お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

雲仙温泉の旅亭 〈半水盧〉

2024年04月30日 | 旅行

島原半島中央に位置する雲仙温泉は日本初の国立公園(雲仙天草国立公園)にある温泉保養地で、雲仙妙見岳の南西、標高700メートルに位置しています。温泉街は噴気帯「雲仙地獄」を囲むように存在し、その地獄内に遊歩道が整備されているのです。30に及ぶ地獄の遊歩道沿いには真知子岩、婆石、鏡石、キリシタン殉教碑、聖火燃ゆ之碑といった奇岩・石碑が点在し、地獄展望台や足湯等も設けられています。

 

雲仙地獄

開湯は日本が国号を「日本」とした大宝律令成立の701年、行基によって温泉山満明寺が建立されたことに始まるそうで、温泉地として開発が始まったのは約350年前だとのことです。1653年には初の共同浴場が始まった、と言われています。江戸末期からは西洋人が足繁く通い、避暑地としても発展してきました。幕末には吉田松陰が当地を訪れ、またシーボルトらにより海外へも紹介されました。明治・大正期には上海租界の欧米人の保養地として繁栄し、ノーベル文学賞のパール・S・バックやヘレン・ケラーも一時滞在していました。外国人客が多く訪れていたことを受けて、昭和初期に外国人向け洋式ホテル雲仙観光ホテルが建設され、現在も営業しています。

雲仙温泉は田舎です。昔ながらの小さな食堂が2、3軒あるだけで、洒落たカフェや売店もありません。宿泊した旅館の仲居さんが言った、

「遊ぶところがなくて面白くないので、若いスタッフが居着かなくてすぐ辞めてしまいます。」

という言葉が実態を明らかにしています。しかしながら、素晴らしい歴史を持ちながらひなびた雰囲気が漂う雲仙温泉が、妻も私も大変気に入りました。若い人々が大勢立ち食いをしながら闊歩する有名温泉地に辟易していた私達に新鮮だったのです。

さて、我々が宿泊した旅亭〈半水盧〉は宿泊部門と料理部門の両方でミシュランの一つ星を獲得しています。両部門で星を持っているのは、全国でこの旅亭以外では湯布院温泉の亀の井別荘だけなのです。

  

門  敷地内の道

重厚な佇まいの門を潜ると、そこは季節の木々に囲まれた別空間です。半水盧は緑と自然あふれる広大な6000坪の敷地にたった14棟の離れ宿と庭園が点在する、雅やかに贅を尽くした旅亭なのです。14棟すべてにそれぞれ趣の異なる日本庭園と宮大工のこだわりの建築技法が施されています。

  

露天風呂 ・ 私たちの「部屋」

 

2階のリビング  2階の寝室 

我々が滞在する和洋折衷の部屋は約75坪の2階建て離れで、玄関のある2階にリビングと寝室があり、1階は日本庭園を望む複数の和室です。茶室もあります。露天風呂のある共同風呂の他に檜の内風呂を備えてあり、檜の香りを消さないように温泉はひいていないとのことです。

  

1階の和室 1 & 2

 

和室の前の日本庭園

夕食は1階の和室の一室で、島原半島の山海の幸を使用した月替わりの本懐石料理を食べました。器選び、盛りつけなど、細部に至るまでこだわっており、私たち担当の仲居さんが一品一品部屋まで運んで来てくれます。その仲居さんと会話を楽しみながら、素晴らしい食事を楽しみました。見た目も味も私の筆力では到底表現できませんので、コメント無しで写真だけ示します。

 

浅春をイメージした料理が並べられたテーブル  白酒有明海のタコなど

 

雛まつりにちなんだ膳 (大根を桂剥きして作ったぼんぼり!)

 

蛤清汁仕立ての煮物椀  造里

  

鯛塩釜焼き (釜を壊した後)  鯛 と サツマイモなど

 

焼き鮑、新若芽 九条葱  赤飯

 

長崎牛ヒレステーキ と 焼き野菜  筍土佐煮、蛍烏賊、車海老、たらの芽

 

ミル貝酢のサラダ仕立て

 

焼き穴子、いくら、酢蓮根、絹さや入りの旬菜寿司 と 山菜汁 と 香物 (胡瓜浅漬け、牛蒡、甘酢生姜)

 

果物、アイスクリーム、自家製クレープ

朝食も夕食と同じ部屋、仲居さんも同じ人です。

 

飲み物各種

 

旬の料理 (小鉢二種)、有明海海苔、旬の彩り野菜サラダ、桜鯛昆布〆、味噌汁、長崎県産つや姫のご飯、五種盛合わせ香の物

 

鰆柚庵焼き、明太子、じゃが芋と人参入りビーフシチュー、揚げ出し餅、出汁巻玉子など

  

杏仁豆腐 と 季節の果物  紅茶

雲仙温泉の佇まいも旅亭〈半水盧〉も私たちの好みに合致して、この上なく満足した滞在が出来、妻も私も再訪を固く誓ったのでした。

 

〔2024年4月〕

 

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エッテルスブルク城館

2024年04月27日 | 旅行

バッハ、ゲーテ、そしてシラーで有名な旧東ドイツの町、ワイマールは古典的な町として20世紀の終わり頃からユネスコの世界文化遺産に登録されています。

そのワイマールから北に10km行ったところにある、人もまばらな田舎の村に建っているのがエッテルスブルク城館です。コの字型の旧館と新館が向かい合っています。旧館は18世紀の前半に狩猟のためのお城として建築され、その大広間でヨハン・セバスチアン・バッハが演奏をしたそうです。バロック様式で奇抜なデザインの新館が建造されたのは18世紀の中頃です。ゲーテ、ヘルダー、コロナ・シュロェーテル、ヴィーラントなど、多数の小説家、詩人、音楽家たちがエッテルスブルク城館の客人で、いっしょに演奏したり、読書会をしたり、踊ったり、議論を戦わせたりしました。ゲーテは戯曲である „Jahrmarktsfest zu Plundersweilern" (1778) と „タウリス島のイフィゲーニエ" (1779) をこの地で書き上げ、後者はこの城館で初演されたそうです。さらにフリードリヒ・シラーも、創造力をかきたてるこの地方の静けさにひかれてエッテルスブルク城館を訪れ、戯曲「メアリー・ステュアート」を書き上げました。19世紀の初め頃城館で行われた狩猟に関する大きなイヴェントには、ロシアの皇帝アレクサンドル1世やフランスの皇帝 ナポレオン1世をはじめとする著名人が集まったようです。19世紀の中頃から再び、芸術家たちの輝かしい出会いの場になりました。音楽家のリストや童話作家のアンデルセンなどが訪れ、ワイマールの知識人がお城に集まったのです。20世紀の前半にお城はチューリンゲン州の所有となり、寄宿舎付きの中学校として利用されるようになりました。ところが20年後、隣にあの悪名高きユダヤ人の強制収容所が出来てしまいました。第2次世界大戦終了後は仕官学校に、その後スターリン主義の司法学校になり、最後には老人ホームでしたが、20世紀の後半に無人の建造物となって荒廃していきました。東西ドイツ統合の後、地元市民の有志が城館の存続と文化的発展のために努力を続け、ユネスコの世界文化遺産に登録されました(ワイマール登録の一環として)。21世紀になってある企業が数年かけて大々的に再建工事を行いました。こんにち、エッテルスブルク城館は28の客室とレストランをもつ会議用ホテルになっています。

  

新館 と 教会 ・ 旧館 と教会

  

新館の前から旧館を見る ・ 旧館の前から新館を見る

  

新館 ・ 新館の裏手

内部は非常に現代的に改装してあり、まるで博物館を思わせるような旧館にレセプションがありますが、私の部屋は一階がレストランになっている新館にあるそうで、若いお姉さんが案内してくれます。新館もモダンでエレベーターがあり、私の部屋は〈リスト〉、隣が〈ゲーテ〉と名付けられた客室です。〈スイートルーム〉を予約していたので二部屋 (居間と寝室) あります。角部屋で窓が多くてよろしいのですが、スイートにしては安っぽい現代の家具調度で、ところどころに骨董家具がぽつんと置いてあるだけです。窓際の白いランの花が本物であることに少し救われた気がします。バスアメニティーはシャンプーと石鹸だけで他には何もありません。ベッドサイドテーブルになぜか耳栓が置いてあります。

田舎のお城ホテルに泊まると時々あることですが、今夜の宿泊客は私一人だそうです。フロントのお姉さんは19時で帰るので、夜、レストランが閉まったら城館に独りぼっちです。まぁ、幽霊が出るような雰囲気の城ではないのでいいですが、、、。朝食も当然私一人なので、スタッフの朝食準備の仕事を軽減するために、明朝何を食べるか前もって言ってあげました。

  

レセプション ・ 私の部屋から旧館を望む

  

居間 ・ 寝室

レストランも寒々とした内装です。どこにも城館の雰囲気がないことに、私は少々失望気味です。ドイツの映画俳優のポートレートがたくさん貼ってありますが、私は誰も知りません。まだ夕食には早い時間なので散歩や遠足に来た人々がテラスでお茶を飲んでいて、室内で食事をするのは私だけです。

 

レストランの内部

飲み物はいつものノンアルコール・ビールですが、今日は量が少ない普通のビン入りにしました。でもヴァイツェンビールのほうが美味しいですね。

  

ノンアルコール・ビール ・ 柚子リモネード

アペリティフとしての自家製リモネードのページを見ていると、〈柚子リモネード(日本の柑橘類で苦く渋い)〉を見つけました。興味があったので注文してみたのです。容器の中にはブドウの縦割り二切れ、ライム一切れ、ペッパーミントの葉っぱがどっさり、そして氷がいっぱい入っていて、液体は柚子とは思えない味がします。まさか日本人が来てチェックするとは思わなかったでしょう。しかしながら、容器を含めサーヴィスの仕方はなかなか洒落ていますね。

あちゃ、アペリティフをまだ飲んでいるときに前菜のスープが出てきました。ホタテの貝柱とブロッコリー・アーモンドスープです。薬味オイルを塗った固パンと焼きホタテ貝柱が旨い。少し青臭さを感じるスープは毒々しい緑色です。本物のブロッコリーを使っているのか疑問です。グッとくる美味しさが無いですねー。

  

スープ ・ タラの料理

メインディッシュは、パセリオイルを使ったクリーミーな黒レンズ豆とカボチャの上に蒸したタラをのせた料理です。非常に美味しくて大満足ですが、いろいろと小言があります。用意してくれたナイフとフォークが魚料理用のそれではない。皿が前菜スープのとまったく同じ。パンが出てこないので炭水化物無し。サラダ菜を熱い料理の上にのせて欲しくないなー。

このような小さな欠陥は旧東ドイツで比較的よくあることなんですよ。客の接待術がまだ未熟なのかな。あっ、念のために言うけど、私は旧東ドイツの人たちは好きなんです。人と人とのつながりが濃いし、良い意味でナイーヴなところがあります。

私だけのために用意してくれた朝食。テラスを望む良い席に、言っておいたよりも豪華にしつらえてくれました。朝はあまり食べないのでほとんど残しますが、、、。

  

私の朝食席からの眺め ・ 私の朝食

こんにちまで名を残している著名な文化人たちが訪れた、この地方の文化の中心のひとつであったエッテルスブルク城館も、今は仕事(会議やミーティング)で来る客とフラッと遊びに来る人々だけが行きかうだけの場になってしまいましたね。時はすべてを変えてしまいます。

チェックアウトのときにフロントで、 

「あのー、この辺はこんなに静かなのにベッドサイドにある耳栓はどういうことですか。」

「それは、城館に接して建っている教会の鐘がうるさいというお客さんがいるからなんです。」

「えっ、教会の鐘なんてしょっちゅう鳴るわけでもないし、窓を閉めればほとんど聞こえませんよ。」

「でも、それでもうるさいというお客さんがいるんです。」

よほど神経質な人かクレーマーなんでしょうね。

  

2018年9月〔2024年4月 加筆・修正〕

 

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ホーエンベルク城塞

2024年04月23日 | 旅行

ドイツの南東部、チェコ共和国との国境であるエーゲル川まで歩いて行けるところに、12世紀後半に建造されたホーエンベルク城塞があります。15世紀前半のフス戦争で荒廃し、16世紀中頃のマルクグレーフラー戦争で部分的に破壊され、その後修復されて水道管の設備が取り付けられましたが、17世紀前半の30年戦争のときにふたたび部分的に破壊されました。そして19世紀初めごろのナポレオンによる数年の統治を経て、バイエルン王国に属するようになったのです。第2次世界大戦の前後20年ほどは学校の合宿所として利用され、戦後10年たった頃城塔を一時的にアメリカ駐留軍に接収されたり、東ヨーロッパからの引き上げドイツ人のための施設として機能したりしました。その後20世紀後半までドイツ-チェコ国境であるエーゲル川の国境監視所でした。そしてまた学校になりましたが、2015年以来ある私企業が所有していて自然環境保護の教育センター、学校の合宿所、体験教育の場として利用されています。

  

城塞 1 & 2

  

城塞 3 & 4 (工事中)

  

城塞 5 & 6 

 

城塞 7

さて、城塞には宿泊施設がないので城塞広場に面している食堂付き宿屋に泊まりました。じつはこの宿屋もけっこう古いんですよ。最初に古文書に現れるのは16世紀の中頃。日本ではまだ江戸時代になる半世紀前ですね。昔は鍛冶屋で、お城の馬に蹄鉄を打つのがおもな仕事だったそうです。19世紀の前半に、ある肉屋が建物とまわりの広大な土地を手に入れて、農場と酒場と畜殺兼食肉製造販売業を始めました。のちの時代になると農場が廃業になり、その代わりに羊の牧畜と魚の養殖が始まったとのことです。そのときに不必要になった穀物倉が宿泊棟になったのです。こんにち、8ヘクタールの土地で草を食む羊と複数個ある養殖池にいるコイ、マス、ナマズなどの魚が食堂で供される庶民的な料理の食材になっています。代々続く家族経営で、今は3代目だそうです。

宿屋のレセプションが食堂のカウンターを兼ねていて、なんとなく田舎風で家族的雰囲気です。

  

食堂付き宿屋 ・ 宿屋のレセプション 

  

私の部屋 ・ 張り紙

私の部屋は小さなシングルの部屋で、驚いたことにバスアメニティーグッズがまったく無く、張り紙があって〈固体石鹸または液体石鹸が必要ならばフロントまで取りに来てください。〉と書いてあります。でも私は必要としません。というのも、私は歯磨きと歯ブラシを含む洗面具一式に加えて、シャンプー、靴ベラ、箸、スプーン、手鏡、ミリタリーナイフ、そして孫の手まで旅行の時は常に持ち歩いているからです。部屋の家具は、書き物をするデスク以外全部あります。

さて、お城の一部が見えるサンルームで夕食です。

 

サンルームから城塞を望む

飲み物はいつものようにアルコールフリーのヴァイツェンビール。何だかここのは非常に辛口で、フッとした甘味がないですね。

  

ビール ・ 一品の夕食

ひさしぶりに前菜をとらずに料理を一品だけたのみました。ここで飼育した子羊です。混んでいるからか、サーヴィスが遅いなー。大きな皿に焼いた子羊の肉とベーコンと豆、そして炒めたジャガイモがのっています。それとハーブ入りのバター。バターはつけない方が羊の味がよくわかっていいと思います。ジャガイモと羊肉が美味しいのですが、肉が私には少し多すぎて、腹が満ちてくると残念ながら味が落ちてきます。ベーコンがかなり塩辛いのが気になります。仕方がないかな。塩抜きなんて気の利いたことはしないでしょうね。ベーコンを刻んで豆と混ぜてあるのが普通で、ベタッと置いてあるのは初めてです。だから余計塩辛く感じるのかも、、、、、。混んでいて居心地が悪いので、デザートもエスプレッソも無しで部屋に引きあげることにしました。国境が近いからチェコ語かな、わけのわからない言葉をしゃべる客が多い。かなりのマイナス点がつけられた夕食になってしまいました。

 

私の朝食

翌朝も値段相応の貧しい朝食です。主人である3代目と従業員が客と同じ部屋で朝食をとっています。そのうちに2代目のじいちゃんがヒョコヒョコ入ってくるし、4代目の青年もいっしょに仕事をしています。雰囲気がガチャガチャしていて、よくいえば親しみが持てるし悪く言えば客に対する敬意が感じられません。私は別に不愉快とまでは思いませんが、あまり長居はしたくないですねー。

 

〔2018年9月〕〔2024年4月 加筆・修正〕

 

 

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ホテル アンノ1433 

2024年04月18日 | 旅行

むかし岩塩の採掘と流通で栄えた町リューネブルクに講演に行って、おもしろい名前のホテルに泊まりました。〈ホテル アンノ1433〉というのです。annoとはラテン語で〈・・・年〉という意味なので、〈ホテル 1433年〉となります。 

 

ホテル 1433年

12世紀ごろから経済発展を始めたこの町に、14世紀の前半から仕事用に建てられ始めた建物のうちの一軒です。名前からわかるように、この家は1433年に建てられた石材構造建築で、16世紀後半には住居としても使われるようになりました。何度も改築と所有者の交代があり、19世紀の後半にさらなる改築が行われ、21世紀になってから昔の建築様式がいたる所で認められるように修復されたのです。

  

2階に行くとレセプション-デスク ・ 私の部屋

〈ホテル アンノ1433〉は恐ろしくシンプルな内装のホテルで、客室は〈ナイナイずくし〉です。あるのは洗面台の固形石鹸とシャワーの液体石鹸だけ。この価格帯であるべき物がほとんどありません。連泊なのに無料の水やティーバッグ、砂糖とミルクの補充もしてくれません。極めつけは、ひとつのプラスティック カプセルに入ったミルクの賞味期限が1か月以上過ぎていて腐っていました。

  

レストラン ・ レストランのシンボル

ホテルにレストランがないので、歩いて5分の〈神聖なる精神 通り〉にある、この町では有名なビアホール レストランに行きました。〈王冠〉という名前です。1485年の建物で昔のビール醸造工場だそうです。外から見ると4棟ですが、中は複雑に入り組んでつながっています。ボリュームのある、典型的な北ドイツの料理を供するレストランだそうです。

  

レストランの内部 1 & 2

混む予感がしたので早い時間に行きました。暇そうにしていた2人の若おばさんスタッフが早いサーヴィスをしてくれたのです。種類豊かな料理が提供されますが、〈リュ-ネブルク風タパス〉というのを見つけました。色々な料理を少しずつ食べるのは願ってもないので迷わずこれにして、1品の量がわからないので4品注文したところでおばさんに訊いてみました。

「4つで多すぎないでしょうかねぇ。」

「いえいえ、そんなことはありません。」

それで5品目を頼んだら、

「はいっ、これで十分でしょう。」

数分後に全部一度に出てきました。

  

リュ-ネブルク風タパス 5品 ・ ミニ フリカデル

ミニ フリカデル(す揚げしたミニ肉団子)6個は自家製の辛子で食べます。少し甘めの味はバイエルン地方の辛子に似ています。うまい。

 〈おばあちゃんのキュウリサラダ〉も少し甘めで美味しい。

  

キュウリサラダ ・ 穀物粉 と ミンチ肉の炒め物

当地の名物である粗挽きの穀物粉とミンチ肉の炒め物。黒パンと酢漬けのキュウリが添えられています。味はまあまあですね。

この地方で飼育されている羊の一種、ハイデシュヌッケの肉を使ったアスピックは少し酸っぱいレムラード(マヨネーズに香辛料などを加えたソース)で食します。

  

アスピック ・ 鮭の揚げ物

同じくレムラードで食べるのは衣つき鮭の揚げ物です。まあ、それなりに旨い。

やはり多すぎて少し残してしまいました。満腹にはなったけれども満足感が足りない夕食でした。

  

2階にある朝食室 ・ 私の朝食

朝食はホテルでとることが出来ます。細長い家なので狭く、2つのフロアに分けて朝食の部屋があります。ごく普通の朝食でした。

   

リューネブルク 1 & 2

  

リューネブルク 3 & 4

リューネブルクは中世にたいへん栄えた町です。たくさんの見所の中でも、中世の町並みと河川交通の痕跡は見逃せません。

 

〔2018年8月〕〔2024年4月 加筆・修正〕

 

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ヴェルニゲローデ城館

2024年04月15日 | 旅行

ハノーファーから東に120km離れた旧東ドイツのヴェルニゲローデ市にあるヴェルニゲローデ城館は、旧市街を見下ろす100mの高台に建っています。おそらく12世紀の前半に建造され始めたと思われますが、13世紀の前半に初めて古文書に現れるそうです。15世紀と16世紀に断続的に建築が大規模に進められ、何度も所有者が代わり、17世紀にバロック風城館に改築されました。そして19世紀にはその時代を代表する様式に改築され、その特徴の多くはこんにちまで保存されています。20世紀初め頃から当市の侯爵家族が居住するようになり、それと同時に第2次世界大戦終戦までの間、城館施設の一部が一般見学者に公開されていたそうです。戦後侯爵家族の所有であった城館は土地改革によって公用徴収されてしまい、その上歴史的な武器や武装、軍人や勲章の絵画などがソビエト軍によって見さかい無く破壊されました。その後所有権がヴェルニゲローデ市に移り、市は博物館を開設しました。現在は〈ドイツで最初に開かれた19世紀における芸術と文化の博物館〉の地位を享受しています。

  

ヴェルニゲローデ城館 1 & 2 

  

ヴェルニゲローデ城館 3 & 4

  

ヴェルニゲローデ城館 5 & 6

 

城館から町を望む

城館の裏山をトレッキングして妻の手作り弁当を食べたあと、城館の前にあるカフェでアイスクリーム休憩です。妻はストロベリーをひと玉、私はバニラとマンゴ-ヨーグルトのふた玉を食べました。

  

アイスクリーム 1 & 2

ヴェルニゲローデには城館以外にも見所がたくさんあります。市庁舎がある中央広場を中心に旧市街が広がっていて、木組みの家並みを見ながらの散歩が楽しめるのです。

  

市庁舎 ・ 中央広場

  

中央広場にある井戸 ・ 町並み

散歩の後はまた休憩です。なぜこんなに頻繁に休憩が必要なのかというと、当日は8月のある一日だったのですが今年最も暑い日ということで、ヴェルニゲローデはハルツ山地のふもとにあって比較的涼しいはずなのに38度Cもあったのです。とにかく暑くて喉が渇くので私はアルコールフリーのビールを、妻はリンゴジュースを飲みました。

  

ノンアルコールビール ・ リンゴジュース

8月も終わりが近い現在は、秋の風が吹き始めています。

 

〔2018年8月〕〔2024年4月 加筆・修正〕

 

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