神童寺へは何回か行っている。秋の紅葉・春の桜が見事というだけでなく、このお寺が所有する数々の重要文化財の仏像がこれまた素晴らしい。
初めて行った時にはいきなり宝物庫の中で並べられているそれらを見て、この山里にこんな素晴らしいものがあるのかとビックリしたのを覚えている。以来その仏像たちを観るためにわざわざ訪れたりもしている。
今回はあくまでも桜の撮影に絞っている。これもまたなかなか見事。ただかなり古い一眼レフで撮影したので、どうにも色彩が納得いかない。画像処理ソフトで若干の調整はしたが、やはりもう少し新しいものを使用すべきだった。とはいうものの所有している一眼デジタルは全て中古品を購入したもので、新品で買ったものはひとつもないという有様だ。
『神童寺縁起
当山は、聖徳太子が初めて開き、自ら千手観世音菩薩の像を彫刻して本尊とし大観世音教寺と号した所で、のち後行者が来て、除災招福のために自ら蔵王権現の像を彫刻して本尊とし、北吉野山神童寺と呼ぶことになりました。
白鳳四年、役行者が当山に登り行法していると、突然童子が現われて「汝の傍らに石楠花の樹あり、誠に霊木なり。これにて仏像を刻み衆生を済度せよ。吾らは子守、勝手、金精、佐抛の四神、常にこの樹を守護す。」と言い終わって空に飛び去りました。行者は奇異に思い「三世十方の諸仏願はくは諸の悪魔を降伏して衆生に福を与へ給へ。」と祈ること三七日、満願の暁大地震動して地中から光明を放ち、忿怒の形を具えた蔵王権現が現われ、悪魔降伏、除災招福の相を示現し、虚空遥かにかくれました。役行者は歓喜の涙に咽び、大慈悲の仏思に奉謝し、すぐ石楠花の樹を以て蔵王権現の像を彫刻し始めると、南方から神童が二人現われ、これを助けたので像は忽ち成りました。神童は、「吾等は天八百日尊、天三下尊なり、永く伽藍を擁護せん。」と言い終わって去ってしまいました。役行者は、そこで別に蔵王堂を建てて権現像を安置し、天八百日尊、天三下尊(当村社の祭神)、子守、勝手、金精、佐抛(当村社末社祭神)の六神を勧請して伽藍の守護神とし、また、永く神徳を顕わすため、ここに寺号を改めて神童寺と称することになりました。
次に、役行者は自らの像を彫刻して、開山堂に置きました。養老六年(七二二) 泰澄大師が当山に登り、鷲峯山を北山上、当山を北吉野山と名づけました。』
(パンフレットより)