切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

奈良県奈良市 不退寺・・・別名「なりひら寺」あれもこれも重要文化財!

2017-10-27 00:22:40 | 撮影

 奈良市の北部にある不退寺へ行ってきた。
 京都からは京奈和道を走ってそのまま24号線を南下し、幹線道路から少し細い道を入って、JR奈良線を渡るとすぐだ。奈良県民にはおそらく名前の知られたお寺だろうが、他府県民にとってみれば、ほとんど名前を聞いたことのないお寺という感じがする。実際自分自身も今回、色々調べている中でこのお寺の存在を知った。
 資料によるとお寺は重要文化財の宝庫といった感じ。これは是非行かねば、ということで行ったわけだが、比較的近くにある有名なお寺は行っている。その近くに、このようなお寺があるということを、今まで知らなかったというのは残念。
   

 正式には「金龍山不退転法輪寺」と言う。下の由緒書きにある通り、在原業平による建立と言われている。重要文化財の南大門の前が駐車場になっている。平日とあって人は極めて少なかった。拝観料を支払って境内に入ると、庭園という感じではなく、多くの木々や花があって、その間に道があるという感じ。
 
 石棺と言う案内板があって、先にそちらを見る。説明書きによると、5世紀古墳時代のもので、実際に近くの古墳から発掘されたと言う。約1600年も昔の物で、一体どういう人がこの中に納められたんだろうか。本格的な石棺なので、そこそこの地位のある人物だったろうと思われる。
 
 続いて重要文化財の本堂へ入る。このお寺の建物は、鎌倉時代のもので、多宝塔と南大門を含めて、何れも重要文化財に指定されている。
 本堂内には「木造聖観世音菩薩立像」・「木造五大明王像」などの仏像群が並んでいて、なかなか壮観だ。木造聖観世音菩薩立像は、在原業平自作と言われていて、本堂内にどんと座っていた住職が、誇らしげにそのように述べていた。でも実際には、様々な研究結果とは合わずに、業平自作ではないのではないか、とも考えられている。
 しかしこれだけの仏像が並んでいると、確かに見応えがあり、じっくりと至近距離で見られて非常に満足感があった。若い女性の拝観者がいて、住職はその人たちには割と丁寧に説明していたが、自分は色々質問するので、何か面倒がられていたようで、ぶっきらぼうな話し方だった。もう少し丁寧に喋ればいいものを、これではせっかく拝観しに来ていても、気持ちに何か引っかかってしまう。
   (絵はがきより)
 また住職は、重要文化財とはいっても、みんな名前だけや。これらを維持していくのにお金もかかるし、なかなか大変やのに、国に訴えても、けんもほろろや、などと愚痴をこぼしていた。いくらなんでも全く資金援助がないということはないとは思うが、確かに極めて少ないんだろうとは思う。
 以前、あるお寺に行った時に、本尊が突然脚光を浴びて重要文化財に指定された途端、その維持管理やセキュリティ対策で、すごくお金がかかって大変だったという話を直接聞いたことがある。そういった事情から、かなり貴重なものであっても、あえて文化財申請をしないお寺もあると聞く。
 建物も含めて、これだけ多くの重要文化財を抱えているだけでも確かに大変だろうとは思う。場所的にも大型観光バスが入って来られないような所なので、どちらかといえば個々人の拝観者の拝観料に頼るしかないという現実があるとのことだ。
 本堂を出て、草木に覆われた境内を道に沿って回って行くと、多宝塔があるが、上部が欠損している。理由はわからないが、かなり昔の古い写真に、上部があった頃の全体写真がネットに載せられていた。このような状態でも重要文化財であるということは、やはりそれだけ貴重なんだろう。境内は狭いので、本堂内を含めて全て見て回るのに30分もかからないが、仏像群は十分見る価値がある。
 なお、在原業平に関する伝説等は各地に残っていて、業平の名前が今も使われている場所も多い。京都の十輪寺もここと同様、別名「なりひら寺」と呼ばれている。
  
 蛇足だが、ネットでこのお寺の事を色々調べていると、3年ほど前に僧侶による寺内部での傷害事件が起きていて、逮捕者が出ているとのニュースがあった。まぁお坊さんも決して聖人君子でもないので、切れる時には切れるんだろう。

 最後に在原業平の歌人としての代表作をひとつ。百人一首にも選ばれている。
  「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」
 (他HP 大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より)


『不退寺の由緒

大和北部八十八ヶ所御詠歌
 観音をただ一筋にたのみつつ
  不退の寺に急ぎまいらん

 仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守在原業平朝臣の建立になる不退寺は大同四年(八〇九)平城天皇御讓位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(八二五~八八〇)相承してここに住した。
 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和十四年(八四七)詔を奉じて旧居を精舎とし自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長七年(一六〇二)寺領五十石を得て、一時寺観を整え南都に特意な存在を示した。境内の整備も一段と振い、面目とみに一新するに至った。
 今もなお、美しく清掃されたその清々しさは、業平朝臣伝承の美の象徴とも言える。
 昭和五年四月久邇宮邦英殿下の𥑆来山を仰ぎ有難き御言葉添えによって、当山の修理が一段と進捗すると共に記念として香炉一基を下賜され、本尊の霊前にあって寺史に精彩を加えている。
 (不退寺パンフレットより) 

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