お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

ドイツでの出来事 ・ その後のその後 

2022年10月28日 | 海外生活

さて、先回〈この話が悪い方向に広がりを見せた〉と書きましたが、私の住むハノーファーの独日協会とハノーファー市の文化課が私のブログに反応したのです。地元で、私が右翼だというデマが広がると困ったことになります。

この二つの組織から話し合いに呼び出されました。というのは、それ程の時をおかずにそれぞれの主催で私の〈広島と長崎の原爆〉に関する講演が予定されていたからです。歴史解釈と戦後の政治にかかわるテーマなので、私が極右的発言をするのでは、、、と心配していたようです。まぁ、尋問ですね。その結果、独日協会主催の講演会は予定どうりいつものホテルの会場で開くことになりました。

講演の日、開始の5分前に独日協会の会長と市の文化課の人が非常に不機嫌な態度で私のところに来て、次の2つのことを告げました。

「あれから数人にブログを見せた結果、やはり問題があるというので、後日予定されている講演で市役所の講堂を使うのをやめてほしい。」

  

ハノーファー市役所 冬の夜 ・ 航空写真 (wikipediaより)

「本日の講演に市から2人の歴史家が来るので、かなり激しい質疑応答になると思う。覚悟しておくように。」

私は、先日の〈尋問〉で話はついたと思っていたのでショックでした。ショックというより、なんという侮辱だと思い、憤懣やるかたない、という気持ちでした。

自分で言うのはおこがましいのですが、講演は内容もプレゼンテーションも非常に好評で、いつも批判が多い私の妻からでさえほめられました。質問は少しだけ、陳腐なものがあっただけです。

さて、ドイツでは、〈極右主義者 = ネオナチ = ホロコースト否定論者 = 犯罪者〉という等式が成り立ちます。私のブログには、日本の歴史解釈が日本政府の公式見解をふまえて書かれています。どうしてそれがこの等式につながるのでしょうか。

私の身近にいる複数のドイツ人との話し合いでわかったことは、ドイツ国民は先の大戦に関して非常に(私に言わせれば、病的に)敏感に反応する、ということです。ホロコーストに対する罪悪感の裏返しでしょうか。そしてその罪悪感を他国のいわゆる〈普通の〉戦争犯罪と同等に見ることによって、少しの心的安らぎを得ようとしているのでしょうか。この可哀想なドイツ人をこれ以上刺激しないように、ブログの書き込みを一部消去しました。とにかく、ドイツ人はニュルンベルク裁判と東京裁判で決められた歴史観と違う歴史の見方はすべて極右主義にしてしまうようです。

このことを独日協会の会長に、〈日独の社会的および文化的差異〉とオブラートに包んだ形で伝えると納得したらしく、

「私も独日協会の他の幹部たちも、あなたを右翼だなんて言ったことはないし思ってもいない。」

と、しらじらしいメールをくれました。この件はなかったことにしたいようですね。

私の気持ちの中には少しモヤモヤしたものが残りますが、悪質なデマがハノーファーで広がる危険がほぼなくなったようなので、このまま収束させましょう。

ところで、私は弁護士保険に入っています。ところが保険会社によると今回のような案件は保険でカバー出来ないということで、自分で支払うはめになりました。弁護士と2回短い話し合いをして、6 – 7通ほどの手紙とメールを書いてもらいました。弁護士は、〈お得意さん〉だということで (私がいつも問題を起こしているわけではありません。)、だいぶ割り引いてくれましたが、それでも12万円くらいでした。日本の弁護士の報酬はどのくらいでしょうか。

 

〔2015年7月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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ドイツでの出来事 ・ その後

2022年10月23日 | 海外生活

この件に関する先回の記事に興味を持ってくれた人が少なからず居るようなので、続きを書きますね。

ボン大学のOX教授が2通の手紙を私の弁護士に送ってきました。そのうちの1通で、私のブログの撤回を要求しています。てっきり、その〈極右的内容?〉が理由だと思いましたが違うのです。彼は2007年から日本の歴史と政治に関するブログ  (http://kotoba.japankunde.de) を書いているので、競争相手として、私のブログをなくしてしまいたいそうなのです。そのために、いろいろと私のブログに適当でない難癖をつけていました。私の弁護士はその返事で、

「まぁ、ついでに言うと、私の依頼人貴方の競争相手ではありませんよ。」

と、軽くいなしました。この分野の専門家であるOX教授が、ど素人の私を競争相手とみなすなんて情けないですね。でも、私としてはそれを光栄に思うべきなのでしょう。

先回の投稿で、OX教授は朝鮮半島出身のスタッフの影響で反日感情をもっているのでは?、と書きましたが、それよりも彼自身に問題がありそうです。朝鮮半島出身の人、ごめんなさい。

2通目には、私の投稿の内容に反する文献がいろいろある、と息巻いていますが、それはそうでしょう。文科系の研究論文にさまざまな見解のものがあるのは当然ですから。

さて、私の〈極右主義?〉に関しては、、、、と、探してみると、最後のほうにありました。

私は〈武士道〉についての記事で、その発生や意味を解説した後に、

「今日の日本では、武士道を高く評価する人はしばしば保守的だとされるし、極右主義者だとみられることさえある。」

と書きました。この最後の一文を切り取って

「貴方の依頼人 (私のこと) がこういう風に書くのは、彼が極右翼である証拠である。」

と、何だか訳の分からない事を述べています。こういう人物を相手にするのはバカバカしくなってきますね。

このOX教授もエアフルト独日協会の会長も、期限までに

「二度とこういうことはしない。」

という誓約書を送っては来ませんでした。通常は民事裁判にもっていくのですが、弁護士の助言により、この件はこのままうやむやにすることになりました。私としてはいささか不本意なのですが、弁護士が言うには、

「確かにあなたに対する誹謗中傷はひどいけれども、裁判であなたが勝てるかどうかは、担当の裁判官による。OX教授がそれを拡散した場所は専門家が議論するインターネットのプラットホームであることから、裁判官が、この案件はすべて学術的論争である、と判断する可能性が半分くらいある。OX教授が勝てば、それをまた我が物顔で拡散するのではないか。」

ドイツでは、学術的論争に関してはいろんな面で許容範囲が広いそうです。素人の私が書いたものは専門家の論争と見られないのでは、という私の反論も、

「いやいや、あなたの記事の内容も記述の仕方も一般人から見ると学術的である。」

と、一蹴されました。まぁ、分野が違うとはいえ、私が現役のときは研究論文を発表するのも仕事だったので、書き方の癖は残っているのでしょう。

この、私が右翼である、というふざけた話が悪い方向に広がりを見せてきました。そのことについては、少し落ち着いてから投稿しましょう。

この出来事は在独日本大使館に報告したのですが、何の反応もありません。大使館や領事館が在外邦人に冷たいのは昔からですね。こちらも大して期待はしていませんが、、、、。

 

〔2015年 6月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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ドイツでの出来事

2022年10月20日 | 海外生活

今日の投稿はお城もグルメも関係ありませんが、ドイツに興味がある人には面白い話だと思います。

実は私は 2008年から、日本の文化についての講演活動をボランティアで行なっています。和陶器、寿司、旅館、祭りetc. と、毎年テーマを決めて、歴史的背景など少しアカデミズムを盛り込んだ形で、全国の独日協会、市民大学、博物館から招待を受けてしゃべります。AKB 48 の足元にも及びませんが、それなりに結構人気があるのです。

この講演活動と直接には関係がないのですが、2015年にドイツ語のブログを始めました。ドイツ人に日本のことを良く知ってもらうのが目的です。いろいろなことを書くので、日本の歴史の中でしばしば話題になる、いわゆる「従軍慰安婦」や「南京事件」についても投稿したのですが、私は政治的な人間ではないので、表現は違いますが、日本政府の公式見解に沿って書きました。 これが、ボン大学で〈日本学と韓国学〉を研究する教室のOXという日本学教授とそのスタッフの目に留まったのです。教授は私を極右翼の危険人物だと決め付けて、主に日本とドイツでしょうが、世界中に約2.750人の受信者がいるというメーリングリスト〈j-studien@listserv.shuttle.de〉で拡散しました。そのj-studienのプラットホームでの議論では、私をホロコースト否定論者や反イスラム過激派と同一視する暴論もありました。(ホロコーストに関して言論の自由がないヨーロッパでは、ホロコースト否定論者は犯罪者です。)教授が拡散したメールには、独日協会に宛てたメッセージとして、私を講師として呼ぶのは止めるようにとの忠告があります。そしてそのメールを受信したエアフルト独日協会の会長が、50くらいある全国の独日協会に転送したのです。

そのせいで、Halleという旧東ドイツの町にある独日協会から、9月に予定していた講演のキャンセル通知が届きました。その他2、3の独日協会から、講演会をどうするか、会議にかけて判断すると知らせてきました。あといくつキャンセルされるかわかりませんし、来年から講演依頼がくるかどうかも判りません。私の名誉は傷つけられるし、いくつかの独日協会の信用はなくすし、落ち込んでしまいました。

その一方で、私への全面的な信頼をもとに、OX教授とエアフルト独日協会の会長へ抗議のメールを送ってくれたり、私に励ましのメールをくれる独日協会の会長さんたちが少なからず居て、感謝感激の気持ちです。

さて先日、私の弁護士と話して、OX教授とエアフルトの会長に対して反撃に出ることにしました。まず民事では、二度とこういうことはしないという誓約書、そして弁護士費用の負担を要求します。さらに刑事告発をしました。もっとも、刑事告発しても起訴されることはまずないということですので、2人に対する脅し、ということでしょう。

そして間接的にですが、ドイツの人々に日本政府の公式見解がホロコースト否定や反イスラムと同じだと誤解されるかもしれません。それで、ドイツにおける日本国の名誉に係わる問題ということで、ベルリンにある日本大使館に事の次第を文書で報告しました。

私の反撃に向こうがどう出るか、興味しんしんです。

ところでOX教授は何者なのでしょうか。南アフリカ生まれのドイツ人のようですが、左翼思想をもっているのでしょうか。左から見ると何でも右に見えますからね。それとも同じ研究室に居る2人の朝鮮半島出身のスタッフの影響で、反日感情を持っているのでしょうか。その朝鮮半島出身者がドイツを拠点に反日工作をしているスパイ、なんていうのは小説の世界でしょうかね!?

 

〔2015年6月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

 

 

 

 

 

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私のドイツメルヘン_12 (最終回、 ハノーファー ・ 細胞分子病理学教室)

2022年10月04日 | 海外生活

西暦2000年に、私より少し年下の遺伝医というか医師免許を持った女性の遺伝学者がモア教授の後任として私の研究室の主任教授になりました。「エッ、病理学の研究所に遺伝学者?」という声が聞こえてきそうですね。事の顛末を書きます。

モア教授の後任のポジションに応募した人の中から、まず書類選考で6人が残りました。そしてその6人の口頭によるプレゼンテイション選考で2人が残りました。ひとりは細胞病理を専門とする病理医で、もうひとりが前述の女性遺伝医だったのです。

ここで仮定の話ですが、もし細胞病理医が私の上司として来たならば、うまくやって行けたと思います。なぜなら、私はデュッセルドルフ時代に細胞病理医であるピッツァー教授のところで13か月間みっちりしごかれたので、細胞病理は私の得意分野だからです。

実は、この両候補者は同レベルであるという判断だったのですが、学内に女性優遇の申し合わせがあり、女性遺伝医のシュレーゲルベルガー教授がモア教授の後任、すなわち私の上司になってしまったのです。

私は、この〈女性優遇の申し合わせ〉は男性差別だと思います。フェミニストの活動家たちは女性に不利な場合は差別だと言って騒ぐのに、有利なときは黙っていますね。おかしいですね。

遺伝医が主任教授になったために、1.染色体異常を検索することによる癌組織の診断と研究、2.遺伝子解析による癌診断、3.遺伝する可能性がある乳腺、卵巣、または大腸の癌患者を近い血縁者にもつ人達に対する遺伝相談、が研究室の仕事になりました。つまり、病理学とは関係がうすい方向にどんどん変革していったのです。私は遺伝子にかかわるルーティーンワークは出来ないけれども、少なくとも私の学んだ古典的病理学に遺伝学を組み込んで癌疾患の遺伝性についていい研究ができる、と思っていました。ところが、シュレーゲルベルガー教授は自分の仕事のために、気心の知れた遺伝医や分子生物学専門のスタッフを前任地から連れて来たのです。

私は癌の遺伝性に関する、実験動物を使った研究計画を何度か示しましたが、全く受け入れてもらえません。彼女が私に望んでいたのは、私がすでに長年にわたってやっていて彼女にはできない学生指導、すなわち病理学の講義と実習指導だけ。学生への授業は学内で高く評価される研究室の業績なのです。そのうちに、蛍光顕微鏡を使った癌組織の染色体異常診断のルーティーンに引き込まれました。これはもちろん私の分野外で、本来はメディカルテクニシャンの仕事なのです。その他諸々の雑用を、例えば、研究室への来賓の送迎や図書室の整理、さらに学会場の設営などを言い付けられました。

ところで、教授資格を取ると〈プリヴァート・ドツェント〉という称号が付きます。まぁ、日本でいう〈講師〉でしょうか。そしてその後、最低4年間にわたって学術講演と論文発表、そして学生指導の実積を積んで書類審査をパスすると〈プロフェッサー〉の称号をもらえます。直訳では〈教授〉ですが、地位としては日本の〈准教授〉に相当すると思います。さて、シュレーゲルベルガー教授が主任教授として来たとき、私はちょうどこの過程のただ中にいました。彼女がこのことを知って言ったセリフは、「私はあなたの後押しはしませんから、そのつもりで !」です。私は、シコシコと実績の証明をかき集めて4年後、すなわち彼女が来て2年後に「プロフェッサー」の称号を得ることが出来ました。2002年のことです。その他大小の、私に対する嫌がらせとしか思えない事象が数多くありました。

のちに精神科医との面談で明らかになってくるのですが、シュレーゲルベルガー教授の言動は、彼女の分野である遺伝学の病理学に対する劣等意識と正統派病理医の私に対するねたみから出た嫌がらせとイジメにほかなりません。大変興味深いのは、嫌がらせをされていることに私自身が全く気が付いていなかったことです。精神科医がいうには、〈こんなに一生懸命研究室のために仕事をしているのにいじめられる筈がない、〉と私は無意識に思っていたらしいのです。

私はいつも重苦しい気持ちで暮らし、研究室の自室では壁に頭を打ちつける自傷行為を度々しました。ドイツ語で〈エントペルゾナリジールンク〉、日本語で〈個人離脱症状〉が、職場のミーティングで座っている時やひとりで車を運転している時に現れました。自分の横にもう一人の自分がいる、という感覚です。〈これはただ事ではない、〉という気持ちになります。毎日の仕事が面白くなくて、勤務時間が終わるのを待ちわびて帰宅する日が続きました。休日には妻とよく散歩をするのですが、そのときの話題が、定年退職したら日本にすぐ帰ってどこに住もうか、どういう生活をしようかだけという時期がありました。定年まで13年もあるのに、いち時帰国をした時に大阪でマンションを下見に行ったことさえあるのです。さらに、首から肩にかけての痛み、不眠、そしてイライラ感がいつもありました。発作的症状が出たこともあります。異常に高ぶった心の中がかき回されている感覚で、居ても立ってもいられず、とりあえず庭に出て冷たい風に吹かれている以外どうして良いか分からず、〈これが収まるなら何でもする、〉という気持ちでした。そうそう、発作的といえば、クラッシックのコンサートに行ってパニック状態になり、奏者が出てくる直前や休憩時間になるのを待ってホールを飛び出したのもいち度や二度ではありません。

研究室での仕事が面白くなくても、〈このまま我慢して定年退職を待とう〉と当然のごとく思っていましたが、〈それでは定年までの年月は私の人生で意味のない時間ではないのか、〉と思うようになりました。そのとき妻がひと言、「もう仕事辞めたら?」。定年前に辞めるなんて、私にはまったく考えが及ばなかったことですが、その妻のひと言に救われた気持ちでした。

退職することを仕事関係の人々に知らせると、前出の、隣接するフラウンホファー研究所でモア教授の後任になっていた所長からポジションの提供がありました。学内では人体病理のクライぺ教授からの誘い。(彼からは、退職から1年半後にも、実験病理のセクションをつくるので来ないか、と聞かれました。)別の同僚から、「非常勤で何かひとつ講座を受け持てば〈教授〉の称号を持ち続けられますよ。」と言われました。他にも例えば前出 (私のドイツメルヘン 11) の、フランスのリヨンにあるWHOの研究所に行く可能性もあったのですが、すべてお断りして、私は2005年に定年まで13年を残して自主退職しました。こうして、医師、学者、そして教師としての私の人生は不可逆的に終わったのです。

精神科で〈うつ病 及び 不安神経症〉の診断がでました。そして2022年の時点で17年後 の今も薬を毎朝服用し、8週間にいち度通院しています。

実は過去に二回、だいぶ良くなったので薬の服用を止めてみたり服用量を減らしてみたりしましたが、すぐに病状の悪化を招いてしまいました。現在のところ薬の副作用らしきものは全く出ていないので、このまま飲み続けるつもりです。薬を服用してストレスを感じないように自分で気をつけている限り、まるで完治したかのような気分で生活できます。

ところで、長年携わって来た職業を放棄して悲しい日々を送っているかというと、そんなことはありません。むしろ、私の人生で今が一番楽しく有意義な時期ではないかと思うくらいです。私の第二の人生です。もう誰ともどんな組織とも利害関係はなく、しがらみに縛られることもありません。誰とも上下関係はありません。私に何らかの指示をする人も (妻を除いて) 誰もいませんし、もちろん私が誰かに影響を及ぼすこともありません。ただ私の気持ちの赴くまま、静謐に暮らしています。あと2年でドイツでの暮らしが50年になります。老後を過ごすためにそろそろ日本に帰ろうかな、と考える今日この頃です。

 

〔2016年9月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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私のドイツメルヘン_11 (ハノーファー ・ 実験病理学教室)

2022年10月02日 | 海外生活

1990年1月から〈ハノーファー医科大学実験病理学教室〉での勤務が始まりました。大学には歯学部もあるので、日本では〈ハノーファー医科歯科大学〉という表記になるでしょうね。人体病理から実験病理にかわったことによる、ある種のカルチャーショックを初日に味わいました。デュッセルドルフの大学病院もそうであったので業務開始時間は8時であろうと思って、朝のミーティングに間に合うように出勤しました。ところが、扉を開けてくれたのは実験助手の中年女性で、他にはまだ誰も来ていません。実験助手のスタッフを別にして、主任教授のモア氏をはじめとする学術スタッフは遅い時間にバラバラに出勤してくるのでミーティングなんてありません。"適応能力の高い" 私はすぐに慣れて、毎朝9時半ごろ出勤するようになりました。化学物質による毒性と発癌の研究をする研究所なので、具体的なテーマを決めて動物実験をしてデーターをまとめ、学会で発表したり論文を書いたりする仕事です。化学発癌に関していろいろ研究テーマがありましたが、教授資格を取るための私の研究課題は、妊娠中の母獣に注入した発癌物質が子と孫にその発癌性を呈するかどうかで、ちょうどその頃話題になりつつあった癌組織の遺伝子解析や癌が遺伝するかといった研究につながっていくテーマでした。3世代にわたって約1000匹のハムスターを飼育する大変大きな仕事でしたが無事にやり終え、教授資格取得論文を仕上げることが出来ました。それに加えて、学術論文と学会発表の数や学生指導の実績などの業績を示したり、口頭試問を突破したりして、何とか1997年に教授資格を得ることができました。ほぼ8年かかったことになります。

大学での日々は、人体病理のようにルーティ-ンワークがあるわけではないので、研究と学生指導の毎日でした。

  

ハノーファー医科大学 Medizinische Hochschule Hannover (MHH) 1 & 2 

ボスのモア教授が隣接するフラウンホファー研究所の所長を兼ねていたし、インターナショナルに仕事をしていたので、フラウンホファー研究所はもちろんのこと、他国の研究所との共同研究や情報交換が日常的にあったのは大変に有意義で楽しいことでした。主なところでは、フランスのリヨンにあるInternational Agency for Research on Cancer (国際がん研究機関)というWHO(世界保健機構)の下部機構、スペインのバルセロナ大学、そして奈良医科大学の腫瘍病理学教室でしょうか。私は奈良医大の非常勤講師を務めていて、帰郷をかねて、小西教授主催のセミナーには毎年参加していました。あと、製薬会社の研究所で行われる薬剤の毒性検査に関与したり、短期間ですが韓国の会社LG Chemical Ltd. の研究顧問をしていた時期もあります。

学生指導の業務では、医師国家試験の一部である口頭試問や博士論文の審査をする他に、歯学部の学生の病理学教育は私の担当で、総論と各論の講義および検鏡実習と学期末試験をひとりでやっていました。

前出のモア教授が研究室のボスで、ドイツ人秘書が二人とイギリス人の秘書が一人いましたが、私が書いた英語論文の添削をいつもこの英国人秘書がしてくれてたいへん助かったのです。助かったといえば、学術スタッフに私よりずっと年上ですが、北海道大学の理学部出身で細胞培養が専門の江村教授という人がいて、彼には公私にわたって大変お世話になりました。今でも親しくさせていただいています。彼のもとには2、3人のやはり理学部出身のスタッフがいたほか、うちの研究室は実験動物を扱うので、ハノーファー獣医科大学出身の人たちがいました。さらに実験助手のスタッフが多数いたのは言うまでもありません。人体病理が専門のスタッフは私と、2年ほど留学で来ていた広島大学の落合さんだけでした。

前述したように、患者を扱うルーティーンワークがなかったので、ストレスが比較的少ない職場だったと思います。

しかし、その職場の居心地がだんだんと悪くなっていったのです。

最大の原因はモア教授の定年が近づいていて、研究活動が下火になったことでした。なぜそうなるかというと、古典的実験病理の教室であった研究室がモア氏の退官のあと再編されるということで、どう変わっていくのかわからない状態で新しい研究計画を立てて研究費の申請をすることは出来ません。ただ将来の展望のない、いわゆる「後片付けの仕事」をするだけでした。この国における「ボスの交代劇」は日本とは違って、ハノーファー医科大学ではモア教授が去ったあとで彼の後任を探す作業が始まったのです。候補者がひとりに絞られた後も、招請の条件など、その候補者と大学の間でなかなか折り合いがつきませんでした。その間、少し前に新しく着任していた人体病理の主任、クライぺ教授が実験病理学教室のボスを兼ねていました。私は学生教育の業務はそのまま続けましたが、それに並行して人体病理の仕事に組み込まれていきました。実験病理学研究室の再編結果によっては人体病理に移る可能性があり、そうなったときにはクライぺ氏は私に婦人科病理を専門にやってほしい意向でした。クライぺ教授が後で私に言いましたが、私は病理学の専門医であり教授資格を持っているので、多方面で即戦力となることを彼はちゃんと計算していたそうです。ということで、とりあえず婦人科病理を主体にした仕事を始めましたが、私にとっては10年近く遠ざかっていた人体病理です。いろんな面、特に病理診断で昔の勘を取り戻すのに大変苦労しました。

この、宙ぶらりんで将来どうなるかわからない、精神的につらい時期が3年以上続いたのです。もちろん、大学を離れて市中病院の病理科長の職を探せば、国内のどこかで職を得ることは比較的簡単だったと思います。日本でもそうだと聞いていますが、ドイツでは病理医が不足しているからです。しかしながら、もうハノーファーに家も建てているし妻のピアノの生徒たちもいるので、知らない土地で全く新しい生活を始める気にならず、そのまま大学に残ることにしました。良い後任の教授が来て、研究室がいい方向に再編されることを願って、、、、、、。

 

〔2016年1月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

 

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