落葉松亭日記

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憂国大学生

2012年12月30日 | 政治・外交
切腹した大学生 2012.12.29 07:33
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121229/crm12122907340000-n1.htm

 昨年12月8日朝、石川県金沢市の石川護国神社で、22歳の金沢大生が切腹自決した。彼は北海道出身で金沢市に住む大学4年生、Sさんであった。警察が調べたところ、腹部と首に深い刺し傷があり、近くにはナイフと透明のビニールシートにくるまれた日章旗があった。

 Sさんはナイフで腹を十字に切った後、自ら頸(けい)動脈を切って自決したものと判明した。この日は小雨が降っており、国旗を濡らさないようにビニールに包んだものと思われた。彼は黒のスーツにワイシャツ姿で、靴は脱いでそろえておいてあり、同日未明に人知れず自決したものとみられた。

 彼が切腹した場所は、護国神社の境内でも奥まったところにある清水澄博士顕彰之碑の前であった。清水博士は慶応4年、金沢市の出身、東京帝大出身の憲法学者で、大正天皇、昭和天皇に憲法を講義したこともあった。その後、枢密顧問官などをへて、昭和21年から最後の枢密院議長を務めた。戦後の新憲法施行に反対し、施行の年の昭和22年9月25日、「幽界より国体護持と皇室安泰、今上陛下の御在位を祈願す」との自決の辞を残し、静岡県の熱海の海岸で投身自殺をした。その後、出身地の石川護国神社境内に顕彰之碑が建てられた。

 昨年の12月8日は、昭和16年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦から70年。Sさんは大学で安全保障問題ゼミに属し、日頃、ゼミ仲間らに、日本の安全保障の在り方について、熱っぽく語っており、自決のかなり前から、政府がきちんとした安全保障政策をとらないことに絶望する発言をしていたという。

 彼が自決した前年には、中国の漁船が尖閣諸島の領海で海保の巡視船に衝突、民主党政権が船長を釈放してしまうという失態を演じており、領土問題があらためてクローズアップされていた。

 この事件は大学生の単なる自殺事件として処理され、地元メディア以外はほとんど報道されなかった。だが、平成生まれの青年が、日本の安全保障政策に絶望して、切腹という手段で死を選んだ意味は決して小さくない。

 小雨降る中、暗い神社の境内で、靴を脱いで正座し、人知れず十字に切腹して頸動脈を切るというのは、なまなかな覚悟ではできない。これは国家、政府、国民に対する諫死(かんし)であり、憤死でもあろう。一周忌に当たり、あえて記した。(編集委員 大野敏明)

民主党政権が領海侵犯漁船の船長を釈放したおりは、義憤に駆られたものだった。
その親中親韓民主党政権がようやく終了したがこういう若者もいたのだ。

高校生の頃、同世代の「山口二矢」が社会党の浅沼さんを刺すというテロ事件があった。
クラスでその事件を熱っぽく語るものもいたが、当方はネンネ、彼等をずいぶん大人だなぁと感じた。

山田風太郎著 人間臨終図鑑(1) 山口二矢(おとや 1943-1960) より
 この時飛び出した丸の内署の刑事は夢中で二矢の短刀を掴んだ。二矢が引けば、指はみんな落ちてしまう。
一瞬目が合った。そのとき二矢の目が笑い、彼の方から短刀を離したという。『こういうことがなければ、山口はその短刀でその場で自決したにちがいない』とその刑事は語った。
 警視庁に収監された二矢は、取り調べに対して、自分一人の考えでやったことだと明言し、その態度のいさぎよさと沈着ぶりに係官は舌を巻いた。

 取り調べのないときは、雑居房で座禅をくみ、粗末な食事を合掌して食べ、朝はいつも皇居に向かって礼拝した。
 十一月二日、身柄を練馬の少年鑑別所に移された夜、彼は東寮二階第二号室のシーツを裂いて縄とし、天井の裸電球をつつむ金網にかけ、ベッドの上に寝具を積んで、これを踏み台として縊死した。発見されたのは午後八時半であった。
 コンクリートの壁に、粉歯磨きを水でとき、指を筆にして書いた。
『七生報国 天皇陛下万歳』という文字が残されていた。彼は戦争中の少年が、十五年を経て不死鳥のごとくよみがえったかのような少年であった。

尖閣領海でシナの船や航空機が侵犯を繰り返しており、中共の指導者も若い世代に交代した。
平和ボケの日本ではあるが、安倍政権になり中共は「右翼政権」と「過大」評価し警戒を見せているのはいいことだ。
中共崩壊が先か、人民の目くらましに戦端を開くのが先かという段階のような気がする。
平和は100年は保たないということになるのだろうか。

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