ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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日本の心71~幕府が依拠した皇室の権威

2022-02-23 10:17:25 | 日本精神
 わが国では、天皇と無関係に形成された権力には正統性がないという考え方が、ずっと存在していました。
 豊臣秀吉は天皇の権威を仰ぎ、自分の権力を天皇の権威によって公認のものとしました。秀吉は天正13年(1585)7月に関白に任じられました。関白は本来、天皇を補佐し、政務を執り行う重職でした。秀吉は、さらに太政大臣ともなり、朝廷から与えられた地位を諸大名に対する支配の正当化のために利用しました。
 秀吉の後を受けて天下を統一した徳川家康は、慶長8年(1603)2月、征夷大将軍に任じられました。将軍職も天皇の権威あってのものであり、源頼朝以来の「武家の棟梁」としての地位を正当化するものでした。家康は、2年後には将軍職を秀忠に譲り、徳川氏がこの官職にもとづく政権を世襲することを天下に示しました。
 幕府は当初、天皇が政治に係ることを規制し、学問や和歌などに専念するよう求めました。慶長20年(1615)、家康が制定した「禁中並公家緒法度」は以下のように定めています。

 「 一、天子諸(御)芸能の事、第一御学問なり。学ならずんば則ち古道明らかならず。而して能く太平を致すもの未だ之有らざるなり。貞観政要の明文なり。寛平遺誡に経史を究めずと雖も群書治要を誦習すべしと云々。和歌光孝天皇より未だ絶へず、綺語たりと雖も、我国の習俗なり。棄て置くべからずと云々。禁秘抄に載せる所、御学習専要に候事」

 そのほか、天皇の行為を細かく規定しています。天皇が高位の僧尼に与える「紫衣(しえ)」や上人号についても、事前に幕府の許可を得ることとしました。朝廷に対する幕府権力の優位は、紫衣事件(1627年)によって再確認されました。後水尾天皇が高僧に紫衣を勅許したのを無効としたのです。天皇は譲位をもってこれに抗議しました。
 このように幕府は当初、朝廷の権限を抑制する政策を採っていたのですが、その後、朝廷の権威を重んじる方針に転換します。征夷大将軍の任命は、4代将軍家綱以降、天皇から勅使が江戸に下向して、将軍宣下の儀式として行われました。勅使下向は将軍の権威を高めるために重視されましたが、元禄14年(1701)にはその接待をめぐって刃傷事件が発生しました。それが「忠臣蔵」の話の発端です。浅野長政に切り付けられた吉良義央(よしなか)は、勅使の接待や朝廷との間の儀礼を司る「高家(こうけ)」という役職にありました。
 幕府が皇室を重んじただけではありません。江戸時代には、今日想像する以上に、多くの人々が皇室への憧れを抱いていました。皇室を雅(みや)びなるもの、高尚なるものとして憧れる感情は、国民全体の生活にしみわたったものでした。その例を雛人形に見ることが出来ます。
 雛人形の由来については、平安時代の貴族の女の子は、人形遊びのことを「ひいな遊び」と呼んでいました。「ひいな」は雛型人形のことですが、小さくてかわいいという意味もありました。今日のような雛人形は、室町時代ごろ宮中や貴族の間で始まり、江戸時代に武家、やがて国民全体に広まったといわれます。
 当初の雛人形は立ち姿で、紙で作られたものでした。はじめは男女一対でした。室町時代より座り雛となり、江戸時代初期、17世紀の寛永時代に、寛永雛と呼ばれる公家風の雛人形が表れました。これが改良されて、元禄雛、享保雛と徐々に大型化し、優雅な人形になりました。また、雛祭りの習俗が、大名家を始めとする武家にも広まりました。そして、18世紀の半ばに、有職故実(ゆうそくこじつ)にのっとった正確な装束を着た人形が作られました。これは、有職雛と呼ばれるものです。江戸後期には、豪華な装束を身につけた雛人形を祀り、雛壇に調度品を飾る今のようなスタイルが出来上がりました。雛祭りが商家や地方にも普及して国民的な行事となりました。これは女子の祭であり、健やかな成長、幸福な結婚、子孫の繁栄を願う行事です。
 雛人形は、江戸後期に今日のような親王飾りとして完成されました。親王とは本来、天皇の兄弟と皇子のことですが、お内裏様とお雛様は、皇太子の結婚の儀を表したものといえましょう。お内裏様が天皇、お雛様は皇后に当たります。三人官女、五人囃子の人形は、皇室に仕える女官や雅楽の楽師です。雛壇に飾られる調度類は、結婚の際の嫁入り道具に当たります。そうした雛人形が、国民の間に広まったのです。もともと庶民の間に皇室への憧れがあり、雛人形によってさらにそれが強まったと考えられます。
 江戸時代には、百人一首も民間で広く親しまれています。百人一首には、皇族や公家の歌が多く選ばれており、国民の間に宮中の「みやび」の文化への憧れが醸成されました。皇室の仁愛や優美に憧れる心は、国民全体に浸透していたのです。それが、いかに広く深いものであったかは、江戸の庶民文学や娯楽の中に表現されています。例えば、庶民の楽しみの一つだった川柳に、仁徳天皇を詠んだものが知られています。

 低き家(や)の 煙は高き 御製なり
  生薪(なままき)の 煙りも御製の 中に入り

 理想的な天皇の姿が、川柳に歌われるまでに国民の意識に定着していたわけです。
 皇室への憧れは、明治になって初めて、政府が上から浸透させたものではありません。江戸年間に、庶民の間に広く行き渡っていたものなのです。だからこそ、幕末の危機の時代に、天皇を中心とする国のあり方を取り戻そうという運動が起こり、明治維新の原動力となったのです。

 次回に続く。

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