河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1449- A Foot-Stomping Night at Carnegie Hall ヤニック・ネゼ=セガン、フィラデルフィア管弦楽団、カーネギーホール、2013.1.17

2013-01-24 19:49:00 | NYT

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そろそろ来日公演を行なうネゼ・セガン&ロッテルダム・フィル。注目の指揮者。
今日のブログはロッテルダムの話しではなくフィラデルフィア管のこと。前ブログの続きのようなものです。
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ネゼ・セガンは、音楽監督を務めるフィラデルフィア管とニューヨーク公演を行いました。
ちょっと昔話にそれますが、アメリカのビックファイブのうち、シカゴ響以外はニューヨークでも定期を行なっている。フィラデルフィア管、ボストン響、クリーヴランド管、ですね。
ニューヨーク・フィルは地元なのでエイヴリーフィッシャーで週4回の定期。シカゴ響は自分たちの特別意識があり、イベント的にニューヨークにくる感じ。
マンハッタンでこれらビッグファイブを聴いた場合、チケットが一番高かったのがシカゴ響、次が地元のニューヨーク・フィル、他3オケは結構安い。
それで今はどうか知りませんが、フィラデルフィア管はカーネギー・ホールで定期を行なった後、前にバスが待っていてそのバスで帰っていくのを何度かみたことがあります。ハードスケジュールというのもあるかもしれませんが、割と近い。
近いと言ってもそれは距離の話で、前ブログに書いたように、なんといってもカーネギー・ホールで指揮をする、それもこの光り輝くフィラデルフィア管を振って。これがほぼ究極の夢でなかったら何を夢というのだろうか。道のりは遠く、また、気の遠くなるような勉強と練習。
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1月18日(金)のニューヨーク・タイムズNYTに、前日のカーネギー・ホール定期の評が載りました。
携帯が鳴ったようです。
それから日本だと最近は全く普通になってしまったオケ連中による指揮者への足の踏み鳴らし。NYTの評では、学生オケを振った指揮者に対する感謝みたいなことを、このカーネギー・ホールで見たと書いています。Foot-Stomping
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オリジナル記事はここ
ここにもおいてあります。
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以下、河童の意訳
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ニューヨーク・タイムズ
2013年1月18日(金)版
カーネギー・ホールで足の踏み鳴らしが起きた夜。
アンソニー・トンマシーニ 記
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優秀な学生オーケストラ・メンバーが、霊感を与えてくれた指揮者に対し、コンサートの終わりに特別に敬意を払いたいとき、オベーションで足を踏み鳴らします。
木曜(2013.1.17)のカーネギー・ホールでのコンサートでそれと同じことが起きたが、相手は優秀な学生オーケストラではなく、フィラデルフィア管のベテラン・プレイヤーからであった。フィラデルフィア管の音楽監督1シーズン目のヤニック・ネゼ・セガン、この37才のカナダ指揮者に対する踏み鳴らしであった。
昨年10月(2012.10)にカーネギー・ホール・デビューをした際、大喝采を受けた演奏会は異常ともいえるものだったから、驚く様な話ではない。しかし、強烈な弦、均質で豊かなアンサンブルは決していいとは言えなかった。
この日、ネゼ・セガンが選んだプログラムは、ラヴェル、シマノフスキー、ショスタコーヴィッチ。1919年から1937年の作品で、騒然とした音楽の時代に、モダニズムへの取り組みを示すもの。ネゼ・セガンはまばゆいラ・ヴァルスから始めた。しかし実際はその冒頭部分を2回演奏するはめとなった。指揮者のキューで低弦がまさに演奏を行なおうとしたとき、携帯の着メロが鳴り響いた。着メロはヴァイオリンの演奏だった。ネゼ・セガンは演奏をとめた。一呼吸あり軽い笑いが起き、再度棒を振りなおした。しかし荒々しくステージから消えた彼を誰が責めることができるというのか?
ラヴェルはこの曲を「ウィンナ・ワルツの神格化」と見なし、雲がちりじりになるまで踊ろうとするカップルが、最初に「渦巻く雲」を見るように始めると書いている。ネゼ・セガンは、この日の演奏ではその雲はワルツを踊るようなカップルのものではなく、まるで「春の祭典」でさまようダンサーが踊るような、音楽の原始的なものを引き出した。ラジカルな破壊とバックで起こる不吉な出来事、その両方をラヴェルは表現しようとしている。演奏はスコアの華麗さと奇妙さその両方を鮮明に表現していた。
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ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキーの作品は近年、一流どころの演奏家がますます庇護している。この日演奏された1933年作のヴァイオリン協奏曲第2番を弾いたレオニダス・カヴァコスのような優れた演奏家もそうである。シマノフスキーのほかの作品と同じように切れ目のない音楽が20分の間続く。フランス印象主義、ストラヴィンスキーのモダニズム、スクリャービンの神秘主義といった異なった音楽の趣向を誘う。そこにはポーランドの民族音楽の跡だけではなく、東洋の異国風なものへのヒントもある。
甘い音と暗い色彩の素晴らしいコンビネーションで弾くカヴァコスは、秋のような温かみと絶え間ないエネルギー双方をうまく表現した。
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休憩の後はショスタコーヴィッチの5番。この大胆で曖昧な作品は「長調の主題の提示(注)」を叫び続ける。だから一般的に指揮者はそれについて何か言うべきものを持っておいた方がよい。ネゼ・セガンはそうした。
第1楽章では、ネオクラシック風な構造の中に悲しみの感情を与えた。しかしそれはほぼ表現主義的に見える音楽から強力なものを引き出すことであった。第2楽章スケルツォは重い靴を履いて威嚇するような踊り。第3楽章では葬式のようなラルゴを表現、フィラデルフィアの弦はその墓のような美しさをコラールのハーモニーであらわした。第4楽章フィナーレは容赦ない鋭利な力と波打つようなリズミカルな強さをもってオーケストラを猛然と引っ張った。最後の誇らしげな(極端に誇らしげな?)エピソードは、ショスタコーヴィッチの音楽を退廃的なモダニズムと非難したソ連の政府当局に対する皮肉な回答であったのか?この日の演奏は非常にドライブされていてかつ壮麗であり、そんなことは気にするようなことではなかった。
ものすごいオベーション。オーケストラは財政危機、リーダー不在という苦難の時代を切り抜けた。フィラデルフィア管は今、理想的な音楽監督を見つけたところだが、ネゼ・セガンは国際的な野心とフィラデルフィアに対するコミットメントをバランス取りしなければならなくなるでしょう。
ヤニック・ネゼ・セガン&フィラデルフィア管のカーネギー・ホール次回公演は2月22日です。
終わり
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(注)英文では、major statementとなっている。音楽的には「長調の主題提示」とでもなるのだろうが、政治的色彩を配慮すると「おおっぴらな声明」とでもなるのかもしれない。もしかすると、洒落かもしれない。よくわからず。
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