河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2098- ベリオ、ブーレーズ、ベートーヴェン、Ⅱ、ジャックSQ、2016.4.15

2016-04-15 23:28:19 | 室内楽

2016年4月15日(金) 7:00pm 小ホール、東京文化会館

ベリオ シーケンス7  10′  オーボエ、古部賢一
ベリオ シーケンス9  13′  クラリネット、アラン・ダミアン
ベリオ シーケンス12  18′  バスーン、パスカル・ガロワ

ブーレーズ 弦楽四重奏のための書、より
5 5′
6 6′
    ジャック四重奏団
      ヴァイオリン、クリストファー・オットー
      ヴァイオリン、アリ・ストレイスフェルド
      ヴィオラ、ジョン・ピックフォード・リチャーズ
      チェロ、ケビン・マクファーランド

Int

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第16番ヘ長調op.135   7′3′7′7′
    ジャック四重奏団


前日に続き3大B、ベリオ、ブーレーズ、ベートーヴェンの組み合わせ公演。
東京・春・音楽祭の一環、ポリーニ・プロジェクトと銘打っているがご本人が出るわけではなく、冠演奏会で紛らわしいと言えば紛らわしい。

ベリオのシーケンスは前日はなにがなんだかわからなかったが、この日は少しこちらの理解が進んだような気がする。響きの世界ではなくその逆への思考の深化という感じで、たとえて言うとマーラーの5,6,7番あたりの究極の音響世界への思考推移と真逆的なもので、フォルムについても同じく反対思考のような気がする。既成概念を壊そうとするものではなくて、それと関係ないところでゼロから何かが生まれるときの逆のことをしているように思える。作品への照射よりむしろ演奏者への照射でここが終点。あるのは先ではなく戻ってくること。
この日の3曲は長大。
最初が7番のオーボエ。単楽器ではなくどこかで一つの持続音B音が最初から最後まで入る中での演奏。譜面の中に時間指定があるようで、そのようなものを含めた困難な技巧の方に気がいってしまうのをそうさせないための持続音なのかどうか意図はわかりません。最初と最後、古部さんがスタートとエンドを大きくアクションしていましたので、マニュアルベースの持続音音出しだったような気がします。
オーボエの音は、これは結果的な話ですが、次の完全オーソリティ2プレイヤー、クラリネットとバスーンに比べて、小さい。技巧指定への配慮が一因なのかどうかわかりませんけれども、曲想合わせ全体に繊細風味が勝っているような作品とプレイでした。

次が9番クラリネット。ダミアンのクラリネットは非常に滑らか。困難そうな音の推移をいとも簡単に吹いているのだろうとは思いますが、技巧に余裕があり、高低飛び跳ねるオタマジャクシもごく自然に聴こえてくる。楽しめる代物ではないが聴き手に色々と思考する余裕を与えてくれる演奏でした、

3つ目は12番のバスーン。これはベリオがデディケイトしたご本人の演奏。パスカル・ガロワはご本人というより、もう、御本尊という雰囲気。
この日の前半プロの照明は前日よりかなり暗かった気がしますが、それをさらに落とし、真っ暗状態にして暗闇の中からどこからともなく、なぎなたのようなものを持った影がのしのしとステージ中央に歩いてくる。なぎなたを横にして軽くお辞儀なのか重くてそうなるのか判然としない中、少しだけ照明が御本尊をスポットライトする。そこでようやくなぎなたがバスーンとわかる。目に見える譜面はなかったがもしかして楽器にフィックスしていたスマフォのようなものが電子譜面だったのかもしれない。でないとあんな恐ろしい18分もの演奏が説明つかない。神業という話です。それと電子音のようなサウンドが時折顔を出しますけれど、あれ、別なところで何か鳴っているのではなくて全部、御本尊のなせる技なんですかね、なにがなんだかわからないとてつもない演奏でしたね。鳥肌、サブいぼが出てきそうな不気味で恐ろしい演奏で、デディケイトされた作品の方がプレイヤーに屈服させられちまったような驚異の演奏でした。ありとあらゆる技巧が何の引っ掛かりもなく素直な悪魔みたいな雰囲気でホールを包む。ソロ楽器の技を堪能できました。素晴らしい演奏とアトモスフィア。

ヘヴィーな3曲、楽しめたというか、ねじふせられたと言いますか。


こうなると、前半〆のブーレーズは最悪のプログラム・ビルディングがあらためてわかる程度の整理体操みたいな雰囲気でしかない。昨日も書いたが、なんでわざわざ二日に分けたのか。作品初演の時期が分散していて、その初演の束を想定したものという話であれば、さらに、振り返った歴史をトレースするものというのであれば、それはそれで大いなる時代錯誤としては理解できるが、そうでなければこんなことをするのは、商業的オペレーション、つまり二日に分けることにより人の興味をひいて入場者をつなぐという陳腐なレベル発想でしかない。
創作のずれはあったが4以外ほぼ出来上がっている作品を今の時代の人間はひとつの作品として見ることが出来ているのに、なぜ、わざわざわけるのか、一つの個体作品を聴くいいチャンスをみすみす逃したわけです。昨日も書いた、あと10分の世界です、この冠プロジェクトの最大の大失敗はこのブーレーズのプログラム・ビルディングです。ブーレーズを好むピアニストがプロジェクターですから、最悪の上塗りとしか言いようがない。

そのようなことがあるにしろないにしろ、5,6はあまりに唐突で薄い。インパクトがまるで無い。パスカル・ガロワの巨大な演奏の後に、跡形もない。あとでやっているのに、
むしろ、ガロワに感謝すべきは、とりあえず次にブーレーズを聴く体勢に気落ちをさせてくれたこと。そういう音楽会だったと思い出させてくれたことをガロワの演奏に感謝しなければならない。あれがなかったら本当に虚しさだけが漂う5,6だったと思います。
企画者は真剣にプログラム。ビルディングをしてほしいと思います。


後半のベートーヴェンは、抜けた明るさのようなものが出てこない。何よりも、昨日同様、聴衆への訴える力が不足していると感じる。
ヴァイオリンは1番2番さんが昨晩とスイッチしておりましたが、演奏自体変わるものではありませんでした。
おわり

 


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