切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

最近気になること①・・・「新潮45」最新号について

2018-09-30 17:42:35 | 社会



◆ 何のために杉田水脈を擁護するのか。

「新潮45」の10月号が物議をかもしている。8月号で杉田水脈氏の寄稿文が極めて差別的な内容で、全国的に話題となった。私も書店に行って彼女の寄稿文を全て読んでみた。
特に問題になったLG BTの人たちは「生産性がない」の部分について、前半の文章や後半の文章も含めて、どのような趣旨であるのか。その思いについてはこのブログでも以前に書いた。
彼女は所属する自民党内からの批判もあって注意を受けたと言うことだ。ところがそれ以上の事は何もない。本人は何の弁明も会見も意見表明もせず黙り続けている。自民党も注意以外の処分は何もなし。実質上お咎めなしといってもいいような無責任な態度である。

これに対して当の「新潮45」が、自民党や杉田氏への忖度なのかどうか、こともあろうにわざわざご丁寧に、右派の保守系人物をかき集めて、杉田の寄稿文に対して批判する勢力に対する、反論の特集を組んだ。
これがまた火に油を注ぐような結果となっている。報道メディアでも、特に文芸評論家を名乗る小沢栄太郎氏の文章の内容を紹介しつつ、あまりにもひどいと言うことを伝えていた。
私も本文を読もうと近辺の書店に行ってみたが、既にその雑誌はなく、結局どこの書店でも目にすることができなかった。したがってネット上で紹介されている、部分的な文章を読んだ上での意見となる。
「新潮45」があえてこのような特集を組んだことについて、いろいろ言われているが、販売部数減に起死回生のセンセーショナルな内容を入れることで、販売部数を伸ばそうとしたとか等、実際のところよくわからないが、この特集号に、なぜこのような内容を組んだ組んだのかが編集長名で記された。



『LGBTを利用する野党

今月号は、特集「『野党』百害」と特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を柱に据えた。前者は主要野党議員の採点表みたいなものだが、当然ながら後者と絡み合ってくる。間もなく秋の臨時国会が始まる。「反安倍」なら道理の通らぬことでも持ち出す野党は、この騒動を奇貨として、杉田氏本人の追及や「LGBT差別解消法案」提出に意気込んでいる。

杉田論文がいかに誤読され、どのように騒動が作られていったかは、この特別企画の七本の論考でよくわかる。うち二本はLGBT当事者からの寄稿だ。ひとりは元民主党参議院議員でゲイであることをカミングアウトした松浦大悟氏。その記事には、バッシングが一部の当事者とそれを利用しようとする者たちが煽ったものであることや、当事者が切実に欲しているものは何か、などが冷静に綴られている。そして野党のLGBT法案には重大な問題があるとも指摘するのだ。野党は決して当事者を代表しているわけではない。

新潮45編集長 若杉良作(「波」2018年10月号より)

◆ 新潮社のご都合主義の言い訳コメント。

このように10月号に掲載された編集長による特集企画の意義について述べられている。あきれ果てて声も出ない。
杉田水脈氏を援護するためにというか、なぜこんなにも援護しなければならないのか。8月号で寄稿文を書いてもらったお礼のために擁護するのか。しかも杉田水脈氏本人の反論寄稿文は一切ない。右派保守系に共鳴する一部の連中が、一生懸命かどうか知らんが、多分勝手な解釈を並べただけのもののようだ。
しかも新潮社は免罪符と言うつもりか、LG BT該当者をわざわざ起用して、文章を書かせている。当のLG BT者が杉田水脈氏の要望するような内容、つまり逆に言えば杉田水脈氏の寄稿文に批判し抗議し、国会議事堂前で、あるいは自民党本部前で抗議活動をした者に対する非難までさせている。ごく一部のこのようなLG BT該当者を登場させて、杉田水脈氏の寄稿文の正当性を主張しようとしたわけだ。
更に杉田水脈氏の駄文をわざわざ『論文』と規定し、この論文を多くの読者が「誤読」したなどとを主張している。あの文章の一体どこが『論文』と言えるのか。単なるヘイト目的の愚劣な駄文に過ぎない。こんなものを論文等と言うその腐りきった思考がまさに、新潮社と言う出版社の姿を如実に示していることになると思う。

そして誤読と言う表現を使って、悪いのはこの文を読んだ読者だ、と言っている。これほど読者を馬鹿にし、愚弄している態度などと言うのはありえない。新潮社と言う出版社は一体、何様のつもりなのか。編集者と寄稿文を寄せた連中を、読者の上に位置づけ、読書なんていうのはレベルの低い小市民でしかない、と言う態度だ。それこそ、こういった編集者たち自体が、選民思想にまみれている。正しく自分たちこそが、正しい考え方を、馬鹿な読者連中に示してやっているのだ、と言うご都合主義にすぎない。
読者あってこその出版社であるべきだ。こんな高圧的な低レベル出版社というのが存在すること自体、許せない。



◆ 10月号に掲載の、自称文芸評論家を名乗る小川英太郎の劣悪文章の一部を紹介。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(編注:サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。
満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」
(文芸評論家・小川榮太郎氏「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より、一部中略)

残念ながらこの文章の前後が読めていないので、この部分に限っての意見になるが、あえて全文を読む必要もないかと思う。あきれ果てて、劣悪文章とか駄文などと言っても仕方のないような内容だ。文学作品でもない限り、一般的な論文や寄稿文などと言うものは普通、読者は文章の表現通りに受け止めるのが当たり前だ。
そういう点から見て全く許しがたい内容が、恥ずかしげもなく書かれている。こんな奴が文芸評論家を名乗っているのだから世も末、というか、日本の論壇も全くたいしたことないものと言わざるを得ない。あまりにも情けなくて、こういうものが出版されると言うこと自体に、極めて大きな危機感を覚える。

いわゆるオピニオン誌と言われるものが数多く出版されているが、「中央公論」「文芸春秋」等々それなりに評価を得て、文学を含む様々な内容を提供してくれているが、ここ数年の間に、この種の雑誌に明確な右翼系雑誌がいくつか登場している。読むのも馬鹿らしいので、表紙に書かれている著者とテーマを見ていくと、同じような連中が複数の雑誌に似たり寄ったりな内容で書きまくっている。特によく目にするのが、昔からの極右翼の櫻井よしこや、一時テレビで見ていたケントギルバートなどが目立つ。
こういう奴らがこれでもかこれでもかと、安倍政権を賞賛しながら、右翼的観点から、行動派市民やリベラリストなどを徹底的に攻撃していく。書店では平積みで売られているので、それ相応に売れているんだろう。

こういう奴らの文章には、日本人としての誇りと言うよりは、「優越感」を盛り立てるような内容になっていて、恐らく気持ちよさを味わうような読者も多いんだろう。
「新潮45」もこのような路線に乗ろうとして、見事に失敗したと言う結果になったと言うことだ。小川栄太郎の文章の一部を読んでも、内容がどうのこうのと言う以前の、人々を根底から馬鹿にしたような駄文に、生理的に誰しも耐えることができない。そういうところからこのような事件にまでなってしまったんだろう。



◆ 10月号に対する賛否両論。

新聞やネットニュースなどで、この10月号特集についての記事を読んでいると、少なくとも読んでいる地元紙では100%批判的な内容でしかない。当然だろう。きわめて真っ当な主張だと言える。ネット記事でも、大半が特集に対する批判や反対、あるいは抗議するような内容で溢れている。これも至極当たり前と言える。

ところがいろいろ読んでいるうちに、ある1つの長文の文章にたどり着いた。
様々な面から10月号特集のLGBTに関わる杉田水脈文章への擁護文が分析的に述べられていた。一見まともな文章のように見えるが、どうも何かがおかしい。違和感を感じる。特に小川栄太郎の文章に対する擁護が中心になっているが、その論点が全くすっきりしない。
簡単に言えば、小川栄太郎の水田水脈寄稿文の擁護や、痴漢する権利の部分について、これは「アイロニー」であると言う言い方で小川栄太郎氏をかばっている。
アイロニー!、つまり「皮肉」だと言うのか。あえてアイロニーと言う表現を使うことによって、杉田水脈寄稿文の擁護文を擁護できると思っているのか。
いわゆる文学作品と言うならば、表現形式の1つとしてアイロニーと言うのはわからないでもない。しかし杉田水脈氏の文章は文学でも何でもない。単なる彼女の思想の中にある、マイノリティーに対する侮蔑的な差別的な思いが、そのままあのような形で文章化して出てきたものに過ぎない。
それを擁護する小川栄太郎の文章表現形式は、皮肉的な言い方であって、このような方法を使うことで、杉田水脈氏を側面から擁護しているのだと主張する。冗談じゃない。これは杉田水脈氏を批判する人々に対して、完全に上から目線で馬鹿にしてるとしか言いようがない。誰がこんなものをアイロニーと思うのか。こんな愚劣な浅はかな作文にアイロニーもへったくれもない。
このネット記事の著者は、わざわざあえて、批判の的になっている小川栄太郎氏を守るために裏読みをして、アイロニーと言う表現でかばっているに過ぎない。まぁよくこんな論法で、人様の前に恥さらし文章を披露できるもんだと思う。

あえて読み返してみて、ばかばかしくなってしまった。他にも杉田や小沢の文章に賛同するような記事は多分あるだろう。表現の自由が憲法で保障されている限り、違法では無いんだろう。しかしその一方、「公序良俗に反する」と言う制約があることも忘れてはならない。正しく過ぎたるは及ばざるがごとしだ。



◆ 「新潮45」10月号特集の新潮社側の表明について。

 『弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
 しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。
 差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。
 弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。
株式会社 新潮社
代表取締役社長
佐藤 隆信
(2018年9月21日)

全く拍子抜け。これだけLG BTの人々を愚劣し、また小川氏は、杉田氏に対して批判した人々を一部の騒いでる者扱いしている。新潮社のこの姿勢、社長名でこんな低レベルのコメントしか出せないのかと思うと、それこそ新潮社も終わりだなと思わざるを得ない。
幸か不幸か「新潮45」は休館することになったと発表された。一部報道では廃刊になると報じられていた。いずれにしろ当然のことだろう。

報道メディアの中には広い意味で、このようなオピニオン誌があり多くの人が目にするだけに、掲載された文章やその表現形式には充分に配慮されなければならない。今回の問題の大元には、一部のお偉い先生方や、識者と呼ばれるこれもお偉い先生方の、優越感や選民思想、あるいは心の奥底に優生思想といったものが間違いなくある。
そのような本質的なところをきちっと批判していかなければならない。ある意味これらは、一般市民も私も含めて、誰にでもあるといえばあるものだ。自戒を込めながら今回の問題を強い気持ちで受け止めた。

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巖松院 京都府綴喜郡宇治田原町・・・ここは奈良時代なのか?

2018-09-28 23:06:11 | 撮影


 宇治市の隣にある宇治田原町の概要や寺社については、既に何度も紹介しているので、宇治田原町自体の現在の様子については省略。
 今回は「巖松院」を訪れた。きっかけは京都府教育庁の文化財保護課の中にある、京都府登録文化財の資料だった。巖松院には「脇仏千手観音菩薩立像」と言う鎌倉時代作の貴重な仏像がある。これが登録文化財に指定されている。
 巖松院は地図で調べてもすぐには出てこない。 Google Mapの縮尺を大きくしてようやく現れる。かつて自分が勤めていた維孝館中学校の裏通りの道を、東の方へ少し行った山腹にある。ところが実際に行ってみると、この辺りは古くからの居住地域で、極めて細い道が複雑に入り交ざって、目的の巖松院へどう行けばいいのか分からない。もちろん車のナビには出てこない。スマホの Google Mapを使ってあちこち行き来しながら、やっとのことでお寺へ通じる急な登り道を見つけて駐車場に到着。ここまで来るのに一苦労だ。普通車では通れないような細い道も、軽自動車でなんとかかんとか通ることができた。帰る時に普通車でも通れるそれなりの道があることがわかり、地図だけでは道路の幅もよく分からないことが改めてよくわかった。

  

 広い駐車場に駐めてお寺を見ると、特に山門らしきものもない。古い土壁の塀が続いており、それもあちこち 部分的に漆喰が剥げ落ちており、境内も草木の他に雑草もをあちこち生えていて、お寺全体が何か、奈良時代にタイムスリップしたような雰囲気を醸し出している。特に予約も何もなしで来ているので、本尊や登録文化財の仏像等は見ることができない。公開日もあるということで、覚えていれば行ってみようと思う。
 土壁の端から境内に入り、すぐに梵鐘がある。撮影した時にはかなり新しいように感じられたが、帰宅後調べてみると、江戸時代初期のものだと言う。その横に本堂があり多くの仏像が安置されている。更に隣接する社務所は、住居にもなっており、ご住職一家が住んでおられる。実はかつてこのお寺は、無住の状態になりかけたが、現在のご住職がこれではいけないということで、ここに移り住んだということだ。
 巖松院はホームページを開設しており、それによるとあの「聖徳太子」が建立したと言う。正直なところ俄には信じ難いような気がする。聖徳太子の伝えられている数々の業績について単純に考えてみると、果たして彼たった一人の力で、17条憲法や冠位十二階、数々のお寺の建立等々を本当にできたんだろうか。しかも彼が建立したと言われる多くの寺のほとんどが、今現在の奈良県と大阪府に集中しており、京都には見られない。ただ当時の宇治田原は田原道と言う、朝廷と近江方面を結ぶ重要な街道が通っており、そういった意味ではこの辺りにまで、聖徳太子の威光が及んだ可能性もあるのかもしれない。

   

 聖徳太子については様々な説があり、極端な説は実在しなかった、と訴える学者もいる。大半の学説では、実在はしたが上記のような、数多くのを業績を華々しくあげたものではないのではないか、という考え方が主流になりつつあるようだ。名称についても聖徳太子というのは彼の死後に呼ばれることになった名称であり、実際には「厩戸王」というのが彼の名前であって、すでに学校の歴史の教科書にはそちらの方が採用されて、聖徳太子の名称は()付きとなっている。
 まぁしかし、詳細は不明なものの、何らかの縁があって巖松院の建立に関わったと言うことになったんだろう。その後、巖松院は衰退したようで、江戸時代になって改めて再興された。

 ほぼ写真を撮り終わって車の中でおむすびを食べていると、住職の奥様が出てきて少し話をさせてもらった。お寺そのものの由緒等についてはよくわからないとのことだったので、自分が宇治田原町で働いていた話をすると、息子さんが今、維孝館中学校の生徒だと言う。それにしても通うのはなかなか大変だと思う。妹さんは小学生で、お母さんが車で送迎しているとのことだった。周囲には一緒に通学できる子供もいないようで、一人通学ということだ。場所が場所だけにやむを得ないところか。

 

 帰宅後、巖松院について調べると、かなり多くの資料が見つかった。奥様も言われていたが、この場所までけっこう人が来ると言う。お寺ファンや仏像ファンにとってみれば、それなりに有名なお寺のようで、ブログなんかにも登場している。そこまでのことを知らなかった自分にとってみれば、いわばは隠れ寺だったようなもんだ。
 あれこれと調べていると、あちこちに本当に貴重なものがある。この宇治田原町のお寺と本尊の一覧表があったので見てみると、文化財指定はされていないものの、平安時代や鎌倉時代に造られた仏像などが、あちこちのお寺に普通に存在している。文化財保護課の調査が進んでいないのか、それともお寺側か指定を拒んでいるのかはわからないが、中にはすごい貴重なものもあるんだろうと思う。
 時代を感じさせるこの巖松院にも行く価値は十分にあり、交通面は若干不便ではあるが、ぜひ行ってみるといいと思う。



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月読神社 京都府京田辺市・・・古代隼人一族がやって来た

2018-09-27 23:16:46 | 撮影


『月読神社
   京田辺市大住池平三一番地

月読尊(つきよみのみこと)・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。
 中世にはたびたび兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。本社が位置する大住地域の多くは平安時代末期以降、室町時代末まで奈良興福寺の領地であった。
 神宮寺として、法輪山福養寺が明治初めまで存在した。同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊·北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。神社境内には奥ノ坊の庭園の跡が残っている。
 慶応四年(明治元年・一八六八)、伏見鳥羽の兵乱が及ぶのをさけて、八幡の石清水八幡神が当社境内に一時遷座されたこともある。
 現在の本殿は、束に面するー間社春日造、銅板葺(もとは檜皮葺)の建物で、明治二十六年(一八九三)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造が見られる。春日造は奈良春日大社の本殿の形式で、現在の奈良市を中心に、奈良県・京都府南部・大阪府・和歌山県北部に分布する。
 例祭 十月十五日 宵宮には大住隼人舞が奉納される。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会 (駒札より)


『隼人舞伝承地
    京田辺市大住, 月読神社
 九州南部の大隅隼人が七世紀頃に大住に移住し, 郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに 朝廷で演じ, また月読神社にも奉納して舞い伝えてき た。隼人舞は岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流 ともいわれ, 『古事記』や『日本書紀』の海幸彦山幸彦の神話に起源するといわれている。文学博士志賀剛 氏(1897~1990)は能楽五座のうち外山座が月読神社の外山神楽座であるという。
 更に、隼人舞継承者牧山望氏(1900~1991) によって隼人舞が復元され毎年十月十四日の秋期例 祭宵宮に奉納されている。現在では地元に人々を中心 に大住隼人舞保存会が結成され大住隼人舞、隼人踊りが継承されている。大住隼人舞は,、昭和五十年(1975) 十二月十九日に田辺町(現在は京田辺市)指定文化財第一号に指定された。
    京田辺市教育委員会
    京田辺市文化財保護委員会 (境内説明書きより)

 

 京田辺市シリーズ。今回は月読神社。
 この神社の概要は上記二つの駒札の説明によりある程度わかる。名前の上に式内大社とあるように、延喜式神名帳に記載されている名前と比定されている。さらに大社とあるように神社の格としてはさらに上となる。

◆ 位置
  京田辺市の大住地区にある。この地域はある程度凸凹した丘陵地になっており、平地の部分では太古の昔から農作業が行われてきた。
 丘陵地の部分は JR 学研都市線の松井山手駅があり、近年、第二京阪国道とその側道が開通し、同時に今現在、新名神高速道路の巨大なインターチェンジが建設中。昔から比べて大いに変貌した地域だ。高層マンションがあちこちに建ち並び、それに伴って大型店舗も次々にオープンしかつての面影は全くない。
 最近発表された京都府の人口動態予測では、京都府下の全自治体の中で、この京田辺市だけが今後も人口が増加し、それ以外は全て減少するとのこと。最初に開発された地域はちょっとした高級住宅街で、他の地域とはまるで雰囲気が違う。そんな地域の中の丘陵地から平地にかかる場所に月読神社がある。すぐ隣が大住中学校であり、反対側に大住小学校がある。それを目標に行くと非常にわかりやすい。

 

◆ 創建と名称
 創建については駒札の説明書きにも全く記されていない。つまりはっきりしないということだ。一応社伝によると、大同四年(西暦809年)ということになっているが、この根拠は平城京から平安京への遷都の際に、この地に霊光が現れ、宮殿を設けたという極めて不確かな、神話的な内容である故に、そのまま歴史的事実として認めるわけにはいかないというところから来ているようだ。
 ただ一説によれば、神社の元になった社は奈良時代以前からあったとも言われている。このことには、下に記している隼人の民族が関わっているのではないかと考えられている。後年、平安時代に入ってからは月読社の名前が現れ、延喜式にも掲載されることになる。
 名前の元になっているのは月読尊などを祀るところから来ていると考えられるが、この神は諸説あって詳しいことがあまりよくわかっていない。古事記及び日本書紀にもその名前が登場するものの、ごくわずかな記載で、どういう役割を果たしたのかも詳しく記されていないばかりか、両者の内容も異なっている部分もある。
 天照大神が太陽との関係があるのに対して、月読尊はその対象形ではないかとも考える説もある。こうした例は外国の古代の話にもよく出てくるケースだと言う。ただ月読尊を意味するかどうかは分からないが、万葉集にもこれに関わるような語彙が登場する。記紀の神話の内容とも関わっているので、どこからどこまでが本当なのかはよく分かっていない。その意味では平安中期の延喜式の記載が、最初の確かな存在を示していることになるのではないかと考えられる。

   

◆ 隼人舞伝承地について
 隼人というのは学校の教科書にも掲載されていたように、かつて九州鹿児島のあたりに勢力を持っていた南方系の民族(確証はないが)、ではないかと言われている。当時の朝廷に何度も抵抗しており、最終的には屈服させられたという歴史を持っている。その隼人がここ京田辺と一体どんな関係があるのか。
 上記の駒札説明書きにあるように、詳細は不明だが、古墳時代頃に九州の大隅からこの京都の地に移り住んだと言われている。彼らが郷里で舞っていたこの隼人舞を、宮中に披露することで、この舞が京都の地で継続的に行われるようになっていった。
 この隼人舞は、日本の民衆芸能の源流と言われ、後にここから猿楽や能などに受け継がれていったと言われている。そういった意味では日本文化のひとつの側面に、大きな影響を持っているものとして位置づけられる。今現在も毎年月読神社において、この隼人舞が演じられている。

◆ 地名「大住」の由来
 京田辺市大住という地名については、不確かな側面もあるかもしれないが、上記隼人の一族との関係が指摘されている。彼らの郷里である九州鹿児島には大隅半島がある。ここの「大隅」という地名は古代より使われていたものであり、はるばる京都までやってきた隼人の人々の心の故郷の中にある大隅が、この地でも「大住」という地名で、根付いたものではないかと考えられている。
 一方、大住の名前は、京田辺一帯の古墳に祀られた有力者の氏名の中にも見られることから、やはり5世紀、あるいは少なくとも6世紀には大隅隼人がここ京都の土地に住み着いたものと考えられると言う説もある。いずれにしろ、大住の地名は古代から続く極めて古い地名だ。

     

◆ 撮影
 第一鳥居、第二鳥居ともに、月読神社の額が掲げられていた。
 境内は比較的広いが、やや雑然とした感じがする。拝殿や本殿は再建されたもので、さほど古くはない。末社の社も割と新しく感じられた。
 この日は隣の大住中学校で、参観日か何かで大勢の保護者が来ており、ちょうど終わったところで次々と校門から出てきた。一方、神社には一人の女性が参拝に来ただけだった。隼人舞の時はかなり賑わうようだが、普段は比較的静かな雰囲気の中にあるようだ。一見すると長く深い歴史を持った神社、とはちょっと考えられないような気もする。常駐する人もいないようで、大きな神社によくあるお守りなども、何もないようだ。
 境内の奥の方へ進むと、多くの木が途中で折れて倒れており、中には根元から横倒しになった大木もあった。ロープが張られて近づくのは禁止されていた。そこには張り紙で「台風21号の爪痕」と記されていた。こんな巨大な木が簡単に折れて倒されて、というのもやはりすごい台風だったんだ。そういえば京都市内の平野神社の社殿も強風で倒壊してしまった。京都全体の文化財にも大きな被害を与えている。
 神社全体は社殿も含めて華やかな色彩は全く見られず、灰色を中心とした何か華が感じられない雰囲気だった。しかし大変な由緒もあり、各分野からの研究も多数行われている神社であり、訪問する機会があれば是非行ってみる価値があると言える。


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大徳寺 京都府京田辺市・・・意外に見所が

2018-09-24 23:24:10 | 撮影



『大徳寺
  京田辺市東西神屋六三番地の一

 真言宗智山派に属し、山号を東福山と号する。この地の集落はここから北東の木津川堤防の近くにあったが、川の氾濫によりこの地に移転したと口伝されている。
 所有する鰐口に「東河原村大日堂 永享二年(一四三〇)」とあるので、もとは村の大日堂であったことが判明する。
 その後、元亀二年(一五七一)永春法印が中興開山となり、さらに安政三年(一八五六)秀弁法印により本堂が再建されたが、その時に新築ではなく現在の八幡市にあった建物が移築された。
現存の本堂がこれにあたり、市内でも唯一の茅葺をとどめる仏殿である。
 明治初め、付近にあった養福寺を併合し不動明王坐像などが移された。
 本尊の大日如来坐像は鎌倉時代末の優れた木像で京田辺市指定文化財である。この他、薬師如来坐像(平安時代後期)、不動明王坐像(平安時代)が知られ、中世から近代にいたる二四七点の文書(京都府登録文化財)が伝わり、このなかには南山城地域では珍しい大永五年(一五二五)のものがある。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会 (駒札より)

     

 京田辺市シリーズ。今回は大徳寺
 さほど知られていないお寺だが、自前の HP を持つ。そこにお寺の由緒が書かれているが、お寺の入口にある駒札と全く同じ文章だった。このお寺に行ったきっかけは、ネットで色々調べているうちに、京都府や京田辺市の指定文化財があることを知ったということだった。非常に分かりやすい場所にあり、近鉄の新田辺駅からやや細めの幹線道路を東へ数百m。 府立田辺高校を通り越してしばらく行くと、道路に面している。入り口がややわかりにくく、うっかりすると通り過ごしてしまう。
 境内に入るとすぐ目の前に本堂が建っている。この本堂が今まで見てきたお寺の、数ある本土の中でも非常に珍しい形状をしている。屋根は分厚い茅葺きで、建物そのものは本堂というよりは、何か一般の民家のような雰囲気だ。それもそのはず、駒札の説明書きにあるように、本堂として再建されたものではなく、既存の建物を移築して再利用したものだ。まぁとにかく独特の雰囲気を醸し出して、これはこれで見る価値があると思う。
 境内は広くはないが、水子供養のお寺であり、多数の子供の石地蔵が並べられていた。特に綺麗に整備されているわけではなく、草木があちこちに生えて、どちらかといえば自然な状態になっており、なんとなく趣が感じられる。あちこちに花も咲いていて、そういった意味では割とを賑やかな境内だ。残念ながらお寺の方にはお目にかかれなかったので何も聞けずじまいだったが、説明書きにある程度のことは書かれているので由緒の一部は分かる。

  

 駒札に「所有する鰐口に「東河原村大日堂 永享二年(一四三〇)」とあるので、もとは村の大日堂であったことが判明する。」とあり、元々はこの場所よりももっと東の木津川沿いにあり、その東河原村の大日堂であったとされている。従って創建も応仁の乱より少し前の頃と言えるようだ。
 なお「鰐口」というのは、お寺の本堂のを正面にたらされた長い紐を大きく振って、上に吊り下げられた銅などの金属製の円形の仏具を鳴らす。それが鰐口だ。梵鐘にしてもそうだが、このような鰐口にも中には、様々な刻銘があって、これによって作られた年代や当時のを寺名などが分かるようだ。
 国内で確認されている最も古い刻銘のある鰐口は、西暦で言うと1001年と言う。これは高い位置にあるので、刻銘があろうが何であろうが、我々参拝人としては何もわからない。梵鐘まらば根気のある人は、表面に浮き彫りで刻まれている文字を読んで、何かをつかもうとするかもしれないが、自分にはそこまでの根性はない。
 地図にもあまり載ってないような小さなお寺ではあるが、境内の入り口に駐車することができ、また近鉄の駅からも徒歩10分もかからないので便利な場所にある。以前にも書いたように、京田辺市には数多くのお寺や神社が存在しており、古代より重要な地域であった故に、様々な因縁を持つものも多い。

(WEBより)

 あまり知られていないようなところでも、この大徳寺のように、本尊は京田辺市の指定文化財であり、古文書は京都府の登録文化財である。公開日には機会があれば見てみたいと思う。


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寿命寺 京都府京田辺市・・・少しタイムスリップ?

2018-09-23 22:59:42 | 撮影


『寿命寺
  京田辺市興戸御垣内六八番地
 行基の開基と伝えられ、宗旨は浄土宗、山号を功徳山と称する。寺の本堂裏山の丘陵上には四世紀から五世紀の古墳が、山麗には綴喜郡衙と考えられている興戸遺跡もあり、古くから開けていた地域である。本寺はもとこの丘陵中腹にあったが、応仁の乱以降に衰退し江戸時代には荒廃していたようで、当時京田辺市飯岡の西方寺にいた浄土宗の名僧袋中上人(一五五二~一六三九)により復興された。
 本尊の阿弥陀三尊は等身の観音・勢至菩薩を脇侍に中尊の半丈六の阿弥陀坐像から構成された平安時代後期の完備した中央仏師の手になる優れた像である。半丈六像とは一丈六尺が仏の身長とされるが坐した場合にその坐高は八尺ないし九尺が標準となり、半丈六は丈六の半分となる。ちなみに本像の像高は一三六・五センチメートルとなっている。なお阿弥陀像に納入されていたと推定される上人筆といわれている「三尊修補縁」が保管されていて、三尊像と共に京田辺市指定文化財である。

 京田辺市教育委員会
 京田辺市文化財保護委員会 (駒札より)

   

 前回の酒屋神社から数百メートル西に「寿命寺」がある。
 入口の所に駒札があって、一定のことはわかるが、ネット等を含めてこのお寺に関する情報は極めて少なかった。全体を通してお寺の由緒がわかるような資料は見当たらない。かつては現在地よりも少し小高いところに建てられており、その付近には数多くの古墳が今も残されている。寿命寺古墳とも呼ばれている。反対の南側には同志社大学の京田辺キャンパスの広大な敷地が広がっている。
 山門の横から境内に入ると、今まで京都で見慣れてきた様子とは少し違う。通路は石畳で、それ以外は樹木や花が植えられており、以外は砂利が敷き詰められていた。そういった意味では、今の新しく整備された境内ではなく、まるで鎌倉時代や室町時代に戻ったような雰囲気さえある。大昔の境内の様子がそのまま伝えられているような感じだ。ここも誰もおらず、ただ写真撮影をして終わりとなったが、できれば京田辺市の指定文化財である本尊を見たいところだ。公開日などの情報は一切わからない。

    

  駒札の説明書きの中にある「綴喜郡衙」というのは、古代の律令制度の中の各地方の郡を治める当時の役所のことで、ここに勤める者を郡司といい、上部組織の国府の指示を受けていた。国府の役人である国司には、その地方の有力豪族がなっていることが多い。概ね奈良時代あたりに各地に設けられた。ここ山背国綴喜にも郡衙があったと考えられている。

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