切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

野神社 京都府宇治市・・・春日社か?

2021-05-31 23:00:31 | 撮影
野神社

  

『野神社
祭神 天児屋根命
由緒
命は天照大御神が天の岩戸に御隠れになった時、再び此の世に御姿を現はし、努力された神として、地域社会に明るい平和を癒し齎し給う神として尊ばれ、又学業の神工匠の神として広く世に知られる所である』
  (境内駒札より)

  

 野神社は宇治市役所から西の方の住宅街の中にある。宇治市そのものは扇状地の上に築かれた街であり、坂や谷間が随所にある。神社のある場所も緩やかな斜地になっている。ちょうど私のウォーキングコースのすぐ近くだ。以前から行くべきだと思いながらも、すぐ近くなので先送りとなっていた。
 神社の境内は、周辺の比較的大きめの住宅のおそらく3棟分ぐらいはあるだろうか。鳥居のところに上記のような簡単な由緒の駒札がある。しかしこれだけでは創建等については何も分からない。祭神である天児屋根命の行ったことが記されているだけだ。この祭神は基本的には「春日社」に祀られているものであり、総本社は春日大社となる。この祭神が日本各地に勧請され、全国に春日神社というのがある。
 しかしここは野神社と名乗っている。これはこれでかなり珍しい名前であり、恐らく全国にも十数社前後くらいしかないだろう。もちろん神話に登場する神であり、神仏習合の神として知られてはいるが、その意味では奈良時代よりもずっと前の、ということになる。だが神社のある位置は扇状地として、おそらく何度も細い川の流れは変化しており、あちこちで洪水なども多発していたはずだ。したがって大昔から、この神社がこの場所にずっと存在していたとは考えにくい。
 神社の名前をそのまま解釈すれば、「野」というのは野原、原野、荒野といったものを意味する言葉となり、おそらく昔は川の流れも度々変化し、この地に住み着いていたら人々は、少しでも平和で安全な場となるように、この近辺に祠を建てたのではないかと考えられる。
 まぁあくまでも素人考えに過ぎないが、実際のところせっかくの駒札にも創建の由来については何も記されていないので、よく分かっていないのではないかとも思われる。
 中央に本殿があり、両脇に抹社と思われる小さな祠がある。いずれも比較的新しいように思われた。境内は割と雑草が生い茂っており、あえてそういう状態にしているものではないかという状態だ。神社の象徴である大木は途中で切られており、今は中途半端な状態になっている。

     
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京都市東山区 香雪院~山科区 甚五郎大神

2021-05-29 23:26:12 | 撮影
香雪院(東山聖天)

  

 香雪院は、京都女子大学の校舎や附属小中学校などのすぐ隣に建っている。天台宗のお寺で別名「東山聖天」ともいう。江戸時代中期、寛保年間の創建で、元々所有していた聖天像を安置するために創建されたと言う。これには妙法院にとって鬼門となる、丑寅の方角にあたると言う縁もあって、後に妙本院塔頭となる。
 天台宗というのは仏教の中でも密教系に当たり、特定の神などに関わらず様々なものを取り込んでいる。中でも本尊として扱われるのが「歓喜天」であり、その元はインドのヒンズー教に発すると言う。これがのちに仏教に取り込まれ、恐ろしい神と言われていたものが次第にその性格が変わり、謂わば仏教の守護神的な役割を果たすものと理解されるようになった。
 歓喜天というのは「聖天」とも言われ、さらに「象鼻天」とも言われる。元々がインド発祥ということで、インド象が尊重され神として扱われるようになったものが、具体的な像として祀られるようになったんだろう。これらはおそらく仏教だけではなく、神道においてもその影響が表れていると考えられる。
 実際、仏教の本堂などの建物、あるいは神社の本殿などの建物の飾りとして、横向きの象の顔が彫刻されていることがよくある。またここ香雪院でも、境内に象の全身像が置かれていた。本尊としては 「歓喜天」となるが、これには様々な形態があって、その代表的なものが「象頭人身」と言われるものだ。形状は漢字の通り。どのお寺においても秘仏とされており、公開されることそのものがないと言われている。おそらく修理の際などに姿を現すくらいなものだろう。
 発祥の地インドにおいては、歓喜天は魔物であったが、日本の仏教に取り入れられる中で次第に仏教の素晴らしさを表す存在として、歓喜天信仰が人々の間に広まり、「聖天さん」として広く親しまれるようになった。
       


甚五郎大神

 

 国道1号線五条バイパスの途中から、東山の将軍塚へ至る道を走ると、途中に甚五郎大神がある。道路の反対側には京都大学の花山天文台があり、比較的たやすく行けるような場所だ。ただ道路から少し入っているので、大半の人は見逃して通過していくだろう。
 ちょうど高級な料理旅館があって、その入り口の横に甚五郎大神がある。山の斜面に沿っているので少し石段を登る。細く赤塗りの鳥居をくぐってすぐに祠がある。境内と言えるほど広い土地はない。祠の横に大きな石が置かれており、そこに甚五郎大神の名称が彫られている。今でも手入れがなされているのかどうかはよくわからないが、さほど荒れた様子でもないので、おそらく定期的に掃除等はなされているようだ。しかしこの神社に関する情報は全く見つけることはできなかった。
 まず主な手がかりは名前である「甚五郎」だ。歴史的に甚五郎という名前は、「左甚五郎」を連想するケースが圧倒的だし恐らく唯一だろう。私も名前は昔から知っている。江戸時代の彫刻師となる。しかしそれ以上のことについては全く知らないし、今回この左甚五郎について少しだけ調べてみた。
 彼が手がけた彫刻というのは様々なお寺や神社に残っており、それらの製作年代をまとめてみると何百年という差があり、おそらく左甚五郎の名前というのは、何人もの彫刻の名人の象徴として使用されたものではないかと考えられる。直接本物の 左甚五郎が関わったものがどれかはよくわからない。この神社が京都にあるということは、京都を中心に活躍した人物なのか、といえばそうでもない。それこそ各地に足跡を残している。京都でも石清水八幡宮や養源院など手掛けているようだが、別人かもしれない。変わったところで有名なのは、知恩院の御影堂だ。ここが建設される時に、左甚五郎が彫刻に関わっており、高い天井の隅っこに彼が持ってきた傘を忘れて帰ってしまった。それが今現在も残っているという。実際御影堂の前に行くと、矢印が置かれていて、あれが甚五郎が忘れた傘だと紹介されていた。もちろんこれも実際の甚五郎かどうかは分からないが、伝承として残っている。
 おそらく人物名と思われる名称の神社なので、この地域に何らかのご利益をもたらした人を讃えて建てられたものではないか、という気がしないでもないが、果たして祭神も甚五郎なんだろうか。
 まぁそんなはずはないだろう。少し気になるのは小さな狐の像が置かれていることということは、稲荷神なんだろうか。それとも単に深く考えずに狐を置いただけにすぎないんだろうか。もう一点。岩に彫られた文字。「○○明神」 いずれも調べたが該当するものがない。「明神」そのものは、平安時代の延喜式によって定められた神社の格を現し、神を尊敬する呼び名だ。このような明神さんもわからないので仕方がない。やはり左甚五郎とは無関係と見るべきだろう。

   
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三嶋神社 京都市東山区・・・うなぎ?

2021-05-28 22:35:50 | 撮影
三嶋神社

 

『三嶋神社
 祭神として大山祇大神、天津日高彦火瓊々杵尊、木之花咲耶姫命を祀る。
 後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が、皇子のないのを憂い、摂津三嶋神に祈願されたところ、霊夢に感じて後の高倉天皇をお産みになった。後白河上皇は深く三嶋神を崇敬され、永暦元年(一一六〇)、平重盛に命じてこの地に社殿を造営し、三嶋神を勧請したのが当社の起こりである。
 以来、皇室の尊崇厚く、安産加護を祈願された。
 今も子授けと安産の神として信仰され「鰻」の絵馬が多数奉納されている。これは鰻が祭神 の使者とされているためで、祈願中は鰻を禁食する慣わしが現在でも伝えられている。毎年秋 には「うなぎ祭(饅並びに生類放生会)」が行われ、あらゆる生物の出生、育成、放生を加護する神として崇敬されている。
 京都市』 (駒札より)

 

 三嶋神社は京都女子大学の校舎が並んでいるすぐ北側にある。非常に見つけにくい場所で、大学横の街道から細い道を北上することになる。その道を進んでもなかなか見えてこない。ようやく社務所があって、その反対側の細い敷地に三嶋神社がある。車で入ってしまうととんでもない目にあうので、街道のコインパークに入れてあとは歩くべき。
 駒札があったのでここにも掲載したが、由緒については記述の通りだ。平安時代の終わり頃に後白河上皇の皇子がなかなか誕生せず、摂津(現在の高槻市)にあった三嶋神に祈願したところ、高倉天皇が生まれたと言う。この神社のご利益だとして摂津から三嶋神をこの地に勧請したと言う。こうして安産祈願の神として信仰されるようになった。この話が事実であれば平安時代にはすでに 存在していた神社ということになり、千年以上の歴史を持つかなり古い神社だ。
 この神社には「うなぎ」が祀られており、全国的にも非常に珍しいと言う。これは祭神の一つである大山祇大神の使いが「うなぎ」であることからう、なぎが大切に扱われているということで、うなぎ祭りも行われている。
 また狭い境内には「揺向石」という石があり、源義経(牛若丸) 奥州征伐に行くかどうかを迷っていた時に、この石に触ることによって、行く決心がついたと言われる石だ。
 三嶋神社は行き止まりの細い路地の途中にあって、敷地も非常に狭く目立ちにくい神社ではあるが、様々な逸話があってかなり名の知られたら神社だと言える。

    
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末菊大神 京都市北区~初栄大神 下京区

2021-05-27 22:13:56 | 撮影
末菊大神



 末菊大神は出町柳から賀茂川を北へ数百メートル。住所では出雲路俵町にある。周囲は住宅街であり比較的分かりやすい場所にある。
 神社入口の鳥居には、単に末菊大神という名称の上に「瘡神」とある。これは疫病である疱瘡のことであり、一般的には「天然痘」という名で知られている。江戸時代まではこのような疫病が頻繁に流行し、その都度大勢の死者を出した。現在では世界的に天然痘は撲滅され、今や存在しないと言われている。しかし医科学が発達していない時代においては、その病気にかかると即、死を意味したものだ。人々は当然、いつはまた発生するかもしれない疫病に対して恐れを抱き、そのような疫病から守ってもらうように、おそらく付近の人々によって祠が建てられたものだと思われる。
 したがってこの神社には、いわゆる祭神は存在しない。また創建の時期も不明だ。おそらく江戸時代よりも前のことだと思われる。というのも戦国時代に、豊臣秀吉が御土居を建設した時に、この神社が御土居の外側になるように線引きをしている。こうして疫病の侵入を防ごうとしたようだ。
 付近の人々は日常的にこの神社に参拝を続け、再び疫病が流行ることのないように祈っていただろう。しかしこの神社の鳥居には、江戸時代末期の年号が入っている。その時の建設と言うのであれば、御土居との関連で整合性が取れず、多分町民たちが自ら建設したこの神社に正式な神社としての位置づけを与えるため、当初は比較的簡単な造りであったものを、神社としての体裁をととのえたのではないかと考えられる。そうであるならばやはり祭神が必要となり、ちょうど幕末期に伏見稲荷から稲荷神を迎えているという文書が存在している。
 あくまでも断片的な資料だけしか残っていないので、断定的なことは言えないが、ことの成り行きからおそらくこのような変遷を経て今に至るのではないかと思われる。神社としての規模は小さく敷地も狭いものだが、石造鳥居と同じく石造の柵に囲まれており、本殿も小ぶりながらも神社としての構えを見せている。
   


初栄大神

 

 西本願寺の少し西側にある。付近は古くからの住宅密集地で、その中を走る路地に面している。なかなか見つけにくい場所だ。
 路地を歩いていると、赤く塗られた柵が見えた。目的の初栄大神だ。正面に回るとこれも綺麗な赤色に塗られた鳥居があり、間口は非常に狭い。そこから台形に奥に伸びているが、奥行きも10m足らずか。全体として住宅の横にぴったり張り付いているような狭い敷地の神社だ。
 つい最近手入れされたようで、塗り換えも含めて非常に綺麗に整備されたようだ。神社の詳細については一切わからない。偏額に名称が書かれているが、それ以外小さなキツネが置かれているので、稲荷社ということだけは確かなんだろう。全体としてあまりにも綺麗なので、新たに建設された神社かのような感じがした。
 帰宅後、この神社について調べると、なんとなんとびっくり。様々なホームページに出てくるこの神社の写真は、全て崩壊寸前の状態。説明文にも土に帰り行く神社だ、といった風な表現が目立った。長い間お祀りはされていても、根本的な手入れはなされずに来たんだろう。写真には周りの柵が大きく壊れ傾き、小さな本殿も傾いている。いつ倒壊してもおかしくないような正しく崩れゆく神社そのものだった。資金的なこともあるのかもしれないが、つい最近、根本的に再建されたようだ。見事に蘇ったと言ってもいいだろう。

   

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白鷹辨財天~柴國大明神 京都市北区・・・出雲氏?

2021-05-26 23:10:30 | 撮影
白鷹辨財天

 

 白鷹弁財天は高野川と賀茂川が合流する出町柳の少し北側にある。この弁財天がどのような理由でここにあるのかは全くわからない。現地には何の資料もなく、ただ街道沿いに少し高くなった、コンクリート塀の上に小さな祠がある。それ以外には何もなく、上り口の階段横に名前が彫られた石柱が立っており、それ以外のものは何の情報も提供していない。写真も2~3枚撮ればそれで終わってしまうようなところだ。
 後で調べてみると、ネット上には「御土居」の跡ではないかと言うサイトがあった。御土居とは少し前にも紹介したが、戦国時代に豊臣秀吉が、平安京をぐるっと取り囲む土塁を築き、外敵からの守りや川の氾濫などからの災害対策などを目的として造ったものだとされている。江戸時代になってから平安京の街路整備の為に、少しずつ取り壊され、今現在では各地に断片的に少し残っているだけだ。このすぐ近くにある本満寺にも、境内にその跡が残っているのではないかと考えられている。そしてここの街路沿いの少し高くなっている部分も、その御土居の一部ではないかと考えられなくもないとの記述があった。そのサイト運営者の研究によると、完成した御土居の場所を、今の地図に当てはめてみると、この地にも残っているであろう御土居の跡の場所と、概ね一致するようだとあった。
 このあたりのことについては私自身、全く未知の内容であり、該当サイトの内容をあくまでも参考として受け止めるしかない。何分にもこの弁財天の由緒そのものが全くわからないので、御土居に何らかの関係があるのかどうかも、当然わからない。極めて狭い敷地にポツンと建つ祠は比較的新しいものであり、過去に何度も再建されているものであろうと考えられた。
 ところでこの弁財天があるのは「出雲路神楽町」と言う。ここを走る道路にもバス停留所にも、出雲路の名前がある。架かっている橋にも出雲路橋とある。私もかつては京都市内の左京区に住んでいたので、出雲路橋というのは既に中学生の頃から知っていた。もちろん当時は知っていただけであって、その意味合いまで考えることなどは全くなかった。
 出雲というのは現在の島根県東部の地域を表す。古代からの名前であり、弥生時代には出雲の方から人々がこちらへ移り住んで居住していたのだと考えられる。後に、あるいは同時期に渡来系の賀茂氏が、やはりこの地域に住み着き、様々な農耕や生産活動を行い、この地を開拓していった。
 両者の関係についてはよく分かっていないようだが、いずれにしろ当時、文字がない時代に「いづも」と発音される地域から人々が来ていたのは、確かだろうと考えられている。もちろん諸説あるが、奈良時代以降、文字が入ってくるにしたがって、古事記や日本書紀、さらには「出雲国風土記」などが書かれ、出雲国と京都との関係が明らかになってくる。後に「いづも」を名乗る人々は、先住民と同化していって消滅したのか、その辺りのことはわからないが、ここに地名として今も、古代から続く名前が残っているというのも、すごい歴史というものだ。
 


柴國大明神



 柴國大明神は、出町柳から賀茂川沿いに北上し、白鷹弁財天の少し北側にある。周りは住宅地であり少し見つけにくい場所だ。住宅地の細い路地を歩き回ってようやく見つけた。
 この大明神は極めて狭小な土地に鎮座している。敷地の幅は1mあまりくらいか。そこに窮屈そうに赤い鳥居が立つ。鳥居をくぐるとすぐ目の前に小さな祠があり、これが柴國大明神のすべてだと言える。極めて小さな明神さんだが、手入れは行き届いている。周辺の地域の人々にとってみれば、日常的なお参りの場所となるんだろう。
 白鷹弁財天と同様、出雲路神楽町にある。もちろん由緒その他については何の情報もなく全くわからない。しかしこの場所が場所だけに、かつては出雲氏がこの地域に住み着き開拓にあたっている。そのこととこの大明神の関係は分からない。
 あくまでも仮定の話だが、当時住み着いた出雲氏が心の支えとして小さな祠を作り、そこに日々の悩みや困りごとを訴えつつ、お参りすることによって気持ちを新たにし、日々の仕事に取り組む糧となっていたのではないか、と考えられないでもない。

 
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