切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《2021年のトップニュースはやっぱりオリンピック・パラリンピックなのか?》 2021年12月30日

2021-12-30 23:17:38 | 社会
 2021年も間もなく終わる.。全国紙地方紙あるいは様々なメディアで、今年の10大ニュースというのが発表されている。やはりトップ1、2はオリンピック・パラリンピックとコロナ禍が占めるようだ。さてオリンピック・パラリンピックはどうだったのか。



◆ 招致とその後のてんやわんやの見苦しさ。
 1年延期された東京オリンピック・パラリンピックについては当ブログでも何度も取り上げてきた。2013年の招致委員会において日本は、「コンパクトなオリンピック・パラリンピックを目指す。」とのキャッチフレーズで予算約7500億円を計上して取り組む旨立候補した。そこにはただ単にコンパクトだけではなく、2011年の東北大震災からの復興五輪というもう一つのキャッチフレーズも加えられていた。そして海外からの選手や関係者に対しては「おもてなし」などと言って、日本文化の良さをアピールする機会にもするとのことで最終的に招致に成功する。わざわざ現地まで大勢の招致団が行って飛び上がって喜ぶ様を見ていると、誰の金であんなに大勢派遣する必要があるのか、と思うくらい呆れたもんだと思った。
 招致に成功して当然一般庶民の立場からは、1964年のオリンピックで建築された国立競技場が改修して使われるものとばかり思っていたが、なんとさっさと取り壊し工事が始まり、あっという間に更地になり、その間世界中からコンペ方式で新国立競技場のデザイン案が公募された。しかし示された案には莫大な建設費用がかかり、様々な問題点が指摘され結局誰しもが納得いくようなものではないような形で決められることになる。同時にポスター問題やその他様々な問題が発覚し、いわば因縁付きのオリンピック・パラリンピックになってしまった。



◆ 闇金問題と IOC の実態。
 その中でも最も疑惑にまみれたものは招致にあたって使われた闇金のことだ。2億数千万円が素性の怪しい人物に渡り、これが招致工作に使われたと言われている。当寺はメディアでも少し話題になっていたが、その後全く報道されなくなってしまった。フランス警察当局が地道に追求を続けていたと言うが、それもどうなったのかわからない。
 元々が国際オリンピック委員会 IOC という組織そのものに問題があるというのは、ずいぶん昔から指摘されていることだ。アメリカのメディアは IOC 会長のことを「ぼったくり男爵」と呼ぶのも根拠あってのことだろう。オリンピック・パラリンピックでは莫大なお金が色んな方向に動いていく。そのお金の一部が IOC の組織の中、そして個人の中に入っていく仕組みになっている。そういった点からはオリンピック・パラリンピックそのものが汚い金にまみれた分捕り合戦の場となっているのだ。私自身はずっと以前からオリンピック・パラリンピックのたびに、このようなことが行われていることをメディアの報道で知って完全に嫌気がさしてしまっている。だからこそオリンピック・パラリンピック不要論者になってしまったのだ。

◆ なんでオリンピック・パラリンピックと言う一堂に会する場が必要なのか?
 東京に招致されたオリンピック・パラリンピックは当然のことながら「招致した都市」が責任を持って大会を実施することになる。従って東京都民の税金を使って行うということになる。様々な分野のをスポーツ選手が参加することからして、各競技ごとの連盟や委員会などもお金を出さなければならない状態になる。それは当然だろう。そしてどうしても足らない部分が出てくるので、国のお金が一定部分入ることになる。この辺りから話が違うのではないかということになるのだ。
 陸上や水泳や柔道、バレーボール、卓球等々、また新しい種目も含めてその他様々な多くの競技がある。それぞれが日本国内において連盟や委員会が存在し、同時にほとんどの種目で国際連盟や国際委員会が存在する。そして国内大会また世界大会が開かれている。本来ならばそれぞれの大会において競えばいいのであり、そこで日本一なり世界一なりが決められていけばそれでいいのではないか。それぞれの目標に向かって各地域の大会があって、さらにその下に国内大会があって、といった具合に階層的に対戦が組まれていく。そしてトップに立ってそこで金メダルや銀メダル、銅メダル。これは実際にオリンピック・パラリンピックとは別に実際に行われていることだ。なぜオリンピック・パラリンピックと言う「一堂に介した戦いの場」が必要なのか。



◆ 当初予算額は全くの嘘。 IOC や JOC は金儲けのためのオリンピック・パラリンピックをしたいのだ。
 最初に日本の招致委員会が示したように、本当にコンパクトで東京都民の税金だけでやりきれるようなものであればまだ納得しやすい。7500億円程度ならば巨大な先進国や経済大国だけではなく中堅国でも決して不可能ではないようになるのではないか。国立競技場の収容人員が10万人必要な理由というのは分からない。別に2万人でもいいのではないか。しかし実際には観客の収容人員が少なければ IOC のを許可が出ないという仕組みになっている。そんなバカなと思うかもしれないが実際はそうだ。
 例えば水泳競技にしても、今回新たに水泳会場が莫大なお金を使って建設された。しかも場所は旧東京オリンピックの会場のすぐ近くだ。なぜそんなことになったかと言うと以前の古い会場では収容観客数が IOC の求める基準に達しないので、仕方なく改めて新会場を建設したと言う。 IOC は一体何様のつもりなのか。そしてそれにペコペコしている JOC とは一体何者なのか。 IOC が全額出して建設すると言うならば話がわかる。でも実際には日本国内での税金が使われる。東京都民の税金だけで間に合うならばまだしも、総額7500億円と言った手前、それをオーバーする事は本来なら許されないはずだ。
 しかしそんなこんな様々な「事情」で、当初の7500億円の予算は諸経費を付け加えていつのまにか1兆6500億円になってしまった。私など「ハァー?」と思わず唖然としてしまった。なんとまぁ当初予算の倍以上。その理由として周辺設備のインフラ整備に巨額の金がかかることになってしまったなどといった、さもありなんと言う最初から本来はわかっていたはずの事を言い訳としてあげた。つまり最初の7500億円という予算は「嘘八百」だったのだ。招致委員会に対する嘘だけではなく、日本国民に対しても嘘をついたことになる。そして倍にふくらんだお金の出るところはとても東京都では負担できず、東京都と日本オリンピック委員会、そして「国民の血税」が投入されることになる。なんとその額役2000億円。馬鹿にするなと言いたい。関東圏に住んでる者はどう思ってるのか知らないが、地方に住んでいる者にとってみれば、なんで我々の税金を東京で行われる大会に出さなければならないのか。当然納得できる理由を説明する責任が日本国政府と JOC にはあるはずだが、そんなの聞いた覚えがない。
 オリンピック・パラリンピックは国として取り組むのだ、とか言ったお偉いさんがいるようだが、100%間違っている。近代オリンピック創設以降あくまでも該当国の中のひとつの「都市」が契約し取り組んできたのだ。実際大国であっても都市だけではお金が足らず、国税を使っているだろうが、このような自己矛盾的なやり方で行われる大会などというものは、国民を騙しているだけであってすべきではないのだ。



◆ メダルの数を競う事のバカバカしさ。大切なのは選手たち個々人の努力の結果だ。
 しかし日本の極めて暑い気候の中でのオリンピック・パラリンピックは行われた。ここに出場するために必死に努力して出場権を勝ち得た選手たちにとってみれば、待ちに待った大舞台であり、自分自身の最高のパフォーマンスを発揮する場でもあって、事実力を出し切って結果を残した選手は多い。メダル数は過去の大会中最高だと言う。私などその最高といわれるメダルの数さえ知らない。理由は簡単。メダルの数などはどうでもいいと思ってるからだ。メダルの数などというのは、周りとメディアがこだわって騒いでるだけの話であって、大切なのはその個人がメダルに届いたか優勝で終わったか、あるいは惨敗したか、そういった結果であるはずだ。従ってある選手が金メダルを取れば、それはそれで努力が報われたことになるんだろう。それ以上の話ではない。また期待されながらも一回戦敗退の選手もいた。それもその時の結果に過ぎない。それ以上どうのこうの言う必要のないことだ。だから金メダルがいくつであって総メダル数はいくつだった、なんてことははっきり言ってどうでもいいことなのだ。
 ただ大会を目指して長期間にわたり、懸命な努力を続けてきた個々の選手やチームには敬意を表する。彼ら個人はあるいはチームは、オリンピック・パラリンピックの主催者でも何でもない。選出されて出場した選手なのだからだ。

◆ 嘘つき大会は結局、お手盛り大会で終わる。
 大会前には組織委員会の誰かがジェンダー平等に反する発言をして事実上クビ。新たに別人物が委員長になった。大臣もその委員長もともに女性になった。そこだけはちょっと評価できるかもしれない。ただしそれぞれの選出過程には不透明さがあり、いわばお手盛りで決めてしまったことに対するいい加減さの問題は残る。つまり民主主義的な手続きを踏まずにどこかでいつのまにか決まってしまうということの無責任さが問われる問題だ。
 しかし終わってみれば決算は年度末と言うから、なんでそんなに遅いんだと思うが、とにかくまだ出ていない。しかし概算では1兆5000億円前後になると言われている。その額に対して関係者は、予算額よりもよく抑えることができた!等と変に評価していると言う。そのような感覚そのものが理解不能だ。招致段階の7500億円がなんだかんだで1兆6500億円になり、それが1兆5000億円程度で済んだのでよかったよかった何ていうのは、完全なごまかしに過ぎない。そして結局国民の税金は2000億円使われた。誰がこんなものに納得できるというのか。そしてさらに一部の学者たちはあるいはジャーナリストたちは、関連経費全体を含めるとおそらく3兆円に達するだろうと言っている。そこまでの根拠はまだ記事としては読んでいないので不明な点が多いが、少なくとも言えることは、「コンパクト・オリンピック・パラリンピック」は完全な嘘だったということ。そして「復興五輪」もどこかで吹っ飛んで、実質上嘘に等しい状態になっていたこと。 IOC も JOC も組織委員会もみんながみんな「終わりよければすべてよし」というお手盛り大会で幕を閉じるということにするんだろう。



◆ 終わってからも続く「負の遺産。」誰が責任取るのか?
 そしてさらに加えてほとんど間違いなく嘘つきになるだろうという話がもう一つある。いわゆるオリンピック・パラリンピックの「レガシィ」と呼ばれる、インフラ整備を中心とした社会的経済的効果としての施設等の問題だ。国立競技場を維持するのに毎年24億円かかると言う。果たして様々な競技を誘致してその分を稼げるのかどうか疑問が出ている。他の専門競技の会場もそれに見合っただけの使用頻度があるのかどうかも全く見通しは立っていない。
 漫画みたいな話なのはカヌー・スラローム会場だ。実はカヌーの練習場として使える施設はすでに内陸部にあった。ところが IOC が観客動員数が得られないということでその施設の使用を認めず、結果東京湾近くに新たに建設することになった。総建設費用300億円カヌー及びスラローム競技の使用しかできないところだ。こんな莫大な費用をかけて利用頻度が極めて少ないことが分かっているようなものを作る。おまけにメディアでも最近報道されていたが、海の近くに建設したためになんと競技に使うロープなどに牡蠣が付着してその除去費用が莫大な金額になると言う。海運や漁業などに携わる人ならば誰もが知っている当たり前のことが、大会関係者は誰も知らなかったのだ。ちょっと調べれば牡蠣の付着が当たり前でその除去費用は時間と労力とお金がかかると言うことなど、わかりきっている話だと言う。
 他にも多々の問題があるだろう。まさかそれを今後も「国民の血税」で賄うなんてことはないとは思うが、東京都民の税金でそれらが賄われる。かわいそうな話だ。オリンピック・パラリンピックの代償の大きさが今後もずっしりとのしかかってくるわけだ。次は3年後のパリ・オリンピック・パラリンピック。まぁとにかく同じ都市が2回目も3回目もやるなんて状態が最近はよく続いている。つまり経済的な大国にしかできないのがわかりきっているのだ。さっさと止めればいいのに。 IOC の連中は金づるがなくなるのを1番恐れてるんだろう。
 にもかかわらず、なんとなんとなんとこの日本という国は次に、「冬季札幌オリンピック」の招致に乗り出すと言う!まぁこれも呆れると言うか何と言うか。なんでこういうものに多額の税金が使われなければならないのか。ついでの話。2025年の大阪万国博覧会。これはいつのまにか大阪及び関西万国博覧会という名前になってしまっている。いつ誰がこんな名前にしたのか。何のために巨額のマネーを投入してやる必要があるのか。日本の経済は今現在決して順調とは言えない状態のところにある。ここ10年間国民所得は横ばい状態。ほとんど上昇していないのだ。国民一人当たりの所得ではもはや主要国に抜かれて順位をどんどん下げている。国債を際限なく発行して借金まみれの経済状態。尤も万国博覧会にはその後に、賭博場を作ると言う計画があって、それで人々の射幸心を煽り金をむしり取ると言う浅はかな邪な思いというものが透けて見える。ほんと何という国なのか、この国は。


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法雲寺・菊野大明神~善導寺 京都市中京区・・・訳あり浄土宗寺院

2021-12-28 22:12:55 | 撮影
法雲寺・菊野大明神

 

 『法雲寺の所在地(現京都市中京区河原町二条上ル清水町)は、もと鴨川の河原であった。
「河原町」の地名はその名残である。
 地域一帯が埋め立てられ、都市域となったのは、豊臣秀吉時代以後、徳川時代初期の慶長・元和年間ごろ(おおよそ一六〇〇年~一六二四年ごろ)と思われる (「京都図屏風」)。貞享 二年(一六八五) 刊行の『京羽二重』巻二に、「役行者塚」の存在する場所として当寺が紹介されており、それまでに創建していたといえる。
 元和五年(一六一九)以来、長州毛利屋敷が至近の河原町御池に存在していたため、幕末期には毛利家臣が多くこの周囲に居住した。
 たとえば久坂玄瑞(のち義助)が「京都御屋敷の後」(木屋町通御池付近)に、佐世八十郎 (のち前原一誠)、楢崎兄弟 (弥八郎、仲介か)、寺島忠三郎、中谷正亮、堀真五郎らと同居し (文久二年五月一日<一八六二年〉付妻杉文宛久坂書翰)、桂小五郎(のち木戸孝允)が「木や町三条(二条の誤りカ)下ル一番路」(文久三年八月七日付桂宛寺島忠三郎書翰)に住居していた。
  法雲寺もそのひとつとして使用された。文久二年七月、中老格長井雅楽殺害に失敗した久坂らは、家老浦靭負に自首し、同年八月四日、謹慎のため当寺に入った。ともに当寺に謹慎したのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進である。 浦の家臣である秋良敦之助やその子息雄太郎、赤祢幹之丞(武人)、世良修蔵も慰問したほか、 松島剛蔵 (小田村伊之助の実兄)らも訪れている。
 同年七月七日、万延元年(一八六〇)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のち稔麿) が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、当寺に謹慎した。文久二年八月一三日付妻杉文宛の久坂玄瑞書翰によれば、「最近は栄太郎も拙者と一緒になり日夜話などをしていますので、(栄太郎の)母も安心いたすようお伝えなさるのがよろしい」(意訳) とある。
 当寺は元治元年(一八六四)の甲子戦争 (禁門の変)の戦火を免れた。明治元年一一月 当時の伽藍は、中心部に本堂、それに接続して東に書院・台所が南北に位置していた。その南には 独立して観音堂があったが、その後消失した(京都府庁文書)。現存の本堂・書院・ 台所は全く幕末当時の建物であり、そのいずれかに人が居住していたのである。
 稔麿は同年閏八月一三日に、久坂らも同年九月一二日に謹慎が解かれ、当寺から離れた。
 なお稔麿が懇意にしていた塩屋兵助方も至近の二条寺町東入ルにあったとされる。 塩屋 は「正義之者」で、元治元年六月の池田屋事件で亡くなった稔麿の死の詳細を夫婦個別にそ の叔父里村文左衛門に伝えた。またと稔麿から預かった「用心金」三〇両も送り返している。
 池田屋事件のおりは、河原町二条下ル東側にあった角倉与一邸脇で割腹遺体が確認されており、 それが土佐浪士望月亀弥太と理解されている。
   二〇一五年(平成二七乙未)七月
      歴史地理史学者 中村武生』

   

『法雲寺
 清水山洗心院と号し、浄土宗に 属している。
 この地は、関白太政大臣藤原兼家が、その邸宅二條第を正暦元年 (九九〇) 寺に改めて創立した法興院の旧地である。その後、しばしば火災にあって平安末期以来伽藍は廃絶していたが、旧第の池水のあとと思われる清泉のみが残っていた。永禄十年(一五六七)源蓮社清善上人がこの泉のほとりに草庵をむすび、元和元年(一六一五)に清久上人がこのあとに堂宇を建立したのが当寺のおこりと伝えている。
 本堂は文化十五年(一八一八) に再建されたもので、本尊阿弥陀如来像を安置している。
 庫裡の東に「菊野大明神」が祀られている。良縁は結び、悪縁は切るという縁切り祈願の神として民間信仰の特異な存在である。
  京都市』  (駒札より)

  

 京都市役所の北東側。すぐ近くにある。創建やその後の経緯については上記の説明書きの通り。浄土宗のお寺だから一般的には地域の人々の生活に根ざしたお寺になるものだが、二つの面から有名なお寺となっている。
 一つは幕末期に京都における長州や土佐藩などによる尊王攘夷派の暗躍が盛んとなっており、そんな中で新撰組におる池田屋事件が起こり大勢の犠牲者が出た。それだけではなく尊王攘夷派がこのお寺とも関わりがあった件だ。池田屋については尊王攘夷派を宿泊させていたことで経営者が牢獄に入れられ、その中で獄死することになる。しかし法雲寺の方については特にお咎めはなかったようだ。こういうことから様々な浪士たちがこのお寺に出入りをしていると言う。
 二つ目はお寺の境内に「菊野大明神」が祀られていることだ。この大明神は「縁結び悪縁切り」のご利益があることで知られており、しかも様々な縁結び悪縁切りの中では史上最強とも呼ばれていると言う。京都では結婚前の娘やカップルなどはこの前を通ってはいけないと言われるほどの強力なものだと言う。実際には縁結びよりも悪縁切りの方が圧倒的に多いということで、今現在の世の中の実態を反映しているものだと考えられる。元々が観光寺院でもないので、興味本位でこの明神さんを訪れることはやめたほうが良いと言われている。
 幕末期の騒乱状態の様子については、上記説明書きが門前に掲げられていた。


善導寺

  

『善導寺
終南山 真光明院と号し浄土宗に属する 永禄年間 (一五五八〜 一五六九)善誉清善和尚によって六角堂の付近に創立されたが 天明八年( 一七八八)の大火にかかり第四世旭誉の時に 長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移った
 堂前には嵯峨釈迦堂の本尊を模した釈迦三尊石佛がある高さ一メートル足らずの扁平な自然石を半肉彫りにしたものでもので両脇には弥勒菩薩と五髻の文殊菩薩を拝する珍しい形式で弘安元年(一二七八)の銘がある
 庭内にニ基の灯籠があり一つは書院庭に鎌倉時代の白大理石の石幢を灯篭に改めたもの他の一つは前に火袋の面には 茶碗 炭斗 火鉢火箸茶釜 柄杓 五徳が彫刻されていて世に善導寺形灯籠と呼ばれ 茶人の間にこれを模して愛玩するものが多い』
  (石碑文より)

   

 京都市役所の北東側。すぐ近くにある。隣が法雲寺となる。創建頭の由来については上記石碑文の内容の通りとなる。当初は今現在の六角堂の辺りに建てられたが、その後現在地に移転する。その際に隣に法雲寺が一緒に創建された。
 このお寺には釈迦三尊石仏と言う珍しい形式の石造佛がある。これは嵯峨釈迦堂(清涼寺)の国宝の本尊を模したものと言うことが分かっており、こちらの方も国の重要美術品に指定されている。
 また境内には石灯籠があるのだが、これがまた珍しい形式のものであり、善導寺型灯籠と呼ばれている。灯籠には鎌倉時代の弘安元年の制作年が彫られており、当寺日本各地のお寺で流行ったものだと言われている
 もう一点「六地蔵石幢(せきどう)」と言う極めて珍しい鎌倉時代作の石造物があり、これは非公開となっている。やはり国の重要美術品に指定されている。
 一般の浄土宗のお寺で、このようなものが置かれているというのは比較的少ない方となると思われる。境内に配置されているものはそのまま見ることができるので、これもぜひ見ておきたいものだ。


 
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《赤木雅子さんによる国家賠償請求訴訟への「認諾」と言う卑劣な手段》2021年12月26日

2021-12-26 23:05:42 | 社会


◆ 「認諾」って? 初めて聞いた。

 12月15日に裁判において法律の専門家たちがあっと驚くような結果が出た。裁判官が出したのではなく被告側が申し出たものだ。それは「認諾」というもので、報道によれば裁判官も事前に聞いていなかったし、法律の専門家たちも一様に驚かざるを得ないようなやり方だったと言う。私もこのような言葉を初めて聞いた。

◆ 安倍元首相の森友加計問題の事件

 もう何年も前になるが、安倍内閣の時に森友加計問題が起こる。その中で森友学園に対する国有地の払い下げにおいて、不当に安く払い下げられ、これは森友学園と安倍首相夫妻の関係の間で、私的な関係があり正式な手続きを踏まずにいわば、「お友達」に有利なように計らったそのことが国会で追及され、安倍首相は答弁に立って次のように啖呵を切った。すなわち、
 「もし私がそのような不正を行ったとすれば、また妻が関わっていれば、これはもう当然首相どころか国会議員も辞するべきものだ。絶対にそうしたことはしていない。」といった旨の内容を国会議員だけではなく全国民に向けて述べたのだ。
 その結果は関係省庁に大きな衝撃を与え、独裁的な権力を手にしていた安倍首相の嘘が表沙汰にならないように官僚たちが動かざるを得ない状況になった。森友学園は大阪での話であり、大阪の財務局が払い下げ予定の土地の評価額、そして実際に払い下げようとしていた額の差額を何とかしなければならない事態になる。さらにこの件について安倍首相及びその妻は全く無関係であること示さなければならない。

◆ 末端公務員への国家権力の圧力と自殺への追い込み

 それはつまり公文書の記載内容を変えなければならないということを意味していた。大阪の財務局では追い詰められた状況の中で、末端の財務局職員であった赤木俊夫氏に公文書の改ざんを指示したが、彼は抵抗する。当然のことだ。国民の税金が関わっている内容に嘘があってはならない。公務員は国民の公僕であり裏切ることは絶対にできないのだ。一時はその赤木氏の思いに動かされた上司だったが、話が進まない東京の財務省から一本の電話が入り圧力がかかる。
 これは絶対的な命令を意味した。つまり職務命令で公文書改ざんをせよ、と言うことになる。赤木氏は悩みながらも辻褄を合わせるように文章を書き換えていく。そして仮に国会で首相や財務大臣などが追求されても証拠として大丈夫なような内容のものにしていく。
 しかし根が真面目な赤木氏はこのことによって悩みに悩み、いつしか鬱状態になっていく。そして次第に精神的に追い詰められ、とんでもないことをしてしまったとの後悔のもとに、最終的には自殺の選択をすることになる。
  この件は大きく取り上げられた。しかし舞台はあくまでも国会にあり、当時は野党から安倍総理や財務大臣などが追及を受けていた。しかし彼らには身の潔白を証明するだけの改ざんされた書類というものがあったので、十分この場を乗り切れると思っていたのだ。メディアの報道の焦点もそちらの方に動く。一時的に赤木氏の自殺問題自体は小さくなっていった。
 そして直接圧力をかけた財務省理財局長の佐川氏はこの「功績」によって後に出世することになる。既に安倍内閣の時点で内閣人事局というものが作られ、官僚の人事権を内閣が掌握し官僚は内閣に対して抵抗する術をほとんど失っていた。つまり理不尽な要求であっても飲まざるを得ない状況になっていたのだ。実際抵抗した官僚は辞職するか左遷される道を選ばざるを得なかった。

◆ 安倍長期独裁政権の弊害

 安倍政権は前期と後期に別れる。しかし合わせて約7年半にわたる近代政権史上最長の内閣となったわけだ。これは世界のどこにでもいえることだが、長期政権というのはほとんど例外なく、「独裁」か「堕落」を招く。過去の歴史を見るまでもなく、現在においても世界各国における長期政権の有害な実態はあちこちに見えている。別に政治の舞台だけではない。会社組織等の中においてもトップの長期経営は、マンネリ化と堕落を招き会社の成長を著しく損ねるケースというのは数多くあった。
 そして安倍政権は2020年8月にようやく終わりを迎える。彼は何としても「憲法」を変えることを自分にとっての大きな課題として設定したが、体調の件もあり辞職となったのだ。体調のことがなければ間違いなくまだ続けていただろう。従って憲法改定問題は後の政権に委ねることになった。尤もその直後からコロナ問題が発生し、今やそれどころの話ではないが。

◆ 責任を取らず認めずの安倍政権に対して「国家賠償請求訴訟」

 安倍政権が終わりを告げたのにその総括は何もない。つまり長期にわたる独裁政権によって様々な悪事が行われ、納税者でありそして主権者である国民を騙し、裏切り続けてきた元安倍首相の責任追及が一部の野党を除き、実質国会の場では終わりを告げたような状態になりつつあった。一部のメディアでは様々な問題に対して何一つ明らかにされていないということで、未だに追求し続けている新聞やテレビ局などがある。
 いわゆる赤城ファイルの存在が明らかとなり、その内容には真実が記入されているはずだということで、国会だけではなくメディアもこぞってそれを明らかにするように迫ることになる。当初公開することはできないと拒んでいた政府も、裁判所の指示にしたがって一部公開したものの、それは極めて中途半端でほぼ何も分からない内容のものだった。当然誰しもが納得できるものではない。特に自殺という形で夫を失った妻の赤木雅子さんにとってみれば断腸の思いであっただろう。当然赤木ファイルの存在が大きな意味を持つようになる。
 こうして改めて森友問題が注目され、その中で赤木俊夫氏の自殺の問題がクローズアップされるようになる。きっかけは残された妻の雅子さんによる怒りと許せない思いというものがあり、一向に最高権力者だった者が自ら何も明らかにしようとせず、ただただ逃げているという状態に対し、「国家賠償請求」という形で裁判を起こすことになったのだ。
 被告は国でありまた佐川氏となる。賠償請求額は1億円を超した。原告側の思いは請求額1億円以上だと必ず国側は請求棄却を求めて争うはずだとの思いがあり、その審理過程を通して、ことの真実が明らかにされることを期待したものだった。

◆ 突然の裁判終了。卑劣な「認諾」

 ところがいざ裁判が始まると国側は思いもよらぬ「認諾」という方法で、赤木俊夫氏を追い詰め自殺に追いやったことの責任を認めるという形をとった。裁判の審理を打ち切り終了させると言う方法に出た。これで国との裁判は国側が原告に1億円余を支払うという形になる。そのお金はどこから出るのか。もちろん国民の血税から出されるものだ。そしてこのやり方は誰もが わかっているように、国にとって表沙汰になるととんでもないことになると言うことが分かっているからこそ、このような方法に出たのだ。当然事と次第によっては安倍元首相や大臣、或いはキャリア官僚などが刑事罰に問われる可能性だって十分にあるほどのことだ。民主主義に厳しいアメリカなどであれば、これ一発で内閣が吹っ飛ぶほどのことなのだ。
 日本国政府のそして内閣のトップ官僚の何というあざといことか。ただただは国民の政治不信をさらに強めることにしかならなかった。安倍政権が終わった後すぐに菅内閣が発足し、メディアは菅新首相が苦労人で集団就職で関東に出てきたなどと持ち上げた。しかしなんとも頼りない雰囲気でしかなかった菅首相はすぐに終わりを迎え、今の岸田政権が誕生。多くのメディアがコロナ問題と東京オリンピックに大騒ぎをすると言う有様となる。かつて安倍元首相が行った犯罪はどこかへ吹っ飛んでしまったかのようだ。それに対して許すことができないことだとして、赤木雅子さんが裁判を起こした。そしてあっという間に裁判は終わった。

◆ 裁判の戦いと真実究明の戦いはまだまだ続けなければならない。

 赤木雅子さんは「夫は国によって2度殺された。」と言われた。これを聞いた誰もが納得したことだろう。国との裁判は終わったが、まだ佐川氏への賠償請求裁判は継続している。佐川氏自身が裁判所に出てくるのかどうかわからない。彼もひょっとして争わず認諾するのか。
 一人の真面目な公務員が自殺せざるを得なくなり、しかも上辺だけの国の責任論が出されて、トップの安倍元首相と財務大臣と佐川元理財局長はお咎め無し。葬儀にも来ないし墓参りにも来ない。このような非人間的な心意気しか持ち合わせていない者が、日本という国を動かす重要な地位についていたこと自体が大きな間違いというか、そうさせている我々国民にも、責任の一端があると言わざるを得ない。
 彼らは今ものうのうとその地位に跨りながら、自分たちがやってきたことなどなかったかのように日々を送っているのだ。そして我々の血税から大金を毎月毎月せしめているのだ。

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正運寺・三森稲荷大神・休務寺 京都市中京区・・・寺院密集地

2021-12-25 22:32:03 | 撮影
正運寺

  

 正運寺は阪急京都線大宮駅の北数百mのところにある。周囲にも比較的お寺が多く存在しており、おそらく豊臣秀吉らの平安京改造計画の中でこの地に集められたものだと考えられる。浄土宗鎮西派。洛陽三十三所観音霊場26番札所となる。
 創建は関ヶ原の合戦のころ。加藤清正の家臣であった人物により開かれた。当初は勝軍寺と称されていたが、戦国時代の悪いイメージの連想がなされるということで正運寺と改められたと言う。本尊は阿弥陀如来。またお寺には小さな十一面観音菩薩像があり、かつて運慶が見つけたものであり、このお寺に伝わることになった。奈良の長谷寺の本尊と同じ木材が使われていると言うことが分かっている。
 ある時、身重の女性がこの小さな十一面観音菩薩にお参りをしたところ、無事に出産できたということで「安産寺」とも呼ばれたと言う。天明の大火でお寺は全焼するが、この小さな観音菩薩像は延焼を免れたと言う。今現在では絶対的な秘仏であり、全く公開されない。
 このお寺は普段から門前に大きな柵が立てられており、まるで参拝者を拒むかのような雰囲気があるが、横のインターホンで用件を告げると快く受け入れてくれる。私も境内撮影の趣旨を伝えて中に入れてもらった。境内はそこそこ広く本堂などお寺としては一般的な雰囲気だが、緑は少なめだった。観音堂がどれなのかは分からなかった。ちょうど私と一緒に入ってきた男性が26番札所の御札を頂いていたようだ。

   


三森稲荷大神



 阪急京都線大宮駅から北へ数百mのところにある。道路沿いに民家が建ち並んでおり、その列の中にポツンと両側を民家に挟まれて存在する。小さな神社として京都市内では割とよく見かけるパターンだ。名前の通り稲荷社であり、狛狐が祠の前に陣取っている。他の小さな神社と違ってここには全面にまた狛狐にも、金網が張られていて綺麗に保たれるように工夫している。ずいぶん狭い敷地だが、祠も含めて全体がよく掃除され地域のお宮さんとして大事にされていることがよくわかる。

  


休務寺

  

 阪急京都線大宮駅から北へ約100mのところにある。周囲は住宅密集地となっている。浄土宗西山禅林寺派のお寺で、京都四十八願寺五番札所となる。
 創建は江戸時代初期であり、後に天皇の命によって霊場の一つとなった。天明の大火で全焼。その後再建されたものの昭和時代に近隣の火災によって本堂が消失。現在の本堂は鉄筋コンクリート2階建ての近代的な建物になっている。そういった意味では山門だけがお寺らしい雰囲気を残しており、境内も普通の庭といった感じだ。所々に石灯籠等お寺に置かれている物が見られるが、全体の雰囲気としてはとても400年もの歴史があるような由緒あるお寺には見えないところが残念。


    
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医徳山薬師院 京都市 中京区・・・こぬか薬師

2021-12-24 22:16:39 | 撮影


『醫德山藥師院略緣起
 抑々当院本尊薬師如来は桓武天皇延暦元年(七八二)伝教大師御年十六歳の時比叡山延暦寺草創の大願により一刀三禮の薬師佛を七尊彫刻したまふ其の一佛にして比叡山延暦寺山門根本中堂御本堂とは御一体なり現存するはこの二尊のみ 往昔人有りて比叡山の五障三従の女人禁制を嘆き悲しみ当時の美濃国(岐阜県) 横倉といえる処に一院を設け安置す 爰に尾張国山田郡に何某右馬允明長という武士の有りける此薬師如来を朝幕尊敬し奉りしに承久三年 (一二二二)五月京鎌倉の軍起り明長京方にて処々の合戦に高名秀でしが弋瀬川の戦に深手負い己に最期に及ぶとき何処ともなく黒衣の僧一人我は横倉より来るとて草を揉みて與え給ふ 是を飲みたれば疵立ちどころに癒えて年老ふるまで本国に住み子孫栄えけり
又人皇八十六代後堀河院寛喜二年(一二三〇) 疫病天下に流行し之が為に死する人都鄙の貴賎数を知らず時に此の薬師如来院主の夢に告げて曰く一切病苦の衆生我前に来らば諸病悉く除くべきに「来也・来也」と佛勅有りし添なくも院主感涙し世に之を触れ知らしめたところ遠国の末々までも聞き傳へ群衆後絶たず参者の輩は疾病諸病忽ち干癒し百寿をも保ちぬ 天下佛願の霊験を尊敬し佛の御言を仰ぎ奉り「来也薬師」と称し奉る 其後星霜推遷り人皇百七代正親町院の御宇織田信長公美濃国岐阜に在住の時法蓮房道三斎藤山城守より傅来したる此の薬師如来を平安城今の此の地に移し奉る 信心至誠の人は言ふに及ばず男女貴賤老少其の悩みに逼り或は父と離れ母と離れ難行苦行の者一切所難其の願う所に依り深く信仰し一度此の薬師如来の名号を唱へ耳に触れ戯れにも一禮を作さば忽ち結縁となって其の霊験有るべし
 まして況んや朝暮に参詣の輩は諸願成就富貴繁栄なさしめ給ふ其の功徳願海廣大無辺なることは悉く薬師瑠璃光如来御経に説きたまへり 元禄元年(一六八八) 黄檗宗緑樹派下・美濃国大梅寺開山鐵面寂錬禅師により再興され洛中水薬師・蛸薬師と並ぶ京都七薬師の一つなり
 元治元年(一八六四)七月十九日 洛中蛤御門の変で境内尽く灰燼となり明治二一年本寺緑樹院竺大禅師により再建着手 三井家近衛家の外護により翌二二年伽藍は曾ての裏門を正面とし縮小再建す 表門一帯は現在薬師町として名を留め盛時境内域は大黒町二条通一帯に亘り薬市夜店等並び立ち大いに賑いをみた 今尚二条通に薬問屋漢方薬店が多い所以はその名残りである

薬師院御詠歌
  皆人の古ぬを於楚しと 満ちたまう
   薬師のちかい 多能もし起可那
恒例行事 
  十月八日 本尊薬師如来開扉法要
       醫徳山 薬師院』
  (説明板より)



『医徳山 薬師院(こぬか薬師)

 当院本尊薬師如来は伝教大師十六歳の時 比叡山草創の大願より一刀三礼彫刻された七体の一つ。比叡山女人禁制を嘆き岐阜県に安置された。
  一二三〇年疫病が全土に流行したこの時、薬師如来が院主の夢に現れ「一切病苦の衆生わが前に来れば一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」住職が人々に知 らしめた所疫病諸病がたちまち平癒し長寿を全うできた仏のお言葉を仰ぎ「こぬか薬師」と称した。
  十六世紀に上洛した織田信長が斉藤道三より伝来した薬師如来を京のこの地に移した。  一六八八年天台宗から黄檗宗に改められ、鉄面禅師が再興し現在の数倍ある大きな境内を有し、禅風を響かせたが幕末蛤五御門の変で消失し、明治二十一年黄檗山万福寺塔中緑樹院竺丈禅師北三井家・近衛家の外護により縮小再建着手。井戸から大黒様が現れ大黒町となった裏門を正面とした。以前の表門は薬師町として名を留め、盛時境内域は二条通一帯薬師夜店が並び、薬問屋漢方薬店が多いのはその名残である。
  京都市』  (駒札より)



 薬師院は二条城の東数百mのところにある。周囲は古くからの住宅が並ぶ街並みとなっている。創建等の詳細についてはよく分かっていないが、本尊の薬師如来像が奈良時代に彫られたものということは確かなようだ。また鎌倉時代に薬師如来が夢の中に現れ、そこから「こぬか薬師」と呼ばれるようになったのも記録に残っているのか不明だが、そうらしい。 創建以降の経緯については上記の説明書きや駒札の内容の通りとなる。疫病から人々を守るとのご利益は各地に知られるようになり、お寺の規模はずいぶん大きなものになったらしい。そして全国から多くの人々がご利益に授かろうと参詣に訪れたと言う。
 今現在では敷地も狭く境内は素っ気ないもので、御堂が一軒建っているだけ。内部に本尊と思われる薬師如来かどうかわからないが、安置されているのが見える。住所としては大国町になるが、薬師院の名残としてすぐ西側に薬師町がある。
 薬師如来の移転にあたって、織田信長や斎藤道三の名前が出てきたのは意外だった。


 
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