お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

ヴァルトブルク (ヴァルト城塞)

2021年06月28日 | 旅行

旧東ドイツにあるマイマールからの帰路に、アイゼナハという町に途中下車した。ヨハン・セバスチアン・バッハ生誕の地である。そして、町の中心部から3km程離れた、町を見下ろす約200mの岩壁の上に建てられたヴァルトブルク(ヴァルト城塞)を訪れた。

 

 

城塞とホテル・レストランの全景 (パンフレットより)

 

  

入城門 ・ 城壁

 

大変古い城塞で、築かれたのは11世紀の半ばであるらしい。ゲーテに絶賛された立派な山城である。宴会場を造る際にリストが音響効果の観点から助言を与えたり、ワーグナーのオペラ『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』の舞台になったり、この城塞を巡る逸話は幾つかあるが、最もよく知られている話は、ローマ法王から追放されたマルチン・ルターが1521年にこの城塞に庇護を求め、表向きは „ユンカー・イェルク“ という名の囚人ということで追跡をかわして10ヶ月間滞在したことであろう。ルターはその滞在中に新約聖書をドイツ語に翻訳した。1838年から1890年にかけては、傷みの激しかった城の大規模な修復が行われたそうである。そして、すでに19世紀から20世紀への変わり目には毎年10万人を超す巡礼者が訪れ、1912年には城塞から高度差10m程下にホテル・レストランが建てられた。外壁はヴァルトブルクと同じ岩石を使い、しかしながら城より立派にはならないように建造されたらしい。この35の客室を持つホテルは、今日5ッ星ホテルとして営業している。

 

マルチン・ルターが滞在した部屋

 

ホテル・レストラン

 

ヴァルトブルクは1999年にユネスコの世界文化遺産に登録された。東ドイツであった時代も城塞は巡礼と観光で訪問者が絶えず、ホテル・レストランはその間ずっと営業を続けていたそうである。

 

意外とこじんまりした入り口を入ると右手に小さいホールがあり、大きなテーブルがフロントデスクだ。今どき珍しく、ポーターが部屋まで案内してくれる。

 

 

ホテル・レストランの入り口 ・ 門から見るホテル・レストラン

 

フロントに立つスタッフ

 

客室はシングルを予約していたので小さいけれども清潔で、黒い鉄製のカーテンレールやコート掛けの金具やドアの取っ手のデザイン、そして桟入りの窓ガラスを見ると、古城程では無いが、それでも古い造りであることは分かる。浴室は狭くてシャワーしかないけれども、良い資材を使ったモダンな機能的な造りである。窓下には所々に雪を残したチューリンガーヴァルト(中部ドイツの山地)が広がる。5ッ星ホテルなのでやはりスリッパと浴用ガウンが備えてあり、驚いたことに、量は少ないが一応ワインもビールもあるミニバーの飲み物が無料である。

私の部屋

レストランに行く途中に結構な広さのサロンがあり、木材の床で年代物のテーブルや椅子やソファーが沢山置いてある。暖炉には火が燃え、明かりを落とした壁灯に、クリスマスが近いのであちこちにローソクが灯してある。ゆっくりくつろいで夜を過ごすのに最適だろうと思わせる空間だ。

 

サロン

レストランは城塞の中ではないので歴史に押し潰されそうな重厚さはないが、天井も床も茶色の木製で約100年の歴史を感じさせる。レストランから少し奥まったところに大広間があり、50人くらいの人がディナーを食べながら観劇することができる。

 

レストラン ・ 大広間

さて夕食であるが、5品のコースメニューを注文した。

厨房からの挨拶の突き出しは、鮭の燻製をクレープの生地で巻いて、ハチミツ・カラシ・ソースと生の葉野菜をほんの少し添えてある。しかし鮭の燻製とクレープの組み合わせは良くないと思った。その代わり、と言うのも変だが、パンが焼き立てで美味しかった。

1品目はこの地方の子羊のアスピック料理にポテトとヤギ・チーズのグラタンをのせてある。周りにサイコロ状の赤カブの酢浸けと刻みパセリを混ぜたオリーブ油を散らしている。赤と緑が鮮やかでよろしい。

2品目は西洋梨の済ましスープで、中にニンジンとセロリの千切り及び鹿のソーセージの小さな団子が数個入っている。熱々で、酸っぱい様な甘い様な良い味である。

口直しの3品目はプラムのシャーベットと果実がふた切れ。

メインディッシュは猪だ。煮込んだイノシシのもも肉を黒ビール・ソースで食べさせる。付け合せは西洋キャベツとベーコンを冷搾りのナタネ油で炒めた料理とダンプリング(小麦粉の団子)であった。ドイツではよく牛肉を煮込むのであるが、私には牛肉との差が判らないくらいイノシシの臭みが無い旨い料理だった。

デザートは赤ワイン用の葡萄から作ったクリーム、バニラ・アイスクリーム、球形の揚げ菓子パン、そしてパフェのサクランボ・ソースかけ。もう満腹であるからか、デザートを美味しく感じない。次回コース料理を食べるときはデザートを省略してもらおうかと思う。

全体的に、レストランはこの地方の食材を使って土着の又はそれに近い料理を供するのであるが、量的にも視的にも味的にもアクを取って垢抜けさせているようだ。私が今まで食したうちで最も美味しい庶民的料理のひとつだと思う。

朝食はやはり昨晩のレストランで取るのだが、大きな窓から見渡せるチューリンゲンの山々の景色が素晴らしい。食事の内容は5ッ星ホテルのスタンダードである。サーヴィス・スタッフの対応も良い。各種ジュースの他にブルーベリーの飲むヨーグルトがあったり、ソーセージと卵料理は作り置きではなくて注文を受けてから作る、というのが目新しい。 „チューリンゲン・ソーセージ“ を注文した。全国的にその名を知られているのであるが、私には何が特別なのか分からなかった。際立って美味しいという訳でもないのだが、、、、。

ホテルと城塞の中庭には無数のクリスマスマーケットの屋台が立てられている。週末には店開きして中世のマーケットを再現するそうである。

2日目の夕食は、コースメニューが昨晩の1種類しかないので、ア・ラ・カルトで注文する。調理場からは鴨の胸肉の燻製がサーヴィスされる。あまり旨くない棒状のパンとまずまずの味の野菜のトマト煮が添えてある。

前菜として胡桃の実を使った小団子が入ったセロリ・クリーム・スープをたのんだ。ベーコンを焼き込んだスポンジケーキが付いている。

メインディッシュとして少々変わったものを注文した。地元の惣菜を色々少しずつ湯飲みのような食器に入れて一度に供してもらう。この地方の美味しいものを知るのに手っ取り早いやり方だ。焼いた脂肪の少ない豚のひき肉(少しパサパサでやや塩辛い)、焼きソーセージの自家製辛子添え(不味くは無いが、もう少し味に個性が欲しい)、ハチミツとキャラウェーの実入りのヤギ・チーズ(予想に反して癖が無い、キャラウェーの実は合わない)、レバーペースト入りポテト団子のムラサキキャベツ添え(旨い)、アスピック・ソーセージと二十日大根のサラダ(さっぱりしていて美味しい)、揚げホタルジャコの甘酸っぱ漬け(新鮮な魚がまだ暖かく良い味だ)、自家製の鹿肉ハム(少し塩辛くて美味しくない)。付け合わせとしてまだ暖かいジャコウソウ入りの黒パンが供されたが、不味くて殆ど残した。

この地は山の中の田舎だし旧東独なので、アレンジしていない地場の惣菜は繊細さに欠けると思う。中には美味しいものもあるけれど、、、、、、。

〔2010年12月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

 

 

 

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ブロムベルク城塞

2021年06月21日 | 旅行

ハノーファーから南西に、丘陵と森が続くヴェーザー山地を一時間半ほど走ると、急斜面の丘陵の頂上にブロムベルクの町がある。この町の象徴である貴重な歴史的建造物のひとつがブロムベルク城塞で、1971年以来ホテルになっている。

 

1447年の近隣都市との争いで公文書などの史料が破棄されてしまってはいるが、このブロムベルクの町が 1231年と1255年の間に、貴族ベルンハルトIII世・ツア・リッペによって開かれたのは確かであるらしい。1447年以降に城塞は再建されて、それ以来ツア・リッペおよび彼の縁者の所有であったが、1962年にブロムベルクの町が取得した。そして州立リッペ連盟が当時の領主の館として、個性的なホテルの建物群に整備したということである。

 

 

 

入口 (側から) ・ 入口 (側から)

 

真ん中に井戸がある石畳の中庭を通って建物に入ると、意外とこじんまりしたレセプションがある。内部を完全改装したらしく、黒とこげ茶を基調としているが、全体的に雰囲気が明るくて今の時代に合った造りだ。

 

 

 

中庭 ・ 中庭 (夜)

 

 

 

 階段と地方領主たちのワッペン ・ 暖炉のあるロビー

 

建物の中をうろついて気が付いたのだが、このホテルは喫煙と禁煙のゲストルームをきっちり分けている。ロビーと廊下は禁煙であるらしく、ガラス張りで皮ソファーを備えた喫煙室を設けてあって、面白いことに、中に武器を持った鎧兜を飾ってある。タバコを吸う人を守っているのか、それとも喫煙者に対して怒っているのか。(写真を整理していて良く見ると、鎧兜がタバコをくわえているではないか。仲間の喫煙者を守っているのである。)

 

 

 

タバコをくわえた鎧兜 

 

このホテルには興味をそそる適当なプランが無いので、普通に部屋とレストランのテーブルを予約していた。部屋はダブルルームのシングルユースなので、私には心地よい広さである。内装はビジネスホテルの様で、作り付けの家具も比較的新しくてモダンな照明機器が沢山あり、それが全部申し分なく機能するのがうれしい。ドイツのホテルなので清潔なのは言うまでも無い。小さい窓と1メートル以上ある外壁の厚さがあらわになっているニッチだけが、ここが古い城塞の一室であることを物語っている。

 

 

 

私の部屋 

 

レストランは “暖炉レストラン“ と名付けられているように立派な暖炉が目立つホールで、天井の白色に黒い木の梁のコントラストがいい。壁の大部分は漆喰塗装をしていなくて、元来の壁であることが判る。窓のニッチの奥行きからすると、このレストランの壁の厚さは2メートルほどあるようだ。壁に数枚の大きな古い暗い人物画がかかっている。ある会社がセミナーをやっているらしく、チェックインするときに就労年齢の殆ど男性ばかりを多数見かけていたのでレストランが込むだろうと思っていたが、そんなことは無く、私がいる間にテーブルが2つふさがっただけだった。ビジネスマン達は別室でビュッフェ形式の夕食を取っているようだ。 

  

 

レストラン

 

コースメニューがないので前菜とメインディッシュを頼むことにした。食前酒はノン・アルコールのカンパリオレンジで、グラスワインはイタリアの赤。厨房からの挨拶として牛肉サラダが供された。

 

前菜では、アサツキの細切れが混ざった暖かいマッシュポテトの上にマリネードにつけて焼いたホタテが数個のっている。それにノヂシャのサラダを添えてある。ホタテとポテトは美味しかった。

 

メインディッシュは、 „おばあちゃんの手作り風ロースト・ガチョウ” に、栗が数個とリンゴのスライスが混ざった赤キャベツの煮たのが添えてある。横にジャガイモ団子があり、全体にヨモギ属植物のソースがかかっている。

 

このメインディッシュは質量共に典型的なドイツ料理で、前菜もそうであったが、味にも盛り付けにも芸術性というものが殆ど感じられない。ミシュランの星をもらうレベルのレストランは、流行なのかそれとも新鮮な良い食材が手に入るようになったからか、肉や魚介類を半生の状態で供したり低温調理をしたりする場合が多いが、このホテルの料理は前菜のホタテもメインのガチョウもしっかりと中まで焼けていて硬い。それに量が多いので同じ味を長く感じて単調になってしまう。

 

デザートは取らずに、すぐに最後のエスプレッソにした。食事時間は約70分だった。高級レストランでの食事の3分の1程度ですんで食後の時間の余裕があるのはいいけれども、残念ながら満腹度は高いが満足度の低い夕食であった。

朝食は „暖炉レストラン“ とは別の部屋で取るのだが、ここもゲストルームと同じようにモダンで明るくて清潔感がある。テラスに面した側は屋根の斜面をそのまま利用した形で、そこがガラス張りになっている。9時過ぎに行ったのだが、ちょうど50人の団体客が一度に居なくなった後だということで、一人で静かに朝のひと時を過ごすことが出来た。多分会社族の研修が9時から始まったのであろう。ビュッフェには特筆すべき物は無かったが、割と良いホテルの標準的な朝食である。いつも飲むアールグレイ・ティーは私の知っているメーカーのもので美味しかった。昨夜の夕食のときにも感じたが、サーヴィスが早くて無駄が無い。しかし私の好みから言うと、もう少しエレガントで味のある接客をして欲しい気がする。

2日目の „暖炉レストラン” は、金曜日であるからか、夫婦とおぼしきカップルと家族のグループで結構活気があった。

さて、今日は „夕食満足作戦“ を立てていたのだ。まず、朝食が遅くて夕食を早い時間に設定していたので、昼食を抜いた。アペリティーフはパス。酔うと満腹感が増すような気がするので、ワインも無し。食事は変則で前菜だけを3種類注文した。

調理場からの挨拶は、燻しサーモンと葱を細かく刻んで混ぜた一種のサーモンサラダに、茹でポテトが1切片付いている。結局これが一番美味しかったのだが、期待を持って最初の前菜を待つ。ノヂシャのサラダと糖衣をかけたリンゴの切片、そして揚げた鴨の肝臓である。一流レストランでよくフォアグラの表面を軽く焼いた料理が出てくるので、そのイメージで注文したが全く違っていた。それはガチョウと鴨の違いであるし、“焼く“ と“揚げる“ の違いであった。ドイツ語では „焼く“ も „揚げる“ も „ブラーテン“ だから困ったものである。

2つ目はヤマドリタケの細切り入りポテトスープで、可も無く不可も無く感動も無し、であった。

3つ目の前菜はレンズマメの温サラダと子羊のハムに苔桃のジャム、そしてノヂシャとトマトとキュウリのサラダが添えてある。サラダのドレッシングは残念ながら最初のそれと同じものであった。„作戦“ を立てて望んだ今日の夕食の成果、、、、、昨日に比べて満腹感がやや少なく満足感がやや多い、というところか。  

ブロムベルク城塞ホテルは 多分4つ星レベルのホテルだと思うが、ブロムベルクの町が興味深くて面白い、部屋が明るくて清潔で機能的、屋内プールとサウナを23時まで使える、バスローブを貸してくれる、サーヴィスが迅速である、などの点を総合すると、快適に滞在できるホテルだと言えるだろう。ただ、私がもう一度宿泊するとしたならば夕食をどうするかが、まだ未解決の課題である。

201011月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

 

 

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城館ホテル クロンベルク

2021年06月17日 | 旅行

フランクフルト・アム・マインは、第二次世界大戦後、ボンと並んで西ドイツの首都として候補に挙がったそうである。しかし西ドイツとしては、いずれ東西ドイツを統一して再びベルリンを首都にするという思惑があって、暫定的な首都にしようと、小さな町であったボンに決めたらしい。まさにその通りになったのであるが、当時の政治家の先見の明に脱帽したい。

 

マイン河畔に位置するこのフランクフルトはドイツにおける金融の中心都市で、高層ビルが立ち並び、ニューヨークのマンハッタンをもじってマインハッタンと呼ばれている。

 

フランクフルト・アム・マインから北西に10数キロメートル、緩やかな上り坂をタウヌス山地に向かって走るとクロンベルクという空気の良い保養地がある。目指すホテルは城館ホテル・クロンベルクと呼ばれているが、フリードリクスホフ城という名の城であるらしい。立派な門を通り、紅葉の中少し車を走らせると、今は一部ゴルフ場になっている広大な公園の中に、威容を誇る宮殿風の城館が姿を現す。玄関前の広場は駐車場になっているが大きな古い噴水もある。

 

 

 

入口 ・ 城館 1

 

 

城館 2

 

中に入ると19世紀にタイムスリップする。ロビーに大きな暖炉があり、天井が高く、全体的にこげ茶色で薄暗い。家具はすべてアンティークで、壁際には古い箪笥、壷、そして各種の古美術品が並べられた陳列ケースが飾ってある。素人目にも本物の骨董品であることが判る。

 

 

ロビー 1 & 2

赤い制服のポーターが荷物を持って、骨董家具を置いた赤い絨毯敷きの廊下を部屋まで案内してくれた。

 

 

 

階段 ・ 客室が並ぶ廊下

 

3階の部屋は広々としたシングルで、年代物の家具が過不足なく配置してある。質素なシャンデリアの下がった天井は白色で、壁はベージュ色の濃淡縦じま模様で6枚の古い絵がかかっている。11月なのであまり宿泊客が居ないらしく、大変静かだ。格子の入った窓を開けて体を乗り出すと、真下にテラスがあり、その向こうはもうゴルフコースである。フランクフルトに住む日本人が時々ゴルフをしにやって来るのか、ロビーに朝日と日経新聞が置いてあった。

私の部屋  

壁の縦じま模様を見て 『あれ? イギリス風かな?』 と思ったが、この城の歴史を読んで納得した。この城館は、イギリスのヴィクトリア女王のドイツに嫁いだ長女であり、ドイツの最後の皇帝ウィルヘルムII世の母であるヴィクトリア・フリードリヒ女帝が、亡き夫フリードリヒ III世を偲んで1889年に建てさせた城館だそうである。それで名をフリードリクスホフ(フリードリヒの宮廷)というのか。またしても納得、である。彼女は1901年に、この館で子供たちに囲まれて亡くなったそうだ。ここにある骨董品や絵画はすべて彼女の個人的な収集品とのことである。

ところで、今回は „城館ホテルで短期休暇“ という3泊のプランを予約した。プランに含まれるのは、毎朝のシャンペン付き朝食ビュッフェ、挨拶としてハーフボトルのシャンペンのルームサーヴィス、3品のキャンドルナイト・ディナー1回、6品のグルメメニュー1回、近くにあるスポーツクラブの利用とリムジンでの送迎、ミニバーの無料飲料、毎日新鮮な果物とミネラルウォーター、そして新聞のルームサーヴィスだ。ランクの星の数は知らないけれど、格式、従業員の態度、夜のベッドメイキング、そしてシーツと浴用ガウンとタオルを頻繁に換えてくれることからして5つ星だろうと思う。アンテナに続く差込の接触が悪くてテレビの映りが悪いのと浴室の付属物が壊れているのに応急処理だけで取り替えていないのは、プランで提供する部屋のレベルの問題であろう。私は興味が無いが、人によっては屋内プールが無いことにマイナス点を与えるかもしれない。

さて、最初の夕食はグルメメニューにしてもらった。レストランはロビーから骨董品を並べた廊下を通って行く。ここもやはり天井が高いこげ茶色の暗い重厚な部屋で、大きな暖炉がある。質素な、しかし大きなシャンデリアがふたつ下がり、壁の高い位置には数枚の暗い大きな人物画がかかっている。私には良く分からないが、フランス・ルネッサンス風の広間であるらしい。ピンクのテーブルクロスが沈みがちな雰囲気をかろうじて支えているようだ。スタッフは白い軍服に似た制服を着てきびきびと動いているが、決して軍隊風ではない、穏やかな風貌だ。  

レストラン

最近、私の飲み物の注文が決まって来た。まず、食前酒を聞かれたら、ノンアルコールのものがあるかを訊く。大抵はミックスジュースかノンアルコールのカクテルかシャンペンを提案されるので、その中から気分に応じて選ぶ。ワインはあまり飲めないので、コクのあるイタリア産赤ワインを100mlだ。水はガスなし。食後にエスプレッソを飲むのも決まっている。

メニューが始まる前に、まず調理場からの挨拶として、焼いた小さなタルタルステーキが野菜の千切りに載せられて、甘酸っぱい中華風の味で供された。驚いたことに、その上に3cm四方の海苔を置いている。最近ヨーロッパでは日本の食材がブームであることを裏付けている。

普通グラスワインを注文すると、既に開いているワインを注ぐのであるが、ここは未開封のものを目の前で開けてくれた。

さて1品目は東部ドイツにあるミューリッツ湖で獲れた鱒のフィレ。木苺と燻した赤カブと胡桃のクリームが添えてある。わざと生暖かくしているのか少し冷めているのか知らないが、鱒のフィレは熱いのを食べたかった。胡桃クリームには水飴をのせていて、全体的に甘すぎると思う。

次は „グラスの中の停滞コンソメ“ というわけの判らない名前が付いているが、要するに大型のタンブラーに入れた熱々の少しとろみのあるコンソメスープに生牡蠣ひとつと乾燥トマトがふた切れ入っていて、表面をトマト味の泡でおおってある。これは美味しかった。

3品目はポートワインゼリーで包んだ温フォアグラとあるが、嘘である。フォアグラは暖かくなかった。美味しかったけど、フォアグラの量が少し多すぎたと思う。暖かいパンケーキと緑のアスパラが添えてある。

そして4品目に口直しだ。オレンジのシャーベットとシャンペンの泡の上に、煎餅みたいにパリパリのオレンジの薄切りを一枚と細いチョコレートバーを2本置いている。これもなかなか結構である。

メインディッシュは牛の尾肉のステーキだ。焼き方が抜群で、葱味のクリームソースが良く合う。付け合せのニョッキが若干硬い。残念。

デザートは、板状のカラメルを底にして白チョコレートのゼリーをのせてある。その横に西洋梨のスフレと塩味の胡桃アイスクリームが添えてあって、私にはアイスクリームが一番美味しかった。コースを殆ど食べ終わった後のデザートは軽いのが良いと思う。

食後のエスプレッソに、またチョコレートが付いていた。このホテルのレストランがミシュランの星を持っているかどうか知らないが、一つ星をあげても良いくらいのレベルだと思う。 

朝食も昨夜と同じレストランで取るのだが、少し暗すぎる。朝食にはやはり明るい新鮮な空気の部屋が良い。しかし朝食の内容もサービスも申し分無いものであった。客が少ないせいもあろうが、朝食のサーヴィススタッフに名前を呼ばれて話しかけられたのは初めてである。日本の新聞を持って来てもらった。

2日目の夕食は3品のキャンドルナイト・ディナーということだが、昨日もテーブルにローソクを灯していたので何の変化も無い。それでこちらから変化球を投げてやった。つまり、食前酒としてシャンペンを頼み、ワインなしで最後までシャンペン一杯で行くという手だ。今夜はテーブルクロスを全部明るいクリーム色に変えていて、全体の雰囲気も少し明るい。

今日の厨房からの挨拶は燻し鮭のムースにオリーヴオイルを少しかけ、若いサラダ菜を少しと、昨日と同じ “オレンジ煎餅“ を一枚乗せてある。3品のメニューだが、二つの前菜から一つ、メインディシュも二つから一つ選べるようになっているのはうれしい。

前菜は焼きエイにした。皮を香ばしくうまく焼いている。ここで皿を暖めていないのに気が付いて、 „えっ?“ と思ってよく見ると、付け合せに、若ほうれん草の葉に刻みトマトと松の実をのせて サラダとしている。サラダの為に意識的に皿を温めなかったのだろう。

次はトウモロコシで飼育した若鶏である。焼いてあって赤ワイン・バターソースをかけてくれる。添えてあるのはカボチャリゾット、カボチャの種のペースト、そして茹でブロッコリとブロッコリクリームだ。もちろん皿は熱い。

デザートに、メニューに書いてあるのと違って、渦巻き型アップルパイのシナモンクリーム添えが供された。私はデザートはあまり重要視していないので、出されたものを黙って食べる。アラカルトで注文するときはデザートは省略することもよくある。そしていつものように、エスプレッソと一口チョコレートだが、チョコレートは殆ど残してしまった。

何だかロビーに人だかりがしているようで騒がしいので、サーヴィススタッフに尋ねると、今夜はファッションショーが催されるとのこと、古い城館とファッションショーのコントラストが面白い。

3日目の夕食はプランの中に入っていないし、ちょうどトリュフ週間の初日だったのでトリュフメニューを食べることにした。以前ハノーファーの近くの城郭ホテルで食べたときはお客さんが一杯だったので、覚悟してレストランに行くと、私の他は4人のグループがテーブルを予約しているだけで、トリュフメニューを予約しているのは私だけとのこと。拍子抜けしたけれども、静かに食事が出来るのは結構である。トリュフはイタリアのピエモント地方が有名なので、お勧めワインとしてその地方のワインが4種列挙されている中から一つ選んだ。今日は食前酒なしでいきなりワインで攻める (?) ことにする。いつものサーヴィススタッフのお兄さんが言う、

「僕、ピエモント地方の出身ですねん。」

「えっ、そう。」

と私。

「来週休暇で国に帰って叔父とトリュフ採りに行きますねん。」

「じゃあ、犬か豚を連れて行くんでしょう。」

「犬でんなー。豚はガサガサしてて土地を荒らしてしまいよるし、あかんわ。」

「その上豚はトリュフを自分で食べるんでしょう。じゃあ、叔父さんはいい犬を持っているんですね。」

「犬もええけど、叔父は経験豊富だから出来るんですわ。」

ということで、今夜の食事はピエモントづくしである。

まず調理場からの挨拶は、冷たい焼き鴨のスライスのバルサミコかけ、サラダ少々とポテトチップ1枚である。 

そして期待の1品目は、イシビラメに極薄にスライスした黒トリュフを添えてある。その横に、軽く炙ったフォアグラの塊とフォアグラクリーム、そしてヤマドリタケのスライス3枚にサラダが少々。美味しい。でも、皿が冷たいから魚が熱くないのは残念である。

2皿目は白トリュフの熱々クリームスープだ。レストラン中にトリュフの香りが漂う。小さな肉団子が3つ入っている。

3品目は „マスカポーネ・トリュフ・ラビオリ“ とメニューに書かれているが、普通のラビオリとは違う。形は、新鮮な卵の黄身だけを皿の真ん中に置いた形。大きさは、卵黄の4倍。色は、白い部分と茶色っぽい部分がある。上に刻んだトリュフがのっていて、下に温ホウレン草を敷いている。ナイフをちょっと入れると、(ちょうど卵黄の場合と同じように)ドロドロのマスカポーネチーズがトリュフの香りを放ちながらドッと流れ出る。パスタの生地として極薄のゼラチンを使っていると思うが、どうやって作ったのだろうか。最上の一品だと思う。

次のメインディッシュは、子牛のフィレをトリュフを練りこんだパン生地で包んで焼いてある。横に、マッシュポテトをさいころ状に固めて、トリュフ風味のゼリーと刻んだトリュフをのせた付け合わせがある。パースニップ(セリ科の野菜)のクリームも。赤ワインソースが少し強すぎたが、肉の焼き具合は申し分ない。

デザートは通常甘いので、トリュフを使う余地は無いだろうと思っていた。出て来たのは幼児の拳ほどの不規則な、ほぼ球形の物。横にマンゴのシャーベットと、カカオ72%の液状チョコレートが添えてある。球形物は表面が硬い。スプーンで力強く押すと表面の殻が割れて、中のクリームが姿を現した。トリュフクリームを白チョコレートの薄い殻で包んでいたのだ。これは凍らせたクリームを液状チョコレートにつけて冷やしたのだと思うが、どうだろうか。

食後のエスプレッソにまたトリュフ(球形のチョコレート)が供された。

ぜひまた訪れたい城館ホテルである。

〔2010年11月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

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シュトローム城塞 

2021年06月14日 | 旅行

ライン河沿いの、ワインで有名なリューデスハイムの対岸のビンゲンという町から東に少し行ったところに、シュトロームベルク村がある。この村のシュトローム城塞の建造年はおそらく11世紀で、12世紀に破壊されて再建されたということだが、はっきりしたことは分からないらしい。明確に歴史書に現れるのは1287年であるから、日本では鎌倉時代のことである。ヨーロッパの30年戦争の時代には何度も所有者が代わり、1689年に破壊された。その後長い年月を経て、1977年から1981年にかけて城の廃墟の一部が再建され、城塞ホテルに拡張されたそうである。そして1994年にヨハン・ラフェル氏が導く “金の谷“ というレストランを持つホテルとなり、今に至っている。城の施設で残っているのは、警衛城壁、望楼、そして城を取り囲む空き地の一部だけだ。

 

 

望楼の下にあるホテルの入口

 

ホテル&レストランとして使っている部分は現代風に改装してあり、元々の壁岩は壁の所々に顔をのぞかせているにすぎない。

 

「城の改装に思ったよりたくさん費用がかかりよって、心労で抜けた私の毛髪が壁や床に塗り込められてますねん。」

 

とは、テレビ番組でのラフェル氏の冗談である。

 

さてホテルであるが、フロントの付近にはヨハン・ラフェル氏の著作、彼の顔をプリントしたラベルのアルコール飲料やブイヨンの瓶、そしてチョコレートなどの小物を所狭しと並べてある。もちろん販売するためだ。その他、全国のデパートなどでは彼の顔のステッカーが張ってある調理用具も見られる。そう、彼自身が一種の商品となっているのだ。

 

ラフェル氏は25年前 (当時) からテレビの料理番組では知られた売れっ子シェフである。彼の料理人としての腕前はというと、昔はミシュラン2つ星で今は1つ星。もっとも、彼自身がかまどの前に立つのは料理番組のときだけで、自分のレストランでは料理をしないそうである。ひとつのアイデアとして特筆すべきは、ヘリコプターを使って空からしか行けない様な場所にテーブルをセットして食事を供する “ヘリグルメであろう。とにかく、手広くグルメ事業をしている人である。

廊下や階段の壁には無数のスナップ写真がかけてあるが、一緒に写っているのは、米国のブッシュ前大統領 (当時) やドイツのシュレーダー前首相 (当時) を初めとする政治家、テニスのボリス・ベッカーやレーサーのミハエル・シューマッハーなどのスポーツ選手、その他、歌手、俳優、及びドイツの財界やマスコミ界やエンターテイメント界を代表するような人々である。

 

 

有名人のスナップ写真

 

 2ヶ月も前に予約しようとしたのに、さすがラフェル氏、3つのシングルと10のダブルの部屋はすでにふさがっていて、たった一つあるスイートだけが空いていた。スイートの部屋はふたりだと必ず無駄な空間があるので普通は避けるのであるが、今回は致し方なかった。このホテルにある14の部屋は番号ではなくて世界の著名なコックの名前を付けていて、我々の部屋は Brillat Savarin である。日本人では、Kiyomi Mikuni 氏の部屋があった。我々のスイートは城の望楼にあり、通常の建物の3階から5階にあたる高さにある、静かな3層の部屋であった。1層目はダイニング・ルームで、大きな長方形のテーブルと6つの椅子があり、複数の立派な戸棚に磁器が飾ってある。

 

  

望楼 ・ ダイニング・ルーム

 

居間 ・ 寝室

バスルーム ・ 居間から上階と下階に行く階段

2層目には絨毯敷きの細い急な階段を登る。そこは暖炉とソファーセットを備えた居間である。もうひとつ階段を上ると3層目が寝室で、窓が大変に大きくて朝日が注ぎ込むトイレとバスルームもここにある。

このホテル自体が山の頂上にあるので、3層目からの眺めは最高であった。ミニバーの冷蔵庫はダイニング・ルームと居間に、液晶テレビは居間と寝室にあり、便宜を図っているようだが、寝室から飲み物を取りに行ったり、ダイニング・ルームに居て一寸手を洗いにバスルールに行くのに、急な階段を行き来するのはやはり大変であった。

思っていた通り、2層目の居間は通過するだけで、暖炉の前のソファーにゆっくり座ることはなかった。各部屋とバス・ルームにランやバラやダリアの花が生けていて結構であるが、電気系統に少々欠陥が見られた。というのは、フロア・スタンドの一部が点かなかったり、減光装置が機能しなかったり、両側にそれぞれあるベッドサイドの光源が、同時にしか点けたり消したり出来なかったりするのである。ベッドは硬くて寝易いが、掛け布団が羽毛ではなくて、シーツと布団カバーの生地があまり良くないのはスイートの部屋に似合わない。

さて、レストランであるが、別にビストロがあるからか、比較的小さなグルメレストランだ。黄色の色調が強いベージュ色と白色でまとめている。席についてすぐ気が付いたのであるが、隣のテーブルにテレビでよく見る女性キャスターがいる。観察し想像を巡らせて、この女性キャスターが夫と共に、世話になったか、なるつもりのプロデューサー夫婦を招待したのであろう、ということに落ち着いた。

食事は、6品のうちチーズ各種を省いてもらって5品のメニューを注文した。

1品目の前に、ひと口料理が4種それぞれスプーンにのって、続いて3種が木箱に並べられて出た。どれも普通の食材を使って上手く料理してある。

1品目には “ウソの野兎“ という名前がついていて、兎の肉ではなくて子牛の肉を使った料理だ。それにロシア風卵サラダとキャビアが付いている。

2つ目は „ナツメグ・カボチャ“ という名で、シャンペン・スープにカボチャの種とカボチャオイルをあしらっていて、皿の縁にマフィンを置いている。

“小川ザイプリングとカリフラワー“ と名付けられた3品目は、虹鱒に似た淡水魚を生暖かい温度まで蒸して、カリフラワーのピューレを添えて野生の薬味をふりかけてある。癖のない滑らかな味の魚で、少し塩味が薄くて „切れ“ がない。

そして、オーストリアのシュタイアーマルク地方産の鴨料理。Sous vide (肉を真空パックにして、湯煎用の鍋の中でゆっくりと火を通す。)で調理している鴨肉を温冷両方で供される。やはりここでもソースが少し弱すぎると思った。肉はローザ色で軟らかく、なかなか結構である。

デザートは “キャラメルクリーム“ で、小さく丸く切り抜いたリンゴ、クリーム、アイスクリームなどを使ったパフェである。

全体として印象の薄い料理ばかりだったが、まあ、ミシュラン一つ星は妥当である、というのが我々の判断だ。

ところで、食事中に、ラフェル夫人が挨拶に来た。

「食事中、お邪魔します。」

と言って、握手の手を差し出す。50代半ば (当時) の物静かで穏やかな人である。亭主の名声を笠に着ている様子が少しも見られないのには多少驚いた。亭主の派手な職業の影で、しっかりとホテル・レストランの経営に携わっている感じがする。我々が日本人だと分かると思いがけないことを言う。

「実は今日、主人が国営放送局ZDFのスタッフと8日間の予定で日本に行きはったんです。何でも、本物の日本料理に関する番組を作るための取材や、ゆうてました。鍛冶屋や研磨工場も取材するそうです。番組の放送日が分かったらお知らせします。」

誰がZDFに助言したか知らないけれど、日本料理の真髄を包丁に見るのは、さすが、、、という他はない。番組の放送が楽しみである。(後日番組を観たが、分かりやすくまとめてあった。)

ラフェル夫人の眼が良く行き渡っているようで、比較的若いレストランのスタッフが皆快活できちんとしている。大変好感が持てた。

食事の途中でウェイターの一人が訊く。

「部屋のドアに邪魔をしないで下さいのプレートをかけてはりますが、ベッドメイキングはせんでもよろしいんでっしゃろか。」

私は部屋を完全に自分の領域にしたいので、チェックインした後はいつもそのプレートをかけっぱなしにしている。それに、5つ星ホテルによくある夜のベッドメイキングは不必要だと思っている。

食後のコーヒーにプラリーヌが供されたが、そのとき、小さなガラスのコップに白い円柱形の物が入っていて、それに熱湯を注ぐのである。するとそれが10倍ほどに膨れ上がり、熱々のガーゼを巻いたものになる。プラリーヌをつまんだ後、これで指を拭くように、とのことである。

さて朝食は、せっかくダイニング・ルームがあるのでルームサーヴィスをしてもらった。豪華な朝食がテーブルいっぱいに並んだけれども、とても食べきれないので、美味しそうなものだけを選んで、その日の帰路の弁当を作った。お土産にもらった酸果サクランボの蒸留酒の瓶にも、もちろんラフェル氏の顔のラヴェルが張ってあった。

ダイニング・ルームでの朝食

このホテルは人懐っこいスタッフを配し、家族的で和やかな雰囲気を醸し出している。高級ホテルにありがちな慇懃無礼さはどこにも見当たらない。また泊まりたくなるホテルである。

〔2010年10月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

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エルマウ城

2021年06月10日 | 旅行

赤色文字は1980年代までのエルマウ城ホテルの描写である。】

 

バイエルン地方のガルミッシュ・パルテンキルヒェンからオーストリアとの国境の町ミッテンヴァルト行く途中に、クライスという小さな村がある。このクライスの村から山の方に進路を取ると、道の脇に小屋があり、そこで通行料を徴収される。ここからはエルマウ城ホテルの私有地である。もっとも、そのエルマウ城に宿泊する由を告げると通行料は免除してくれる。それ程深い森ではないが、起伏とカーブの多い侠幅の山道を行く。アスファルト舗装をしているので走りにくくはないが、いくら走っても周りには民家が全くない。6km走って最後の勾配を登りきると急に視野が開けて、先方に、塔をもつ薄クリーム色のエルマウ城が姿を現わす。その周りは草原で、建物といえば干草小屋が点在するだけである。城の背後には衝立の様なヴェター・シュタイン山脈の岩壁がそびえる。今まで見たことのない、目の覚めるような光景である。

 

  

 

エルマウ城へ続く牧草地 & 道

 

 

撮影者の後ろが玄関前の広場 ・ 裏の小川から

そもそも、このホテルは “エルマウ城“ という名であるが、本来の意味での城ではない。自然と芸術に思い入れた人生改革論者で著述家であるヨハネス・ミュラー氏が荒涼とした寂しいこの地を手に入れ、後援者であるエルザ・ヴァルダーゼーという伯爵夫人の寛大な経済的援助をうけて1916年に完成させた城風の建物である。彼は、ストレスの溜まる日常生活をしばしの間離れて、自己を再発見する “隠れ家“ として、友人や客人や芸術家たちが集うのを意図していた。

ヒトラーの第三帝国の時代には、反ユダヤ主義や生物学主義に公然と反対し、それ故に、全ての著作を押収され講演活動や著作の刊行を禁止された。ヨハネス・ミュラー氏は1941年、エルマウ城が押収される前に、前線の兵士のための保養施設として国防軍に賃貸した。終戦後アメリカ軍の病院として短期間押収され、その後1951年までは結核病患者、被差別民、そしてホロコーストの生存者などの保養施設として使われた。その後ミュラー家の所有に戻ったのであるが、数多くの著名な音楽家によって、徐々に “エルマウ城” は室内楽のメッカとして世界中にその名を知られるようになった。この当時エルマウは利益を追求することではなく、人の出会いと集いの場の提供を主眼としていて、収支は辛うじてバランスがとれる状態だったそうである。

   

 

牧草地から ・ 裏面

 

  

 

正面 ・ 玄関前の広場から 

 

 

 

別館 ミュラー・ハウス ・ 近くの散歩道

1997年以来、ヨハネス・ミュラー氏の孫であるディーター・ミュラー・エルマウ氏が建物の修理改装を重ねるなかで、昔の理念である “隠遁“ から離反していき、エルマウ城はヨーロッパ、アメリカ、イスラエルの知識人が時事的な討論を交わす場としての色合いを濃くしていった。この頃からエルマウ城の催しが室内楽のみに留まらず、ジャズ、文芸、政治討論、そして子供の為の教育行事と広がって行った。私の好きだった、いわゆる „古き良きエルマウ“ の基盤が、ディーター・ミュラー氏の経営になってから揺るぎ始めたと思う。

そして2005年の夏に大火に見舞われた後、2007年夏にスパ・ウェルネスを充実させて5つ星ホテルとして再開業した。

今回の私の部屋は焼け残った部分にある部屋で、きれいに内装を施している。大き目のシングル部屋ということで、第一と第二のドアの間が広く、衣装戸棚、荷物置き棚、冷蔵庫、トイレ・洗面・シャワー室があり、第二のドアの後ろに、キングサイズのベッドと事務机、一人掛けソファー、テレビとCDプレイアーがある。質素だが清潔感のある部屋だ。小さなバルコニーからは、岩肌の間にすでに雪を宿したヴェター・シュタイン岩山を望む。

  

中庭 ・ テラス 1

  

テラス 2 ・ 客室からの景色

近くの山 ヴェター・シュタイン ・ ヴェター・シュタインの麓

洗面室にはピンクのバラが一輪、部屋には立派なランの鉢植えが置いてある。その他、ミネラルウォーター、スナックとリンゴ3個がサーヴィスなのだが、その脇のナプキンに、落ちていない口紅らしい赤い色が見える。さらに、このリンゴを毎日1個づつ剥いて食べたのであるが、芯と皮は毎日の掃除のときに片付けてくれた。が、その時に使った皿とナイフはずっと置きっ放しなのである。最後の日にはリンゴはもうないのに皿とナイフは置いていて、ベタついていた。バスルームのタオルであるが、最初はバスタオル、洗顔タオル、そして足拭きマット状タオルがそれぞれ1枚ずつと洗体タオルが2枚置いてあった。それがチェックアウトの日には、バスタオル3枚、洗顔タオル2枚、そして足拭きマット状タオル2枚、そして洗体タオルが3枚、というふうに増えていたのである。かといって私に不都合があるわけではないのだが、タオル類の管理がいい加減だと考える。部屋には電話が2台あるのだが、どちらの液晶画面にも今の時間が表示してある、、、はずである。ところが、一方の時間はまだ夏時間の表示になったままだ。部屋に、多くの高級ホテルで一般的であるウェルカム・レターが置いてあった。英語であり、テキストもミュラー・エルマウ氏のサインも印刷又はコピーであるのはまあ許せるが、14ヶ月以上も前である2008年8月29日の日付を訂正していないのは、5つ星を標榜するホテルとしてはあってはならないことであろう。日付をチェックせずにそのまま Dear(私の名前)と書き加えただけの、心が全くこもっていない „歓迎の書“ である。昨年の11月に来た時は新規開業してまだ日が浅かったからか、スタッフがやる気に満ちていたらしく、今回見られるような „落ち度“ はなかったと思う。

„エルマウ城“ は古い建物なので、廊下も部屋も、板張りの部分は歩くとギシギシ音がする。部屋は古いなりに清潔で、二重扉なので静かである。扉の鍵は大きな重いものであるが、エルマウに泥棒は居ない〉 ということで、鍵はかけない客が多いそうである。質素な部屋ではあるが、家具が古くて趣がある。ラジオもテレビもない。大きな建物なので酒場やプールやサウナなどがあるけれども、それらにあまり興味のない宿泊客は、コンサートのない日の夕食後は読書をして寝るだけである。老人客が多いからか静かでよいのであるが、暖房がきつ過ぎるきらいがある。いつものことであるが、エルマウでの滞在は “下界“ の生活から離れた特別な時間である。

このホテルでの宿泊は二食付である。“ファミリー・レストラン”と名の付いたビュッヒェ形式の大食堂に行くと、子供や赤ん坊をつれた家族がたくさん居てごった返している。何とも落ち着かない食事だ。昔は11月というと催し物もなくて宿泊客が非常に少なく、この一ヶ月はホテル自体を閉めてしまう時期もあったのに、今回は、静かに読書と書き物が出来るという予想と期待を裏切られてしまった。

今週は “ジャズ・サミット・クラブ“ というジャズ・フェスティバルの後半で、私は5泊するのであるが、同時に子供週間で、児童演劇のワークショップがあるらしい。後で聞くと、ここバイエルン州の学校は今、秋休みの最中だそうだ。エルマウは部屋数が数百の大きいホテルで他にもレストランがいくつかあり、大人だけの為のレストランもあるのだが、大食堂に来たのは、ビュッヒェでサラダをたくさん食べようと思ったからである。各種のサラダがあり、いろいろな前菜が小皿に入れてある。ただ、ビュッヒェの取り皿が膝より低い位置の棚に置いてあるのが気になるのは私だけだろうか?

大食堂の一角はオープンキッチンになっていて、その日の4種類の主菜のうちのひとつを盛り付けてくれる。結構美味しいが、“作り置き” というビュッヒェ形式の短所は如何ともしがたい。

2日目の夕食は、給仕の女性が、静かだということで勧めてくれたのに従い、大食堂の近くにある “冬園“ という名のレストランに行った。ガラス窓に囲まれた空間である。床も天井も薄茶色の木材だ。全体的に、このホテルは建築材料として木材を多用している。ビュッヒェに食事を取りに行ってもいいがア・ラ・カルトで注文してもいい、ということなので前菜に焼き帆立貝を、主菜にイベリコ豚の背肉を注文した。まあ、それなりに美味しいが、数千円の追加料金を払ってまで食べる料理ではなかった。給仕も、食事の楽しさを助長するレベルに達していない割には、勘定書きにチップの金額を記入する欄がちゃんとある。昔はエルマウではチップの習慣はなかった。

それとは対照的に、1日目に行った大食堂の給仕スタッフは個人差があるけれども総じて良く、私はサラダを沢山食べられるビュッヒェの方をひいきにしたい。

毎晩各部屋に配布される翌日のプログラムに載っていたグルメレストラン、 “ルーチェ・ド・オレ“ のメニューに、山葵を使った料理と柚子を使った料理を見つけた。俄然興味をかき立てられたので、4晩目の夕食はこのグルメレストランで摂ることにした。

ところで、このレストランはミシュランガイドの2009年版に、“来年星を1つ取れそうなレストラン“、として紹介されていたので、給仕スタッフに訊くと、まだ当否は分からなくて、来週の2010年版の発売をドキドキしながら待っているそうである。

室内は暖炉が燃えていて、明かりを落としている。感じの良い空間である。給仕スタッフは親切で、よく気を配ってくれる。

食事は目当ての料理が入った4品のメニューを注文したが、その他に、アペリティフの当てに3種類の一口小品、厨房からの挨拶として魚料理の一皿、そしてサーヴィスのデザートの小皿が供された。

さて、山葵を使った料理であるが、これには失望した。生のマグロの薄い切片に爽やかなクリームソースがのっていて、その左右にマグロのタタールとゼリーの薄片に挟まれた生牡蠣がある。“山葵“ として出しているのは、何のことはない、いわゆる西洋ワサビの若芽で、山葵の風味なんて全くない。生牡蠣がふっと匂って後味として残ったのは、少なからずショックであった。不幸にも、柚子を使った料理で私の失望感は続いてしまった。コンソメ風スープに数種の野菜の小切片が泳いでいて、中に焼き帆立貝が二切れ。スープは少しどぎつい味で、柚子の爽やかさも香りも少しも感じられない。野菜の小切片に柚子のそれが混ざっているかと探してみるが、陰も形もなし。まさに不当表示である。さらに、給仕の勧めに応じてメディウムにした主菜のステーキには肉自体の美味さがなく、殆んど無味である。時々家で焼く、営業用ステーキ肉の方がはるかに美味しいと思った。今日の夕食、このレベルで1万円弱の追加料金である。金銭のことは余り言いたくはないが、全くバカバカしい夕食であった。

ここ数年、西洋レストランで和食の食材や薬味が流行っているようだが、それを使いこなしているシェフにまだお目にかかったことはない。

さて、このグルメ・レストランだが、私の評価は、雰囲気とサーヴィスに関してだけならミシュラン1つ星でもいいが、料理はダメ。さあ、ミシュランガイドの評価はいかに? (後日、ミシュランの1つ星を獲得した。)

先に述べた “ヘルフェリン(お手伝いさん)“と呼ばれる、若い女性スタッフであるが、このホテルの特異性を具現する彼女達はウェィトレスの仕事だけでなく、キッチンの仕事、部屋係のメイドの仕事、掃除婦の仕事などの裏方仕事を受け持っていて、ヨーロッパ各地の一般学生やホテル学校の学生が実習をしている場合が多い。母親が日本人で父親がイギリス人だというオックスフォード大学の学生も居た。

昔は、国内の裕福な且つ厳格な家庭が家事一般と行儀作法を身に付けさせる為に、娘を一定期間(通常1年間)“ヘルフェリン“としてエルマウに預けていたそうである。彼女らには仕事中の私語が禁じられていたそうだ。このメットヒェン  (娘) 達の扱いは、エルマウに滞在する宿泊客と平等で、自分に割り当てられた仕事が終わった後はコンサートなどの催しに参加する権利がある。彼女らが最も楽しみにしているのが、頻繁に開かれるダンスパーティーだ。年頃の宿泊客の男子はお目当てのヘルフェリンと踊りたいために、彼女の仕事を手伝って、早く踊りに行けるようにしたものだそうだ。そうして結婚まで行ったカップルも珍しくないようで、私の妻が一時師事していたピアノのクラウス教授も奥さんをエルマウで見初めたそうである。エルマウでのダンスは神聖な行為と位置付けられていて、娘たちは素足で頭に花を挿して踊り、踊っている間の雑談は禁じられていた。

ある日曜日の朝7時半、静かであるはずのエルマウ城の回廊に歌声が響く。何かと思っていると、 „ヘルフェリン(お手伝いさん)コーラス“ のメンバーが歌いながら巡回しているとのこと。宿泊客がプレゼントとして、チョコレートやナイロン靴下や本などをドアの取っ手にかけてあるのを洗濯籠に集めて、ヘルフェリンたちで分けあったそうである。

今ではそのヘルフェリン達もいなくなり、ごく普通の有給従業員になってしまった。

エルマウの特徴のひとつは、頻繁に催される、宿泊客には無料のコンサートである。昔は圧倒的にクラシック音楽が多かったが、だんだんとジャズが増えてきた。実は妻と私がエルマウ城を知ったのは、妻がここで1回目はチェロと、2回目はフルートと二重奏のコンサートを行ったからである。

今回のジャズ・フェスティバルでは全部で10組のグループが演奏したが、私は後半の4組を聞いた。10組のジャズミュージシャンたちは、ドイツを始めフランス、ノルウェイ、アイルランドなどヨーロッパ各地から来たようであるけれども、私の知っている名前はない。最も、私は最近あまりジャズを聴かなくなったので、現在活躍している人は殆んど知らないのであるが、、、、。以前はよく、世界的に知られたミュージシャンが来ていた。例えば、1998年のプログラムを見ると、ハービー・ハンコック、チック・コリア、バーバラ・ヘンドリックス、トーマス・クヴァストホフ、ギャリー・バートン、レイ・ブラウン、、、と、私の知っている名前が並んでいる。今のレベルはどうなのであろうか?

コンサートとは別に、暖炉のある広間で毎日2回、1時間と2時間のジャズ生演奏をバックグラウンド・ミュージック的にやっているように、エルマウ城の創始者ヨハネス・ミュラー氏の孫であるディートマー・ミュラー・エルマウ氏の経営になってから格段にジャズが増えた。彼の個人的好みを反映しているのだろう。

図書室

ホテル・エルマウ城は海抜1000mの人里はなれた山の中、多くの客を集めるためにいろいろな分野を提供する。例えば、コンサート、講演、ビジネスマンのワークショップやシンポジウムの場所、グルメ、(著者による) 朗読会、スパとウェルネス、ギムナスティック、ダンス、ヨガ、少林寺拳法、太極拳、案内付トレッキング、子供のための各種催し、、、といった具合である。部屋の販売戦略としてはうなずけるが、そのために全部が2流になっている感がある。ほぼ唯一の良い点であるが、このホテルは特に子供への配慮が素晴らしいと思う。

昨年もここに5泊したが、その一部はホテルからの招待であった。ホテル再興に当たって寄付をした常連客にお披露目をしたわけである。私の心中には昔の質素ではあるが心にしみる雰囲気が宿っていたため、儲け主義を具現化したような „新エルマウ城“ に少なからず反感を持った。今度の滞在でもそれが尾を引いていて、悪い所だけがやたらと目に付いたようである。

新しいエルマウになってからの大きな特徴はウェルネスである。エルマウのスパ & ウェルネス・ハウスの設備は全ドイツでベストファイブに入っている、という評価があり、 „The leading Hotels of the World“ のメンバーにもなっているようだ。

私は本来このホテルが好きで、創始者ヨハネス・ミュラー氏の精神を支持する会の会員にもなっていたし、全部で80泊ぐらいしている。私の人生で最も頻繁に利用したホテルだ。

しかし、である、ディートマー・ミュラー・エルマウ氏の経営になってからホテルの „姿“ が、哲学のない単なる超高級ホテルになってしまった。私は上記の会も退会したし、もうエルマウに関わることはないのではないかと思う。

美しい、そして自由で居心地の良い、きちんと整理された清潔なエルマウ城の常連達は、自らを “エルマウ人“ と呼び、ここに来る客人に対して、国籍、人種、宗教、支持政党、世界観、職業などを訊ねることはない。彼らの目的とするところは、平均以上の知的水準、ある程度の意見の一致、強固な一体感、そして、相互の信頼である。

ホテル・エルマウ城は、2015年にG7-サミットの会場になった。 

〔2009年11月〕〔2021年6月 加筆・修正〕

 

 

 

 

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