お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

私のドイツメルヘン_10 (ハノーファー ・ 生活)

2022年09月30日 | 海外生活

ニーダーザクセン州都である人口約50万人のハノーファーにデュッセルドルフから引っ越したのは東西ドイツの壁が開いてすぐ後、1989年の末でした。実はその数ヶ月前にハノーファーに家を探しに来て、北部に位置するボツフェルト市域に一戸建ての家をすでに借りていたのです。地下室のある家具付き2階建で、前後に芝生の庭があり、ガレージの付いた立派な家です。大家の両親が自分で建てて住んでいたので良い建築材料を使っていたし、内装も住みやすく設えてあり、交通の便が良い静かな住宅地の一角でした。それぞれの入り口が隣り合う隣人、二クロヴィッチさんとの関係も良く、すぐ裏に大家のボルトマン氏が住んでいて何かと便利だったのを思い出します。裏の畑の一部を借りて枝豆などの日本の野菜を作っていたのもこの頃です。

 

ボツフェルト市域の賃貸家

近所の、足を中心に少し白が混ざった黒猫が頻繁に来るようになり、夜の食後のひと時をよく一緒に過ごしました。余程うちが気にいったらしく、毎朝雨の日も雪の日も裏庭の木立の影にうずくまって待っていて、テラスに続く台所の戸を開けると同時に駆け寄って来ました。大変賢いけれども気性が激しいいたずら猫で、近所の住人からは嫌われていたようです。うちでもミルクのパックに牙を立てたり、私など一年にわたって引っかかれ続けました。タクシーで出かけるときに、我々が連れ去られると思ったのか、運転手を威嚇したり、この家を引っ越すときには連れて行って欲しい素振りを見せたりして、深い愛情を感じさせる猫でした。本来の名前はありましたが、我々はメグミと名付けていました。後日ニクロヴィッチさんに聞くところによると、その後しばらくの間は毎朝台所の戸が開くのをジッと待っていたそうです。

邦人家族や留学生を沢山呼んで、大きなテラスのある裏庭でバーベキュウ・パーティーなどを頻繁に催しました。妻も私も若く、同年代の日本人が多かったので盛んに人との交際をしていましたし、ドイツに来て初めて一戸建てに住むようになり、家に関する雑用、例えば芝刈りなども、割と嬉々としてやっていました。まだ人生の上り坂に居たのです。

1994年に東京築地のがんセンターに勉強をしに行く機会を与えられました。たったの3週間でしたが、日本の労働条件とその環境がどのようなものであるかを知り得たと思います。

それ程強く意識した覚えはないのですが、おそらく意識下で、日本では働きたくないと思ったのでしょう。帰独してすぐに、家を買うか建てるかしてじっくり腰を据えることを考えるようになりました。初めのうちは中古の一戸建てを探して何軒か見に行きましたが、考えていた価格レベルでは、スペイン風とか、日本風とか、庭または屋内にプールを備えたレジャー施設風とか、それぞれの施工主の極端な嗜好が反映されていて、私たちの好みにぴったりのものがありませんでした。それならいっそうのこと新築しようということになって、比較的早く土地も建築会社も見つけることが出来ました。ハノーファー市の南部に位置するドェーレンという市域で、ここも静かな、かつ交通の便の良い住宅地。通ってくるピアノの生徒のことを考えると、交通の至便さは必要な条件だったのです。

今まで全く接触のなかった建築会社の人や職人を沢山知り合って彼らの世界を知り得たし、今考えると少しばかり後悔する点もありますが、全体としては上手く行ったと思うし、家を新築するプロセスを全て経験出来たのは有意義だったと思います。

 

現在の家

しかし、これ程雑用が増えるとは思っていませんでした。家の維持のための事務的な雑用の他、庭の手入れも大変だし、小さな修理は自分でします。今年 (2015年) 新築してからで20年になるので、最近はいろいろと破損するところが多くなっています。2、3年前には続いて3回も暖房設備の破損や豪雨などによる地下室の水害で雑用が一段と多かったのです。庭仕事は10年くらい前から人に頼んでいます。ポーランド人のいわゆる „もぐり” の庭師ですが、非常に真面目な人なので満足しています。この家に越してから、最初の頃は人をよく招待していましたし、今でも年に一度、大抵は、彼が音大生の頃から知っていて現在ウィーンの音大の教授をしているクラウス・シュティッケンによるピアノのハウスコンサートをしています。コンサートの際の音響のために天井をブロック1個分高くしているのです。

最近は人を招待することが目立って少なくなって来ました。我々2人とも年を取ったからか、そういうことが非常に億劫になってしまったのです。妻は生徒にピアノの教授と趣味の作陶、それに加えて2022年現在では野菜作りも、私は日本文化に関する講演の準備と講演旅行、そして城館ホテルの取材旅行を主にやっています。

ところで、今の家にもメグミがいました。メグミ2世です。

家を新築してすぐの頃、研究室の英国人秘書であるタイケさんから声をかけられました。

猫が一匹迷い込んで来たけれども、すでに2匹いるので飼えない。あなたの家で飼わないか。

と言うのです。とりあえず猫を見に行ったのですが、そのまま連れて帰りました。妻が言うには、何でも、心の中で

『うちに来るか?』

と訊いたところ、タイミングよく、

『ニャッ!』

と返事をしたそうです。

メグちゃんは獣医から „猫エイズ“ の宣告を受たことがあります。しかし、抗体が検出されたというだけで血液検査は異常なかったし、もちろん感染症の症状は全くありませんでした。発症を抑える治療法が確立されているからでしょうか、„猫エイズ“で死ぬことはありませんでした。そして、メグちゃんと暮らして20年めに老衰で死にました。今は庭の片隅で静かに眠っています。

 

メグミの墓

現在新しい猫が居ます。胸が白くて白足袋をはいた黒猫で、名前はミカ。シャムネコの血が半分入ったハーフです。メグミはおっとりしたオス猫でしたが、ミカはけっこう気難しいメスです。

 

ミカ

ハノーファー医科歯科大学で仕事を始めた時、研究室の秘書の一人、シュナイダーハインツェさんが、

「ハノーファーの良さが分かるには最低5年住まないといけません。」

と言ったことを思い出します。ハノーファーに来て今年 (2015年) で26年が過ぎました。

 

〔2015年12月〕〔2022年9月 加筆・修正〕

 

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私のドイツメルヘン_9 (デュッセルドルフ ・ 病理学研究所 II)

2022年09月28日 | 海外生活

デュッセルドルフ時代にはいろいろな人を知り合いました。

主任教授のホルト教授はクソ真面目な仕事人間で、牛馬のように働き、すべてがきちんとしていなければ気が済まない人でした。そしてそれを若いスタッフにも要求したのです。自分が家に帰る夜8時半(いつも仕事を持って帰っていた。)より早く医局員が帰宅すると怒っていました。

たとえば、勤務時間中に彼の部屋に行きます。

「先生、ちょっとお話があるのですが、、、、」

「ああ、ООさん。そうですね、、、、今日の午後8時半にまた来て下さい。」

ボルヒャルト教授は研究所のナンバー2でしたが、謹厳実直で頭の固いホルト氏とは違って若い医局員に理解を示し、よく指導してくれる人でした。しかしながら言動に癖がある人で、私は好きな人物でしたが、嫌っている人もいたと思います。一度妻と一緒に自宅に招待してくれたことがあります。家では良いお父さんである印象を受けました。(2010年9月にボルヒャルト教授が亡くなりました。合掌)

ナンバー3のフレンツェル教授は背が高くてスマートでハンサムで、病理医には勿体無い程の容貌であり、穏やかで少し物足りないくらいにすっきりした性格でした。剖検の症例を一緒にチェックしてもらおうと夕方彼の部屋に行くと、珍しいことに、背広を着てネクタイを締めて帰ろうとしています。そして言います。

「今日はオペラを聴きに行くんですよ。」

「そうですか。出し物は何ですか?」

「知りません。私の家内が知っています。」

「えっ、(でもまぁ)楽しんできて下さい。」

「うん、ありがとう。」

その彼が一度だけ物凄い剣幕で怒った事があります。解剖室にある冷蔵室では、亡くなった患者を葬儀屋が引き取りに来るまで裸にして車輪の付いた金属製の担架に乗せて保管していたのですが、その日は亡くなった患者の数が担架のそれを上回り、解剖室勤務のスタッフが何台かの担架に男女取り混ぜて2体重ねていたのです。スタッフに怒りをぶつけた後、偶然そこに居合わせた私に強い口調で、

「ООさん、どうですか? あなたの奥さんがこんなふうに扱われたらどんな気持ちがしますか?」

私が叱られた訳ではないけれどショックでした。私は彼から、亡くなった患者に対する気持ちがどうあるべきか、頭でなく心で学んだのです。

この二人の教授は私より10歳年上でした。

日本では講師に当たる地位にシュミット・グレーフ医師がいました。実際は気さくな女性なのですが、見た目とその言動が気取ってお高くとまった淑女のようで、研究所の主みたいな用務員のバスラー氏に 〈マダーム〉いうニックネームをもらっていました。ちなみに私のそれが〈天皇 2〉 なのは、以前研究所に留学していた東北大学の手塚先生がすでに 〈天皇〉 のニックネームだったからだそうです。その〈マダーム〉が切り出し業務をしていて、私が勉強のためにそばについているときでした。手術材料に、キュウリにコンドームを被せたものがありました。何でも、ホモの男性が肛門に差し込んでいたところ直腸の中に入ってしまい、手術で取り出したのだそうです。すでに述べたように、手術室から送られてきたものは全て顕微鏡検査のために切り出しをするのです。〈マダーム〉は時々高音の咳払いをしながら、平然とマイクに向かって口述します。

「直径Оcm、長さООcmの、棒状の緑色の植物で、黄色い薄いゴムの膜を被っている。表面は滑らかで、、、、、、」

周りでは医療技術者の女の子たちがクスクスと笑い転げています。彼女にとってはこのような物も単なる検体に過ぎないのしょう。見上げたプロ根性です。

その他、私と殆んど年齢の違わない、やはり病理専門医を目指す仲間として、ビュリヒ氏、ハーゲンさん、ローエ氏、そしてライネッケさんがいました。ビュリヒは今、ハノーファーの近く、ヒルデスハイムの病院の病理部長で、たまに連絡を取り合うこともあります。ハーゲンはデュッセルドルフの隣のノイス市にある病院にまだ居るのでしょうか。ローエは、フレンツェル教授がカールスルーエ市の大病院の病理部長に赴任した時について行きました。まだカールスルーエにいると思います。ライネッケはまだデュッセルドルフ大学の病理学研究所に居るのでしょう。短期間でしたがファイデン氏という同僚がいて、彼とは一緒に学会に行ったり、一緒にライン河地方の彼の実家に立ち寄ったり、後にハノーファーの私の家を訪れてくれたこともあります。彼は少し方向転換して、今はザールブリュッケン大学の脳神経病理学の教授をしています。

前述のバスラー氏は南西ドイツの方言丸出しでしゃべり、ボルヒャルト教授を学生時代から知っていて親しく、教授をファーストネームで呼び捨てにしていました。ボルヒャルト氏も彼の前では子供のように振舞っていたのは面白い光景でした。バスラー氏は、スポーツ靴を履いて研究所の中を忙しく走り回っている私に会うと、いつも両手で、ユックリユックリ、といったジェスチャーをしてくれたのです。

ベンデレさんは女性版研究所の主で写真家なのですが、彼女から、臓器及び肉眼所見の撮影の仕方をしっかりと学びました。

私が病理専門医教育を終える頃、日本の病理学の世界が気になって、縁故を通じて奈良医大腫瘍病理学教室の小西教授を知りました。彼は当時、ハノーファー医科歯科大学実験病理学教室のモア教授といっしょに毎年奈良とハノーファーでセミナーを開くなど親しくしており、私に、ハノーファーに移る可能性を示唆してくれました。つまり、病理専門医教育を終えた私に二つの可能性があったのです。デュッセルドルフに残るか、ハノーファーに行くか、です。デュッセルドルフではあと2年程で新しい主任教授に代わるので、私の処遇がどうなるかわかりません。ハノーファーは、私が今まで興味をもってやって来た人体病理ではなくて実験病理なのです。私はハノーファーを選びました。何故なら、2、3年前から小西氏を通してモア教授を知っていたし、彼の元で教授資格を取れる可能性が示されたからです。人体病理を離れたのは非常に残念ではありましたが、それまでやって来た事が大いに新しい仕事の役に立ったのは確かです。

こうして私は1990年1月からハノーファー医科歯科大学実験病理学教室に勤務することになりました。

そして、26年後である2015年の今、デュッセルドルフ大学病院の敷地を歩いています。細胞病理の建物は外から見る限り、この長い年月を経てもいささかも変わっていません。ピッツァー教授や他のスタッフが当時のまま居るような気がします。向かいの病理学研究所の大きな建物は一部改装と塗装をしたらしく、目立って綺麗になっています。昔、病院の敷地内には大きな木々の並木や芝生の空き地があって森の中に古色蒼然たる病棟が点在していたのですが、木を切り芝生をつぶしてモダンな病棟や研究棟を建てたために、いやに明るく落ち着けない雰囲気になっています。あの頃に比べて目立って人と車の往来が多くなったと思います。そして各病棟を指し示す道標が充実し、患者として訪れる者とそこで働く者にとっては確実に便利になったのではないでしょうか。しかし私は、馴染みのないよそよそしい雰囲気を感じます。〈私の大学病院〉 は私の心の中だけに生きる過去のものになりました。

 

2015年7月〕〔2022年9月 加筆・修正〕

 

 

 

 

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私のドイツメルヘン_8 (デュッセルドルフ ・ 病理学研究所 I)

2022年09月26日 | 海外生活

私は1984年の1月にデュッセルドルフ大学医学部病理学研究所で医師としての第一歩を踏み出しました。

当時、学生時代からお世話になっていた博士論文の指導教授であるピッツァー氏に病理医を目指したい意向を伝えると、研究費で医局員を一人雇えるので、まず細胞病理から始めることを提案してくれ、彼の教室に有給医局員として入局することになったのですが、これは私にとって最高の状況でした。病理学への足掛かりをつかむことになるし、博士論文の為の実験とデータの整理は終わっていましたが、まだ執筆の途中であったからです。

  

大学病院敷地内の教会

ところが、ここで思いがけずドイツの官僚主義に悩まされることになります。1980年代、外国人は医師の資格を取った時点で本国に帰り、自国の医学に貢献することをドイツ政府から期待されていました。もちろん日本人には当てはまらないけれども、外国人留学生の受け入れを開発途上国援助の一環と位置付けていたのです。それで厚生省は医師免許を発行してくれず、役所の外人局は医師免許がなくて働けないという理由で滞在許可証を発行せず、大学の事務局は医師免許も滞在許可もない外国人に医局員のポジションはやれないというのです。さて困りました。ピッツァー教授に相談すると、彼は大学事務局と交渉して、一枚の証明書を出させました。それには、 「OO(私のこと)はピッツァー教授にとってどうしても必要な人材である。」と極端に誇張し、「医師免許と滞在許可が発行されれば、大学はOOを雇用するつもりである。」 とありました。私が医師として働き始めることが出来たのはまさにピッツァー教授のお陰です。彼はそれから1年も経たないうちに学部長になったので、学部内でかなりの力を持っていたのでしょう。

さて細胞病理の業務で義務となっていたのは、朝10時くらいから夕方5時くらいまでの細胞診断でした。教授と背中合わせになる位置で所見と診断をカセットテープレコーダーに口述していくのですが、難しい症例はサッと後ろを向いて教示を仰ぐことが出来ました。勉強する者にとっては最高の環境です。朝の2時間と診断業務の後の2時間ぐらいは論文の執筆に使いました。博士論文の内容はドイツ病理学会で発表する機会があり、ピッツァー教授のもとで多くのことを学ばせてもらったことを今更ながら実感しています。ピッツァー教授と通常二人の細胞診断技師、ケーニヒさんとカンメルさん、そして私で診断業務を行った部屋には片隅にソファーセットがあり、そこで時々一緒にお茶を飲んだりしたのを思い出します。お互い信頼し合っていて家庭的な雰囲気でした。

  

細胞病理学教室 全体像 ・ 入り口

細胞病理を13ヶ月やった後、ピッツァー教授の口利きで元来の病理学教室に移ることが出来ました。主任教授はホルト教授です。

毎朝8時、ごく短いミーティングで1日が始まるのですが、私は7時半には剖検事務室に行きました。そして自分に割り当てられた解剖があれば、その患者に関する臨床医の手書きのメモを読むのですが、臨床科で使う略語が多用されているし判読困難な走り書きですので、独語を母国語としない私には患者の病歴を整理するのに多少時間がかかるのです。患者の死に至った病歴を、そのミーティングの時に教授を含む全スタッフの前で手短に説明しなければならないので、いつも緊張を強いられていました。

新しく入局した医師の最初の仕事は病理解剖でした。他の多くの医局員は臨床に進む前に少し病理を勉強するのが目的でしたが、私は病理を一生の仕事にしようとしていたので、常に緊張感を持っていたし真面目に仕事に取り組みました。具体的には、昔に比べてかなり減少したらしいのですが、それでもあの当時、年に700体程の剖検業務があり、それを真剣にこなしていきました。一年で100体の剖検を一人で行った年もあります。この年は最後の剖検を大晦日の夜まで一人で解剖室に残ってやって、新年2日の最初の解剖も私が担当しました。病理専門医試験の受験資格の一つが剖検300例であったので、その数にこだわっていたのです。この時期には実に多くのことを学びました。病気の実態についてはもちろんのこと、生と死について、そしてそれにまつわる人間模様についてです。それのみならず、剖検業務ではいつも、日本では講師から准教授にあたると思われる病理専門医が指導者としてついてくれたのですが、特にボルヒャルトとフレンツェルの両教授からは病理学そのもの以外にも、病理医のあり方など得るものが多かったのです。

  

病理学研究所 全体像 ・ 入り口

 

病理学研究所 大講義室(外から)

解剖業務のなかで楽しかったのは、いわゆる出張剖検です。これは、近隣の病院から依頼を受けて、その病院まで出かけて解剖し、臨床医に結果を説明してから臓器を大学の研究室に持ち帰るというものでした。楽しいと感じたのは、冬季にはまだ暗いうちに出勤し、終日研究所の中で過ごし、帰宅する時はもう真っ暗になっているという毎日の中で、外が明るいうちに新鮮な空気と暖かい太陽光線を浴びることで、 〈幸せホルモン〉が分泌されたのでしょう。剖検の後、解剖扶助のスタッフが全臓器を大きなビニール袋に入れて、それをトランクに押し込んでタクシーで帰るのですが、タクシーを使うことが本当は法律で禁じられていることを、ある事件があって知ることになりました。ある事件とは、、、、その解剖扶助のスタッフが、出張した病院の解剖室がある地下室から階段、フロア、廊下、ロビーと、そのトランクを運んだのですが、その間ずっと血の混ざった体液がトランクから滴っていたのです。その後、解剖臓器は翌日手術検体を運ぶ医療用車両で運ばれるようになりました。

ボスであるホルト教授が一応剖検をマスターしたと判断した病理学を目指す医局員は、各種の内視鏡の検体及び手術材料の切り出し業務にまわされました。この仕事は手術で切除された病変のある臓器の一部から、録音機に口述しながら、病変部をプレパラートにのる大きさと適度な厚さに切り出していくのですが、大変に神経を使う仕事で、毎日12時から17時半ぐらいまで立ちっ放しで行っていました。4年間、私がほぼ専属のような形でやっていたので、それによって私の、病変を肉眼で判断する能力は非常に高まったと思いますが、病理医にとって最も大事な顕微鏡診断の時間をとるのが難しかったのは残念です。同じ理由で研究の仕事は殆んど出来ませんでした。数回の症例報告と共同研究者としての仕事があるだけでした。しかしながら、この時期は病理医としてのルーティーン業務を学ぶのに私の興味が集中していて、研究が出来ないことは苦痛でもなんでもなかったのです。

 

〔2015年7月〕〔2022年9月 加筆・修正〕

 

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私のドイツメルヘン_7 (デュッセルドルフ ・ 生活)

2022年09月24日 | 海外生活

私が学生時代にマールブルク大学からデュッセルドルフ大学に移りたかったのは、当時8千人の邦人がデュッセルドルフ市に日本コミュニティーを造っていて、通訳や子供の家庭教師で収入を得る可能性があったからです。

通訳という仕事は高収入ではありましたが、中には通訳を自分の下僕のように扱う人がいて不愉快でした。

「金、払うとるんやからな。」

というところでしょう。最も印象深かったのは、まだ東西ドイツが分かれていた頃、朝日新聞社の記者が国境地帯を取材するのに同行した仕事です。文脈から誤解のない様に言っておきますが、この年配の記者は紳士で、3日の間私は嫌な思いをしたことはありませんでした。

実家からの仕送りのお陰で経済的に困っていたわけではありませんが、定期的にある程度の収入があるのは気分的にいいもので、アメリカンスクールに通う高校生に数学や物理の他に日本語の論文の書き方を教えたり、日本人学校の中学生に数学や国語や英語を教授していました。多分お母さん方で話し合ったのだと思いますが、どこの家庭でも夕食を御馳走してくれました。後に自分の家庭を築くまで、家庭的な温かい雰囲気で食事が出来る唯一の機会であったのです。今でも感謝しています。

デュッセルドルフでは学業と仕事に関しては全くドイツ社会の中で生活していましたが、私的にはほぼ完璧に日本的生活でした。すなわち、付き合う仲間は医学か音楽関係の邦人でしたし、日本人社会の催し物に参加していましたし、食事も日本の食材が手に入りやすいので和食が多かったのです。学生時代、家庭教師のアルバイトがない日の夕食は日本クラブの食堂や和食レストランでとっていました。日本のレストランや店舗が集まっている中央駅近くのイマーマン通りやオスト通りは、よく徘徊した市域です。

 

中央駅前のイマーマン通り

この半独半日な生活は心地良いものでした。当時の友人は一部は帰国したし一部はまだドイツに居ますが、今だに日本やドイツで会って旧交を温めることがあります。デュッセルドルフという邦人にとっては特殊社会で共に暮らした、という仲間意識には強いものがあると思います。

この町は私にとって医師としての第一歩を踏み出した思い出深い地でありますが、それのみならず、妻(日本人)と知り合って1983年に結婚した町でもあります。当地では結婚式の前夜に双方の友人や知人が集まってパーティーをする習慣があり、ポルターアーベント(婚礼前夜の大騒ぎ)といいます。市の教会の講堂を使わせてもらって、私が勤務する病院の同僚や妻の音楽仲間をはじめ、共通の知り合いや、私が家庭教師をしていた子供たちのお母さん方も来てくれました。音楽家たちはピアノを弾いたり、リコーダー(木製の縦笛式フルート)で合奏をしてくれたりと、場を盛り上げてくれたのです。とくに面白いと感じたのは、ドイツ人家族からお祝いにいただいた大きな段ボール箱です。物干しに使うビニールの紐が上からのぞいています。それをどんどん引き出していくと、50cmから1mごとにプレゼントがくくり付けてあるのです。決して高価な物ではなく、新居ですぐに必要とされるもの、たとえばハンガー、トイレ掃除用ブラシ、洗濯バサミ、小さな台所用品や事務用品などです。いかにもドイツ人らしい実用的な、しかし心のこもったプレゼントだと思いました。

結婚式は、わざわざ式のために日本に帰ることも出来ないので、カトリックの日本人神父さんに頼んで式をしてもらうことにしたのですが、我々は信者ではないから正式なカトリックの結婚式は出来ないとのことでした。その代案として、2、3回神父さんのもとへキリスト教の勉強に通い、「祝福会」という名目で、日本人の尼さんたちのコーラスも付いたカトリックの結婚式をしてもらうことになったのです。神父さんは我々の式の前にワインの試飲に招待されていたとのことで、酒臭い息を吐きながらも無事に役目を果たしてくれました。式の後は開業して間もない駅前の日航ホテルで、ごく近しい人たちだけと共に披露宴をしました。

 

日航ホテル

私は学生寮を出て、二部屋とダイニングキッチンがあるアパートに引っ越したのです。レーテル通り130番、パン屋の二階でした。毎朝パンのいい香りがしていたのを思い出します。

 

レーテル通り130番の入り口(パン屋は今は洋装店になっています。)

この通りは近くに自然公園がある商店街で、周りはデュッセルドルフの富裕層が多く住む住宅地域。市内でも比較的安全で便利な場所にある住み易い住居でした。

  

自然公園 ・ レーテル通りの街並み

そして1989年、東西ドイツの壁が開いた直後にハノーファーに転居したのです。私がデュッセルドルフ大学病理学研究所からハノーファー医科歯科大学実験病理学研究所に移ることにしたからでした。数多くの音楽関係の友人とピアノの生徒を持っていた妻には不本意な転居だったかもしれません。

2015年、26年ぶりにいろいろな思い出が詰まったこの町を訪れました。昔よく行った辺りを訪ねましたが、町の変わり様に驚きました。当たり前ですが、我々が居なくなっても町は動いていたのですね。特に印象深かったのは、日本人が生活するのに益々便利になったことです。つまり、日本で生活するのと殆んど変わらない、と思われるほど物質面で充実していました。面白いことに、そこで生活する日本人は昔と変わっていません。男性ビジネスマンは日本での体の動かし方そのままに、ネクタイ背広姿で足早にチョコチョコと動き回ります。女性は、悪く受け取るとするなら、値踏みするような眼つきで私をジロッと見ます。良く解釈すると、私を、『知っている人かな?』と思ってジッと見るのでしょう。知っている人なのに挨拶をしないと、人の噂が数分で日本人社会に広がるといわれるこの町では、大問題に発展するのかもしれません。

今のデュッセルドルフはもはや私の知っているそれではないのを感じました。私の心に巣食う郷愁の対象は、あの当時のデュッセルドルフに他なりません。もう、少なくともわざわざ、この町を訪れることはないでしょう。

 

2015年6月〔2022年9月 加筆・修正〕

 

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私のドイツメルヘン_6 (デュッセルドルフ ・ 学生時代)

2022年09月22日 | 海外生活

デュッセルドルフには10年ほど住んだので、何回かに分けて話しましょう。

 デュッセルドルフ大学の正式名は、当地出身の詩人の名をとって、ハインリッヒ ハイネ 大学 デュッセルドルフといいます。約100年前に発足した医学校を基礎に他の学部を増やし、今は中規模の総合大学になっています。

私はマールブルク大学で医学教育の前半を終えたところで、このデッセルドルフ大学に転校しました。1979年のことでした。この国では、転校したい大学に空いた学籍があれば学業の途中で大学をかわることが出来ます。もちろん同じ学部で、取得した単位も決まった条件を満たしていなければなりません。今は多少変わったかもしれませんが、私の学生時代は医学部に入学後、2年、3年、5年終了時に筆記の国家試験があり、6年目の実習を経て筆記と口頭試問と実技の国家試験が課されていたので、全国の医学生にはそれぞれの節目に転校のチャンスがありました。昔は医学を志す学生が少なく大抵の大学に空席が残っていたので、転校が比較的簡単であったそうです。日本と違って大学のランク付けがほとんどないのも、転校を可能にしている原因だったのでしょう。私が3年終了時の国家試験をパスした頃は医学部の学籍はどこも満杯で、転校は簡単ではありませんでした。ある時学生食堂の掲示板に、同学年の女子学生の、デッセルドルフ大学からマールブルク大学にかわりたいというメッセージを見つけました。早速連絡してお互いの学籍を交換しようということになったのです。実は結果としては転校になるのですが、大学の事務局には „学生の転校手続き“ という業務はないのです。どうするかというと、私はマールブルク大学に退学届けを出します。そして職員に、私の持っていた学籍はООさんが編入願いを出すまで空けておいてくれるように言い添えます。相手の女子学生も同じことをした、という前提の元に私は必要書類を持ってデッセルドルフ大学の事務局に行って、ООさんが持っていた学籍に編入願いを出し、めでたく4年生からの3年間をデッセルドルフ大学の学生として過ごすことになりました。いち部はすでに話しましたが、ドイツの大学には入学式も学級も卒業式もありません。学生一人一人がそれぞれ個別に入学手続きをして、カリキュラムにしたがって単位を取り、単位が揃ったら各節目の国家試験に願書を出して、受かれば次の過程に進むことになります。そして最終的に医師免許を手に入れたらもう大学で単位を取る必要がないので、個別に退学届けを出します。大学や教授達との関係もこの時点で完全に切れ、それぞれ自分の希望にしたがって、大学病院や市中病院に就職の願書を出すのです。この、始めから終わりまで学生個人の意志で学業を進める仕方は私の性格に合っていたと思います。というのは、全部で4回あった国家試験に私は一度も落ちたことがありません。もっとも、2年と3年終了時の国家試験は半年遅らせて、万全を期して受験しました。この国の医学部では同じ試験に3回落ちると放校になり、全国どこの大学医学部にも編入できなくなる、すなわち、わざわざこの地までやって来て始めた医学を断念しなければならなくなるからです。

こうしてデュッセルドルフのハインリッヒ ハイネ 大学に編入学したのですが、マールブルク時代のような仲の良い友達は出来ませんでした。皆それぞれにいわゆる „仲良しグループ“ があり、いつの間にか学内や大学病院内をウロウロするようになった日本人に興味を持つこともなかったのでしょう。私からしても、親しい学友がいなくて別に不自由を感じるわけでもなく、別に寂しいとも思いませんでした。いつも自分のペースで、かえって学業に集中できた気がします。毎朝学生寮を出て大学図書館で勉強をし、授業や実習があればそれに出席し、昼はメンザ(学生食堂)で昼食を取る、といった毎日でした。今思い出すに、この時期はすべてがうまく運んでいるような充実した気持ちでした。

  

学生寮 ・ 大学の図書館 

 

メンザ (学生食堂)

デュッセルドルフ大学に来て博士論文の準備を始めようと思い、病理学研究所のホルト教授にテーマをもらいに行きましたが適当なものがなくて、細胞病理のプィッツァー教授を示唆されました。ホルト教授のドクトラント(博士論文準備中の者)にならなくてよかったと、今確信をもって言えます。後になって知ることになるのですが、彼は非常に厳しく妥協を許さない人で、自分が指導したドクトラントやハビリタント(大学教授資格試験の受験者)でも、彼の判断する基準に満たなければ落第させたことで知られていました。プィッツァー教授は甘いと言うわけではありませんが、常識的な判断をする人で、日本の文化にも興味を示す教養人でした。

私がなぜ病理学の分野で博士号を取ろうと思ったのか思い出せませんが、この時点で将来病理医になろうと決めていたのでしょう。長い間外科医に憧れていたし、精神科も候補に上げた時期もありましたが、実際に講義を聴いたり実習をしたりしているうちに、病理学の世界に魅力を感じていきました。

ところで、今話しましたように、ドイツでは学生のうちから博士論文の準備を始めることが出来ます。まずある教授にテーマをもらって、その教授の指導の元に文献の読破、下調べ、実験などを行い、論文にまとめるのです。本来の学業と同時進行で行います。学生時代にすべて終える人もいますが、大抵は医師として働き始めてから論文を仕上げるのが一般的です。私も1985年、医師1年目のうちに博士号を取得しました。もちろん博士論文を書かない人もいます。仕上げた論文は審査と評価をされるのですが、ゼア・グート(ヴェリー・グッド)の評価に値すると考えられるドクトラントには、講演と口頭試問が課せられます。私にもそれが課せられ、無事パスしてゼア・グート(ヴェリー・グッド)を貰うことが出来ました。テーマは肺癌の転移に関してでした。肺癌の血行による転移の初期段階として、癌細胞が血管の中に入らなければなりません。私のテーマの問題提起は、はたして肺癌手術によって癌細胞の血管進入が助長されるかどうか、でした。詳しい内容は語りませんが、プィッツァー教授も私も満足のいく知見を得ることが出来ました。

5年終了時に臨床科目の国家試験をパスして、6年目の実習は、車で40分ぐらいかかるルール地方の町、デュイスブルクのザンクト・ヨハネス・ホスピタルという関連病院ですることになりました。内科と外科と選択科目の放射線科を4ヶ月づつです。最終試験はこの3科目の実地試験と口頭試問でしたが、残念ながらあまり良い出来ではありませんでした。しかしながら合格出来て医師免許を手にし、1984年に大学を去ることが出来たのです。

 

2015年5月〔2022年9月 加筆・修正〕

 

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