2014年10月5日(日)2:05-7:55pm オペラパレス、初台
新国立劇場 プレゼンツ
ニュー・プロダクション
ワーグナー作曲
ハリー・クプファー、プロダクション
パルジファル 110′ 70′ 79′
キャスト(in order of appearance)
前奏曲での登場
1.僧侶3人
2.アムフォルタス、エギルス・シリンス
2.グルネマンツ、ジョン・トムリンソン
3.クリングゾル、ロバート・ボーク
3.クンドリ、エヴェリン・ヘルリツィウス
4.聖杯騎士2人+4人
5.アムフォルタスに水をやる子供
第1幕以降
1.グルネマンツ
2.クンドリ
3.僧侶3人
4.アムフォルタス
5.パルジファル、クリスティアン・フランツ
6.ティトレル、長谷川あきら
他
新国立劇場合唱団
二期会合唱団
飯守泰次郎 コンダクティング、
東京フィルハーモニー交響楽団
(タイミング)
前奏曲 13′
ACTⅠ
54′(パルジファル登場38′付近)
場面転換
43′
int 45′
ACTⅡ70′
int 35′
ACTⅢ
56′(聖金曜日37′付近)
場面転換
23′
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この日はクプファーのパルジファル、ニュープロダクションの二日目です。
一日目の感想はこちら。
込み入った演出ではないと思いますので、初日で全貌はだいたいつかめておりました。この日はゆっくり楽しむのとちょっとだけ細かいところを確認するぐらい。あとは観劇に浸る。
第1幕、苦しげなアムフォルタスの演技はシリアスシリンスと言ったところで初日もこの日もよいと思いました、第1幕場面転換を経て、アムフォルタスにより聖杯に明りが灯る、ここで前奏曲が回帰する。まさに脳天直撃の天才的な閃きの音楽が鳴る。やはりこのストーリーにある程度現実性を持たせるというか、納得できる世界に引き込んでいくには2時間は必要なんだろうなと思ってしまう。
歌のロールはグルネマンツで、トムリンソンは初日のぶら下がり気味のピッチの悪さが多少改善され素直な歌唱になっていたように思いますが、今度は喉が開き気味というか、広がりすぎてしまって芯や中心点が無い。ふやけた感じは無いものの劇的な表現が今一つではあった。最初の歌唱にいたる前の顔色は初日よりずいぶんとよかったと思いますので、コンディションは相応に良かったのではないかと推測します。
オーケストラの響きは角が取れ、柔らかく響く。飯守の過度な劇性を排した棒は美しい音楽の表現に適していると思います。手慣れていてコクがある。終演後、オーケストラにブーイングが出ましたけど、後で書きますが、この現象は東京特有のものと判断できます。
クプファーの演出は「光る道」と「巨大なメッサー」。第3幕ではメッサーの先に指を向けコントロールするパルジファルの姿を見ることが出来ますが、第1幕では脇腹傷の象徴、槍の先といったところか。新国立の仕掛けならではの移動が見ものです。この場面転換のところもそうですが、光る道は前奏曲の部分から既に、縦に割れて上下運動を繰り返すという迫力の舞台になっておりますのでこちらも見ものです。NHKホールや東京文化会館では困難と思われるシステムを常設しているこの劇場の強みですね。クプファーの演劇的指向性にマッチし、彼のこのような創作意欲をさらにそそるものになっていると思います。
第2幕冒頭は、第1幕前奏曲でクリングゾルがうつぶせになっていたのと同じ構図でうつぶせ状態から始まりますが、やっぱりなぜか苦しそう。クリングゾルがここでなぜ這って苦しそうに動かなければいけないのかちょっとわからないところではあります。うがった見方解釈はいくらでもできそうですがまず、最初に肝心なのは素直なフィーリングと理解です。邪悪なクリングゾルには元気でいてもらいたい。
この幕は、クリングゾルの出番は最初と最後、中間部はかなり長い時間クンドリとパルジファルとのやりとりになる。最初にクリングゾルが登場しているので、その後の展開、例えば、クンドリのパルジファルに対する口づけの場面で鳴る音楽はクリングゾルのテーマであったりして、こうゆうところがワーグナーの楽劇の見どころの一つなわけですね。支配されているクンドリというあたりのことがよくわかる。クプファーの演出はそういったことを効果的に使う。
クンドリの誘惑の作戦には、私を救済して、と乞い願うバリエーションもあるので要注意。ピュアなパルジファルはそういったオペレーションには引っ掛からないので、さしものクンドリも手を焼く。この幕でのヘルリツィウスの大熱演はパルジファルを越えて聴衆に迫る、まさにクンドリ鬼気迫る演技と歌唱。パルジファルほどピュアでない我ら聴衆(男のみ)なら思わず引き込まれてしまってもいたしかた無いのではないか。聴衆を屈服させた白熱のヘルリツィウスでした。
クリングゾルの槍はハープのグリッサンドとともに中空を漂い(見えない)、パルジファルが右手で受け止める。このシーン、ごく自然な雰囲気で迫力ありました。そして音楽は引きずるようなティンパニのトレモロでエンド。
第3幕では、パルジファルが持ってきた槍をグルネマンツが持っている時間が結構長い。クンドリの髪を洗う前後でグルネマンツに渡したっきりになる。トムリンソンが勘違いしてヴォータンにならなければよいがとちょっと心配になったりする。もともと彼らのものでありクリングゾルにひと時奪われたものなのだからそれはそれでわるいことではないのだが。
カタルシス的聖金曜日のティンパニの打撃音は場面転換の前にようやく鳴る。これを聴ければ満足だ。飯守の棒はここでも過度な劇性を排したものだが、音楽自体の高まりがこれを押さえつけることなく圧倒的なワーグナー芸術の神髄。
場面転換後のシリンスのアムフォルタスは白熱の演技。苦しさが伝わる。巨大メッサーの上でついに聖杯を持たざるをえない王、投げつけようとするその瞬間にパルジファルが槍を持って現れ、それを止める。そしてメッサー上のアムフォルタスの傷口に槍でほんの軽く触れるとアムフォルタスはメッサーから転げ落ちそれを抱きかかえるグルネマンツ。この構図は冒頭幕開き前奏曲でのシーンそのままですね、向きが違うだけで。つまりこの演出の答えは一番最初に既にあったわけです。
そして倒れ、治癒するのではなく、救済は死であった。これはアムフォルタスの求めていたもの。クプファーがやるとひねった意図や感覚を感じないのが素晴らしすぎる。
死の救済を得たアムフォルタスが光の道に倒れ、パルジファル、グルネマンツ、クンドリ、そして騎士たちがその光の道を遠くへ散らばりながら何かを求め幕。クプファーの言っている通り、あえて解はない、ご自分たちで探しなさいと。まさにその通りの幕引き。
演奏は柔らかく美しい解決音となり神秘的な劇のエンディング。見事な演奏でした。
おわり
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飯守とオーケストラにブーイングがありましたけれど、音楽作品や演出等を通り越し伴奏演奏の指揮者オーケストラに第一義的に反応を表面化する聴衆もいるという話ですが、プロオケが乱立する東京ならではの現象と感じてしまいました。日常的に作品のことよりもどこのオケがどうだとか、このソリストはどうだとか、あの演奏グループはこうだとか、そういった類の比較対比がメインテーマのようになっており、作品がお座なりになっている。ツィッター含めた自己表現手段でのトークを見ていると、プロの音楽評論家もそのような方向感が強い。さらに、プログラムパンフの内容順番も欧米ではあまりみられない順序となっている。まず最初に演奏家や演奏団体の詳細解説ありきなのだ。曲目や作品解説はそのあと、あっちのほうからちょろっと出てくる感じ。
この傾向は、昔の来日団体招聘中心の頃からの伝統で、それが今でも培われているのだと思う。とにかく誰が来てうまかったよくなかった、比べてどうだったのオンパレード。
作品はどこにいったのか?
いい演奏だったからすぐれた曲を理解できた、というのも一見ありうる姿ではあるのですが、では、大半がいい演奏だったどまりの発言はなぜなのか。
個人と総体とは異なるとは思います、ブーイングの諸氏も音楽や演出には盛大なブラボーをしていたのかもしれず、純粋にいい悪いの表現をしただけというかもしれません。ただ、総体の表現体としてみれば、いかにもいかにも、プロオケ乱立で耳が肥えていると自負している集団が、作品や演出を通り越して(理解しようとはせず)、自分本位な表現をしている。東京ならではの出来事。場違いな知ったかぶりには苦笑せざるをえない。諸外国、国内、他のところではあまり見かけないいびつな姿なのです。素直に聴けない、比較の好きな、そして、よかった現場にいたがる(自分がいる現場は全てよい)、今回はその裏返し行為の表現だったのでしょう。知ったかぶりも頂点で、そろそろ深く考える時期に来ているのではないか。
ところでブーイングの連中、なにが問題だったのかしら。