◆ 何のために杉田水脈を擁護するのか。
「新潮45」の10月号が物議をかもしている。8月号で杉田水脈氏の寄稿文が極めて差別的な内容で、全国的に話題となった。私も書店に行って彼女の寄稿文を全て読んでみた。
特に問題になったLG BTの人たちは「生産性がない」の部分について、前半の文章や後半の文章も含めて、どのような趣旨であるのか。その思いについてはこのブログでも以前に書いた。
彼女は所属する自民党内からの批判もあって注意を受けたと言うことだ。ところがそれ以上の事は何もない。本人は何の弁明も会見も意見表明もせず黙り続けている。自民党も注意以外の処分は何もなし。実質上お咎めなしといってもいいような無責任な態度である。
これに対して当の「新潮45」が、自民党や杉田氏への忖度なのかどうか、こともあろうにわざわざご丁寧に、右派の保守系人物をかき集めて、杉田の寄稿文に対して批判する勢力に対する、反論の特集を組んだ。
これがまた火に油を注ぐような結果となっている。報道メディアでも、特に文芸評論家を名乗る小沢栄太郎氏の文章の内容を紹介しつつ、あまりにもひどいと言うことを伝えていた。
私も本文を読もうと近辺の書店に行ってみたが、既にその雑誌はなく、結局どこの書店でも目にすることができなかった。したがってネット上で紹介されている、部分的な文章を読んだ上での意見となる。
「新潮45」があえてこのような特集を組んだことについて、いろいろ言われているが、販売部数減に起死回生のセンセーショナルな内容を入れることで、販売部数を伸ばそうとしたとか等、実際のところよくわからないが、この特集号に、なぜこのような内容を組んだ組んだのかが編集長名で記された。
『LGBTを利用する野党
今月号は、特集「『野党』百害」と特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を柱に据えた。前者は主要野党議員の採点表みたいなものだが、当然ながら後者と絡み合ってくる。間もなく秋の臨時国会が始まる。「反安倍」なら道理の通らぬことでも持ち出す野党は、この騒動を奇貨として、杉田氏本人の追及や「LGBT差別解消法案」提出に意気込んでいる。
杉田論文がいかに誤読され、どのように騒動が作られていったかは、この特別企画の七本の論考でよくわかる。うち二本はLGBT当事者からの寄稿だ。ひとりは元民主党参議院議員でゲイであることをカミングアウトした松浦大悟氏。その記事には、バッシングが一部の当事者とそれを利用しようとする者たちが煽ったものであることや、当事者が切実に欲しているものは何か、などが冷静に綴られている。そして野党のLGBT法案には重大な問題があるとも指摘するのだ。野党は決して当事者を代表しているわけではない。
新潮45編集長 若杉良作(「波」2018年10月号より)』
◆ 新潮社のご都合主義の言い訳コメント。
このように10月号に掲載された編集長による特集企画の意義について述べられている。あきれ果てて声も出ない。
杉田水脈氏を援護するためにというか、なぜこんなにも援護しなければならないのか。8月号で寄稿文を書いてもらったお礼のために擁護するのか。しかも杉田水脈氏本人の反論寄稿文は一切ない。右派保守系に共鳴する一部の連中が、一生懸命かどうか知らんが、多分勝手な解釈を並べただけのもののようだ。
しかも新潮社は免罪符と言うつもりか、LG BT該当者をわざわざ起用して、文章を書かせている。当のLG BT者が杉田水脈氏の要望するような内容、つまり逆に言えば杉田水脈氏の寄稿文に批判し抗議し、国会議事堂前で、あるいは自民党本部前で抗議活動をした者に対する非難までさせている。ごく一部のこのようなLG BT該当者を登場させて、杉田水脈氏の寄稿文の正当性を主張しようとしたわけだ。
更に杉田水脈氏の駄文をわざわざ『論文』と規定し、この論文を多くの読者が「誤読」したなどとを主張している。あの文章の一体どこが『論文』と言えるのか。単なるヘイト目的の愚劣な駄文に過ぎない。こんなものを論文等と言うその腐りきった思考がまさに、新潮社と言う出版社の姿を如実に示していることになると思う。
そして誤読と言う表現を使って、悪いのはこの文を読んだ読者だ、と言っている。これほど読者を馬鹿にし、愚弄している態度などと言うのはありえない。新潮社と言う出版社は一体、何様のつもりなのか。編集者と寄稿文を寄せた連中を、読者の上に位置づけ、読書なんていうのはレベルの低い小市民でしかない、と言う態度だ。それこそ、こういった編集者たち自体が、選民思想にまみれている。正しく自分たちこそが、正しい考え方を、馬鹿な読者連中に示してやっているのだ、と言うご都合主義にすぎない。
読者あってこその出版社であるべきだ。こんな高圧的な低レベル出版社というのが存在すること自体、許せない。
◆ 10月号に掲載の、自称文芸評論家を名乗る小川英太郎の劣悪文章の一部を紹介。
『LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(編注:サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。
満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」
(文芸評論家・小川榮太郎氏「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より、一部中略)』
残念ながらこの文章の前後が読めていないので、この部分に限っての意見になるが、あえて全文を読む必要もないかと思う。あきれ果てて、劣悪文章とか駄文などと言っても仕方のないような内容だ。文学作品でもない限り、一般的な論文や寄稿文などと言うものは普通、読者は文章の表現通りに受け止めるのが当たり前だ。
そういう点から見て全く許しがたい内容が、恥ずかしげもなく書かれている。こんな奴が文芸評論家を名乗っているのだから世も末、というか、日本の論壇も全くたいしたことないものと言わざるを得ない。あまりにも情けなくて、こういうものが出版されると言うこと自体に、極めて大きな危機感を覚える。
いわゆるオピニオン誌と言われるものが数多く出版されているが、「中央公論」「文芸春秋」等々それなりに評価を得て、文学を含む様々な内容を提供してくれているが、ここ数年の間に、この種の雑誌に明確な右翼系雑誌がいくつか登場している。読むのも馬鹿らしいので、表紙に書かれている著者とテーマを見ていくと、同じような連中が複数の雑誌に似たり寄ったりな内容で書きまくっている。特によく目にするのが、昔からの極右翼の櫻井よしこや、一時テレビで見ていたケントギルバートなどが目立つ。
こういう奴らがこれでもかこれでもかと、安倍政権を賞賛しながら、右翼的観点から、行動派市民やリベラリストなどを徹底的に攻撃していく。書店では平積みで売られているので、それ相応に売れているんだろう。
こういう奴らの文章には、日本人としての誇りと言うよりは、「優越感」を盛り立てるような内容になっていて、恐らく気持ちよさを味わうような読者も多いんだろう。
「新潮45」もこのような路線に乗ろうとして、見事に失敗したと言う結果になったと言うことだ。小川栄太郎の文章の一部を読んでも、内容がどうのこうのと言う以前の、人々を根底から馬鹿にしたような駄文に、生理的に誰しも耐えることができない。そういうところからこのような事件にまでなってしまったんだろう。
◆ 10月号に対する賛否両論。
新聞やネットニュースなどで、この10月号特集についての記事を読んでいると、少なくとも読んでいる地元紙では100%批判的な内容でしかない。当然だろう。きわめて真っ当な主張だと言える。ネット記事でも、大半が特集に対する批判や反対、あるいは抗議するような内容で溢れている。これも至極当たり前と言える。
ところがいろいろ読んでいるうちに、ある1つの長文の文章にたどり着いた。
様々な面から10月号特集のLGBTに関わる杉田水脈文章への擁護文が分析的に述べられていた。一見まともな文章のように見えるが、どうも何かがおかしい。違和感を感じる。特に小川栄太郎の文章に対する擁護が中心になっているが、その論点が全くすっきりしない。
簡単に言えば、小川栄太郎の水田水脈寄稿文の擁護や、痴漢する権利の部分について、これは「アイロニー」であると言う言い方で小川栄太郎氏をかばっている。
アイロニー!、つまり「皮肉」だと言うのか。あえてアイロニーと言う表現を使うことによって、杉田水脈寄稿文の擁護文を擁護できると思っているのか。
いわゆる文学作品と言うならば、表現形式の1つとしてアイロニーと言うのはわからないでもない。しかし杉田水脈氏の文章は文学でも何でもない。単なる彼女の思想の中にある、マイノリティーに対する侮蔑的な差別的な思いが、そのままあのような形で文章化して出てきたものに過ぎない。
それを擁護する小川栄太郎の文章表現形式は、皮肉的な言い方であって、このような方法を使うことで、杉田水脈氏を側面から擁護しているのだと主張する。冗談じゃない。これは杉田水脈氏を批判する人々に対して、完全に上から目線で馬鹿にしてるとしか言いようがない。誰がこんなものをアイロニーと思うのか。こんな愚劣な浅はかな作文にアイロニーもへったくれもない。
このネット記事の著者は、わざわざあえて、批判の的になっている小川栄太郎氏を守るために裏読みをして、アイロニーと言う表現でかばっているに過ぎない。まぁよくこんな論法で、人様の前に恥さらし文章を披露できるもんだと思う。
あえて読み返してみて、ばかばかしくなってしまった。他にも杉田や小沢の文章に賛同するような記事は多分あるだろう。表現の自由が憲法で保障されている限り、違法では無いんだろう。しかしその一方、「公序良俗に反する」と言う制約があることも忘れてはならない。正しく過ぎたるは及ばざるがごとしだ。
◆ 「新潮45」10月号特集の新潮社側の表明について。
『弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。
差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。
弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。
株式会社 新潮社
代表取締役社長
佐藤 隆信
(2018年9月21日)』
全く拍子抜け。これだけLG BTの人々を愚劣し、また小川氏は、杉田氏に対して批判した人々を一部の騒いでる者扱いしている。新潮社のこの姿勢、社長名でこんな低レベルのコメントしか出せないのかと思うと、それこそ新潮社も終わりだなと思わざるを得ない。
幸か不幸か「新潮45」は休館することになったと発表された。一部報道では廃刊になると報じられていた。いずれにしろ当然のことだろう。
報道メディアの中には広い意味で、このようなオピニオン誌があり多くの人が目にするだけに、掲載された文章やその表現形式には充分に配慮されなければならない。今回の問題の大元には、一部のお偉い先生方や、識者と呼ばれるこれもお偉い先生方の、優越感や選民思想、あるいは心の奥底に優生思想といったものが間違いなくある。
そのような本質的なところをきちっと批判していかなければならない。ある意味これらは、一般市民も私も含めて、誰にでもあるといえばあるものだ。自戒を込めながら今回の問題を強い気持ちで受け止めた。