河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1754- リゴレット、二期会、バッティストーニ、東フィル、2015.2.22

2015-02-23 00:21:46 | コンサート・オペラ

2015年2月22日(日) 2:00-5:00pm 東京文化会館

東京二期会オペラ劇場 with パルマ王立歌劇場 プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ピエール・ルイジ・サマリターニ & エリザベッタ・ボレッリ プロダクション

リゴレット

キャスト(in order of appearance)
マッテオ・ボルサ   渡邊公威、テノール
マントヴァ公爵    山本耕平、テノール
チェプラーノ伯爵夫人 成田伊美、メッゾ
リゴレット      成田博之、バリトン
チェプラーノ伯爵   野村光洋、バリトン
モンテローネ伯爵   泉良平、バリトン
マルッロ       山口邦明、バリトン
スプラフチーレ    伊藤純、バス
ジョヴァンナ     小泉詠子、メッゾ
ジルダ        新垣有紀子、ソプラノ
小姓         宮澤彩子、メッゾ
マッダレーナ     加藤のぞみ、メッゾ

二期会合唱団
アンドレア・バッティストーニ 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

(タイミング)
第1幕第1場 15′ sb 2′ 第2場 41′
Int
第2幕 30′
Int
第3幕 33′


1987年生まれの指揮者が振るリゴレット4日連続公演の千秋楽にうかがいました。この指揮者を見るのは昨年1月(2014.1.26)以来で二回目です。その時は同じ東フィルを振ったオーケストラコンサート、今回は得意分野のオペラ。リゴレットは外せませんね。才能豊かな自由自在棒がうなりをあげます。

リゴレットはヴェルディオペラの中では一二番の好み。あまりにも劇的すぎるストーリー展開と音楽、魅力的に過ぎる。
ただ、ちょっとした違和感もあって、有名作家の作品を下敷きにしたものとはいえ、道化師が貴族を色々となじったりできるのかなと思いつつ、でもこれは時代を考証すれば真実なのだろうなぁという部分と、悪に誠実に罪を罰するスプラフチーレがシルダを刺すところの現実離れ感、この2種類のことが同じオペラで起こっているというあたり、喉に魚の小骨が刺さっている状況がなくもない。
今回の千円プログラムには、道化師のなじりがなぜ可能だったかということを推測で書いているが今一つ、よくわからない。このドラマの悲劇の始まり、起点の一つになっているはずなのだが。


若き俊英バッティストーニは、ストーリーの流れを見事にとらえた音楽づくり、柔らかくて大胆で滑らかなフレージングでうならせる。ダイナミックにゴツゴツと躍動する特有のヴェルディ節を圧倒的な強力サウンドで物語の波風、起伏をにらみながら突き進む。歌い手やオーケストラに、よし一丁やってやるかと俄然やる気を起こさせる凄腕の棒。チリチリと音楽に熱を感じることが出来る指揮であり、理屈だけのぜんまい仕掛けジョブの棒などとは明らかに一線を画する。それは見れば明白だし、耳にも確かにそのように到達してくる。
また合唱への指示、コントロールも抜群、長身なので大きい指示でしたいことが的確に伝わる。大きい指揮ですね。合唱は第1,2幕の出演ですけれど、だからかどうか、第1幕いきなりからピッチが揃い厚みがあり横によく広がる、まるで空気が動いているような素晴らしい二期会の表現力。この第1幕の合唱も指揮者の術中にはまったのだろう。

オーケストラが草木をなぎ倒すように進むその中をかき分けて歌い尽くさなければならない歌い手たちは第1幕から大変です。第1幕第1場はゴチャゴチャとしたシーンですが、内容的には物語が動く起点となるところですから目を皿にして見聴きしなければなりません。舞台のシックな美しさと歌、オケの秀逸さがこの第1場をとっておきのものにしてくれました。美しいものは短い、15分。

第2場ジルダが出てきます。アリアと二重唱、それぞれの思いで歌われる。
この場は、冒頭にスプラフチーレが出てきて、最後の場面は多数によるジルダさらい、暗い緊張感にサンドイッチされながらもアリア、重唱がきわめて美しく響く。45分
こうゆうところでこの指揮者は結構音を切りながら(止めながら)寄り添ってくる。ただ静かに流すのではなく、息に合わせてフレーズを伸縮自在に出し入れする、オーケストラと歌への指示が自然で分かりやすく、あえて言えば人間の感性に沿うもの。フィーリング・グー、の世界なんですね。音楽は自然な呼吸で、というのはこういったあたりのことかもしれないと一人で納得。
この場での本日のロール3人、強弱のバランスやニュアンスのコンビネーションが素晴らしく良い。練習努力の成果と思わせないぐらい自然なもの、リゴレットワールド。

この、比較的長めの第1幕は場切りとせず第1幕第2幕としてしまうのもあるが、そうなると第1幕がちょっと短くなる。昨今の変な幕切りが多いオペラ演出の中にあって、この作品は2回休憩を取るのは概ね合点がいくもの。長さ頓着せず幕を続けざまに進めてしまう演出とか都合演出が多いのは作品の幕のバランスのせいもあるかもしれないとふと考えたりする。リゴレットは相応にバランスいいものですね。昨年の今頃上演された同じく二期会のドン・カルロの休憩の入れ方にはまいってしまった。(4回全部観たけど)

この第1幕、全体にわたって自由な空気が満ち溢れていた。伸縮自在、美しいフレージング、これはベースとチェロを思いっきり大きく歌わせることにより、腰の強い鳴りが圧倒的だし、ブラス、パーカスセクションのこれでもかのダイナミックレンジの広さには驚きを通り越し胸に圧力がかかってくる。また、裏バンダのきっちりした演奏には繊細な芸風を感じることが出来る。要するにバッティストーニの音楽的感性の振幅の大きさがこの第1幕を聴いただけでよくわかるものとなっていた。


第2幕はもっと長くてもいい、いくら長くてもいい。この30分は本当にあと言う間に終わってしまいます。ストーリーとしてはわかりやすい。
ジルダはやや硬めの発声ながら、ロール3人の中で締める役割を担っており、決めるところは決める。マントヴァはヘアオイルを流したような艶やかなウエット感があればと、タイトルロールはどぎつさとあくの強さがもっと欲しい、などと人間の欲望は言い出したらきりがないが、3人のバランスが非常によく、それなりに満足のいくもの。
この2幕は最後、親子それぞれの思いで転調を重ねながら突き進む、これぞヴェルディ節なんですが、この親子の交錯する歌への指揮者の伴奏は軽妙にさえ聴こえてきますね。それぞれの機微が思いもかけず軽やかに歌われる、オーケストラも冴えわたる。ここらへん、オペラ手慣れているオーケストラだからこそすんなり出る。いい掛け合いにはいい伴奏を。素晴らしい。

合唱関係はこの2幕で終わりなので、幕開きのカーテンコールが盛大に。


大詰めの3幕。
第1幕第1場を思い出しながら、この3幕はかなり血なまぐさいなと、そのシチェーションの違いにあらためて驚く。ドラマティックオペラの醍醐味でしょうか。
この幕は、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」風なメロディーの「女心の歌」がマントヴァによってすぐに歌われるのですが、バッティストーニは結構な猛速。こうゆうところで油を売っていてもしょうがないよ、と言う感じ。マントヴァの歌も限界が見え隠れ、あまり伸ばし切ってもよくないと考えたのかどうかわかりません。味わいより先に進むスピード感を、そんなところか。ここらへんは、この指揮者にイタオペこてこて歌手があてられていたら思いっきり変幻自在で伸ばしにかかるだろうな、そうゆう風に思わずにはいられない、なぜか確信が持てました。
ちょっとへばってきて、そのあと四重唱ですからそこはジルダになるべくお任せで。ジルダはポイントを外さないので聴いているほうはスッキリ。それにスプラフチーレの存在感がやたらとでかい。この役、こんな大役だったかなと考えてしまいました。この日はとてもポイントのように見えました。つまり、罪を罰する役に徹していればジルダは死なずに済むわけで、そうなったらどんなストーリーテーリングになったのだろうと、妙にリアルに感じさせてくれた。その辺のオペラだれか考えてください。
このプロダクションの舞台は、落ち着いた良いもので、ここの四重唱における配役たちのポジショニングが絶妙で、上下、遠近、動き、明暗、それぞれなるほどと思わせてくれる。よく考え抜かれていると思いました。

その、スプラフチーレがジルダを手にかけるところの指揮者の具合がまたすごい、オーケストラに、ここは乱れまくりでいいんだ、乱れまくれ、と嵐棒。昨今の若い指揮者では見たこともない解釈と言いますか、インディーズ的芸風。音楽に熱を。直情的な熱風が聴衆をエキサイトさせてくれる。ドラマのなかにいつのまにかはいりこんでしまう。バッティストーニマジックと言う言葉があるのかどうか知りませんけど、あってもいいかな。
そして起点があったように悲劇の終点がやってくるわけですけれど、ここでのオケ伴はもう、言葉、独白。音楽を一瞬忘れさせてくれる。このオペラの頂点で物語は劇風な色彩を帯びながら圧倒的にめくれるようなサウンドの中、終幕。33分。


ということで、この劇的なオペラにバッティストーニは合っているんでしょうね。歌、オケ、合唱、群を抜いたコントロールで。コントロールと言うよりむしろ、開放と言う言葉のほうがふさわしいかもしれない。プレイヤーたちのやる気度100パーセント越えにする能力。
まわりからの華やかさ有りますが、迎合する風でもない、媚びる雰囲気無し。能力がまわりを屈服させていると言ったら語弊がありますが、双方の理解などと言う生易しい言葉ではなく、フィーリング的な裏付けに割と納得しているような気はします。

プロダクションは自然で、作為的でなく、陳腐さもない。
昔通りの舞台ながらチープな感じがまるで無い。きらびやかなものでさえ何か影を帯びたような陰影。日本人が無理にやっているような違和感もない。歌い手のポジショニングもよくきまっている。
ワーグナーを筆頭に昨今の超作為的なものが日常化してしまった舞台とはまるで異なる。イタオペでも同じようなことは演出家によってはありますしね。
観るのに苦しまなくてよい、いい舞台でした。

二期会の合唱は、歌い出しからピッチのあったいいもので、なにか音場が一つ上方に持ち上げられたように思えるような冴えわたる歌唱でした。

リゴレットは個人的には2年前のドゥダメル、ラ・スカラ以来のもので、あの時と同じく楽しむことが出来ました、ありがとうございました。
おわり




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