お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

ノイゼス・アム・ザンド城館

2022年07月28日 | 旅行

バイエルン州のレーゲンスブルクに講演をしに行くのに、いっきに走るのはしんどいので、ヴュルツブルクの東約40kmの所にあるノイゼス・アム・ザンド城館ホテルに一泊することにしました。この城館ホテルは本来の名前よりも〈ヴェルナーの城館ワイナリー兼ウェルネスホテル (レストラン付)〉という表記で知られています。

 

正面入り口 ・ 裏口

このお城の起源は15世紀にさかのぼります。同世紀の終わり頃にこの地方の領地所有者が建てて、16世紀の後半に別の人物に引き継がれました。さらに17世紀前半と18世紀前半にもその所有者が替わりました。19世紀の前半にはフランス皇帝ナポレオンとその妻マリア・ルイーズがここフランコニア (フランケン地方) のノイゼス・アム・ザンド城で休憩を取ったことが古文書に記されているとのことです。

そして20世紀の前半にヴェルナー家が城館と付属の土地を取得し、現在に至っています。

   

中庭の様子 &

 

中庭の様子 &

さて、ヴェルナー家はどこから来たのでしょう?

農家であるヴェルナー氏が某ワイナリーの娘と結婚したのですが、農業の他に第2の生計の柱を必要としたので、妻の実家のノウハウを使って20世紀の後半にブドウ栽培を始めました。現在のワイナリー経営者である息子のヴェルナー氏は同世紀の終わり頃に大学で醸造学を修めた後、南アフリカのワイナリーで経験を積んだそうです。そして彼は両親のもとでビジネスに関する知識を深め、21世紀に入ってから妻のサンドラと2人の息子と一緒に事業を引き継ぎました。

 

古いワイン樽 ・ ギャラリーの一角 

ワイナリー経営については分かりましたが、どうやってホテル・レストラン業にたどり着いたのでしょう?

妻のサンドラ・ヴェルナーは正規の教育を受けたホテルマネージャーであり、すでに多くの専門的な経験を積んでいたため、城館施設をゲストに利用してもらうことに決めて城館ワイナリー兼ウェルネスホテルをオープンしました。そしてその後の数年間で客室とスイートルームの拡充、中庭のルネッサンス庭園、ギャラリーのある店舗にとどまらず、結婚式、お祝い、会議、企業イベントなどのためのホールを造ることにより、ホテルは絶えず拡張されて来たのです。

城館は現在バイエルン州記念碑保存局によって記念碑として認証されています。

中庭まで車を乗り入れて駐車し、レセプションがある建物の呼び鈴を鳴らすと、感じが良い経営者のヴェルナー夫人が別の建物から出て来ました。レセプションで鍵を渡してくれて私の部屋への行き方を教えてくれます。朝食の希望を訊き、朝食担当の息子に伝えておく、とのことです。

客室があるのは古い建物で、板張りの階段も床も歩くとギシギシと音を立てます。

私が予約した部屋はナポレオン・スイートです。前述のように、1812年5月にフランスの皇帝ナポレオンと妻マリア・ルイーズがここで昼食をとって休憩したとのことです。というのは、当時この地域を重要な街道が通っていて、ここの宿駅で馬などを代えたのだそうです。宿駅で使っていた石の柱がレストランの中にまだ残っており、見せてくれました。

 

宿駅の石柱 ・ レストランの一角

ヴェルナー氏とレストランのシェフの話によると、今はバイエルン州に属するフランケン地方ですがナポレオンが来るまでは独立しており、ナポレオンがフランケンをバイエルンに組み込んだとのことです。地理も、言葉も、人々の性格も、文化も違うのに、、、、、と不満そうに語りました。どうやらバイエルン人はフランケン人を下に見ているところがあって州議会にフランケン人の議員をなかなか送り込めない、と嘆いていました。

そうそう、ナポレオンといえば、この地方を通過した前年にライン河地方に来たらしく、以前私はナポレオンが宿泊した城館ホテルで彼が使ったベッドに寝たことがあります。詳しいことは別のブログ記事〔アウエル城〕をご参照ください。

 

部屋にかかる表札 ・ 4つの扉 

 

居間 ・ 寝室 

 

バルコニー ・ 周辺の景色 

さて、私のナポレオン・スイートですが、部屋の扉を開けるとさらに4つ扉があります。手前から居間、バスルーム、トイレ、寝室です。居間は3つの窓からの光で溢れており、隣接する畑や森の素晴らしい景色を眺めることができます。鳥の声や鶏の鳴き声も聞こえ、質素な造りの部屋ですが結構落ちつけます。廊下を挟んでバルコニーもあります。

 

レストランと城塔 ・ 私のテーブル 

夕食は中庭を横切ってレストランに行くシステムで、天気も良いし武漢コロナも心配ないようなので屋外のテーブルにしました。すぐ近くのテーブルではヴェルナー夫妻とシェフがくつろいでいます。周りには家族が一組とワインを買いに来たグループがやはり一組居るだけで、後は私だけの寂しい夕食です。シェフは私の注文を直接聞いて厨房に消え、ヴェルナー夫妻がたいへん家族的な、というか友達的なサーヴィスをしてくれます。田舎らしく蝿が来るのが少々難儀です。

大衆的なレストランだからでしょうか、パンとバターも突き出しも出ません。

 

赤ワインスープ

前菜として赤ワインスープを食べました。とろみのあるチョコレートみたいな色のスープで、パプリカ少しとクルトンがいっぱい入っていて、上にパセリとクリームがかかっています。全体的に少し酸っぱいけれども、ワインの香りがグッときて美味しい。

ヴェルナー夫人が容器を下げに来て、

「美味しかったですか?」

「はい。今までに経験したことのない味です。」

「それはそうでしょう。うちにしかない料理ですから。」

レストランでは全部の料理でその量を選べるようだし、他にもいろいろな要望を聞いてそれに対応してくれるとのことです。菜食主義とか子供用料理とか特殊なダイエットとか、、、、、、。前もって予約をしておけばキャンドルナイト・グルメディナーも出来るそうです。

 

鹿肉の煮込み with スライスしたゼンメルクネーデル ・ サラダ 

私は主菜として〈鹿肉の煮込みの、スライスしたゼンメルクネーデル(ゆで団子)とサラダ添え〉の普通サイズを頼みました。鹿肉は小さいひと口大で食べ易く、臭みもなく結構。炒めマッシュルームが載っています。その横には脂っぽくマリネードしている何だか分からない、ちょっと酸っぱい茸のスライス3枚が添えてあります。ここのゼンメルクネーデルは珍しい供し方です。表面を焼いていてカリッとした食感が良く、私は丸のまま出てくる茹でただけのそれはあまり好きではないのですが、これは美味しく食べられます。ソースがこげ茶色でいかにも塩辛そうですがそんなことはなく、意外にも穏やかな優しい味です。かなりの量でしたが、シェフが仕事を終えてこちらが良く見える所でくつろいでいたから、残すのは悪いと思ったので何とか食べ終えました。かつ、

「美味しいですよ。」

と言ってあげました。

ありとあらゆる種類の生野菜が入っていてヤギのチーズが載るサラダは、ソースが穏やかに酸っぱいまろやかな味です。

 

ストロベリーティラミス ・ エスプレッソ 

デザートのストロベリー・ティラミスは小サイズを頼んだのにかなり大きい。これも優しく甘く、苺とソースが少し酸っぱい。甘過ぎなくて良かったのです。

食後のエスプレッソは普通でした。

ヴェルナー夫妻が周りをウロウロしていて、気さくにいろいろ話してくれました。

「こんな田舎でも武漢コロナによる規制はきびしく、商売にはかなりマイナスです。国からの援助が来るのがとにかく遅い。レストランとホテルは長い間閉めなければならなかったし、ワイン販売もだめ。なぜなら、うちはワインなどの製品をどこにも卸していないし、オンライン販売もちょぼちょぼ。うちのワイナリーに買いに来た人に直接売るのがメインなので、コロナで人の動きが止まったときはお手上げでした。私はコロナテストに関して懐疑的です。というのは、コロナに罹って高熱が4日続いているのに、4回テストして全部陰性。5回目でやっと陽性になりました。」

実は私も1週間高熱が続いて4キロも瘦せたのに、テストした時は陰性でした。ヴェルナー氏が何度もテストをしたのは、もしかして援助をもらうために陽性になる必要があったのかな? 知らんけど。

 

城塔の入り口 ・ 城塔の螺旋階段

朝食を食べるには、中庭を通って城塔を登り最上階から朝食場がある建物に入ります。一部の食べ物をすでにテーブルに並べてあり、一部はビュッフェという形式です。まあ、普通の朝食ですね。ヴェルナー夫妻の高校生ぐらいの息子が朴訥なサーヴィスをしてくれます。

 

朝食部屋 ・ 私の朝食

チェックアウトの時、息子に両親の事業を継ぐのか聞いてみました。彼は長い沈黙の後、いかにこの仕事が大変であるかをとうとうと述べた後で、

「まだ分かりません。でも、多分継がないでしょう。」

ここノイゼス・アム・ザンド城館ワイナリーでは通常の赤白ワインの他に、発泡ワイン、シェリー、ブランデー、フルーツブランデー、ウイスキー、バルサミコ、ブドウの種オイル、、、、と、幅広い製造と販売をしています。

この辺は田舎なので、ボーっとのんびりするのには良いけれども長期の滞在は退屈だと思います。

 

〔2022年7 月〕

 

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リュッベナウ城館

2022年07月26日 | 旅行

ドイツの首都、ベルリンの南1時間程のところにシュプレー・ヴァルトという地域があるが、ここはシュプレー川流域に広がる低湿地で、多様生物生息圏として保護されている。四方八方に水路が走っていて、多くの人が訪れる観光地である。以前私は、船頭さんが竿を使って操縦する小舟で水路を巡るツアーに参加したことがある。

そのシュプレー・ヴァルトの、現在城館が建つ場所には昔中世の水城があり、1600年ごろルネサンス様式の城館に立て替えられたらしい。そして19世紀前半に現在の姿になったリュッベナウ城館は擬古典主義の建造物である。周りを取りまく9ヘクタールの、英国の景観を模した公園も同時代に出来たそうだ。

 

ツウ・ライナル伯爵 (左) 

ところで、数年前にトム・クルーズが首謀者であるフォン・シュタウフェンベルク伯爵を演じる、ヒトラー政権に対するクーデターを扱った映画があった。ヒトラー暗殺計画は1944年7月に失敗したのであるが、なんとその計画に、将校であったこのリュッベナウ城館の所有者であるツウ・ライナル伯爵が参加していたのだ。そしてこの城館で共謀者たちが密会をしていたそうである。陰謀が発覚して、フォン・シュタウフェンベルク伯爵をはじめとする200人以上の共謀者たちと共にツウ・ライナル伯爵も絞首刑にされ、城館はナチスに没収された。

城館の建物は第二次世界大戦の末期からすでに野戦病院として使われるようになっていたが、終戦後は仮設病院になり、そして1963年まで外来病院や託児所や子供の為の療養センターなどとして使われたのである。その後空き家になって腐朽してしまい、1970年には壊そうという話もあったが、同年から8年間にわたって復元され、1989年の東西ドイツ統合まで教育及び講習センターとして機能した。その後ホテルとして利用され、1991年には城館の所有権がツウ・ライナル家に返還された。ツウ・ライナル家は翌年から多額の費用をかけて城館の修理改装を行い、現在の4星ホテルに仕立てたそうである。

このリュッベナウという町はシュプレー・ヴァルト観光の中心で、城館の周りには小舟の為の港のほかキャンプ場もあり、夏はかなり賑わっていそうだ。

平坦な広い敷地にあるクリーム色の綺麗な城館では定期的にお茶会やコンサートなどが開催され、この町の文化の中心になっている。

   

城館 1 & 2 

  

城館 3 ・ 正面の入り口

同じ敷地にある昔の馬屋にはそれぞれ内装が違う休暇用アパートメントが 20戸あり、そのうち5つはバリアフリーであるらしい。やはり同じ敷地にある当時の栽培温室では結婚式などのお祝い事を開催できる。

 

当時の馬屋

城館の大きな入り口の扉の取っ手が人間の頭の位置にあって何とも使いにくい。ホールに入ると机を置いただけの簡単なレセプションがある。大変いい感じのお姉さんが優しく丁寧に朝食場やレストランやサロンやサウナなどの位置について説明してくれる。日曜日の午後である今日はサロンでピアノの生演奏付きのアフタヌーン・ティーがあるそうだ。全体的にあたたかい雰囲気のホテルであると感じる。左右対称の外観から想像できるように、真ん中に階段があって左右に分かれて客室が並ぶ構造になっている。

  

ホールから上階への階段 1 & 2 

 

廊下

私の部屋はダブルのシングルユースだ。広いし、窓が二箇所にあって明るい。最上階なので天井が少し斜めだが古いデザインの家具が置いてあり、なかなか良い雰囲気である。

  

私の部屋 1 & 2 

レストランには一階のホールから入る。都会の繁華街にでもありそうなモダンな入り口で、中は館の雰囲気をもつ大小二つの空間がつながっている。私の席はこじんまりした方だ。

  

レストランの入り口 ・ レストランの内部

民族衣装を着た女性二人が給仕スタッフである。旧東ドイツでよく出会う素朴な人だが、愛想が良くてテキパキしている。ただ、椅子が固くてすわり心地が良くないし、テーブルクロスの代わりに赤色系の帯を渡してある。やはりアイロンのかかった真っ白なテーブルクロスの方がいいなぁー。

まずフランスパンの輪切りと、普通のバター、薬味草バター、トマトバターの3種類がでる。トマトバターが美味しい。今日は日曜日なので買い置きしていたパンが固いのは残念。

このレストランの名前を冠したLINARI-メニューを注文した。7品だ。

サーヴィスで、小さい乾パンとトマトと葉野菜が添えられた野菜と鶏肉のアスピック料理が供された。味は良いが冷えすぎている。外はマイナスの気温なのでよけいに冷たく感じたかもしれない。

1.LINARI-サラダ(水牛の乳のモッツァレラとハム、オレンジ、ハッカの葉、ルコラ、これら生野菜の上に削ったチーズ)。生野菜とドレッシングは美味しい。外が寒いからか、モッツァレラがいやに冷たく感じるし、スーパーで買ってきて家で食べるそれ程コクがないような気がする。はっきり言って美味しくない。

2.シーザー・サラダの海老と帆立添え。固い細切れパンが混ざるサラダの上に小サーディンの酢漬けの半身がひと切れ載る。酸っぱさが口腔の粘膜を引き締める。海老は固くなる手前で焼くのをやめているし、ホタテはほとんど生食で、どちらも結構だ。良く言えば飾り気のない質素な、悪く言えば味気ない盛り付けである。

3.赤カブ・マンゴー・スープの燻製鴨肉入り。生クリームを少し浮かしてある。スープは少し辛いがまあまあ旨い。燻製鴨肉の細切れがたくさん入っているが、このスープに煙っぽい味は合わないと思う。

給仕の女性に、

「ツウ・ライナル家の人はこの城館に住んでいるのですか。」

「いいえ、ここに事務室はありますが、住んではいません。」

ヒトラーの暗殺計画にかかわって処刑された人の家族というのは、一般ドイツ人の心の中でどのような位置を占めているのだろうか。聞きたかったが、何となくためらう気持ちが私の中にあった。

4.焼きホタルジャコ (スズキ目の淡水魚)、サボイキャベツのクリーム和え、そして辛子とハム入りピューレ。魚は熱々で皮がパリパリで旨い。魚の味が良く出ている。茹でたサボイキャベツはハムが混ざっていて少し塩辛いが、しつこくなくて良い。ピューレの辛子風味に意外性がある。この料理も飾り気のない盛り付けだ。

5.グラニー・スミス・シャーベット。 緑リンゴのシャーベットで、赤リンゴが一切れ刺さる。サッパリしていて結構。

6.子牛のフィレ肉に赤ワイン・エシャロット・ソース。エシャロットとはワケギやアサツキに似たネギ属の野菜である。付け合せにブロッコリとトリュフ入りのひも状麺を使っている。炭焼きフィレの焼き具合がウェルダンに近いメディウムで、私の好み。フッと炭の香りがいい。ソースが悪くはないが私には濃厚すぎる。新鮮な茹でブロッコリ。麺の中にトリュフは見えないが香りは確かにある。『トリュフの芳香は人工で出来るのかな?』、なんて考えてはいけない。麺の上には焼きマッシュルームとサクランボの砂糖煮がひとつずつ。もうメニューの最後の方で満腹感がでているのにもかかわらず、この料理が一番美味しかった。

7.チョコレートケーキに、 どろどろに煮詰めたパッションフルーツとラズベリーの果肉をかけている。それにトンカ豆・アイスクリーム。ケーキは中が温かくカカオの苦さを感じるが、果物ソースの甘すぎない甘さがそれに加わって中々よろしい。トンカ豆のアイスクリームは初めての味で、バニラかミルクに近い味だがサッパリ感がある。美味しい。

朝食はやはりホールから入る部屋だが、中でレストランの大きい部屋と繋がっている。パンの種類の多さが印象深い。旧東ドイツでは珍しくエレガントなサーヴィスをする良く気の付くお兄さんが給仕だ。たいへん満足のいく朝食である。

 

朝食部屋

ホールから優雅な雰囲気のサロンへも行ける。

 

サロン

サロンの入り口に城館の歴史を写真入りのパネルで紹介してあり、ウィルヘルム・ツウ・ライナル伯爵のことにたくさんの行を割いている。この町の教会に彼の記念碑があるそうだ。このパネルを見て疑問であったことを聞いて良いという気がしたので、フロントのお姉ちゃんに、

「少しお尋ねしたいのですが、普通のドイツ人にとってツウ・ライナル伯爵はどういう人なのですか。やはり英雄なのですか。ヒトラーに抵抗したようですが、、、、、」

「はい、そうです。あのヒトラー政権と戦う勇気を持っていたということで英雄です。」

「ツウ・ライナル家の人はこの城館には住んでいないとのことですが、、、。」

「はい、ここには住んでいませんがこの町に住んでいます。」

「その家族は今でも城館の所有者でホテルの経営者ですよね。」

「ええ、ここは家族経営のホテルです。」

2日目の夕食の突き出しは海老と肉を混ぜた焼き団子と赤カブのサラダで、キュウリが少し混ざった酸っぱいクリームを添えている。中々旨い。今日は非典型な注文の仕方で、前菜を2つとって、イタリアではアントレであるリゾットを本菜にした。

まずミックスサラダでドレッシングは7種類の薬味草入り。日本だと春の七草といったところか。ウズラのゆで卵とマッシュルームの油炒めが添えてある。ミニトマトとサラダ菜が新鮮で、ドレッシングが酸っぱくなくてよろしい。

次は川海老のスープ。生クリームとネギがほんの少々載っている。熱々で海老の味が良い。

最後は炒めキノコと玉ねぎが入ったサフラン・リゾットのミニトマトとブロッコリ添え。上にチーズの千切りが散らしてある。旨い。普通リゾットは味が単調で食べているうちに飽きてくるが、ここのはライス以外の食材を多く使っているからか全体として飽きが来ない。サフランの色はジッと見ると何となく黄色い感じがする。大分県竹田市は日本有数のサフランの産地らしく、そこで食べたサフランご飯はまっ黄色だった。サフランの種類が違うのか、それとも、高価なのでほんの少ししか使わなかったのかなぁー。

雪景色も悪くはないが、ここは木や草が緑で水路に小舟が行きかう季節の方が楽しいだろう。何となくホンワリと落ち着く、また来たくなるホテルである。やはり家族経営だからだろうか。

 

〔2014年2月〕〔2022年7月 加筆・修正〕

 

 

 

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グルムバッハ城館

2022年07月24日 | 旅行

グルムバッハ城館はヴュルツブルクから真北に10㎞離れたリムパルという小さな町にあります。他にこれといった特徴のないリムパル町の最大にして唯一の見所です。

 

正面 ・ 入城門脇の塔

 

長い入城門の内部 ・ 中庭から見た入城門

15世紀後半の古文書によると、この城館は地方の貴族であったヴォルフスケール家によって14世紀に建造されたようです。そして16世紀の末頃、リムパルのお城と村はヴュルツブルクの侯爵司教によって取得され、その後18世紀まで彼とその子孫の夏の邸宅として使われました。しかし、別の場所に別荘が出来たのをきっかけにグルムバッハ城はその役目を解かれ、城壁などの荒廃が始まりました。そして徐々に取り壊されていく運命にありましたが、18世紀の終わり頃にフランスの軍隊がこの地域に進攻して来たため、さらなる解体計画はとりあえず保留になりました。おそらくこの状況のおかげでお城は今日でも比較的良く保存され、当時の外観が引き継がれているのでしょう。というのは、その数年後に取り壊すのではなくて修理改装することが決められたからです。

 

中庭の様子 1 &

 

中庭の様子 3 &

19世紀初頭にバイエルン王国は城館の建物の中に<王立バイエルン林業事務所リムパル›を設立し、その役所は1971年まで業務を行っていました。

 

長い入城門の中にある町役場の入り口

 

側面 ・ 裏面

そして1980年、ついにリムパル町がバイエルン州の所有であったお城を買収したのです。同年にグルムバッハ城館友好会が出来、数年の再建と改修の後で城館は町役場としての機能を持つことになりました。今世紀初頭からは考古学博物館が運営されているし、いつからかは分かりませんが、私が調べたところ結構評判の良い城館レストランが営業しています。

 

弁当

私たちがグルムバッハ城館を訪れたのは今年の4月初旬で、まだ武漢コロナによる規制が強かったため、この城館レストランを利用することはせずに昼食は弁当でした。いなり寿司です。惣菜はカシューナッツを振りかけたウイキョウとパプリカの酢の物、大豆と昆布入りひじき、そしてホウレン草です。

 

〔2022年7月〕

 

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ゲールデン城

2022年07月17日 | 旅行

ゲールデン修道院は12世紀の中頃、ハインリッヒ・フォン・ゲールデンという貴族によってベネディクト会修道女のために創設された。いや、これは書き損じではない。現在のゲールデン城は昔修道院だったのだ。12世紀の末にロマネスク様式で建造された教会だけが当時のままで、修道院の他の建物は17世紀に新しく建て替えられた。

 

教会

全敷地を隔離するように取り囲む高い石垣の一部が階段状になっているのだが、その昔修道女たちは、この上から、縁を切ってきたつもりの世俗社会を眺めて郷愁にかられていたそうである。

 

石垣 と 階段

そして19世紀の初めに教会財産没収 (国有化) によって修道院は廃止された。が、建物はあのナポレオンの兄弟の所有となり、バロック様式の公園をもつ世俗的な城館に改築されて、数多くのにぎやかな式典や祭典が開催されたらしい。その後比較的頻繁に所有者が代わり、改造や改装が繰り返されて色々な目的に使われた。2007年から2008年にかけて大々的な改築と修繕が施され、35の客室、ふたつのレストラン、そして9個の催し物会場を持つバリアフリーの4星ホテルになった。

オェゼ谷にある小さな農村の中心部に建つホテルは、村全体に漂う肥やしの匂いの中で、城というより修道院の外観を呈する。

  

城館 1 & 2 

 

ほぼ全体像

中に入ると結構広々としていて、古城特有の重厚さは感じられない。

  

ロビーの一角 ・ サロン

レセプションのスタッフも他のスタッフもにっこり笑って挨拶するし、何か頼むとすぐに

「はい、よろこんで!」

と明るく答える。非常に感じがよい。

スタンダードシングルを予約していたのにダブルの部屋、それも割といい部屋だ。 (ジュニアスイートか?) フロントでは何も言わなかったがアップグレイドしてくれたようだ。事務机とソファを備えた書斎があり、その隣が大きなバスルームで、バスタブはないがシャワースペースが広い。4星ホテルにはめずらしくバスローヴとスリッパをおいている。そしてバスルームの隣のドアを開けると寝室だ。全体的にかなり広い部屋である。いち部の家具は骨董ではないが古いデザインで、数個の光源のスタンドには骨董装飾品の趣がある。ただ、最上階で窓が非常に小さいのが残念である。

  

私の部屋 1 & 2 

レストランは地下にある。色んな雰囲気の部屋が複数あり、その中のひとつ〈暖炉部屋〉は、昔、修道女たちの台所だったそうで、煮炊きした大暖炉や流し台が残っている。

  

〈暖炉部屋〉 1 & 2 

私のテーブルは整然とした雰囲気の部屋にあり、天井に色々な教会的モチーフが見られる。

  

レストラン ・ レストランの天井

我がテーブルの係りはいかにも新米といった感じのお兄ちゃんなのだが、全テーブルのローソクをつけて廻っていて、先輩らしいお姉さんに、

「向こうの方は誰も居ないのにどうしてローソクをつけるのっ。」

と、怒られていた。料理を持って来てナイフとフォークを持ってこない、などのミスはあるが、優しいイメージの男である。

メニューがないのでア・ラ・カルトで注文。

前菜は焼きホタテの上にコクの効いたチーズをおいてグラタン風にしている。薬味を加えているのかと思えるほどスパイシーで旨いが、ホタテそのものの味が隠されてしまった。サフラン・バターソースは少し油っぽ過ぎる。クリームをまぶしたホウレン草がしつこくなくて結構である。

主菜は〈女子修道院料理 = ウィーン風シュニッツェルのグリルトマトと炒めポテト添え〉。どうしてこれが女子修道院料理なのか判らないが、好きな料理なので注文した。ウィーナー・シュニツェルではないので子牛肉は使ってなくて、要するに成獣の薄い牛肉を使ったトンカツ風料理である。レモン片とケッパー (フウチョウソウ科の低木。つぼみは苦味と香気があり、酢漬けにしてソースの香辛料や魚料理の付け合せにもちいる。) と塩漬け小イワシの半身を載せてある。牛カツは揚げ過ぎで衣がこげているし、はっきり言って肉が美味しくない。グリルトマトは、大きめのトマトを十字に切り込んでチーズを入れて焼いている。トマトが大きいので全体として焼き方が足りないし、チーズが無味無臭である。玉葱と一緒に炒めたジャガイモは美味しかった。最近また、”体を冷やすのは不健康” という本をあらためて読んだので、水ではなく紅茶をたのんだ。熱々を持って来て、且つ下からローソクで暖めるようになっているのはいい。食後のエスプレッソ、少し薄いかな?

朝食はレストランの隣にある部屋で、ここは城の雰囲気がある。

 

朝食の部屋

朝食にはめずらしく布製のナプキンを使っている。ごく普通の太ったお姉ちゃんが給仕係で、きちんとした応対をする。

「ご満足いただける朝食でしょうか。」

「エー、、、、はっきり言わせてもらいますが、サモワールのお湯が熱くないし、暖かくあるべき料理が冷めていますね。」

「あっ、そうですか。ご指摘、ありがとうございます。」

2日目の夕食時は客が少なく、愛想が良くてテキパキ仕事をするサーヴィスのお姉さんによると11人の宿泊客がいるそうだが、レストランではずっと私ひとりであった。他に客がいなかったので、

「昔の修道院なので静かに雰囲気を楽しみたいから、、、。」

と言って、ジャズヴォーカルの音量をグッと絞ってもらった。

昨日と違って今日はオリーヴ入りの熱々パンがでる。

まず〈ポルチーニ (ヤマドリ茸) とトリュフのカプチーノ〉。グラスのコップで出てきた。ポルチーニもトリュフも味が良く出ている。少しだが実 (とくに茸の傘下のトロトロの部分) も入っている。私がシェフだったら少しトロミをつけて、味が舌に残りやすくなるかどうか、またカプチーノのクリームを模している泡が消えにくくなるかどうか、試してみたい。

メインは〈海と草地〉と名付けられた料理で、牛のフィレ肉ミニステーキを3つ、炒めたネギ属の野菜の上に、そして焼いた海老を3つ、半野生のライスに載せている。チリソースが別容器でつく。牛肉は筋肉繊維を切断するように切っているので柔らかく、うまく焼いている (私の許容範囲ギリギリのメディウム)。野菜がしょうゆ味に近くて旨い。ライスと海老は普通だが、どちらも私の好みなので美味しく感じる。

今夜のエスプレッソは普通の濃さかな?

美味しい夕食であった。ひとりで静かに、というのも良かった。

2日目の朝食では温料理は全部温かく、お湯は熱かった。昨朝は気がつかなかったが、自分でフレンチトーストを作れるように準備してある。気配りの感じられるサーヴィスだ。

昨日は客が少なかったようだが、今朝はすでに10数人のビジネス客がレセプションの付近で立ってお茶を飲みながら談笑している。

「今日はまたお忙しそうでいいですね。」

「はい、おかげさまで。こんなド田舎なので、お客さんが来てくれるのは本当にうれしいのです。」

と、うれしそうに顔をゆがめて答えるレセプションのおばさん。

全体として、感じのいい従業員が多くて満足度の高いホテルだと思う。食事も、素晴らしい美食ではないが、それなりに美味しく食べられる。広々としていて長期滞在するのにいい気がする。

さらに、このホテルを特別なものにしている点がふたつある。

ひとつは修道院時代からつづく、〈心と体の調和〉に重きを置いている点で、時々、〈沈黙セミナー „ヨガ – 瞑想 – 沈黙”〉 が開催される。

もうひとつはバリアフリーという点である。建物の入り口は階段とスロープが両方あるし、ホールやローカなどが広々としている。廊下に数段の段差がある所があるが、エレベーターが2台あり、階段を使うことなしにどこへでも行ける。そのエレベーターであるが、低い位置にも操縦盤が付いている。車椅子でらくらく動ける広いバスルームには、車椅子のまま入れる段差ナシの構造のシャワー。そのシャワー内と便器の横にも取っ手がある。予想に反してバリアフリーは健常者にとっても非常に使いやすい。どんどん増やすべきだと思う。

村を流れる小川に沿った遊歩道は車椅子でも „歩ける“ し、遊歩道沿いの史跡の説明は点字でも書いてある。

 

遊歩道にある道標

話は前後するが、この古城ホテルのレストランはベジタリアンにも対応出来るそうだ。全体的に、ハンディーのある人も健常人も楽に楽しく過ごせる村といえるだろう。

 

〔2014年1月〕〔2022年7月 加筆・修正〕

 

 

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マルクトブライト

2022年07月13日 | 旅行

バイエルン州フランケン地方のヴュルツブルクから南東に約30㎞離れた所に、マルクトブライトというマイン河沿いの小さな町があります。

 

マイン河畔で対岸の町を見る ・ 町の様子 1

私たちは3か月ほど前にこの町を訪れました。この辺はフランケン地方の中で最も暖かく乾燥した地域の1つで、それゆえワイン、果物、野菜の栽培に特に有利です。が、マルクトブライト町はマイン河の洪水によって1世紀に数回打撃を受ける、という短所もあり、これはマルクトブライトの役場および反対側のバロック様式の宮殿に刻まれた洪水マークによって記録されています。

 

町の様子 2 &

 

町の様子 4 &

さて、マルクトブライトの歴史です。

この土地のことが文書に初めて現れるのは13世紀の中頃です。そして16世紀の後半に〔マルクトブライト〕と名付けられました。17世紀の前半には268世帯あったそうです。そして17世紀中頃に略奪され、さらに800人の命を奪ったペスト流行の犠牲になりました。こうしてマイン河沿いの、かつて繁栄していた市場町は荒廃していったのです。

 

町の様子 6 &

 

町の様子 8 &

そして18世紀初頭にマルクトブライトは復興していきます。河港に今もある古いクレーンによって証明されるように、マイン河で最も重要な貿易町の1つに発展しました。マイン河の最南端にあるという地理的な位置のおかげで、ドナウ河への接続が非常に短いことが功を奏したのです。19世紀の初めに町はバイエルン王国の一部となり、その後数年間ヴュルツブルク大公国に併合されました。・・・が、最終的にバイエルン王国に帰属するようになり、都市の権利を得ました。

町の様子 10 & 11

 

市壁の一部 ・ 墓地の一角

 

現役の古い郵便ポスト

しかしながら19世紀の中頃にこの地方に鉄道が走るようになったためマイン河とドナウ河の間の河運の重要性は急激に低下し、それに伴いマルクトブライトのような小さな交易の町の重要性も低下しました。そして多くの商人が町を去って行ったのです。

 

当時のシナゴーグ

20世紀前半の国家社会主義 (ナチズム) の時代には、ユダヤ教信仰の住民に対する大規模な攻撃とシナゴーグ (ユダヤ教の公的な祈禱・礼拝の会堂) の冒涜がありました。1980年代までマルクトブライトは周辺地域の中心であり、必要なものを (ほぼ) すべて手に入れることができましたが、ここしばらくの間繁華街の小売業は急激に減少しています。

ドイツのバイエルン州では中世の宝石箱とも呼ばれるローテンブルク・オプ・デア・タウバーがたいへん有名な観光地ですが、ここマイン河流域にもそれに負けない小さな町が沢山あります。そのひとつがマルクトブライトです。栄えた時代も衰退した時代もありましたが、今はあちこちに立派な建物が残る静かな町です。

 

アロイス・アルツハイマーの生家 1 &

私たちは町をゆっくり散策したのですが、意外なものを発見しました。それは アロイス・アルツハイマー (1864-1915) の生家です。アルツハイマーは脳が萎縮していく、認知症の最も一般的な種類の症例報告を最初に行った精神科医です。そうです。あのアルツハイマー病は彼の名前に由来しているのです。彼の生家は1995年以来某製薬会社の支社が所有し、現在は記念館や会議場として利用されているようです。

 

栗ご飯 1 &

 

サラダ

さて、自炊式宿泊施設に帰って夕食です。スーパーで真空パックの栗を見つけたので、栗ご飯を炊いてゴマ塩をかけて食べました。そして松の実とカボチャの種をふったニンジンとトマトのサラダも食卓に上りました。

 

〔2022年7月〕

 

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