落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

終戦記念日

2022年08月15日 | 歴史
77回目の終戦記念日。
終戦の直前、勝敗が見えているのに、アメリカは広島・長崎に原爆を投下し数十万人虐殺した。その罪ほろぼしか、食糧その他の援助物資を敗戦日本に届けた。
当方は1944年生まれだが、物心つくころには平和になっていた。
しかし街角で白衣姿の傷痍軍人が募金に立つ姿がみられ、ラジオでは尋ね人の放送があり、海外からの引き揚げ者のニュースが続いていた。

父親(1912-1999)は二回目の応召でボルネオに行った。
昭和20年1月から終戦にかけて、所属の大隊がタワオ〜サンダカン〜ブルネイまで数百キロのジャングルを行軍した。多くの将兵が飢餓や熱病で斃れ、「サンダカン死の行軍」とも云われている。所属の大隊1007名、戦死者653名。
記録を読むと、その作戦の目的、命令下達の状況が今日でも不明という(松本国雄著「回想のキナバル」)。
幸い父は帰還したが、数年はマラリアが再発して寝込んでいたこともあった。

今年2月、ロシアがウクライナに侵攻した。
3日で終わるとプーチンは豪語していたが、既に半年が経過して、終わる気配がない。民族問題やウクライナのNATO加盟などがからみ解決の目処が立たないのだろう。ウクライナの多くの都市が瓦礫になり、ロシアが侵攻して占領したとしても人心には恨みが残り、何の意味があるだろうかと思われる。

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「最先端の世界史」

2021年07月06日 | 歴史
第二次大戦中生まれの当方も残り少なくなってきた。
あの頃、何があったのだろうか・・ 
自分が習った歴史では、「日本悪し」の自虐史観だったように思う。
戦後のGHQ指導があったのだろう。今はそれを糺す書物が多く出版されている。
ポピュラーなものでは西尾幹二著「GHQ焚書図書開封シリーズ」が有名だ。
雨の一日、ツンドクだった福井義高著「日本人が知らない最先端の世界史」を読んだ。
ひとことで云えば第二次大戦は、スターリンの筋書きと云えるのではないか。
日米英独はソ連コミンテルンのスパイ工作に翻弄されたということだろう。
日本人はお人好し、いいことだが外交戦においてはどうだろうか。
近隣国には今でもやられっぱなし・・・


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天皇陛下御即位「祝賀御列の儀」

2019年11月10日 | 歴史
新天皇のご即位を祝う「祝賀御列(おんれつ)の儀」が行われた。
皇居付近は雲一つない好天に恵まれたという。
皇居から赤坂御所まで、両陛下は新らしいオープンカーに乗られ、日の丸の小旗を手にした沿道の人々ににこやかに手を振られた。
雲一つない晴天でのパレード 沿道に響く歓声 国民、令和の平安祈る 2019.11.10 18:17ライフ皇室
https://www.sankei.com/life/news/191110/lif1911100036-n1.html

写真:即位パレードで皇居前を進む天皇、皇后両陛下の車列と沿道の大勢の人たち=10日午後3時5分(代表撮影)

 天皇陛下のご即位に伴うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」は10日、皇居から赤坂御所までの約4・6キロで行われ、沿道を埋め尽くした国民は日の丸の小旗を振って祝福した。「安泰を祈りたい」「時代の変わり目に触れた」。両陛下のおだやかな笑顔に、国民は令和の新しい時代の平安を祈った。

 両陛下は、宮内庁や皇宮警察の職員ら約600人が整列して見守る中、午後3時ごろに皇居・宮殿の車寄せにお出ましになった。

 陛下はえんび服に勲章を着けられ、皇后さまは格式の高いロングドレスのお姿。皇后さまの頭上には、上皇后さまから受け継がれたというティアラがきらめいた。

 雲ひとつない晴天に恵まれ、両陛下は宮内庁楽部による君が代の演奏後、今回のパレードのために新調されたトヨタ・センチュリーのオープンカーに乗り込まれた。

 陛下のご即位を祝い新たに作られた奉祝行進曲「令和」の調べとともに、オープンカーはゆっくりと走り出した。時速は約10キロ。約400メートルの車列が、皇居前に現れると、スタート直後の皇居前広場に詰めかけた国民から歓声が上がった。

 京都市の自営業、杉本寿一さん(63)は午前8時から列に並んだ。「時代の変わり目に立ち会うのはもう最後だろうと思ってきた。陛下の安泰をお祈りしたい」と話した。

 多くの国民が両陛下の様子をみられるように、オープンカーは後部座席の座面を前席より4センチ高くし、背もたれは「一番美しく見える角度」(内閣府担当者)という25度に調整された。

 平成5年の両陛下ご成婚のパレードでも沿道で祝福したという埼玉県富士見市の会社員、栗原啓美さん(49)は「ドレスに身を包まれた皇后さまは美しかった。当時と同じように輝かれていた」と話した。横浜市の会社員、村田和子さん(52)は「皇后さまのティアラがとてもきれいだった。陛下も朗らかな笑顔で感動しました」と興奮した様子だった。

幾重にも連なる国民の列は途切れることはなく、日の丸の小旗を振る音や「万歳」が響いた。祝福に包まれた沿道…。パレードでは皇后さまが目頭を押さえるしぐさを見せられる場面もあった。

 2年のパレードから一部変更になり、ルートに加わった自民党本部前。本部には《天皇陛下のご即位をお祝い申し上げます》と書かれた幕も下ろされた。

 埼玉県入間市の会社員、沼田朋裕さん(43)は「どうしても息子に見せたい」と小学5年の健太郎君(11)を連れてきた。「すごくて、待ったかいがあった。連れてきてくれてありがとう」。健太郎君は笑顔をのぞかせた。

 沿道の各所では、5年のご成婚パレードでも披露された作曲家、團伊玖磨(だん・いくま)氏の「新・祝典行進曲」が流れた。車列は午後3時半ごろゴール地点の赤坂御所に到着した。

 滋賀県長浜市から訪れた無職の尚永(ひさえい)早苗さん(71)は「陛下の穏やかな笑顔が見られて感動した。これからの令和も平穏に暮らせる時代であってほしい」と願った。

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なぜ多い「反日日本人」

2018年08月29日 | 歴史
日本人でありながら自国を貶める人がなぜこんなに多いのか。
典型的な例では朝日新聞の慰安婦報道があった。数年前、捏造を謝罪はしたが、英文では未だ謝罪はしていないとか。
日本人の自虐史観は、占領下のGHQのWGIP(下記記事中)による洗脳だったという。
自分も教科書や報道番組などで知らず知らず洗脳されたクチだろう。
またGHQは洗脳だけでなく、大東亜戦争前後に発刊された多くの図書についても焚書を行った。(西尾幹二著「GHQ焚書図書開封」)。
【解答乱麻】「反日日本人」がなぜこんなに多いのか カギは米国産「WGIP」にあり
  麗澤大大学院特任教授・高橋史朗 2018.8.29 11:30
http://www.sankei.com/column/print/180829/clm1808290005-c.html

 1980年代から90年代にかけて国際問題化した教科書問題、靖国神社参拝問題、慰安婦問題のいずれも、自虐史観にとらわれた「反日日本人」が国際的に火を付け、マッチポンプ式に日本に持ち込んで騒ぎ立てた点が共通している。

 近年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」登録申請をめぐる問題も同じである。中国が「世界の記憶」に追加申請した「戦犯日本兵千人の供述書」は、事実を無視して日本の残虐さを強調する「南京大虐殺プロパガンダ」の中心的役割を果たしている。

 「日本軍『慰安婦の声』」申請文書の参考文献の多くを左派系の日本人研究者が占め、理論的にも史料的にも後押ししている実態が浮き彫りになった。

 韓国の「ナヌムの家」に展示されている写真の大半も日本の研究者らが提供したものであることが明示されている。

 終戦後、占領軍は占領政策を継承し、拡大再生産するために、文芸評論家の江藤淳の言う「黙契(暗黙の裡(うち)に気持ちが合ってできた約束)関係」を「反日日本人」と結び、「内的自己崩壊」の土台を築いた後に、占領を解除した。

 日本人に罪の意識を植え付けた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を陣頭指揮したブラッドフォード・スミスは1942年の論文「日本-美と獣」(コミンテルンの外郭団体の機関紙『アメレイシア』4月号)で、日本人の二面性(美しい心を持ちながら、「南京大虐殺」をしたという)が「敵の本質」であるとして、次の一文で締めくくっている。

 「今は世を忍んでいる自由主義的な指導者たちに、過去の原始的な怪獣が決して再び台頭しないよう建設する機会を保障するため、私たちに何ができるであろうか」。「本性に根差す軍国主義」という日本国民の伝統精神に対する誤解がWGIPにつながった。

 GHQ(連合国軍総司令部)月報によれば「占領軍が東京入りした時、日本人には戦争贖罪(しょくざい)意識は全くなく、兵士の犯した残虐行為を知らず、道徳的過失の感情はなかった」。それ故にWGIPが策定され、その中核に「南京大虐殺プロパガンダ」が位置付けられたのである。

 1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

 マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、WGIPのモデルとなった。

 エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」と弁明している。

 日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

 その成果が80〜90年代の「歴史認識問題」を生み出し、今日の「世界の記憶」への登録申請につながったといえる。

 戦後73年を経た今日、「軍国主義」とは明確に区別すべきわが国本来の国民精神を取り戻し、「反日日本人」とも真摯(しんし)に対話しつつ、WGIP後遺症からの脱却を目指す必要があろう。

【プロフィル】高橋史朗
 たかはし・しろう 元埼玉県教育委員長。麗澤大大学院学校教育研究科道徳教育専攻特任教授、モラロジー研究所教授。親学推進協会会長。男女共同参画会議議員。
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縄文人

2018年03月07日 | 歴史
日本人のルーツの一つである縄文人は、古代に他のアジア人集団から別れた特異な集団であるという。
「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった! 読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治 2017年12月15日 05時20分
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=1

 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。

福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏で海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原和郎(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人
 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。

プロフィル
伊藤 譲治(いとう・じょうじ)
 読売新聞編集局配信部兼メディア局記者。文化部次長、紙面審査委員(文化面担当)を経て、昨年6月から現職。文化部時代は教育、読書・出版、放送などを担当。




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聖徳太子、竜馬、信玄etc が教科書から消える?

2017年12月11日 | 歴史
当方は中高生時代、歴史が大の苦手であった。
けれども、明治の偉人や戦国大名の名前ぐらいは聞き覚えがある。
小学校の指導要領や中高生の歴史教科書からこれらの人名が消えつつあるという。
時代の流れか何か知らないが、その教育界の背後が薄気味悪い。
「坂本龍馬」が消えたナゾ 「高校歴史用語案」を読み解く 「厩戸王(聖徳太子)」も議論必至 2017.12.11 08:00
http://www.sankei.com/premium/print/171211/prm1712110003-c.html

写真:坂本龍馬の肖像写真(高知県立坂本龍馬記念館提供)

 国民的人気の高い「坂本龍馬」が消え、論争が続く「従軍慰安婦」が残る-。高校や大学の教員がまとめた高大連携歴史教育研究会(高大研、会長・油井大三郎東大名誉教授)の高校歴史用語精選案が波紋を広げている。高大研は精選案の内容についてアンケートを実施し、年度内に最終案をまとめる方針だが、個別の用語の選定基準は明らかにしていない。論争のある従軍慰安婦や南京大虐殺以外に、人名でも精選基準には疑問のある部分が多い。(社会部 花房壮、寺田理恵)

聖徳太子は「厩戸王」?…小中学校の学習指導要領改訂で論争

 精選案では、日本史と世界史でそれぞれ現行の半分以下となる約1600語を「教科書本文に載せ、入試でも知識として問われる基本用語」として選定。叙述や考察に必要な概念用語を多く盛り込む一方、人名や文化史用語を大幅に削減したのが特徴となっている。

 人名の選定で物議を醸したのは「坂本龍馬」「吉田松陰」「高杉晋作」「楠木正成」「上杉謙信」「武田信玄」「高野長英」など歴史小説や時代劇のヒーローとしてなじみの深い人名が数多くカットされたことだ。高大研側は精選案から外れた用語を教科書に載せることは否定していないが、個別の用語の選定基準については「アンケート調査に予断を与えかねない」として明らかにしていない。

 一方、論争を呼びそうな人名が多く選ばれていることも議論を呼びそうだ。

 例えば「厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)」は、文部科学省が今春告示した中学の新学習指導要領の記載をめぐり、「聖徳太子の抹殺だ」「約20年前に唱えられた聖徳太子虚構説の押し付け」などと批判を浴びた表記だ。

 その一方で、戦前に聖徳太子の功績について批判的研究を行った歴史学者の津田左右吉も選ばれている。

 小中学校教科書では、新規参入の中学教科書1点を除いて「聖徳太子」を主たる表記とした。ところが文科省は現行の「聖徳太子」を「没後の呼称であり、中学では史実を学ぶ」などとして、2月に公表した指導要領改定案で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。

 これに対し、国会などで批判が相次ぎ、専門家からも「古代の主要資料には見られず、実名のように扱うのは不適切だ」などとの指摘があったことから、3月の告示で「聖徳太子」を復活させた経緯がある。

 精選案に入った「厩戸王(聖徳太子)」は再び議論を呼びそうだ。

2度出てくる「幣原喜重郎」…憲法9条発案者との説も

 精選案で学習項目「国際協調の時代」「初期の占領政策」の2カ所に採用されているのが外交官・政治家の幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872〜1951年)だ。

 幣原は、両大戦間の大正末期から昭和初期にかけ協調外交を推進した“幣原外交”で知られる。また、先の大戦後の昭和20年10月に首相に就任し、憲法改正にかかわった。現行の高校教科書では「幣原喜重郎内閣はGHQから憲法改正を指示され」などと記述されている。

 日本国憲法の成立過程をめぐっては議論がある。現行の日本国憲法は連合国軍総司令部(GHQ)によって草案が作成されたことから、「米国からの押し付け憲法」として改正を目指す理由の一つともなっている。だが、押し付けを否定する人や、戦争放棄などを規定した9条の発案者を日本人の幣原とする説を唱える人もいる。

 生徒が自ら考え議論する活動を重視した次期学習指導要領では、多面的・多角的な見方を養う授業を目指しており、議論のある用語を選ぶこと自体は必ずしも否定されるものではないが、特定の見方を押しつけられることのないよう留意すべきだ。

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開戦記念日

2017年12月08日 | 歴史
「1941年12月8日、日本海軍が米ハワイの真珠湾基地を奇襲した」日といわれる。
当時の米の経済封鎖によって止むに止まれず起ち上がった。
今、北朝鮮の核ミサイル実験に対して日米中などが経済制裁を行っているが、度が過ぎるとかつての日本のように「窮鼠猫を噛む」ことになるかも知れない。
当時の米大統領ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt )は「日本のだまし討ちを忘れるな」と米国民を煽って太平洋戦争(大東亜戦争)に持ち込んだ。
現在では、ヴェノナ文書、ハーバート・フーバー著「裏切られた自由」などによって、この大東亜戦争の背景が露わになってきている。
大ざっぱに云えば、「奇襲」ではなく、米は事前に察知しており、むしろ日本を挑発していた結果だった。それをやったのがFDRであり、その様に仕向けたのがFDRを取り巻いていた当時の米政府高官に入り込んでいたコミンテルン(ソ連エージェント)のスパイたちだった。ソ連は西側で当時ドイツと戦争中であり、日本の満洲獲得を東側の脅威と感じており、日米戦争を起こしてこれを弱めようと米で工作中だった。
ソ連は、FDRがアジア人蔑視、米国内の「ニューディール政策」に限界を感じ戦争志向だったのを奇貨とした。

参考図書
■渡辺惣樹著「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」草思社
■福井義高著「日本人が知らない最先端の世界史・上下」祥伝社

米英、日本の軍事行動を予測、開戦誘導か ルーズベルト・チャーチル往復電報 2017.12.8 07:11 web産経
http://www.sankei.com/world/print/171208/wor1712080011-c.htm

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開戦記念日

2016年12月08日 | 歴史
20世紀初頭は世界中に帝国主義が蔓延していた。日本も満州などに権益を持っていたが、米の嫉妬するところとなり、スターリン、ルーズベルトなどの謀略によって日米戦争が起きた。
戦後の1951年、マッカーサーは議会で「日本の戦争は自衛戦争だった」と証言した。

「戦争原因の見直し
 21世紀になり多くの歴史資料が公開されたので米国が何もしないの突然攻撃されたというような子供じみた隠蔽や歪曲は通じない。第一次大戦のベルサイユ条約では独だけが断罪されたが今では訂正されている。太平洋戦争も日本の冤罪は明らかである。」
(落合道夫著:大東亜戦争と日本人の課題)

済んだこととはいえ、戦争の原因を知っておくことは重要だ。
なぜなら「歴史は繰り返す」。

太平洋戦争開戦ラジオ放送


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古代生物の足跡

2016年10月04日 | 歴史
スプートニク・ニュースより
日本考古学者チームがゴビ砂漠で古代の巨大生物の跡を発見
© AFP 2016/ Patrick Baz サイエンス 2016年10月04日 00:30
https://jp.sputniknews.com/science/20161004/2854379.html

モンゴルと日本の古生物学者のグループがゴビ砂漠で保存状態の良い、ティタノサウルスだと仮定される跡を発見した。科学ニュースサイト「 Phys.org」が報じた。 発見したのは岡山理科大学の石垣忍教授率いる国際グループだという。

. モンゴル領のゴビ砂漠で保存状態の良い、化石化した巨大生物の足跡が発見された。学者は、これは地球で発見された中で最も大型の跡の1つだと述べている。跡の幅は77センチ、長さは106センチだ。
中間的な分析は、足跡が7000万から9000万年前のものだと推定している。研究者らによると、足跡はおそらく巨大な草食恐竜ティタノザウルスのものだ。この存在の体長は30メートル、高さは20メートルに達し、非常に長い首をしていた。
石垣教授は次のように述べた。 「これは非常に珍しい発見だ。爪もあるこのようなサイズの化石化した跡の保存状態がこれほどよいのは驚きだ」
先に伝えられたところ、日本の考古学者グループが、世界最古の釣り針を発見した。

画像:

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2015年2月、「丹波竜の里」へ化石を見に行った。1億1千万年前のものと云われている。
そのときのお土産に買った模型でイメージを作ってみた。

5階建て住宅が高さ15m。並べてみると大きい!

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日露戦争 講和百十周年

2015年09月07日 | 歴史
9月5日は、日露講和百十周年。
西村眞悟の時事通信 平成27年9月6日(日)
http://www.n-shingo.com/

二十世紀は「日本の世紀」である

百十年前の九月五日、アメリカ合衆国のポーツマスというアメリカ海軍の海軍工廠のある小さな街に、 アメリカ合衆国セオドア・ルーズベルトの「中立の友誼的斡旋」により、 西からは日本全権外務大臣小村寿太郎が赴き、 東からはロシア全権元大蔵大臣セルゲイ・ウィッテが赴き、 十六ヶ月に及ぶ日露戦争の講和条約を締結した。

其の骨子は次の通り。
(1)ロシア軍は満州から撤退する
(2)ロシアは、日本の朝鮮半島における優越権を認める
(3)樺太の北緯五十°以南を日本領とする
(4)ロシアは旅順、長春間の東清鉄道を日本に譲渡する
(5)ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡する
(6)沿海州の漁業権は日本人にある
しかし、此の講和条約において、日本国民が期待した、 一年間の国家予算の四倍に上った戦費二十億円の賠償は合意されなかった。

とはいえ、 日本は、かろうじて戦勝国としての面子を保ってロシアとの講和を達成することができた。

ここにおいて、十五世紀、バスコ・ダ・ガマがヨーロッパからインドに至る航路を拓いてから 五百年間で初めてのことが起こった。
近代化を始めて三十余年しか経たない東洋の有色人種の国である日本が、 白人のヨーロッパ最強のロシア帝国の軍隊を打ち破ったのである。
ヨーロッパ世界、そして、アジア・アフリカ、つまり全世界は、驚愕した。
白人に支配されているフィリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ、インド、 そしてアラブさらにアフリカの人々の独立自存を求める魂に火が付いた。
日露戦争が世界史を変えた。
西でロシアに接するフィンランド、ポーランド、ハンガリーそしてトルコは、 日露戦争に日本が勝利したことに目を見張り、それ以来百十年後の現在も親日国である。

日本が勝利したとき中国革命を目指す孫文は、スエズ運河の船の上にいた。
その時、アラブ人から君は日本人か、素晴らしいと讃えられた。
それからは支那から一万数千の留学生が来日して日本で学んだ。
彼らの多くは日本の陸軍士官学校で学んで将校となり、 後の国民党軍を背負って近代中国の建設に向かうことになる。
蒋介石も其の一人である。

レーニンは、旅順の要塞の力は六つのセバストーポリ(クリミア半島のロシアの要塞)に等しいとの述べた上で、「イギリスとフランスが(クリミア戦争で)セバストーポリを占領するのに丸一年もかかったのに、 ちっぽけな、これまで誰からも軽蔑されていた日本が、 八ヶ月(実際は五ヶ月)で、セバストーポリを六つ合わせた力を持つ旅順を占領したのである。
(ロシア帝国に対する)この軍事的打撃は計り知れない」と書き、 日本軍による旅順陥落を「プロレタリアートの戦争(ロシア革命)の時期は近づいてくる」と意義づけた。

アフリカのガーナ出身のアナン国連事務総長は、来日する度に東郷平八郎を祀る東郷神社に参拝した。 チリ出身の国連事務総長デクレアルも四度、東郷神社に参拝した。
東郷平八郎が、ロシアのバルチック艦隊を日本海対馬沖で撃破した提督だからである。

日露戦争で共に満州の戦場にいた フィンランド人のグスタフ・マンネルハイム将軍と ユダヤ人のイスラエル建国の父ヨセフ・トルンベルドール そして、イギリス人のイワン・ハミルトン将軍に付いて書きたい。

グスタフ・マンネルハイム将軍はロシア軍騎兵将校として、 奉天附近で秋山好古少将率いる日本の騎兵部隊と戦い撃破された。 彼は、何故、日本軍がロシア軍を撃破し得たのかを考えた。
そして、少数でも日本のように団結すればロシアを撃破できると確信し、 フィンランドをロシアの支配から解放するための戦闘を開始し成功を収める。
後年マンネルハイム将軍は、 ボルシェビキの本質は「暴力と無秩序」に過ぎないと見抜き、 東からは日本が、北からはフィンランドがボルシェビキの支配するペテルスブルグに攻め入れば、 ボルシェビキを打倒し得てロシア革命を終息させ得ると考えていた。

ヨセフ・トルンベルドールは、 ロシア軍将卒(後に将校)として旅順要塞に立て籠もり 日本の乃木希典大将率いる第三軍と戦い、左腕を根本から失った。
そして日本軍の捕虜となって大阪の浜寺ロシア兵収容所に入れられた。
彼も日本を観て、マンネルハイム将軍と同じように、 何故此の日本が大国ロシアを打ち破ったのかと考えていた。
すると一人の日本兵が 「祖国のために死ぬことほど名誉なことはない」と彼に言った。
トルンベルドールは、此の言葉に深い感銘を受け、 浜寺の収容所において「ユダヤ人の祖国」を建設しようと決意する。

其の十年後、彼はユダヤ国家がローマに滅ぼされてから二千年ぶりにユダヤ人の軍隊を造り、 イギリス軍に加わって第一次世界大戦のダーダネルス作戦に参戦する。
其の戦いぶりを観て、ダーダネルス作戦のイギリス軍の指揮官イワン・ハミルトン将軍は、 「彼らは類い希な度胸をしている」と絶賛した。
彼らが、日露戦争の日本軍兵士のように戦ったからである。
トルンベルドールの造ったユダヤ人部隊を絶賛したハミルトン将軍が、 十年前の日露戦争で、トルンベルドールが旅順要塞に立て籠もっていたロシア兵だったことを知っていたかどうかは残念ながら分からない。

其のイワン・ハミルトン将軍は、 十年前の日露戦争の際にイギリス軍から観戦武官として旅順と満州の戦場に派遣され、 旅順要塞攻防戦の凄まじさを目の当たりに見ていたのである。
そして、ハミルトン将軍は、日本軍の戦いぶりに深い感銘を受け、 日本から学ぶべきものとして兵士の忠誠心をあげた。
彼の報告によって書かれたイギリスの公刊日露戦史には、次のように書かれている。

「此の旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう」

よって彼は、第一次世界大戦を、乃木希典第三軍の方式で戦い、歩兵の突撃によって塹壕戦に対処した。
戦後、彼は、エディンバラ大学の名誉総長となり、イギリスの教育改革に取り組み、 「子ども達に軍人の理想を教え込まねばならない。
自分達の祖先の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象付けるように」と説いた。

またトルンベルドールは、第一次大戦後に、イスラエルに入植する。
そして、北部のテルハイに居たとき、アラブの武装民に襲撃されて数発の銃弾を受け転倒する。
駆け寄った戦友に彼はこう言って、事切れた。

「俺に構うな、祖国のために死ぬことほど名誉なことはない」

 現在、彼の死んだ地には、彼の墓が立てられ、其の前に大きなライオンの石像がある。
その石像に、トルンペルドールが最後に言った言葉、 かつて日本兵が浜寺で彼に言った言葉、 「祖国のために死ぬことほど名誉なことはない」 とヘブライ語で刻まれている。

トルンベルドールは、今も「片腕の英雄」として全イスラエル人に愛されている。
それ故、イスラエルは親日的である。
尚、トルンベルドールが、ロシア兵捕虜として日本の浜寺にいたとき、 明治天皇は彼に義手を下賜されている。
トルンベルドールは、明治天皇を尊崇し、 彼の残したノートには、来るべきユダヤ人の国は、明治の日本のようでなければならないと書かれている。

このように、 フィンランドそしてイスラエルの建国に、日露戦争の日本の勝利は、決定的な要因を与え、 さらにアジア、アフリカの人々に民族自立の魂が沸き立った。
そして、数十年の胎動の後に、世界が再び目を見張る。
日本が再び、一九四一年十二月十日、 イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズをマレー沖で撃沈し、 一九四二年二月十五日、 七つの海を支配する大英帝国のアジアにおける象徴的な拠点! シンガポールを陥落せしめたからである。
フランスのドゴールは、白人の数百年にわたる支配が終わったと述べ、 イギリスの歴史家トインビーは、白人の無敗の神話は、日本によって公然と打ち破られたと書いた。

二十世紀初頭の日露戦争から中盤の大東亜戦争まで、 日本は有色人種の唯一の国として、 一貫して五百年続く白人の支配と戦い其れを打破した。
日露戦争で、始めて有色人種の国が白人の帝国に勝利したことを世界に示し、 続く第一次世界大戦においては、 人種差別撤廃を講和条約交渉で提起し、  大東亜戦争においては、大東亜共同宣言を発して、 人種差別撤廃を正々堂々と掲げて戦った。

そして、二十世紀に日本が戦うまで、 世界に独立国は四十余国しかなかったのに、 現在、百九十余国が独立国として国連に加盟している。
それは、アジア・アフリカから、百五十余国が独立国として誕生したからである。

よって、二十世紀は、「日本の世紀」である。

昨日、九月五日、東京でポーツマス条約締結百十周年記念集会があった。
集会は、国歌斉唱と、日露戦で戦没した英霊への黙祷から始まった。
私は、加{P英明先生の開会の挨拶の後、立って、 日露戦争から始まり大東亜戦争に至る戦いで日本は世界史を変えた。
よって、二十世紀は「日本の世紀」であると述べた。
すると、後に講話に立った馬淵睦夫前ウクライナ大使は、 二十一世紀も「日本の世紀」だと言われた。

そこで、後の懇親会で乾杯の音頭をとることになった私は、 「プーチンを煽ててクリミヤでくたくたにして、 樺太・全千島を取り戻し、 二十一世紀も日本の世紀にしよう、乾杯!」と叫んだ。

なお、昨年の七月、 私は、アメリカの陸軍士官学校ウェスト・ポイントを訪問した後、 四百キロ北上してポーツマスを訪れた。
ポーツマスは今も海軍工廠のある小さな十九世紀の雰囲気をたたえた街であった。
四十年ほど前に、歩いて訪れた時と建物は変わっていなかった。
海軍工廠では、軍事機密の固まりである潜水艦を造っていた。

この度は、小村寿太郎、高平小五郎ら日本側交渉団が宿泊し、 何度も日露会談が開かれたリアス式の海岸に面したホテル、ウェント・ワースを訪れた。
ホテル、ウェント・ワースでは、 日露会談の行われた部屋には「ツリーティールーム」と書かれた表札が架かっていた。
其の部屋に至る階段の正面の壁に、 明治天皇とロシアのミコライ二世の大きな肖像画が掲げられていた。
日本人であるのが分かったので、 ホテル側は「ツリーティールーム」てビスケットとお茶を提供してくれた。
ポーツマスは、 ポーツマス条約締結以来、今も昔のアメリカのままの親日的な親しみやすい街である。

お問い合わせ:西村眞悟事務所
TEL:072-277-4140 E-mail:sakaioffice@n-shingo.com
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日露戦争の背景

 日露戦争に行った祖父(1877-1952)

三国干渉
日清戦争で勝利する日本を列強は重大視しはじめた。1895年露仏独は、日本が下関条約で清国から割譲された遼東半島を返還するよう求めてきた。露は、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。

露と国交断絶
露の南下政策で朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは自国の防衛上不利と考え、1904年2月6日、当時の日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシア公使ローゼンを外務省へ呼び、国交断絶を言い渡した。

各国の利害関係
日本と同様に露の南下政策を警戒していた英は日英同盟で日本を支援。
仏は露仏同盟で露を支援。
米は仲介を果たすことで中国の利権を得ようとする。

参謀本部次長・児玉源太郎のとったメディア戦略(NHK2005/11/16放送「その時歴史が動いた」より)
『日本奉天占領 もはやロシアに望みはない。ロシア軍は最大の危機に陥った。』(明治38年3月11日タイムズ誌)
 日露・奉天会戦の翌日、日本を激賞した記事が世界を駆けめぐった。国力、兵力ともに圧倒的な不利の中、大国ロシアを破った日本は、この報道で、一躍世界の檜舞台に躍り出た。
 このメディア戦略を仕組んだのが、参謀本部次長・児玉源太郎だった。開国以後、不平等条約の締結など欧米列強との格差が深刻化していた日本。児玉源太郎は、世界で初めて戦場の様子がすぐさま報道される日露決戦を、日本アピールの最大のチャンスと捉えていた。その最高の舞台として迎えられたのが当時世界最大の陸戦となった奉天会戦。ロシア軍32万に対し、日本軍25万。児玉の見事な陽動作戦で相手を退却に追い込み、日露決戦を決定づけるとともに世界における日本の立場を大きく変え、歴史を動かした。
(この頃すでに電信による世界的な通信網が発達していた。児玉源太郎は、各国有力紙の記者を優遇し、後には前線従軍を許可した)
結果
日露協約による互いの勢力圏の確定。満州、朝鮮の権益確保(ポーツマス条約(日露講和条約))。
列強各国に対する不平等条約の改正。その陰に7万人の大きな犠牲があった。
アジアにおける利権を狙う米国の警戒心を呼び起こし、対日感情が悪化し第二次世界大戦の遠因になる。列強の軍縮要求。
幾多の血を流し、ロシアを満洲から追放し、中国の保全を全うした日本に対して清国は一片の感謝を持たなかった。日本人の間では「中国人は戦争中何をしていたのか」という不満が高まり、そのような対中感情が「特殊権益」という考え方を強化し、やがて満州事変を誘発し、満洲建国となっていく。
しかし、日本は名実ともに列強の一員になり、大国とのバランスを保つ義務が発生する。

ポーツマス条約:(Wikipedia)
ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英語: Treaty of Portsmouth, Portsmouth Peace Treaty)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。


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