが切れないのでマニュアルでシャッターを切っている。わざわざここまで来て見事な桜を目の前にして何という有様だ。
 あれこれ試した結果、ライブビュー撮影では合焦しシャッターが切れて、一応撮影そのものができることが分かった。仕方ないのでこの方法で撮影を進めるが、明らかに画像の状態から見ると、露出がおかしい。露出調整をして自然に見えるように調整したつもりだが、最後まで適正露出にはならなかった。
 従って今回の写真は一見綺麗に見えるものの、露出不良ということで、必ずしも正しい色が反映されていないということを前提にご覧ください。
 それにしても山崎聖天さんが早くも復活したことは本当に喜ばしいことだった。

 

『観音寺(山崎聖天)
 宗派 真言宗
 開基 宇多法皇
 寺伝によると、平安時代の昌泰二年(八九九)宇多法皇の御願寺として創建したというが明確ではない。記録上はっきりわかるのは、江戸時代前期の延宝九年(一六八一)摂津国勝尾寺の木食上人以空が夢告によって当寺を中興開山し、聖天堂を興して歓喜天を祀った。それ以後、霊元、東山、中御門天皇の厚い帰依を受け、また、商売繁盛家運隆昌を願う住友家、鴻池家、三井家など巨大商人の信仰を集め、京都、大阪の商人の参詣を得て大いに発展した。それは外ならない歓喜天への信仰で、本尊の観音菩薩よりも有名になり、山崎の聖天さんとして世に知られた。このように江戸時代を通じて栄えたが、元治元年(一八六四)禁門の変の兵火で一山灰燼に帰してしまい、その後明治二三年以降順次復興され現在の姿となった。
毎月、 一日と十六日の縁日には多くの参詣者で賑わ ている。
  昭和六十一年三月
  大山崎町教育委員会』 (駒札より)

            
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2020年 京都の桜 山科区・三之宮神社~吉利倶八幡

2020-04-28 23:09:26 | 撮影
 2箇所の神社は相互に比較的近くにある。
 何れもこのブログで紹介済み。桜の風景を紹介するのは初めてかもしれない。ともに見事なものだ。どちらも車でも行きやすく、駐車場もある。
 それぞれに長い歴史を持つ由緒ある神社であり、八幡宮の本殿は京都市の指定文化財となっている。さすがに素晴らしい。

三之宮神社



『三之宮
祭神は鵜鵜草葺不合尊で醍醐天皇の延喜年中(西暦九〇一~九二二)に本社殿を建立し、のち醍醐天皇をも合祀した。 その後はなはだしく退廃したが、後小松天皇(西暦一三九二~一四一二)の勅によって再興された。 後水尾天皇もまた深く当宮を崇敬し、慶長十八年(西暦一六一三)社殿を改築せしめ、 元和九年(西暦一六二三)勅願所の綸旨を賜うた。明治に至るまで、 毎年宮中より神供米一石を下賜されていた。』
 (石碑説明書きより)

『大般若経宝蔵の由縁

 三之宮は延喜年中(九〇一~九二三)の創建と伝えられ、往古より山科七郷の総鎮守的存在であった。
 後、応永三年(一五九六)に、後小松天皇より山科郷に大般若経六百巻と大般若十六善神本尊を下賜され、三之宮宝蔵に之を納め、尓来(それより)近世に至るまで毎年三回山科郷士が廻り持ちで輪読供養されていた。
 其の後、元和三年(一六一七)神社境内に別当寺妙智院が造営され、是より大般若経輪読の際には僧が修行することとなったが、明治維新の神仏分離令発令に伴い廃止された。
 この経典は、郷中の最も尊重するもので、うち三巻は御宸筆で其の餘は当時の親王、公卿、門跡方の書写せられたものである。
 平成十三年正月  三之宮氏子有志 識』 (境内説明書きより)
      


吉利倶八幡



『八幡宮の御由緒
御祭神  応仁天王 仲哀天皇 神功皇后

御鎮座地 京の都は山科に伏見に通じる御道あり 大岩街道と称す その街道沿い東の端山八幡山の中腹に平安時代の初めより御鎮座されております
 京都外環状線と京都府道三十五号大津淀線の交差点「外環小野」を淀方面へ 勧修寺の南側に表参道の鳥居が望めます
 京都市営地下鉄東西線「小野駅」一番出口より 徒歩約五分 境内地及び常緑の山林・鎮守の森が当宮の宮域で御座います

勧請・沿革  仁寿の御代 八幡山の中腹に夜毎に金色に光を放つ神木があり人々は恐れ慄いておりました そのことをお告げで知られた文徳天皇はこの地を鎮護国家の霊場とすべく 社殿を創建し八幡大神様を勧請され 御遷宮の儀を執り行いましたところ山は激しく鳴動したと云われております
 昌奉三年 延喜格式を编纂し延喜帝とも称される醍醐天皇は真言宗山階派 大本山勧修寺建立の鎮守の神とし 造営料に社領等寄付されました
 往古より王臣家の崇敬深く社祭には刺使の差遣が御座いました また宇多天皇の皇子敦実親王は自作の尊像を奉安されるはどであり その頃より世間では神仏習合思想が流行し始め参詣者は盛んに五穀豊穣・平穏無事をご祈願されました
 やがて源氏の八幡信仰が広まりますと当宮にも武将ゃ大名より社領神宝その他数多の寄進があったと云われており 長禄二年には室町幕府 八代将軍 足利義政公より修覆造営料とし社領等の寄進も御座いました
 その数年後 羲政公の後継等複数の要因から応仁元年より文明九年の十一年間の長きに亘り洛中各所で大乱が展開されました 文明二年七月には大内政弘が勧修寺に東軍を攻め一带に火を放ち この兵火のため当宫の末摂社数多の神宝・旧記等悉く炎上焼失致しました
しかし何故か本殿だけは延焼を免れ 御神木がその身代わりにか大火のため枯れたような色になりました そこで枝を切り払いましたところ梵字=サンスクリット文字「キリーク」=がその切り口に浮かび上がりました それより種子八幡とも称され「吉利倶」の文字が充てられたとも云われております
 辛にしまして勧修寺に八幡縁記等貫重な古文書が残っておりましたので事跡の一端をそれに依って辛うじて知る事ができます
 国家安泰・武運長久に霊験あらたかと豊臣秀吉公 伏見城北東に鎮座する当宮を崇敬するも慶長三年八月十八日死去ㄝられ その遺命にて豊公重臣 寺社奉行の前田玄以が同年十二月金燈籠・木製灯籠及び社領十二石を寄進されました (以下略)』
  (説明書きより)



『八幡皇大御神様は 千古より常緑の空の杜に鎮守されております
元禄八年 出羽新庄藩主戸沢政寔 再建の檜皮葺の御本殿 慶応四年伏見宮邦家親王の第一王子 山階宮晃親王が拝殿を寄進 端麗な姿で鎮まり 清々しくも尊厳な空気の中に聳える御神矢は総代会が奉納したもので御座います 境内各所の燈篭や狛犬 鳥居に至るまで親王様や氏子崇敬者をはじめ御参詣の皆様が奉献されたものであり敬神の念が感じられます
 現在 古と変わらぬ神聖な姿を保ち 広大無辺なる御神威を発揮されているのは祖先から受け継がれてきた貴重な伝統や文化遺産 そして素晴らしい魂を受け継いでいる賜物で御座います 今後も皆様の御心や御志により 後世に伝えていくという意義ある使命を成し遂げなければならないと存じます
 大神様との御神縁により 当宮へ御参詣の皆様におかれましては 御賢察の上格別の御理解を賜りますよう 宜しくお願い申しあげます
八幡宮 宮司 長谷川責啓 拝』
  (境内説明書きより)

『京都市指定有形文化財
 八幡宮本殿

 八幡宮は仁寿三年(八五三)の創建と伝え、江戸時代までは勧修寺の鎮守社であった。
 現本殿は元禄八年(一六九五)に建築された。このときの大工は、後に勧修寺の宸殿等の造営を手掛けていることから、勧修寺の元禄復興の一環として再建されたと考えられる。その後、享保十九年(一七三四)と安永八年(一七七九)に修理が行われており、向拝部労は様式から、享保の修理時に改変されたものと推定される。
 建物は桁行三間、梁行二間で切妻造、桧皮葺の屋根をのせる。内部は、内陣と外陣が前後に仕切られるが、間仕切の位置は棟通りと一致せず正面に寄り、内陣には祭壇が設けてある。
 この本殿は、向拝が改変されているものの、当初の姿をよく伝えており、江戸時代中期の大型の切凄造平入本殿として、その価値は高い。
 昭和六十二年五月一日指定
 京都市』
 (駒札より)

           
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2020年 京都の桜 向日市・北真経寺~泉福寺~南区・光福寺

2020-04-25 23:06:59 | 撮影
 この日は3ヶ所を回る。
 北真経寺と光福寺についてはすでにこのブログでも紹介している。泉福寺は初めてだが、お寺がホームページを開設しており、そこに記された縁起を読んでみると、かなり古い歴史を持つ由緒のある寺であることがわかる。こちらのお寺の桜の木は、上部が切られていたが、後の2箇所はもはや名所と言ってもいいくらいのなかなか見事なものだった。これだけ青空が広がっていると撮影していても非常に気分がいいし、出来上がった画像を見て自己満足感に浸れる。



北真経寺

 

『鶏冠山(かいでさん) 北真経寺
 当寺は、鎌倉時代末に日蓮宗を関西にひろめた日像上人によって、真言宗真言寺から改宗・改名して真経寺と称するようになりました。この時以来、真経寺
日蓮宗集落として、日像上人の布教活動の拠点の一つになりました。は、村民の信仰を集めるようになり鶏冠井は関西最古の日蓮宗集落として、日像上人の布教活動の拠点の一つになりました。
 江戸時代に入ると、鶏冠井に檀林という「宗門の学問所」が設けられました。これを機に真経寺は、二つに分かれ、南真経寺(現・向日市鶏冠井町大極殿)と北真経寺(現在の所在地}となりました。
 そして、北真経寺は、学僧の集まる学問所として承応三(一六五四)年に通明院日祥によって
開講され「鶏冠井檀林」として知られるようになりました。境内には、「楓寮」や「松寮」、「竹寮」などと呼ばれる学僧の寄宿舎が九棟をはじめ学舎が建ち並び、盛時には百名を超える学僧が集まり、教義を学んでいました。
 数多くの学僧を育てた檀林も明治八(一八七五)年に廃され、明治十一 (一八七八)年には学舎のほとんどが解体されましたが、現在の本堂や東隣の食堂などは、檀林の面影をよくとどめています。特に本堂は、檀林時代の講堂を受け継ぐ貴重な建物として、京都府の登録文化財となっています。
 また、檀林時代に所有していた教義書やその版木・学僧の守るべき定書をはじめとする数多くの古文書が現在まで保存されています。近年実施された境内の発掘調査では、学僧が使用していた陶磁器などが発見されました。
 このように永い歴史をもっ北真経寺の境内一帯は、かつて長岡京(七八四~七九四)の内裏(天皇の私生活の場)の中心部でした。西側道路を隔てた公園は、内裏内郭築地回廊跡として国の史跡に指定されています。』
(境内説明書きより)
       


泉福寺



『建立は都が長岡京から平安京に移された延暦13年〔794〕とされます。
桓武天皇はその遷幸の際、突然雷雨に見舞われ、あわてて松の木に逃げ込まれました。
激しい落雷の中、松の木の下で天皇は一心に観音経を唱えられ、
そのかいあってか、雷雨はやみ、無事遷都できたといわれています。
このお礼にこの松の木で観音様を刻み、御堂を建立したのが始まりとされています。』 (寺HPの縁起より)
   


光福寺



 『當寺は天暦九年(九五四)村上天皇の勅願寺として開基浄蔵貴所によって創建された。當時平安京の東北の表鬼門比叡山に対して西南の裏鬼門の寺とし、て京城を鎮護する役割を担っていた。時の侵蝕には抗しえず現在八堂宇とかろうじて構えているのみであるが、それらを覆う「蔵王の森」は糺の森、藤の森と共に古来京の七つの森の一つに数えられ往時の名残を今にとどめている。室町時代から江戸時代を通じて近郷民衆の諸事集合の拠点に用せられ當寺発祥の久世六歳念仏は、その民衆的心情を伝える無形文化財として現在も人々に珍重されている。』
 (門前立て看板より)

 

『蔵王堂光福寺
 天曆九年(九五四)第六十二代村上天皇の勅願により、吉野金峯山で蔵王権現を感得した浄蔵貴所が、平安京の表鬼門比叡山延曆寺に対し、西南角裏鬼門を守護する地を求めて桂川を遡る途中、当地にさしかかった時、西の一村が光り輝き、背負っていた蔵王権現が大石の如く重くなり、一歩も動けなくなったために問うと、「この地は薬師、弁財天女の地主なり」との答えがあり、この地を権現有縁の地とし、当寺を草創したのである。
 「光福寺」の寺号は弁財天女の異名「福宝光明女」、「医王山」の山号は薬師如来の別名「大医王仏」に由来する。
 吉野の地との縁で参道には桜が植えられ、京の七つの森の一つ「蔵王の森」にも数えられた境内は樹齢三百年の楠などの樹木におおわれ、蔵王堂、薬師堂、弁天堂などの堂宇が点在している。每年八月三十一日の八朔祭法楽会に奉納される重要無形民俗文化財「久世六斎念仏」は当寺が発祥とされる。
  京都市』  (駒札より)

          
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2020年 京都の桜 伏見区・龍雲寺~海宝寺~栄春寺~宇治市・御蔵山聖天宝寿寺

2020-04-24 23:26:48 | 撮影
 この日は伏見桃山界隈とすぐ隣合っている宇治市の一部を回る。
 4箇所のお寺は全てこのブログで既に紹介済み。詳しいことはまたそちらで見てください。何れも桜という意味では特に紹介されることもないが、中には十分名所と言えるところもあった。やはりお寺に桜というのは随分合うものだと改めて思った。


龍雲寺

     


海宝寺

 

『海宝寺
 黃檗宗福聚山海宝寺は、黃檗宗萬福寺開祖・隠元隆琦禅師が中国から伝えた精進料理「普茶料理」で知られ、普茶開祖道場と呼ばれる。享保年間(一七一六~一七三六年)、萬福寺十二代・杲堂元昶禅師によって創建され、萬福寺十三代・竺庵浄印禅師が隐居先とした。京都伏見の呉服商・大文字屋(現・百貨店大丸の前身)の創始者・下村彦右衛門正啓は竺庵禅師に帰依し、自ら淨財を投じて伽藍を築いた。庫裏は下村家の屋敷を移築したもので、江戸時代中期京都で活躍した奇想の絵師、伊藤若冲(一七一六~一八〇〇年)によって寛政二年(一七九〇年)に「群鶏図」が描かれた。この絵は約一〇メートルにもおよぶ水墨の連続画面となる障壁画で、若冲はこの絵を描いた後、筆を執らなかったことから、障壁画の部屋は「若沖筆投げの間」と呼ばれる。
境内は、仙台藩の藩祖伊達政宗の居館跡といわれ、伊達政宗手植の木斛や豊臣秀吉遺愛の手水鉢などが伝わる。
 京都市』  (駒札より)
     


栄春寺



『栄春寺
 泰澄山と号し、永禄十一年(一五六八)、道元禅師が越前に移住後、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として、勅特賜昼普光錦禅師考蒲伝養和尚により開創された。
 現本堂は、天保十年(一八三九)の改築。本尊は伝泰澄大師作の釈迦如来坐像であり、徳川家康の家臣であった酒井重勝が寄進したもの。観音堂は、文化十一年(一八一四)の建立で、
西国三十三所観音と聖観音を祀る。総門は伏見城の遺構である。
 後丘の墓地は、豊臣秀吉の伏見城城下町の惣構えの土塁の遺跡で、中央に江戸時代の代表的兵学者、長沼宗敬澹斎の墓と、文化三年(一八〇六)会津藩主建立の巨石の碑誌があり、撰文は大学頭林述斎によるものである。会津藩と寺は、幕末まで交渉があった。
 寺内には、福山藩主寄進の澹斎画像と澹斎の主著「兵要録」全五篇をはじめ関係資料を蔵している。
 京都市』
  (境内駒札より)
    


御蔵山聖天宝寿寺

             
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