お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

ホテル・レストラン リンデンホフ

2022年10月30日 | 旅行

ドイツの有名な観光地(保養地)、シュヴァルツヴァルト(黒い森)にあるドナウエッシンゲンという町に「日本への原爆投下」に関する講演をしに行きました。ドナウエッシンゲンは、ドナウ川の源流があったり、わが同胞、斉藤茂吉と何らかの関係があるということで、それなりに有名です。

 

ドナウエッシンゲンの市役所

そのときに泊まったホテル・レストラン リンデンホフ(菩提樹のある中庭)は、ドナウエッシンゲンから4km離れた、丘の向こうのブロインリンゲンという町の旧市街にあります。ブロインリンゲンは9世紀初期までさかのぼれる古い小さい町で、あちこちに歴史的な建物があるのですが、私が泊まるホテルもそのうちのひとつです。約200年前までたどれる家族が、火災の後に再建したり改築したり拡張したりしながらずっと経営してきた伝統のホテル・レストランらしいのです。

  

ブロインリンゲンの中心部 ・ ホテル

 

客室

シュヴァルツヴァルトには、ドイツの他の地域と違う文化があります。たとえばカーニバル(ファストナハト)の時、イタリアのベネチアのように、独特な衣装を着て仮面をつけて練り歩きます。その仮面のミニチュアがたくさんレストランの梁にかけてありました。怖い顔からユーモラスなものまでいろいろあります。

  

レストラン ・ 仮面のミニチュア 1

 

仮面のミニチュア 2

夕食では、前菜としてミックスサラダを食べました。通常よりもいささか甘めの甘酸っぱさで、美味しく感じました。

メインではこの地方の食文化を味わいたくて、黒い森を徘徊していたという鹿の大腿部からとったステーキにしたのですが、野生なのにやわらかくて臭みもなく、ヴァハホルダーという木の実とクリームのフッと苦味のあるソースが良く合いました。このマッシュルーム入りのソースも少し甘めでした。さらに、果物のコンポートとジャム入りクレープがついていたのですが、少し甘い味付けは、この地方の傾向なのか、それともこのレストランの特徴なのかはわかりません。

  

メインディッシュ ・ 付け合せ

別の食器に、自家製のシュペッツレというこの地方のヌードルとポテト・クロケットが供されました。このシュペッツレ、ふつうはべっとりやわらかくて、私はあまり好きではないのですが、ここのは少し歯ごたえがあって良かったのです。大変おいしい地元料理だと思いました。

以前、シュヴァルツヴァルトにあるミシュラン1つ星のレストランを紹介したので、ご参照ください。ノイヴァイエル城館〉

 

〔2015年5月〔2022年10月 加筆・修正〕

 

 

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ドイツでの出来事 ・ その後のその後 

2022年10月28日 | 海外生活

さて、先回〈この話が悪い方向に広がりを見せた〉と書きましたが、私の住むハノーファーの独日協会とハノーファー市の文化課が私のブログに反応したのです。地元で、私が右翼だというデマが広がると困ったことになります。

この二つの組織から話し合いに呼び出されました。というのは、それ程の時をおかずにそれぞれの主催で私の〈広島と長崎の原爆〉に関する講演が予定されていたからです。歴史解釈と戦後の政治にかかわるテーマなので、私が極右的発言をするのでは、、、と心配していたようです。まぁ、尋問ですね。その結果、独日協会主催の講演会は予定どうりいつものホテルの会場で開くことになりました。

講演の日、開始の5分前に独日協会の会長と市の文化課の人が非常に不機嫌な態度で私のところに来て、次の2つのことを告げました。

「あれから数人にブログを見せた結果、やはり問題があるというので、後日予定されている講演で市役所の講堂を使うのをやめてほしい。」

  

ハノーファー市役所 冬の夜 ・ 航空写真 (wikipediaより)

「本日の講演に市から2人の歴史家が来るので、かなり激しい質疑応答になると思う。覚悟しておくように。」

私は、先日の〈尋問〉で話はついたと思っていたのでショックでした。ショックというより、なんという侮辱だと思い、憤懣やるかたない、という気持ちでした。

自分で言うのはおこがましいのですが、講演は内容もプレゼンテーションも非常に好評で、いつも批判が多い私の妻からでさえほめられました。質問は少しだけ、陳腐なものがあっただけです。

さて、ドイツでは、〈極右主義者 = ネオナチ = ホロコースト否定論者 = 犯罪者〉という等式が成り立ちます。私のブログには、日本の歴史解釈が日本政府の公式見解をふまえて書かれています。どうしてそれがこの等式につながるのでしょうか。

私の身近にいる複数のドイツ人との話し合いでわかったことは、ドイツ国民は先の大戦に関して非常に(私に言わせれば、病的に)敏感に反応する、ということです。ホロコーストに対する罪悪感の裏返しでしょうか。そしてその罪悪感を他国のいわゆる〈普通の〉戦争犯罪と同等に見ることによって、少しの心的安らぎを得ようとしているのでしょうか。この可哀想なドイツ人をこれ以上刺激しないように、ブログの書き込みを一部消去しました。とにかく、ドイツ人はニュルンベルク裁判と東京裁判で決められた歴史観と違う歴史の見方はすべて極右主義にしてしまうようです。

このことを独日協会の会長に、〈日独の社会的および文化的差異〉とオブラートに包んだ形で伝えると納得したらしく、

「私も独日協会の他の幹部たちも、あなたを右翼だなんて言ったことはないし思ってもいない。」

と、しらじらしいメールをくれました。この件はなかったことにしたいようですね。

私の気持ちの中には少しモヤモヤしたものが残りますが、悪質なデマがハノーファーで広がる危険がほぼなくなったようなので、このまま収束させましょう。

ところで、私は弁護士保険に入っています。ところが保険会社によると今回のような案件は保険でカバー出来ないということで、自分で支払うはめになりました。弁護士と2回短い話し合いをして、6 – 7通ほどの手紙とメールを書いてもらいました。弁護士は、〈お得意さん〉だということで (私がいつも問題を起こしているわけではありません。)、だいぶ割り引いてくれましたが、それでも12万円くらいでした。日本の弁護士の報酬はどのくらいでしょうか。

 

〔2015年7月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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ドイツでの出来事 ・ その後

2022年10月23日 | 海外生活

この件に関する先回の記事に興味を持ってくれた人が少なからず居るようなので、続きを書きますね。

ボン大学のOX教授が2通の手紙を私の弁護士に送ってきました。そのうちの1通で、私のブログの撤回を要求しています。てっきり、その〈極右的内容?〉が理由だと思いましたが違うのです。彼は2007年から日本の歴史と政治に関するブログ  (http://kotoba.japankunde.de) を書いているので、競争相手として、私のブログをなくしてしまいたいそうなのです。そのために、いろいろと私のブログに適当でない難癖をつけていました。私の弁護士はその返事で、

「まぁ、ついでに言うと、私の依頼人貴方の競争相手ではありませんよ。」

と、軽くいなしました。この分野の専門家であるOX教授が、ど素人の私を競争相手とみなすなんて情けないですね。でも、私としてはそれを光栄に思うべきなのでしょう。

先回の投稿で、OX教授は朝鮮半島出身のスタッフの影響で反日感情をもっているのでは?、と書きましたが、それよりも彼自身に問題がありそうです。朝鮮半島出身の人、ごめんなさい。

2通目には、私の投稿の内容に反する文献がいろいろある、と息巻いていますが、それはそうでしょう。文科系の研究論文にさまざまな見解のものがあるのは当然ですから。

さて、私の〈極右主義?〉に関しては、、、、と、探してみると、最後のほうにありました。

私は〈武士道〉についての記事で、その発生や意味を解説した後に、

「今日の日本では、武士道を高く評価する人はしばしば保守的だとされるし、極右主義者だとみられることさえある。」

と書きました。この最後の一文を切り取って

「貴方の依頼人 (私のこと) がこういう風に書くのは、彼が極右翼である証拠である。」

と、何だか訳の分からない事を述べています。こういう人物を相手にするのはバカバカしくなってきますね。

このOX教授もエアフルト独日協会の会長も、期限までに

「二度とこういうことはしない。」

という誓約書を送っては来ませんでした。通常は民事裁判にもっていくのですが、弁護士の助言により、この件はこのままうやむやにすることになりました。私としてはいささか不本意なのですが、弁護士が言うには、

「確かにあなたに対する誹謗中傷はひどいけれども、裁判であなたが勝てるかどうかは、担当の裁判官による。OX教授がそれを拡散した場所は専門家が議論するインターネットのプラットホームであることから、裁判官が、この案件はすべて学術的論争である、と判断する可能性が半分くらいある。OX教授が勝てば、それをまた我が物顔で拡散するのではないか。」

ドイツでは、学術的論争に関してはいろんな面で許容範囲が広いそうです。素人の私が書いたものは専門家の論争と見られないのでは、という私の反論も、

「いやいや、あなたの記事の内容も記述の仕方も一般人から見ると学術的である。」

と、一蹴されました。まぁ、分野が違うとはいえ、私が現役のときは研究論文を発表するのも仕事だったので、書き方の癖は残っているのでしょう。

この、私が右翼である、というふざけた話が悪い方向に広がりを見せてきました。そのことについては、少し落ち着いてから投稿しましょう。

この出来事は在独日本大使館に報告したのですが、何の反応もありません。大使館や領事館が在外邦人に冷たいのは昔からですね。こちらも大して期待はしていませんが、、、、。

 

〔2015年 6月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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ドイツでの出来事

2022年10月20日 | 海外生活

今日の投稿はお城もグルメも関係ありませんが、ドイツに興味がある人には面白い話だと思います。

実は私は 2008年から、日本の文化についての講演活動をボランティアで行なっています。和陶器、寿司、旅館、祭りetc. と、毎年テーマを決めて、歴史的背景など少しアカデミズムを盛り込んだ形で、全国の独日協会、市民大学、博物館から招待を受けてしゃべります。AKB 48 の足元にも及びませんが、それなりに結構人気があるのです。

この講演活動と直接には関係がないのですが、2015年にドイツ語のブログを始めました。ドイツ人に日本のことを良く知ってもらうのが目的です。いろいろなことを書くので、日本の歴史の中でしばしば話題になる、いわゆる「従軍慰安婦」や「南京事件」についても投稿したのですが、私は政治的な人間ではないので、表現は違いますが、日本政府の公式見解に沿って書きました。 これが、ボン大学で〈日本学と韓国学〉を研究する教室のOXという日本学教授とそのスタッフの目に留まったのです。教授は私を極右翼の危険人物だと決め付けて、主に日本とドイツでしょうが、世界中に約2.750人の受信者がいるというメーリングリスト〈j-studien@listserv.shuttle.de〉で拡散しました。そのj-studienのプラットホームでの議論では、私をホロコースト否定論者や反イスラム過激派と同一視する暴論もありました。(ホロコーストに関して言論の自由がないヨーロッパでは、ホロコースト否定論者は犯罪者です。)教授が拡散したメールには、独日協会に宛てたメッセージとして、私を講師として呼ぶのは止めるようにとの忠告があります。そしてそのメールを受信したエアフルト独日協会の会長が、50くらいある全国の独日協会に転送したのです。

そのせいで、Halleという旧東ドイツの町にある独日協会から、9月に予定していた講演のキャンセル通知が届きました。その他2、3の独日協会から、講演会をどうするか、会議にかけて判断すると知らせてきました。あといくつキャンセルされるかわかりませんし、来年から講演依頼がくるかどうかも判りません。私の名誉は傷つけられるし、いくつかの独日協会の信用はなくすし、落ち込んでしまいました。

その一方で、私への全面的な信頼をもとに、OX教授とエアフルト独日協会の会長へ抗議のメールを送ってくれたり、私に励ましのメールをくれる独日協会の会長さんたちが少なからず居て、感謝感激の気持ちです。

さて先日、私の弁護士と話して、OX教授とエアフルトの会長に対して反撃に出ることにしました。まず民事では、二度とこういうことはしないという誓約書、そして弁護士費用の負担を要求します。さらに刑事告発をしました。もっとも、刑事告発しても起訴されることはまずないということですので、2人に対する脅し、ということでしょう。

そして間接的にですが、ドイツの人々に日本政府の公式見解がホロコースト否定や反イスラムと同じだと誤解されるかもしれません。それで、ドイツにおける日本国の名誉に係わる問題ということで、ベルリンにある日本大使館に事の次第を文書で報告しました。

私の反撃に向こうがどう出るか、興味しんしんです。

ところでOX教授は何者なのでしょうか。南アフリカ生まれのドイツ人のようですが、左翼思想をもっているのでしょうか。左から見ると何でも右に見えますからね。それとも同じ研究室に居る2人の朝鮮半島出身のスタッフの影響で、反日感情を持っているのでしょうか。その朝鮮半島出身者がドイツを拠点に反日工作をしているスパイ、なんていうのは小説の世界でしょうかね!?

 

〔2015年6月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

 

 

 

 

 

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ルートヴィヒスルスト宮殿

2022年10月16日 | 旅行

イギリスで群生するヒースと同類の植物で、ドイツではハイデという自生植物が咲き乱れるリューネブルガー・ハイデという地域の中心部にある町、リューネブルクで講演をした翌日、ほぼ真東に90㎞走って旧東ドイツのルートヴィヒスルストという町に来ました。ここに町と同じ名前の宮殿があるのです。

ルートヴィヒスルスト宮殿は手入れの行き届いた庭園を備えた古典主義的なお城で、18世紀中頃から100年近くメックレンブルク=シュヴェリーン公爵の邸宅でした。この宮殿はこんにちメックレンブルク・フォアポンメルン州の所有で、中に入っている博物館は近くの比較的大きな町にある州立博物館の別館のひとつです。

 

宮殿 1 &

 

宮殿 3 &

 

宮殿 5

ルートヴィヒスルスト宮殿の起源は狩猟用のロッジで、その後公爵の邸宅として14世紀の古文書に記されたときは荘園でした。そしてその邸宅の新しい建物は、当初は狩猟用のお城としてのみ使用されていました。18世紀中頃からお城は拡張され、城主の公爵によりルートヴィヒスルストと名付けられました。一時期は七年戦争のせいでさらなる増築が中断されたりもしましたが、同世紀後半には完成し、現在の外観になったのです。それにもかかわらず、お城は19世紀後半にはほとんど人が住んでいませんでした。が、第一次世界大戦の終結とともに再び、長く居住する地として重要になって来て、公爵家は第二次世界大戦の終わりまでルートヴィヒスルスト宮殿に住んでいました。宮殿は構造的な損傷なしに戦争を生き延びたそうです。終戦時に東ドイツにあった数多くの宮殿や邸宅がソ連軍によって荒らされましたが、当初西側連合軍に占領されたルートヴィヒスルスト宮殿は荒廃をまぬがれました。しかしながらその後、高価な家具調度は略奪と管理怠慢のせいで失われて行ったのです。

 

城館の内部 1 &

 

城館の内部 3 &

そして西側連合軍が去ったあと、最初の数年間はお城にソ連軍の司令官事務所がありました。公爵家は戦後の土地改革のときに収用され、宮殿は最終的に当地の地方自治体に引き継がれました。こうして旧公爵邸は東ドイツ時代には役所の所在地として機能し、歴史的な装飾の部屋には数十年間にわたり東ドイツの国家機関が居座っていました。

その後東西ドイツが統合される頃から少しずつ博物館としての機能が増していき、宮廷芸術と家の装飾の展示が一般公開されました。そして2015年末まで、セクションごとに順次改装されて行きました。

 

宮殿の人工滝 & 後ろに教会

 

教会 1 &

ルートヴィヒスルスト宮殿から約500メートル離れた向かいには神聖な教会が建っています。中に入ると祭壇の後ろの350平方メートルの壁を覆う絵画が特に印象的です。

 

教会の内部 1(前方) & 2(後方)

  

公園の散歩道 ・ 公園内の教会 

ルートヴィヒスルスト宮殿にはバロック様式の公園が付随しています。私が驚いたのはその広さと縦横に張り巡らせた水路です。宮殿が建つこの地域は乾燥しているので、水路や噴水に利用する十分な水を確保するために、18世紀の中頃、長さ28キロメートルもの運河が近隣の川から引き込まれました。公園の水路の中で最大の見所は1766年に造られた24基の噴水です。どういう仕組みか分かりませんが、説明書には〈ポンプなしで水が噴き出ている〉と書かれています。

 

24基の噴水

 

水路と噴水 ・ 水路と石橋

ルートヴィヒスルスト宮殿は東ドイツ時代の終わり頃、1マルクの記念切手の図柄になったそうです。

 

「アルテ・ヴァッヒェ」の外観 ・ その内部

さて、宮殿の斜め前に「アルテ・ヴァッヒェ」という、19世紀中頃に警備及び拘置室として建設されたほぼ真四角の建物があります。この、かつての衛兵の詰め所が現在はレストラン & カフェーハウスになっています。昼食を食べようと思って入店すると、給仕の女性が明るく人懐っこくて、気持ち良く迎えられたという印象を持ちました。

ガス入りのミネラルウォーターを頼むとパンとコテージチーズが供され、パンは焼きたてで思いのほか美味しく、チーズは普通の味でした。

 

パンとコテージチーズ ・ スープ

前菜は北海で捕れた小エビが入ったシュガースナップエンドウ豆のスープです。小雨が降っていて肌寒かったので、熱々のスープがとても美味しいと感じました。

メインは七面鳥の胸肉のステーキで、パースニップをのせた歯ごたえのある野菜サラダが付け合わされています。肉はちょうど良い焼き具合で軟らかい。パースニップは乾燥させているので固めの志那竹のような食感で、味はそこそこ。全体にかかった少し酸っぱいチェリーソースは味がどぎつくなく、さっぱりしていて旨いのです。

 

メインディッシュ ・ エスプレッソ

もう満腹だったのでデザートはパスして、エスプレッソだけにしました。

私が食事をしたレストランの他に、城館の一角を占めるカフェ & レストランがあります。ランチからあまり時間が経っていなかったので空腹ではなかったのですが、店内の雰囲気を肌で感じてみたかったから公園を散歩した後で入ってみました。

 

城館の一角のカフェ 1 &

 

お茶とお菓子

天井が高くていかにも宮殿風のゴージャスな雰囲気ですが、客のほとんどは普通のおばあちゃん方で高貴な感じはまったくありません。3人ほどの若いスタッフが助け合ってキビキビと仕事をしています。グーズベリー (セイヨウスグリ) のケーキを食べました。上部は表面を軽く焼いたメレンゲでおおわれています。お茶はアール・グレイです。ケーキが美味しく、静かな良い時間を過ごせました。

 

〔2022年10月〕

 

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